『蟹工船』のラストは以下のような形で描かれる。
・ストライキをすることで、労働者たちは浅川に労働条件の改善を迫る。
・浅川は明日返事をすると言ってその場を収める。
・翌日、蟹工船を守っていた海軍の駆逐艦がやって来る。
・労働者たちはこれを歓迎する。
「駆逐艦は俺達国民を守る帝国の軍隊だ。俺達の状態をくわしく説明すれば有利に解決がつく」
・しかし──
やって来た軍隊が労働者に浴びせた言葉は次のようなものだった。
「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」
軍隊はストライキを主導した労働者の逮捕した。
結果、ストライキは失敗に終わる。
国家は資本家の味方であり、国民の味方ではなかったのだ。
労働者たちは国家に裏切られた。
ただ、『蟹工船』はここで終わらない。
「今に見ろ。今に見ろ」
「よし、今度は一人残らず引き渡されよう! その方がかえって助かるんだ」
「もう一度やるんだ! 死ぬか、生きるか、だからな」
「ん、もう一度だ!」
労働者たちは屈しなかった。
今度は戦い方を変えて戦おうと決心した。
そして後日談としてこんなことが語られる。
・サボやストライキは博光丸だけでなく、他の船でもおこなわれていたこと。
・浅川や雑夫長が管理能力を問われ、缶詰製造に多大な影響を与えたという理由で首になったこと。
解雇された浅川が「ああ、俺ア今まで、畜生、だまされていた!」と叫んだこと。
・「組織」「闘争」を経験した漁夫、雑夫らが警察の門から色々な労働の颯へ、それぞれ入り込んで行ったこと。
浅川たち幹部が、その上の者たちに拠って切られる所が皮肉だ。
「組織」「闘争」を経験した労働者がそれぞれ労働運動に入っていった、というラストは
小林多喜二の希望・願いなのだろう。
………………………………………………………
この作品、自然と人間の戦いの描写も秀逸だ。
たとえば──
博光丸は函館を出港した。
留萌(るもい)の沖あたりから雨が降り出し、稚内に近くなるに従って波のうねりがせわしくなった。
宗谷海峡に入った時は三千トンのこの船がしゃっくりにでも取りつかれたようにギクシャクした。
船が一瞬宙に浮かび、グウと元の位置に沈む。船が軋み、雑夫達は船酔いでゲエゲエした。
糞壺の窓から樺太の山並みが見えるようになると、棚から物が落ち、船の横っ腹に波がドブーンと打ち当たった。
強風でマストが釣り竿のようにたわみ、甲板に波が襲い、機関室の機関の音がドッドッドッと響き、時々波の背に乗るとスクリューが空廻りした。
カムサッカの海は、よく来やがった、と待ち構えていたように挑みかかって来た。
波は荒れ狂い、空は猛吹雪で真っ白になっている。
そんな中、雑夫や漁夫は蟹漁で使う八隻の川崎船が波や風にもぎ取られないようにロープで縛る作業を命じられていた。
細かい雪がガラスの細かいカケラのように、甲板に這いつくばっている漁夫達の顔や手に突き刺さる。唇が紫色になる。
こんな描写に触れるのも小説を読む楽しみである。
・ストライキをすることで、労働者たちは浅川に労働条件の改善を迫る。
・浅川は明日返事をすると言ってその場を収める。
・翌日、蟹工船を守っていた海軍の駆逐艦がやって来る。
・労働者たちはこれを歓迎する。
「駆逐艦は俺達国民を守る帝国の軍隊だ。俺達の状態をくわしく説明すれば有利に解決がつく」
・しかし──
やって来た軍隊が労働者に浴びせた言葉は次のようなものだった。
「不届者」「不忠者」「露助の真似する売国奴」
軍隊はストライキを主導した労働者の逮捕した。
結果、ストライキは失敗に終わる。
国家は資本家の味方であり、国民の味方ではなかったのだ。
労働者たちは国家に裏切られた。
ただ、『蟹工船』はここで終わらない。
「今に見ろ。今に見ろ」
「よし、今度は一人残らず引き渡されよう! その方がかえって助かるんだ」
「もう一度やるんだ! 死ぬか、生きるか、だからな」
「ん、もう一度だ!」
労働者たちは屈しなかった。
今度は戦い方を変えて戦おうと決心した。
そして後日談としてこんなことが語られる。
・サボやストライキは博光丸だけでなく、他の船でもおこなわれていたこと。
・浅川や雑夫長が管理能力を問われ、缶詰製造に多大な影響を与えたという理由で首になったこと。
解雇された浅川が「ああ、俺ア今まで、畜生、だまされていた!」と叫んだこと。
