格差階級社会をなくそう

平和な人権が尊重される社会を目指し、マスゴミに替わって不正、腐敗した社会を追求したい。

【日共改めネチ共のシロ証明要請論を嗤う】

2010-02-19 19:29:00 | たすけあい党

【日共改めネチ共のシロ証明要請論を嗤う】

 れんだいこは、日本共産党を日共と表記してきた。これは、ソ共、中共と対比する意味で日共と呼称すると云う意味合いもある。もう一つは、1955年の六全協以来、野坂-宮顕同盟が共産党中央を掌握して以来、共産党が大いに変質し、とても共産党とは呼べなくなったという歴史的経緯から日共と呼称している。

 学生時代、おぼこかったれんだいこは、曲がりなりにも戦前来の共産党の嫡子だろうと思いこみ、日共系学生運動に参画していたが、運動の盛り上げに水を差す指導ぶりと、ロジックの変調に違和感を覚え続けていた。新日和見事件の頃を境にドロップアウトしたのだが、今でもれんだいこの感性の良さを自負している。

 もう四十年近くにもなる以前に見限り、十年前に理論的に総括した日共を論評する必要もないのだが、小沢キード事件での醜悪な立ち働きを見ると、出張らざるを得ない。許せないからである。今も連日続く赤旗紙面に於ける小沢パッシングの執拗さは尋常ではない。これからは当分、日共と云わずにネチ共と云い換えようと思う。れんだいこのネチ共批判の場合にはネチとは云わない。なぜなら常に論証的であるから。

 そのネチ共は、本日2.13日の赤旗紙面でも、「政治とカネ 集中審議 小沢氏団体の疑惑ただす 佐々木議員」記事を載せている。佐々木憲昭議員と云えばムネオハウス質疑で知られているが、外務省の改竄文書を元手にムネオパッシングした非を咎められているのに未だに自己批判一つしていないという道義的責任に欠けた御仁である。よくも恥ずかしくもなく人前に出てこれることよと思う。ムネオが訴訟すれば、お前は必ず被告席に座ることになる。ムネオの度量に甘えるのもエエカゲンニセイ。ムネオが云わないから、代わりに申しつけておく。

 その佐々木ネチ共議員が何を云っているのかと読むと、既に論破され、東京地検特捜部も不起訴にせざるをえなかった虚偽記載とゼネコン裏献金疑惑をバカの一つ覚え見たいに繰り返しているに過ぎない。党中央の指針に唯々諾々しかできない哀れなかごの鳥でしかないので、同じことの繰り返ししか云えないのだろう。目下新鮮なのは、志位委員長が堂々と打ち出している「検察とネチ共の車の両輪論」である。佐々木ネチ共議員にムネオハウス質疑の頃の勢いがあれば、「検察とネチ共の車の両輪論」を得意気に一席ぶつのだろうが、さすがに云い過ぎではないかと思っているのだろう、触れないのがお笑いである。

 もう一つ。主張で「小沢幹事長の責任 元秘書の離党でいよいよ重い 」とぶっている。「問われているのは小沢氏自身の説明責任と政治的・道義的責任です」と述べ、小沢パッシング派の狙いを代行代弁している。次に、話法ペテン士・立花の詭弁が振りまいた「総額21億円余の虚偽記載」が気に入ったらしく繰り返している。思えばロッキード事件の時もそうだった。立花式「諸悪の元凶論」に乗って角栄訴追運動の尖兵役を務めた。

 何とかして「報告書のミスなどで済ますわけにいかない重大な問題」に仕立てたいらしく、「虚偽記載の疑いがもたれているのは総額で21億6900万円にも上る巨額の資金」とフレームアップさせ、「検察不起訴はシロではない」としてひたすら小沢幹事長の責任を問う方向へリードせんとしている。魂胆だけが透けて見えてくる話でしかない。しかし、こうなると、ネチ共論理によれば我々は誰も今後は、シロ証明せねばならないことになりそうだ。

