「よくぞ言った! やはり頼りになるのはおことだけよ」
官兵衛(岡田准一)に対してこう言ったにもかかわらず、小寺政職(片岡鶴太郎)は……。
村重(田中哲司)が評したように、人間とは<おぞましきもの>なんですね。
官兵衛は主君・政職を信じていた。
他人の意見に左右される弱さを含めて、政職を受け入れ、最後まで支えようと思っていた。
「ここで殿を見捨てるは黒田の義が立たぬ」
と実直なまでに忠を貫いたし、嫡男・松寿丸までを人質に出した。
だが、こうした思いは政職には伝わらず、響かない。
さて、こんな現実を前にして、官兵衛はどう変わるのだろう?
今までのように<人が良い>ままではいられないことに気づいたはずだ。
おもてで善人の顔をして、平気で人を裏切る人間というものを思い知ったはずだ。
だが、官兵衛はこの<人間のおぞましさ>について村重に問われてこう答える。
「抗(あらが)ってみせまする」
これはあくまで<人間が善なるものである>ことを信じる官兵衛の宣言か?
自分は変わらないということの意思表示か?
何しろ「播磨者は頑固でござる」ですからね。
それにして官兵衛はタフで強い。
いつ味方が敵になるかわからない播磨の現実の中で孤軍奮闘している。
黒田家や秀吉(竹中直人)、半兵衛(谷原章介)の支えがあるとはいえ、決して折れることなく自分を信じ、愚直なまでに闘っている。
また、一方で人間とは弱いもの。
小寺政職は妻・お紺(高岡早紀)を喪って、完全にダークサイドに落ちた。
今回のことだってお紺が生きていたら、踏みとどまっていただろう。
信長(江口洋介)も弱い。
彼の人間不信の背景には、自分を殺そうとした弟・信行のことがあった。
信行のことをトラウマとしてずっと引きずっている。
人間を信じるか、信じないか。
これによって、人の人生は大きく変わってくる。
愚直に信じられる人間は、他人から「あはれ」に思われるかもしれないが、強い。
官兵衛(岡田准一)に対してこう言ったにもかかわらず、小寺政職(片岡鶴太郎)は……。
村重(田中哲司)が評したように、人間とは<おぞましきもの>なんですね。
官兵衛は主君・政職を信じていた。
他人の意見に左右される弱さを含めて、政職を受け入れ、最後まで支えようと思っていた。
「ここで殿を見捨てるは黒田の義が立たぬ」
と実直なまでに忠を貫いたし、嫡男・松寿丸までを人質に出した。
だが、こうした思いは政職には伝わらず、響かない。
さて、こんな現実を前にして、官兵衛はどう変わるのだろう?
今までのように<人が良い>ままではいられないことに気づいたはずだ。
おもてで善人の顔をして、平気で人を裏切る人間というものを思い知ったはずだ。
だが、官兵衛はこの<人間のおぞましさ>について村重に問われてこう答える。
「抗(あらが)ってみせまする」
これはあくまで<人間が善なるものである>ことを信じる官兵衛の宣言か?
自分は変わらないということの意思表示か?
何しろ「播磨者は頑固でござる」ですからね。
それにして官兵衛はタフで強い。
いつ味方が敵になるかわからない播磨の現実の中で孤軍奮闘している。
黒田家や秀吉(竹中直人)、半兵衛(谷原章介)の支えがあるとはいえ、決して折れることなく自分を信じ、愚直なまでに闘っている。
また、一方で人間とは弱いもの。
小寺政職は妻・お紺(高岡早紀)を喪って、完全にダークサイドに落ちた。
今回のことだってお紺が生きていたら、踏みとどまっていただろう。
信長(江口洋介)も弱い。
彼の人間不信の背景には、自分を殺そうとした弟・信行のことがあった。
信行のことをトラウマとしてずっと引きずっている。
人間を信じるか、信じないか。
これによって、人の人生は大きく変わってくる。
愚直に信じられる人間は、他人から「あはれ」に思われるかもしれないが、強い。
今までのところ官兵衛の人物像は「お人好し」「甘い」というのが定評で、私も以前「青臭い」と書きました。
「軍師」の称号から連想される「知将」のイメージ-「策士」に近い-からはほど遠い「お馬鹿さん」ぶりにもどかしい思いを持つ視聴者は多いようです。
「官兵衛、もうやめろ。おことがあはれに思えてきた」という村重の台詞はそうした視聴者の声を代弁している、とのご指摘もあります。しかし……
>自分は変わらないということの意思表示か?
私はこの線ではないか、という気がしています。
有能な作者が上のような視聴者の思いを承知していないとは思えませんので。
「わたしを嘲る者が敵であればそれに耐えもしよう。わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば彼を避けて隠れもしよう。だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。楽しく、親しく交わり、神殿の群衆の中を共に行き来したものだ。」
これは『詩篇』の一節(55:13-15、新共同訳)です。
『詩篇』はいわゆる-つまりキリスト教徒が呼ぶところの-『旧約聖書』に含まれ、ユダヤ教とキリスト教が共有する祈りの詩ですが、その大部分が苦難の中での「嘆き」の詩で、このように親しい友に裏切られた思いを歌ったものもあります。
私は、官兵衛は幽閉の苦難によって「策士」へと脱皮するのではなく、むしろ「お人好し」で「甘く」て「青臭い」「お馬鹿さん」-もう少し聞こえの良い表現では「義を貫く」愚直さ-のままで、むしろ苦難の中でそうした生き方に磨きをかけてゆくのではないか、と予想しています。
ことによるとキリシタンへの入信もその延長線上のこととして位置づけられるのかもしれません。
苦難の中で官兵衛の味方になってくれそうな村重夫人のだしも熱心なキリシタンのようですし。
いつもありがとうございます。
聖書の詩篇にこういう言葉があるんですか。
ありがとうございます。
勉強になりました。
>「お人好し」で「甘く」て「青臭い」「お馬鹿さん」
まさにこれなんですよね。
TEPOさんの書かれたことを読んで、キリスト教の作家である遠藤周作さんの作品に『おバカさん』という小説があったのを思い出しました。
作品中、遠藤周作さんは、どんなにダマされても笑われても愚直に人を信じ続ける主人公を「おバカさん」と表現しましたが、官兵衛はまさにそれですよね。
もっとずるく、うまく立ちまわって生きればもっと楽に生きられるのにそれをしないで、損なことばかりする。こういう人物は世間的に見れば、「おバカさん」ですが、遠藤さんはそんな主人公をイエス・キリストになぞらえて肯定している。
官兵衛がキリスト教徒になるのは、こうした部分に共感したからかもしれません。
いずれにしても今回の体験と幽閉生活は、官兵衛の人柄や思想に深みを与えていくんでしょうね。