・「組織」「闘争」を経験した漁夫、雑夫らが警察の門から色々な労働の颯へ、それぞれ入り込んで行ったこと。
浅川たち幹部が、その上の者たちに拠って切られる所が皮肉だ。
「組織」「闘争」を経験した労働者がそれぞれ労働運動に入っていった、というラストは
小林多喜二の希望・願いなのだろう。
………………………………………………………
この作品、自然と人間の戦いの描写も秀逸だ。
たとえば──
博光丸は函館を出港した。
留萌(るもい)の沖あたりから雨が降り出し、稚内に近くなるに従って波のうねりがせわしくなった。
宗谷海峡に入った時は三千トンのこの船がしゃっくりにでも取りつかれたようにギクシャクした。
船が一瞬宙に浮かび、グウと元の位置に沈む。船が軋み、雑夫達は船酔いでゲエゲエした。
糞壺の窓から樺太の山並みが見えるようになると、棚から物が落ち、船の横っ腹に波がドブーンと打ち当たった。
強風でマストが釣り竿のようにたわみ、甲板に波が襲い、機関室の機関の音がドッドッドッと響き、時々波の背に乗るとスクリューが空廻りした。
カムサッカの海は、よく来やがった、と待ち構えていたように挑みかかって来た。
波は荒れ狂い、空は猛吹雪で真っ白になっている。
そんな中、雑夫や漁夫は蟹漁で使う八隻の川崎船が波や風にもぎ取られないようにロープで縛る作業を命じられていた。
細かい雪がガラスの細かいカケラのように、甲板に這いつくばっている漁夫達の顔や手に突き刺さる。唇が紫色になる。
こんな描写に触れるのも小説を読む楽しみである。
Kョーサン主義体制は「労働者はひとりの例外もなくKョーサン主義を支持するはず」という仮定の上に成り立っているので、自由や民主主義や多様性とは相容れないです。
目指すべきはKョーサン主義ではなく、富の再分配です。戦後の日本の学生運動は、そのあたりを見誤ったんでしょう。
20世紀の戦後西側社会(特にヨーロッパ)では、民主主義的な体制下で不公正を少しずつ解消しながら、富の再分配を行っていったわけです。抑圧的なKョーサン主義体制でもなく、ごく少数が富を独占する19世紀型の「むき出しの資本主義」でもない、20世紀の民主主義が生み出した成果だったと思います。
ところが、その福祉国家的やり方を「Kョーサン主義」として忌み嫌う新自由主義がアメリカから台頭しているので、困ったものです。
新自由主義でみんながシアワセになるのならいいんですが、19世紀型のむき出しの資本主義に近いので、社会は分断され中間層も困窮化し、社会は崩壊に向かいます。
ところが、こういう社会崩壊の原因について、「下層階級の貧民を手厚い社会保障や福祉で甘やかすせいだ。もはや下層階級は社会の邪魔者だ」とするネット世論が、現在起こりかけています(苦笑)。正直ミスリードだと思いますが「ゆ党支持者」が好きなんですよね、こういう論法。
一方、本当の超弩級のお金持ちは働くこともなく、投資などで左うちわの「ランティエ生活」という話ですが、そういう人の話は、ネット世論には出てきません。
そう考えると、ランティエ(投資の配当や貯金の利息で働かず暮らせる人)という言葉自体が、日本ではあまりなじみがありません。こういう概念があること自体が知られていないために、「下層階級を甘やかすな」となるのかもしれません。
働く小金持ちも、働いている貧乏人も、働けない貧乏人も、生活保護受給者も、ほんまもんのランティエから見れば、みんな同じような存在でしょうに、ランティエという概念が知らされていないから、そこにあるものが見えてこない、ということはあるでしょう。
さらに問題なのは、こういう分断や格差が世襲されることです。親子代々ランティエだと、もはや貴族ですよね。
貴族と言えば、昔のヨーロッパの貴族は、自国の庶民平民とのつながりよりも、よその国の貴族階級とのつながりを大切にしたそうです。フランス革命以降国民国家形成が目指されてきたのは、そういった貴族階級の力を削ぐことも目的にあったわけで、国境を越えたグローバル経済が「貴族の横のつながりの復活」を招く可能性は大いにありますが、そういったことも、あまり語られませんね。
長文失礼しました。
いつもありがとうございます。
「奪い合う」と「分け合う」の対立ですよね。
人間の意識が「分け合う」方向にいくには、前回も書きましたが、「生産力の向上」が必要ですよね。