 次に、「公共事業を受注したゼネコンからの裏献金」を持ち出している。東京地検特捜部が新種の「天の声理論」を編み出し、何とかして起訴せんとしたのに不起訴で終わった容疑であることを思うと、ネチ共論法の「天に対するシロ証明論」の執拗さばかりが際立ってくる。懲りないネチ共である。それはともかく、こうなると、雨が降れば降ったで降らねば降らぬで、関わりないことを証明せねばならないから厄介だ。人に云うのは良いが、お前にできるのかよ、そったらこと、と云い返したくもなる。

 締めで、「石川氏とともに小沢氏が証人喚問に応じ、公開の場で真相を明らかにすることが待ったなしの課題」と述べている。れんだいこが逆提案しておく。こたびの小沢キード事件での東京地検特捜部の暴走に対して国会の場で真相を明らかにしておくことは必要である。その検察暴走にエールする形で「車の両輪論」を唱えたネチ共の理論創出過程を検証することも必要である。れんだいこから見て、この理論は異常である。ここまで堕ちたかと云いたくもなる醜悪理論である。

 もとへ。小沢パッシングで質疑した自民党歴々の議員の収支報告書を俎上に載せ、シロ証明させるのも必要である。何人質疑したのか分からないが、ネットでタイムリーに暴かれている。今日は与謝野が槍玉にあがっていた。次に誰が出てくるのか知らないが、清廉潔白、シロ証明に堪える御仁が登場することを祈る。

 小沢キード事件の教訓として、この種の暴走を戒める為にも、「証人喚問に応じ、公開の場で真相を明らかにすることが待ったなしの課題」ではなかろうか。ついでに述べておくが、ロッキード事件の再審も「待ったなしの課題」ではなかろうか。朝日が中曽根疑惑で久しぶりに朝日らしいスクープを飛ばしている。読売、産経の反応を見て見たいふふふ。次に、中央委員同志殺人者・宮顕を参議院にさせたネチ共の、公党としての政治的道義的責任を問うのも「待ったなしの課題」ではなかろうか。志位よ、もぐもぐせずに答えてみ。

 2010.2.13日 れんだいこ拝

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【鳩山政権の高速道路無料化公約の結末をを嗤う】

2010-02-19 19:06:09 | たすけあい党

【鳩山政権の高速道路無料化公約の結末をを嗤う】

 鳩山政権の二大マニュフェストである子供手当と高速道路の無料化が座礁しつつある。鳩山政権は国策捜査により大きく揺さぶられているが、それは外部的要因であって、事実は内部的な政策的自滅によって倒壊する恐れがある。子供手当については別に言及することにして、ここでは鳩山政権の高速道路の無料化公約がどこに辿り着いたか、これを確認する。子供手当同様に稚拙な対応が透けて見えてくる。

 2010.2.2日、国土交通省は、平成22.6月度より社会実験として全国37路線50区間1626キロの無料化を発表した。様々な声を斟酌して、実施対象は地方の交通量の少ない区間を中心とすることになった。大半は100キロ未満で、中には大分県の日出ジャンクション-速見間の3キロ、北海道日高見の沼ノ端西-苫小牧東間の4キロなど極端に短い区間も含まれている。無料化区間は互いに接続されておらず、いわば細切れ指定されている。22年度の無料化区間計1626キロは、首都高速、阪神高速を除く高速道路全体の約18%に過ぎない。

 前原誠司国交相は「23年度以降に対象区間を拡大する」と云い、馬淵澄夫副大臣は「財政の制約がある」と言い訳しているが、この弁明は如何なものだろうか。れんだいこは、「高速道路無料化マニュフェスト」の見るも無残な改竄スタートと見立てる。この程度の実施になるのなら、自公政権時の「土日祝日のET車限定千円乗り放題」の方が、まだしも分かり易くマシなのではなかろうかと評したい。政策を戻すべきである。なぜなら、この種の政策の眼目は景気対策にあったことを思えば、こたびの施策がこれに棹差しているからである。本来の狙いと全く切り離されて、アリバイ証明的な辻褄合わせでお茶を濁そうとするのなら止めた方が良いと云わざるを得ない。

 一体全体、なぜこういう事態になるのだろうか。これを疑惑したい。元々に於いて、本来の施策は「現行通行料金の一律3分の1化、通行量5倍化」を目指すべきであった。それで十分である。敢えてわざわざ無料化するに及ばない。その経済効果は計り知れない。例えば、中四国を結ぶ瀬戸大橋が現行9千円から3千円になったとすると、通行量が5倍化するのは容易に推定できる。現行料金が高過ぎて敬遠されているという原因が明らかであるからである。

