仕事で夏目漱石の『吾輩は猫である』を読むことになった。
500ページを超える長い作品。漢語もいっぱい。基本、ストーリーはない。
これと格闘するのは結構ハードでしたが、この作業で考えたこと、感じたことを放っておくのはもったいないので、僕なりの『猫論』を書いていこうと思います。
主人公の猫が飼われている家の主人は、珍野苦沙弥(ちんの・くしゃみ)と言う。
この苦沙弥先生、モデルは漱石自身らしい。
これを知って、苦沙弥先生の人物評を読むと面白い。
主人公の猫は主人についてこんなふうに評している。
職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎(よだれ)をたらしている。彼は胃弱だ。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三(にさん)ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。
吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度(たび)に何とかかんとか不平を鳴らしている。(新潮文庫版8P)
面白いな。
漱石は自分自身をこんなふうに客観視している。
客観視して、愚かな自分を笑い飛ばしている。
引きこもりで、勉強家を装っているが、実は怠け者で、胃弱で、それでいて大飯喰らいで、仕事嫌いで、人間嫌いで(笑)
明治時代は近代的な自我が芽生えた時代と言われているが、
このように自分を笑い飛ばせる自我はめずらしい。
同時代の島崎藤村や田山花袋などの自然主義の文学はネチネチと自分の暗い内面を描いたが、漱石にはそれがない。
主人公の猫の目を通して、自分をとてつもなく客観視して笑い飛ばしている。
この感性すごくないですか?
現在では当たり前だが、当時としては斬新。
漱石には落語の素養があって、落語の言い立ては『坊っちゃん』などの文章にもあられているんだけど、この客観視は登場人物を笑い飛ばす落語の感覚に近い。
そして自らを客観視するために、視点となる主人公を「苦沙弥先生」ではなく、「猫」にした。
語り手の主語も「私」でなく、「吾輩」にした。
こうした漱石の「客観視」の姿勢は、『吾輩は猫である』全編に貫かれていて、人間批評や社会批評に発展している。
さて、漱石が猫の目を通して、描いた人間観・社会観はいかなるものであるか?
漱石は『猫』の筆を進めながら、それを面白おかしく痛烈に描いていく。
500ページを超える長い作品。漢語もいっぱい。基本、ストーリーはない。
これと格闘するのは結構ハードでしたが、この作業で考えたこと、感じたことを放っておくのはもったいないので、僕なりの『猫論』を書いていこうと思います。
主人公の猫が飼われている家の主人は、珍野苦沙弥(ちんの・くしゃみ)と言う。
この苦沙弥先生、モデルは漱石自身らしい。
これを知って、苦沙弥先生の人物評を読むと面白い。
主人公の猫は主人についてこんなふうに評している。
職業は教師だそうだ。学校から帰ると終日書斎に這入ったぎりほとんど出て来る事がない。家のものは大変な勉強家だと思っている。当人も勉強家であるかのごとく見せている。しかし実際はうちのものがいうような勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書斎を覗いて見るが、彼はよく昼寝をしている事がある。時々読みかけてある本の上に涎(よだれ)をたらしている。彼は胃弱だ。その癖に大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二三(にさん)ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。
吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて勤まるものなら猫にでも出来ぬ事はないと。それでも主人に云わせると教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度(たび)に何とかかんとか不平を鳴らしている。(新潮文庫版8P)
面白いな。
漱石は自分自身をこんなふうに客観視している。
客観視して、愚かな自分を笑い飛ばしている。
引きこもりで、勉強家を装っているが、実は怠け者で、胃弱で、それでいて大飯喰らいで、仕事嫌いで、人間嫌いで(笑)
明治時代は近代的な自我が芽生えた時代と言われているが、
このように自分を笑い飛ばせる自我はめずらしい。
同時代の島崎藤村や田山花袋などの自然主義の文学はネチネチと自分の暗い内面を描いたが、漱石にはそれがない。
主人公の猫の目を通して、自分をとてつもなく客観視して笑い飛ばしている。
この感性すごくないですか?
現在では当たり前だが、当時としては斬新。
漱石には落語の素養があって、落語の言い立ては『坊っちゃん』などの文章にもあられているんだけど、この客観視は登場人物を笑い飛ばす落語の感覚に近い。
そして自らを客観視するために、視点となる主人公を「苦沙弥先生」ではなく、「猫」にした。
語り手の主語も「私」でなく、「吾輩」にした。
こうした漱石の「客観視」の姿勢は、『吾輩は猫である』全編に貫かれていて、人間批評や社会批評に発展している。
さて、漱石が猫の目を通して、描いた人間観・社会観はいかなるものであるか?
漱石は『猫』の筆を進めながら、それを面白おかしく痛烈に描いていく。
いつもありがとうございます。
猫好きの半沢さんにはたまらない小説でしょうが、今、読むのはハードな作品ですよね。
作家の阿刀田高さんは「第1章だけ読めばいい」と言っていますが、確かに『猫』のすべては1章に集約されている気がします。
猫の溺死に関しては、僕なりの解釈をいずれ書いていきます。
記事の作成、お疲れ様です。
私は 其れ程真面目に読んでいる訳では無いですが、昔 一寸だけ街の図書館で
読んだ記憶があります。 吾輩は猫である
そうですね、猫目線から推測する 人間社会の滑稽さや欺瞞が鋭く捉えらている
作品だと思います。 そう言えば 最後に猫は溺死してしまうのですよね。
呆気なく・・