パイが10ではなく1万なら「分け合おう」という意識も出て来ます。
西洋の思想は「奪い合うから分け合おう」から発していると僕は認識しています。
キリスト教は「貧しき人に手を差しのべよ」と教え、豊かな者たちには「ノブレス・オブリージュ」という価値観がありました。
マルクスの理論も「どうしたら富の独占をやめて分け合える社会になるか」という問題意識から生まれています。
その「経済理論」と、いかにして実現するかという「闘争理論」は分けて考える必要があります。
資本主義の本質が「奪い合う」ものだとしたら、社会主義や修正資本主義など、「分け合う」ためのさまざまな模索が必要ですよね。
しかし昨今の巨大企業を見てると、ジョブズもゲイツも”コソ泥”みたいな経営で、イーロンマスクもまるで詐欺師ですよね。
分け与えるから奪いとる。更にライバルを徹底して潰す。資本主義と言うより資本家による独裁です。
資本主義の限界と暴走とも言えますが、共産主義の矛盾も同じで、資本家による又は国家による富の独占の違いだけで、富の分配には程遠い。
でなければ、犯罪者トランプが再選する筈もないんですが・・
今のアメリカのグローバル的な超富裕層は「1%の人口が富の99%を独占している」状況らしいのですが、それでも分け合おうという意識がないようです。
富裕層の一部には「このままでは社会が破壊され、俺たちの持っている富にも意味がなくなる、分け与えるべきだ」として危機感を持つ人も出てきているようですが、残念ながら主流派ではないようです。
一方、Kョーサン主義は「闘争」がメインです。むしろ「分け合うための実際のノウハウ」は、西側民主主義体制が編み出した修正資本主義や福祉国家の方が優れているような気がします。
>分け与えるから奪いとる。更にライバルを徹底して潰す。資本主義と言うより資本家による独裁です。
象が転んださんのおっしゃる問題点、確かにあります。
経済学の歴史を見ると、西洋の経済学理論の根底には、キリスト教的な道徳があったわけですが、新自由主義的な考え方は、Kョーサン主義憎しだけで底が浅い感じです。
論語には「不患寡而患不均」という言葉があります。これは「寡(すくな)きを患(うれ)えず、均(ひと)しからざるを患(うれ)う」と読むようです。
人口が少ないことを心配するより、社会の富が不均衡で偏在していることの方が、問題としては深刻だというわけですね。
富の不均衡がなくなれば、人は安心して暮らせるようになり、子を産み育てられるようになる、ということのようです。
論語もときどきいいことを言うのですが、エラい人が庶民を従わせるための修身の教科書になると「君に忠、親に孝」ばかりが強調されるので、これも困ったもんです。
いつもありがとうございます。
>共産主義の矛盾も同じで、資本家による又は国家による富の独占の違いだけで、富の分配には程遠い。
確かにおっしゃるとおりで、これが現在の中国や滅びたソ連でしたよね。
資本家が党(国家)に変わっただけ。
その最たるものが北朝鮮。
ただ唯物史観では、ソ連、中国、あるいは北朝鮮の失敗は、資本主義が未成熟なのに無理矢理、社会主義に移行したからだと規定しています。
繰り返しになりますが、生産力のパイが10の時に100人で平等に分ければ、配分されるのは0.1ですが、生産力のパイが1万の時に100人で分ければ配分は100で、社会主義社会は実現するかもしれません。
ここで重要なのは、生産力1万になった時の人の意識。
100の配分があるのに満足できなくて富を独占しようという人間が出て来る可能性は大いにあります。
ここがマルクスの理論の限界なんですよね。
>それでも分け合おうという意識がないようです。
そうなんですよね。
これが「人類の限界」なのかもしれません。
ここからはSFの世界になりますが、人類には次のステップに行く覚醒が必要なのかもしれません。
>キリスト教的な道徳
>論語には「不患寡而患不均」という言葉があります。
2020さんへの前のコメントでも触れましたが、道徳や哲学が一貫して唱えているのは「分け合おう」ということなんですよね。
現実が「弱肉強食の奪い合う世界」だから、道徳や社会システムでそれを緩和しようとする。
なので、弱肉強食を志向する新自主主義は道徳や哲学とは正反対なんですよね。