 せっかくの公共事業が高料金故に活かされていないという現実があるのに、これまでの自公政権は何ら有効な手を打たなかった。こういう事態が長い間続いた。ようやく手当てしたのが、自公政権末期の「土日祝日のET車限定1千円乗り放題」であった。ET機業界と土日祝日休日者には大いに歓迎されたが、自公政権らしいイヤラシイ政策でしかなかった。

 これに対して、民主党政権の掲げた「高速道路の無料化」は、ET機の仕分けせず、土日祝日の区別せず、等しく無料化としており自公政権的選別施策の閉塞を打ち破る画期的マニュフェストであった。それは、れんだいこの「現行通行料金の一律3分の1化、通行量5倍化」を上回る革命的なアイデアであった。それが、こたびのようなゴマカシに決着するのなら公約詐欺と云うべきであろう。誰しも子供の頃に経験したことがあろう、大きな箱の中の次の箱を開けると又箱があり、順次繰り返すうちに最後に小さな身が入っていた。この経験を想起させる期待外れ代物でしかない。

 れんだいこ的には「高速道路の無料化マニュフェスト」を意図的故意に愚劣化させたとしか思えない。その裏事情に何があるのだろうか。前原国交相、馬淵副大臣率いる国交省は何故にこういう愚策を採用したのだろうか。これは偶然ではない、工作されたと思われる。故に裏事情を考察せねばならないと考える。

 環境問題、混雑問題の見地から「高速道路の無料化」を批判する声が強いが、どれも為にする批判でしかなかろう。環境問題を云うのなら工場、施設のばい煙規制が筆頭だろうに、この問題は一番後回しにされている。混雑問題は、土日祝日から平日適用した場合にはどうなるのか、やってみないと分からない。高速道路が無料化されても走れば燃料を食うのだから誰しも無用な乗り方はしない。それを、土日祝日の混雑ぶりで推し量るのは不当ではなかろうか。これらのマイナス要因よりはるかに経済効果が凌ぐと思う。

 れんだいこは、こたびの貧相決着を前にして、要するに鳩山政権は革新的政権効果が生じないように操作されているのではなかろうかと考えている。敵味方論で云えば、敵は何とかして鳩山政権の骨抜きに取り掛かっていると考えている。「高速道路の無料化マニュフェスト」は、この観点から意図的故意に惨めな施策に帰着したと考えている。そういう意味では、前原国交相-馬淵副大臣-国交省も又影の政府の御用聞きをしているに過ぎない。これを俗にシオニスタンと云う。

 日本は中曽根政権以来のここ数10年、国内経済が活況化しないよう、内需が閉塞するよう、その結果として中小零細企業が倒産するよう、優良企業が外資ファンドに吸収されるよう誘導されている気配がある。いわゆる政治主導により不況を生みだし、その基盤の上で財政の大盤振る舞いによる更なる赤字国債の大量発行へと誘われている気がしてならない。財源不足を理由に消費税が導入され、それでも不足として第一次値上げされ、それでも不足として第二次値上げが画策されている。

 他方で、普通なら事業仕訳の筆頭に軍事防衛費の削減が上がるところ、これを咎めず相変わらず垂れ流しが続いている。そればかりか、思いやり予算のお手盛りが強化されようとしている。影の政府の指令通りにやれイラクやれアフガンやれどこそこへ復興資金の名目で海外援助させられている。米国経済の危機だと云っては株価下支えに巨額の資金が流用され続けている。財政危機だと云っては米国債を買わされ続けている。他方で公共事業が目の敵にされ、必要な事業さえたな晒しされつつある。こんな調子では日本がうまく行くわけないのは自明ではなかろうか。

 鳩山政権中枢の鳩山首相、小沢幹事長がこれらの問題にメスを入れようとした時、途端に集中的な国策捜査が始まっている。スッタモンダの挙句、政治的延命との引き替えに、妥協策として「引き続きの奈落の道政策」が維持されている気がしてならない。これに功があるのはご存じのマスコミ-ネチ共同盟である。これに評論家、コメンテーターが列なる。このシオニスタン同盟は「日本の奈落への道」を外野からの囃したて屋であり、雇われていると見るよりほかあるまい。あるいは、そのムードに乗る方が立身出世上好都合と云う単なる処世術屋に過ぎない。

