11月11日 木曜日 晴れ
昨日の午前中、読書会でした。
今月は28の短編エッセイで構成されている『澤地久枝著 道づれは好奇心』を読みました。
安野光雅さんが描いた本の表と裏の表紙絵が個性的でとても楽しい物でした。
内容に入る前にこの表紙絵で一談義ありました。
著者は大きな手術を3回もしている身体で、資料集めに奔走しています。
その著者の姿勢にメンバー全員感動していました。
沢山の資料の元に書かれた文章なのですが、自然体で解りやすい と言う意見に、賛同していました。
どの文章も底辺に「不戦と平和」と言う強い意志が見られると言う意見がありました。
著者が戦争中に育ち、そこで体験した事をベースにし、更にそれに関する資料を絡めて書いている、
それが著者の物書きの姿勢ではないか、と言う言葉が出ました。全員それにも賛同していましたね。
今のわたしはまだあるじの急逝という想像もしなかった事件で、精神的に不安定になっていました。
この所どうやら少しずつ、わたし自身の生き方、を考えるようになって来ているところです。
その為なのでしょうが、わたしはこの澤地さんの文章からいろいろ刺激を受けました。
独りで頑張って作品を残して居られる澤地さんとわたし自身とを対比することは出来ません。
対比しなくてもこのような生き方をする方が居られる・・・と言うだけで共感を呼びました。
『人生は「苦汁」をなめ、「苦渋」を味わう日が必ずある。それは何時も気まぐれ、不意討ちにやって来る。どうやって耐え抜くか。「まだ生きている」「きっと出口はある」と信じるのがもっとも確かな対し方。
バリュームを飲むことと何処か通じていませんか・・・・』と書いている。
著者はバリュームを飲むのが辛かったようで、それでバリュームが苦汁と苦渋の引き合いになったのかも。
家事労働や、人生の事その物に、今のわたしには共鳴することが沢山ありました。
良い刺激になりました。
わたしは画家の堀文子さんのエッセイを読みながら澤地さんの本を読んでいました。
そして作品も見てきました。
昨日の午前中、読書会でした。
今月は28の短編エッセイで構成されている『澤地久枝著 道づれは好奇心』を読みました。
安野光雅さんが描いた本の表と裏の表紙絵が個性的でとても楽しい物でした。
内容に入る前にこの表紙絵で一談義ありました。
著者は大きな手術を3回もしている身体で、資料集めに奔走しています。
その著者の姿勢にメンバー全員感動していました。
沢山の資料の元に書かれた文章なのですが、自然体で解りやすい と言う意見に、賛同していました。
どの文章も底辺に「不戦と平和」と言う強い意志が見られると言う意見がありました。
著者が戦争中に育ち、そこで体験した事をベースにし、更にそれに関する資料を絡めて書いている、
それが著者の物書きの姿勢ではないか、と言う言葉が出ました。全員それにも賛同していましたね。
今のわたしはまだあるじの急逝という想像もしなかった事件で、精神的に不安定になっていました。
この所どうやら少しずつ、わたし自身の生き方、を考えるようになって来ているところです。
その為なのでしょうが、わたしはこの澤地さんの文章からいろいろ刺激を受けました。
独りで頑張って作品を残して居られる澤地さんとわたし自身とを対比することは出来ません。
対比しなくてもこのような生き方をする方が居られる・・・と言うだけで共感を呼びました。
『人生は「苦汁」をなめ、「苦渋」を味わう日が必ずある。それは何時も気まぐれ、不意討ちにやって来る。どうやって耐え抜くか。「まだ生きている」「きっと出口はある」と信じるのがもっとも確かな対し方。
バリュームを飲むことと何処か通じていませんか・・・・』と書いている。
著者はバリュームを飲むのが辛かったようで、それでバリュームが苦汁と苦渋の引き合いになったのかも。
家事労働や、人生の事その物に、今のわたしには共鳴することが沢山ありました。
良い刺激になりました。
わたしは画家の堀文子さんのエッセイを読みながら澤地さんの本を読んでいました。
そして作品も見てきました。