シャドウ群島──
そこは宇宙に近い場所。人が年をとり、消えていくために来る場所だ。
そこには中国人、西洋人、ベトナム人などの老人がいる。
彼らは宇宙を感じるために麻薬を嗜んでいる。
阿片を吸い、酔生夢死の状態を愉しんでいる。
彼らはやって来た青年に人類と麻薬(植物性アルカロイド)の歴史を語る。
・酒、煙草、茶、コーヒーなどの嗜好品
・香辛料の軽い中毒症状や習慣性。香辛料を求めて世界を巡ったヨーロッパ人の渇仰。
・農業を始めたとされる中国の伝説の皇帝・炎帝(神農氏)。
炎帝は山野のありとあらゆる植物を食べて、薬になる何百種類という植物を見つけた。
・日本の奈良に当麻寺(たいまでら)でつくられている陀羅尼助という腹薬。
・神社の神符の中に入っている大麻。
・バラモン教の覚醒剤を使った秘術。
・アメリカのインディアンのきのこ。
これらから老人たちは青年にこんなことを語る。
「われわれの時代は、理性を過大評価しているのかもしれんな」
「吸い込んだだけで、恍惚となる香りがあることを思うと、これから先は〝古代の知恵〟である、フェロモンや向精神薬のことを、もっと考えなきゃいけないだろう。
──人類の幸福のために……」
死を間近にした老人たちは宇宙を感じるために、宇宙に一番近いこの島に住み、麻薬を嗜んでいる。
「ここにすわって、風と波と、日と月と星にむかっていれば、濁った地上、汚れた人間社会よりずっと宇宙がよく見え、身近に感じられる。
……宇宙と、その時の流れが自分の中を貫いていくのが感じられ、自分が宇宙の微塵のひとつに過ぎず、しかも微塵であってなお宇宙の一員として宇宙と同じ変化を生きていることが感じられる……」
「問題となるのは、その中に自分が含まれ、自分の中を貫いて流れていくことを感じさせる宇宙だ。
人間が、ずっと古代から……まだ文明を築きあげぬころから、野獣や鳥たちと一緒に感じていた、あの宇宙だ……。
生まれ、生き、人生をきずいた上で、さらにその先に年をとって死んでいくには、宇宙の一番よく見える所で、毎日それを眺め、呼吸しなくてはならん。
幸福な死に方というものは、次第次第に、地上の存在を消して行き、透明になって宇宙の中へ消えていくことだ……」
………………………………………………………
人は死んで「宇宙の塵」となる。
というより、人に限らず、地上のあらゆる生物がこの真理の中で生きている。
ただ、人には理性があり、文明があり、果てしない欲望があるので、この「真理」が見えにくい。
特に若者は生命力にあふれ、欲望がいっぱいで、人生の時間もあるので、この真理が見えにくい。
文明社会に住む老人は年をとっても欲望に囚われ、この真理に触れることなく死んでいく。
小松左京の「岬にて」は、すぐれた「哲学」「人生論」「文明論」「宗教論」である。
1960年代のベトナム反戦運動の若者やヒッピーたちはLSDを吸い、宇宙を感じようとした。
それは近代の否定。文明社会の否定。
古代の思想に学ぶこと。
おそらく小松左京はここから着想を得て、この作品を書いたのだろう。
理性の上に築き上げられた文明社会は生きづらい。
生きづらい所か、愚かな戦争までやっている。
宇宙を感じて、もっと自然に生きていこう。
改めて、このメッセージを噛みしめたい。
そこは宇宙に近い場所。人が年をとり、消えていくために来る場所だ。
そこには中国人、西洋人、ベトナム人などの老人がいる。
彼らは宇宙を感じるために麻薬を嗜んでいる。
阿片を吸い、酔生夢死の状態を愉しんでいる。
彼らはやって来た青年に人類と麻薬(植物性アルカロイド)の歴史を語る。
・酒、煙草、茶、コーヒーなどの嗜好品
・香辛料の軽い中毒症状や習慣性。香辛料を求めて世界を巡ったヨーロッパ人の渇仰。
・農業を始めたとされる中国の伝説の皇帝・炎帝(神農氏)。
炎帝は山野のありとあらゆる植物を食べて、薬になる何百種類という植物を見つけた。
・日本の奈良に当麻寺(たいまでら)でつくられている陀羅尼助という腹薬。
・神社の神符の中に入っている大麻。