 こう見立てると、正義屋が正義ではなくなり、検察に追われる者が不正義と云う訳ではないことになる。政治的道徳的責任追及屋が高潔ではなく、拵えられた時流受け狙いの単なる売文、口舌の徒に過ぎないということになる。子供では分からない政治が高等な所以がここにある。

 最後に提言しておく。「2.2国交省施策」は、その他の区間に対する「現行通行料金の一律3分の1化、施策」と結合してのみ機能する。容易に思いつくこの施策をさせない闇こそ窺うべきではなかろうか。

 2010.02.16日 れんだいこ拝

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【小沢パッシング考、歴史の醍醐味に生きよ】

2009-12-24 21:37:13 | たすけあい党

【小沢パッシング考、歴史の醍醐味に生きよ】

 鳩山政変により民主党政権誕生以降今日まで3か月を経過したが、この政変の立役者であった小沢幹事長に対する坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりの執拗なパッシングが続いている。この背景に何があるのだろうか、これを解析しておく。

 2009.12.16日、小沢幹事長は、小沢パッシング情勢下で、田中角栄元首相の17回忌の法要の為、新潟県柏崎市に出向いた。法要には出席せず、同党の田中直紀参院議員、妻の真紀子・元外相に案内され、元首相の墓に手を合わせた。法要や墓参りには、元首相の後援会の元幹部や、一般の支持者ら数十人も参加した。小沢はその後、記者団に、「政界で活動できるのも、田中角栄先生のご指導のおかげだといつも思っている。先生に負けないような政治家になるように、今後も一生懸命、できる限り頑張りたい」と抱負を語った。

 これこそ小沢の真骨頂ではなかろうか。れんだいこは喝采を贈りたい。れんだいこが小沢抱負を解釈すれば、小沢は、戦後政治の対抗軸が角栄的なるものと中曽根的なるものに由来していることを熟知した上で、俺は角栄的なるもの路線に乗るとの決意を公然と宣言したことになる。現在の政治家で、かく座標軸を据え、かく旗幟鮮明にし得る政治家は小沢以外にいないのではなかろうか。身の危険を顧みずの士道精神を感じるのは、れんだいこだけだろうか。

 この小沢政治を酷評するのがへなちょこ評論士である。それは、現代の権力機関である政財官学報司の六者機関に巣くうシオニスタンどもの代理人エージェントに過ぎないことを自己暴露している。世が世なれば売国奴として指弾され、決して表舞台には出られない連中である。今は彼らの天下だからして、堂々と好き放題のわが世の春を謳歌し続け、ろくでもない評論を吹聴しまくっている。

 残念なことに、この政治抗争軸に対して、日本左派運動が全く無見識の対応を見せていることを指摘しておかねばならない。日本左派運動のかくもみじめな生態は、いわゆるシオニスタン系サヨ運動と呼ばれるのが相応しい。シオニスタン系サヨ運動が久しく左派運動を壟断している。いずれ早急に本来の左派運動に戻さねばならない。彼らは、ロッキード事件以来、角栄的なるものに対する徹底糾弾、その後に立ち現われた中曽根的なるものに対しては是々非々のアリバイ的反対運動でお茶を濁し、間接的に裏から支援するという役割を果たしてきた。日本左派運動の逼塞は、この傾向強化と共に深まり、払拭と共に再生するという加減にある。誰か、この認識を共にせんか。

 その小沢が今、「公設第一秘書・大久保隆規被告の公判」で又もイジメられようとしている。容疑は、西松建設のダミーとされる政治団体による献金に伴う政治資金規正法違反なるものであるが、れんだいこは到底納得し難い。その内容を確認するのに、小沢幹事長の資金管理団体収支報告書が「新政治問題研究会」、「未来産業研究会」なる団体からの寄付金合計3500万円を記載していたところ、東京地検がこれを西松建設からの迂回献金であり政治資金規正法違反であるとして政策秘書の大久保氏をいきなり逮捕し、筋書き通りの供述を強制し長期拘留に至るも思う通りの自白が取れず、今日の裁判を迎えているという経緯を見せている。

 2009.12.18日、初公判が開かれ、大久保被告は当然ながら起訴内容を否認した。「あくまで政治団体からの献金としか思いませんでした」と述べ、起訴内容を否認、無罪を主張した。次の法廷は1月13日に開かれ、早ければ3月にも判決を迎える見通し、ある。

 あきれることに東京地検は、「天の声」なるイカガワシイ法概念まで持ち出している。どうやら本気で「天」を裁くらしい。どうやら、雨が降るも振らぬもお天とう様のせいにして罰したいらしい。しかし、この式の法理論を振り回すのは狂人と云うべきだろう。なりふり構わぬ小沢パッシングの意図だけ見えてくる話である。「疑わしきは罰せず」なる抑制的法理論はとうの昔に捨て去ったらしい。れんだいこが指摘しておく。お前たちが「天の声裁き」に耽ればふけるほど、「シオニスタンの声」が聞こえてくるぞ。「シオニスタンの声」に忠勤することで出世街道切符を手にせんとしている性根の悪そうな生態が見えてきてイヤラシイぞな。

 れんだいこ史観によれば、かような東京地検の国策捜査はロッキード事件から始まる。かの時から、東京地検の正義が大きく捩れた。この捩れを捩れと思わぬ程度の頭脳の主が出世し権力を得てから、検察の正義は地に堕ち、数々の「上からの法破り」事件を引き起こしつつ今日まで至っている。この腐敗がいつまで続くか分からないが、破綻するところまで定向進化することは疑いない。それはともかく、この東京地検の国策捜査にエールする形でシオニスタン傭兵たちが口先を尖がらせて小沢パッシングし続けている。

 こうなると、れんだいこがしゃしゃり出ねばなるまい。こら!シオニスタンめ、どこの世界に貰った金を届け出たことにより制裁を受けるような理不尽があろうぞ。「貰った先がイカガワシイ、よって罰せられるべし」などとする法理が許されようぞ。そったらことなら、貰った金を届けぬことが良くなるではないか。中曽根みたいに届けぬ者が見逃され、届け出た者が罰せられるのをマジで良しとする連中はよほどオツムが狂っていよう。

 罰せられるべきは、「貰っているのに届け出していない罪」であろうに。最近は「貰っていないのに貰っているとして届け出ている」不思議な例もあるが、不届罪が重罪であり、その逆ではない。「貰ったと届け出た方が罰せられる」なんてことが罷り通れば、これを世の末と云う。これを良しとせんとする法曹界は狂っている。その狂人どもが小沢パッシングを続けている。全くもって脳味噌が腐っているしか言いようがなかろう。

 この腐れウヨが今、小沢テロを呼号し始めている。当然これを始動せしめているのがシオニスタン奥の院であり、国際金融資本帝国主義ネオシオニストである。最近、中国要人と天皇陛下の会見を廻る騒動が勃発したが、ブッシュの№2・チェイニー副大統領の場合には咎められず、中国の№2・習近平国家副主席の場合には大騒ぎするとはこれ如何に。たまたま右翼の論客と自称する知り合いにかく問うたところ、アメリカは何をしても良いのだ、中国は許されないと堂々と述べ給うた。戦後右派運動がシオニスタン系ウヨ運動に堕していることの生々しい証言であろう。ウヨもサヨも金と地位に弱い。甘言で言論を売る手合いでしかないことが分かろう。それか元々オツムのデキが悪過ぎるのかも知れない。

 今、小沢は恐らくヒシヒシと身の危険を感じつつ最後のお国奉公に精出している筈である。日本が国際金融資本帝国主義ネオシオニストに捕捉され解体溶解される動きに座して見やることは堪えられず、原日本の培ってきた悠久の歴史を守るため奮闘努力している筈である。師を角栄に置くという宣言が、これを語っている。これ以外の小沢論を奏でる必要はない。これ以外の小沢論ばかりであるが、れんだいこが許さない。