・バラモン教の覚醒剤を使った秘術。
・アメリカのインディアンのきのこ。
これらから老人たちは青年にこんなことを語る。
「われわれの時代は、理性を過大評価しているのかもしれんな」
「吸い込んだだけで、恍惚となる香りがあることを思うと、これから先は〝古代の知恵〟である、フェロモンや向精神薬のことを、もっと考えなきゃいけないだろう。
──人類の幸福のために……」
死を間近にした老人たちは宇宙を感じるために、宇宙に一番近いこの島に住み、麻薬を嗜んでいる。
「ここにすわって、風と波と、日と月と星にむかっていれば、濁った地上、汚れた人間社会よりずっと宇宙がよく見え、身近に感じられる。
……宇宙と、その時の流れが自分の中を貫いていくのが感じられ、自分が宇宙の微塵のひとつに過ぎず、しかも微塵であってなお宇宙の一員として宇宙と同じ変化を生きていることが感じられる……」
「問題となるのは、その中に自分が含まれ、自分の中を貫いて流れていくことを感じさせる宇宙だ。
人間が、ずっと古代から……まだ文明を築きあげぬころから、野獣や鳥たちと一緒に感じていた、あの宇宙だ……。
生まれ、生き、人生をきずいた上で、さらにその先に年をとって死んでいくには、宇宙の一番よく見える所で、毎日それを眺め、呼吸しなくてはならん。
幸福な死に方というものは、次第次第に、地上の存在を消して行き、透明になって宇宙の中へ消えていくことだ……」
………………………………………………………
人は死んで「宇宙の塵」となる。
というより、人に限らず、地上のあらゆる生物がこの真理の中で生きている。
ただ、人には理性があり、文明があり、果てしない欲望があるので、この「真理」が見えにくい。
特に若者は生命力にあふれ、欲望がいっぱいで、人生の時間もあるので、この真理が見えにくい。
文明社会に住む老人は年をとっても欲望に囚われ、この真理に触れることなく死んでいく。
小松左京の「岬にて」は、すぐれた「哲学」「人生論」「文明論」「宗教論」である。
1960年代のベトナム反戦運動の若者やヒッピーたちはLSDを吸い、宇宙を感じようとした。
それは近代の否定。文明社会の否定。
古代の思想に学ぶこと。
おそらく小松左京はここから着想を得て、この作品を書いたのだろう。
理性の上に築き上げられた文明社会は生きづらい。
生きづらい所か、愚かな戦争までやっている。
宇宙を感じて、もっと自然に生きていこう。
改めて、このメッセージを噛みしめたい。
まあ、麻薬はともかくとして…
いきなり話題が変わりますが、中国が手強いのは、カウンターカルチャーとしての老荘思想をしっかり持っていることなんですね。
「君に忠・親に孝」という、封建的な社会秩序を代表するような儒教もありますが、その対極として、老荘思想も存在しています。
日本も江戸時代くらいまでは、神道がその役割を担っていたんでしょう。アニミズム的な信仰で、幕藩体制の政治的な秩序とは別の世界に存在していたと思います。
ところが、明治維新以降、神道は政府によって管理されてしまって、以前のような、精神的な「解放区」としての存在ではなくなってしまいました。
それでいて、そういった「変質したあとの四角四面な日本社会」を、理想の日本のように考えている「愛国的なウヨクさん」もいるわけで、どうも引っかかります。
カウンターカルチャーは、部品の「あそび」のようなもので、あまりにも部品の公差が小さすぎると、計算上はまるはずの部品がわずかな熱膨張ではまらなくなったり、といったトラブルの原因になります。
今の日本に「精神的な解放区」はあるんでしょうか。
いつもありがとうございます。
カウンターカルチャーとしての「老荘思想」。
そうなんですね。
教えていただきありがとうございます。
老子に関しては、NHKの「100分で名著」、野末陳平と嵐山光三郎の本を読みましたが、儒教のカウンターであることや現在の中国の強みであることは知りませんでした。
もし、よかったら、どの本を読んだらいいか、教えて下さい。
「精神的な解放区」