 もとより小沢は角栄ほどには実力者ではない。しかしながら磁石が鉄粉を寄せるように、小沢政治に期待を寄せる向きも強い。世界の動向は次第に小沢の背に角栄を観て、これを支えんとしているようにも見える。なぜなら、この動きをもってせずんば国際金融資本帝国主義ネオシオニストとの対決ができないからである。彼らの悪どい支配を終わらせる為には、闘う主体が確立されねば前に進めないからである。この力関係がどう動くのかは分からない。しかし、歴史に生きる為にはこの程度の不退転の決意が要る。これがそもそもの政治の醍醐味である。我々もまた醍醐味に生きようではないか。以上、一言しておく。

 2009.12.19日 れんだいこ拝

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【鳩山政権の第一関門、記者クラブ制考】

2009-09-28 19:45:22 | たすけあい党

【鳩山政権の第一関門、記者クラブ制考】

 2009.9.16日の鳩山民主連合政権の登場と共に、記者クラブ制問題が浮上してきた。民主党は、政権奪取前の公約で、「記者クラブ制を開放し、他のメディアにも参加させる」方針を打ち出していた。ところが、平野官房長官が就任直後、記者クラブ開放について消極的姿勢を見せ始めたという。政権奪取後、いきなり「記者クラブ開放公約」を反古(ほご)するようでは、他の公約も同じ運命を辿ることが予見されるという意味で、この問題の持つ意味は大きい。

 他方、岡田克也外相は9.18日の記者会見で、概要「閣議後の首相官邸や国会でのぶらさがり取材は、記者クラブ所属以外のメディアが参加できておらず、これでは十分な情報発信はできない。今後は定例会見を原則週2回とし、同省記者クラブ所属の報道機関に限らず全メディアに開放する。但し、会見への参加は、危機管理上の配慮から、事前登録を前提とする」と発表し、記者クラブに所属する報道機関以外にも参列の道を開く方針を明らかにした。これにより、日本新聞協会、日本民間放送連盟、日本雑誌協会、日本インターネット報道協会、日本外国特派員協会の会員のほか、外国記者登録証保持者やフリーランスの記者が対象となり、従来の記者クラブ以外にも スポーツ紙、週刊誌、月刊誌、外国人向けメディアなどが参加できるようになる。

 鳩山政権は、記者クラブ開放を廻って早くも平野官房長官と岡田外相との間に齟齬を見せ始めていることになる。この問題を愚考する。れんだいこの解析するところ、この問題は、記者クラブ制そのものの在り方と、著作権問題の二面が絡んでいる。

 記者クラブ制とは、政府の記者会見の際、閉鎖的に選別された有力マスコミ各社の会員に絞って参席が許されている取材体制を云う。この特権的な地位をpreferred access(優先的アクセス)とかprivileged access(特権的アクセス)と呼ぶ。これにより、「政治の第一次情報が、記者クラブというフィルターを通してからでないと、国民へ到達しない」ことになっている。この制度の由来には歴史的経緯があり、それを無視しては是非判断できないにせよ、記者クラブ制が情報公開という時代の流れに反していることは間違いない。

 物事には是非があるとして、この観点から記者クラブ制を評すると、この制度には、参席する記者の身元素性が知れており、要人の警備上安全という利点がある。デメリットは、質疑が慣れ合いに流れ易く、ジャーナル的に急所を突く質問が排除される傾向を生む。時には格好の政府広報や単なるセレモニーの場に変質したりする。この両面の功罪を踏まえて政治的にどう打開すべきか、これが問われていることになる。

 しかしながら、れんだいこには、こうしたレベルでの評論にとどまるならば表層的であり、真の問題に踏み込んでいないように思われる。記者クラブ制問題がクローズアップされつつある裏事情には、次のような問題が宿されているのではなかろうか。即ち、現下の有力報道機関、総じてマスコミは、現代世界を牛耳る国際金融資本(以下、ネエシオニズムと仮称する)の支配下にあり、厳しく情報統制されている。彼らのメディアリテラシーに監視され、スルーした情報のみが伝達されている。逆は逆である。それは同時に長期的な愚民化政策に基づいており、世界一識字率の高い日本人民大衆の軽薄化、野番衝動化を画策している。このことを踏まえなければ事の真相の深層に迫れないのではなかろうか。

 これについて詳しく知りたければ、「シオン長老の議定書の言論機関、マスコミに関する記述一覧」で考察しているので参照されたい。れんだいこは、あらゆる兆候から、この問題を真実とみなしている。
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/neozionismco/zionnogiteisyoco/theemabetuco/theemabetuco10.htm)

 このクビキの下で、日本マスコミ界は本来のジャーナル精神を歪められ、ネオシオニズムのエージェントとして彼らを利するプロパガンダを一方的に垂れ流したり、その意を汲む政府の御用聞きに勤め、その意を汲まない政府、政治家に対する当てこすり、針少棒大批判に耽っている。しかも、近年、こういう姿勢をますます強め次第に顕在化させつつある。かのロッキード事件における稀代の有能政治家・田中角栄失脚訴追キャンペーンなど最たる例であった。ここ十年で見れば、自公政権、これを背後で操る国際金融資本のメディア戦略は、マスコミを駆使して世論誘導し、新自由主義政策という名のハゲタカ利権擁護のペンを思う存分ふるってきた。小泉政治を称揚し、狂人小泉を名宰相としてもてはやした。これに一定の距離を保とうとした安倍、福田、麻生の各政権に対しては批判の舌鋒を鋭くしてきた。ペンの正義を云うには恥ずかしい政治主義ぶりを発揮してきた。

 この間、新聞紙面が活力を失い、新聞各社が系列支配しているテレビメディアは、日常的にこれでもかというほどバカ番組を粗製乱造し、1億総白痴化を画策している。そういう事情によって、多少なりともまともな者のテレビ離れを促しつつある。他にも、中近東に於けるイスラエルの蛮行が国際的批判に遭っている時には決まって北朝鮮のテポドン、拉致問題を採り上げ、関心をそらせるという新たな機能をも露骨化させつつある。直近の例でいえば、2009総選挙、これに引き続く鳩山政権誕生前後に合わせて報道され続けた酒井法子大麻事件の執拗さは、その好例である。同事件が総選挙過程で発生し、逮捕、釈放が政局の重要な節目に合わせて演出されたのは決して偶然ではなかろう。かく共認したい。

 日本マスコミ界がネオシオニズムにコントロールされる度合いに応じて、記者クラブ制の弊害が目立ち始めた。これには以上のような相当の根拠があるとみなすべきであろう。既存メディアは役に立たないばかりか今や腐り抜いている。この認識が元になって、記者クラブ制という大手メディアのプレス特権からの開放が迫られつつあると認識すべきではなかろうか。もはや大手メディアは当てにならないのであり、彼らに代わるあるべきメディアの創出こそが真に望まれている。記者クラブ制問題をこの座標で位置づけて解く必要があろう。

 鳩山民主連合政権が、かく腐敗堕落しきっているマスコミ、その表出権力体としての五大新聞による報道管制システムと闘わず、逆にその圧力に迎合するようなことでは先行きが暗かろう。世間では、鳩山政権に於ける小沢幹事長との二重権力問題に講釈を垂れる手合いが多い。しかしながら、れんだいこの見るところ、それを咎めるならメディア権力問題の方が本ボシであり、これを切開することこそが真の政治評論であるように思われる。誰か、かく共認せんか。

 ところで、記者クラブ制には、もう一つ著作権問題が絡んでいる。現代マスコミは業界上げて著作権狂いしている。その酷さは、著作権法が開放しているところの時事報道ニュース、死亡記事に対しても、利用規制網を仕掛けているところにある。「要事前通知、要事前承諾、要対価制」という檻を設け、著作権利権に囲い込み、その圧力をますます強めつつある。「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」がその申し合わせであり、以来猛威をふるいつつある。

 これの音頭取りしたのがナベツネ派である。ナベツネ派の生息する読売新聞が記事と云う記事の末尾に「無断転載禁止」を但し書きし顰蹙を買っているのは偶然ではない。読売系は、見出しにおいても著作権を主張し、いくつかの訴訟に持ち込んで得意然としている。バカさ加減も極まれりというべきではなかろうか。いずれにせよ、ナベツネ派が画策し読売系が水先案内した結果、この風潮が全マスコミ界を汚染し、今や自縄自縛に陥っているという滑稽さを見せつつある。にも拘わらず、更に著作権狂いせんとしつつある。こうなると不治の病に陥っていると見立てるべきであろう。