映画『三島VS全共闘』に拠ると、三島由紀夫は「天皇を中心とした国家」に、全共闘は「バリケード」の中に求めたようです。
そして1960年代のヒッピーたちは「ドラッグ」のもたらす世界にそれを求めたようです。
「岬にて」は角川春樹文庫の「ゴルディアスの結び目」の中に入っています。
「岬にて」も「ゴルディアス」も中・短編ですが、いずれもすごい小説です。
ていうか、この文庫に入っている作品すべてが示唆に富む内容で面白いです。
読みやすく、買いやすく、公立図書館あたりでも借りやすく、しかも内容が本格的な本は、現在のところ「老子・荘子 森三樹三郎著 講談社学術文庫」だと思います。
共産党時代になってからの中国は、宗教的な要素を否定してきましたが、それまでの歴史をなかったことにもできませんし、道観(寺院)が観光資源として経済に役立つ部分もありますし、庶民の精神安定にも有益となれば、道教のお寺に詣でるくらいは大目に見る、という感じにだんだん変わっているのかもしれません。
まあ、老荘と道教は厳密に言うと違いますが、そのあたりも、この本を読めばなんとなく分かると思います。
こういったもろもろを考えると、孔孟思想が封建体制維持のために儒教に変化した歴史は、土俗的な信仰の神道が、明治以降国家が介入したことで変質した日本の神道の歴史にも、何となく似ていると感じますね。
個人的には「脱亜入欧を言っていた明治時代も、一皮むけばこんなもの」と、思っています。
孔孟思想→政治権力に沿うように儒教に変化
老荘思想→庶民になじむように道教に変化、仏教とも影響し合う
神道→明治以降政治による介入を受けて変化(儒教と相似)
そういったことだと思います。
私たち日本人の庶民は、明治維新というと「西洋化が進んで、新しい事物を取り入れた時代」と考えてしまいますが、西洋諸国では「明治維新」を「明治復古」のように翻訳しているそうです。後醍醐帝の建武中興の流れをもう一度、という考えが底流にあったと解釈しているんでしょうね。
ただ、孔孟思想が変化して儒教になったこととは違い、神道の場合は名前の変化がなかったために、分かりにくいんですよね…
昔ながらの素朴な「村の鎮守さま」でも、日本武尊の東征とか、そういった神話と無理矢理権威づけしているところも、ありますしね…
あ、そうそう、東征で思い出しましたが、神武東征は、九州から畿内への移動ですよね。
そうすると、邪馬台国の東遷説とも符合するような気もします。
となると、邪馬台国は結局大和朝廷だった?
ということになるんでしょうか?
教えていただきありがとうございます。
嵐山光三郎さんの本は「方丈記」でした。
勘違いしていました。
「老子・荘子 森三樹三郎著 講談社学術文庫」、探して読んでみます。
やはり野末陳平さんの簡易版ではダメですよね。
「建武の中興」
ブログの「夜明け前」の所でも書きましたが、明治維新が目指したのはまさにコレ(「夜明け前」では「神武の創造」)だったんですよね。
しかし、これが変質して、主人公の半蔵はおかしくなっていく。
>邪馬台国は結局大和朝廷だった? ということになるんでしょうか?
「東遷説」ではそうなりますよね。
・邪馬台国で内乱→邪馬台国の分派が近畿にやって来て大和朝廷を作った。
だから国の名前が「ヤマタイ」→「ヤマト」
ブログ「邪馬台国はどこにあったか?」でも書きましたが、だから九州と近畿・紀伊半島の地名が合致している。
僕はこれが一番合理的だと考えています。
結廬在人境
而無車馬喧
問君何能爾
心遠地自偏
采菊東籬下
悠然見南山
山氣日夕佳
飛鳥相與還
此中有真意
欲辯已忘言
Wikipediaでは、この一首だけで独立した項目になっていました(笑)。
この詩を読むと、水墨画の山水がの巻物がほどかれて広がっていくような心地がします。
教えていただき、ありがとうございます。
wikiで確認しましたが、「岬にて」に共通する心境、世界観ですね。
「岬にて」でも中国人のテッドが中国の琴を奏でて、夢幻の世界を感じるというシーンがあります。