 この問題は、著作権棒を振り回しながら、その実狙いは報道管制にある。この報道管制は、愚民化政策と一体となって推進されつつある。ここを見てとらねば、著作権問題の深刻さに至らない。著作権棒をもっとも強引に振り回す読売-日テレ系が殊のほかバカ番組に執心し垂れ流し続けているのは偶然ではないということになる。

 かく判ずれば、我々は、その対抗策として、既存メディアとは違う別系の政治情報に於ける人民大衆的利用を良しとするメディアを創出せねばならないことになろう。記者クラブ制は、この問題を見据えて議論していかなければ十全な解決にはならない。つまり、プレス特権による優待つきの著作権棒を振り回すような輩に特権は与えられないとする立場から、どちらかを選択させねば解決しない。特権まみれにしがみつくのか、特権を離すのか、はっきりさせねばならない。手前が特権まみれに居りながら官僚特権の舌鋒を振り回すのを茶番劇という。

 鳩山政権は、記者クラブ制にとどまらず現代メディアが陥っている奇形化、著作権狂いに対して踏み込む力があるだろうか。否逆に、これを更に推し進める恐れはないのだろうか。こういうところが関心にならざるをえない。れんだいこ的には、著作権、プレス特権からの楽市楽座的開放政策こそが望まれており、この方向に針路を執らなければ、初手から危ういと見立てる。旧政権のウミをださせるとは、こういう問題にも及ぶべきだと考える。

 2009.9.20日 れんだいこ拝

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Re::れんだいこのカンテラ時評607

2009-09-24 20:39:48 | たすけあい党

Re::れんだいこのカンテラ時評607 れんだいこ 2009/09/20 11:00

【鳩山政権の第一関門、記者クラブ制考】

 2009.9.16日の鳩山民主連合政権の登場と共に、記者クラブ制問題が浮上してきた。民主党は、政権奪取前の公約で、「記者クラブ制を開放し、他のメディアにも参加させる」方針を打ち出していた。ところが、平野官房長官が就任直後、記者クラブ開放について消極的姿勢を見せ始めたという。政権奪取後、いきなり「記者クラブ開放公約」を反古(ほご)するようでは、他の公約も同じ運命を辿ることが予見されるという意味で、この問題の持つ意味は大きい。

 他方、岡田克也外相は9.18日の記者会見で、概要「閣議後の首相官邸や国会でのぶらさがり取材は、記者クラブ所属以外のメディアが参加できておらず、これでは十分な情報発信はできない。今後は定例会見を原則週2回とし、同省記者クラブ所属の報道機関に限らず全メディアに開放する。但し、会見への参加は、危機管理上の配慮から、事前登録を前提とする」と発表し、記者クラブに所属する報道機関以外にも参列の道を開く方針を明らかにした。これにより、日本新聞協会、日本民間放送連盟、日本雑誌協会、日本インターネット報道協会、日本外国特派員協会の会員のほか、外国記者登録証保持者やフリーランスの記者が対象となり、従来の記者クラブ以外にも スポーツ紙、週刊誌、月刊誌、外国人向けメディアなどが参加できるようになる。

 鳩山政権は、記者クラブ開放を廻って早くも平野官房長官と岡田外相との間に齟齬を見せ始めていることになる。この問題を愚考する。れんだいこの解析するところ、この問題は、記者クラブ制そのものの在り方と、著作権問題の二面が絡んでいる。

 記者クラブ制とは、政府の記者会見の際、閉鎖的に選別された有力マスコミ各社の会員に絞って参席が許されている取材体制を云う。この特権的な地位をpreferred access(優先的アクセス)とかprivileged access(特権的アクセス)と呼ぶ。これにより、「政治の第一次情報が、記者クラブというフィルターを通してからでないと、国民へ到達しない」ことになっている。この制度の由来には歴史的経緯があり、それを無視しては是非判断できないにせよ、記者クラブ制が情報公開という時代の流れに反していることは間違いない。

 物事には是非があるとして、この観点から記者クラブ制を評すると、この制度には、参席する記者の身元素性が知れており、要人の警備上安全という利点がある。デメリットは、質疑が慣れ合いに流れ易く、ジャーナル的に急所を突く質問が排除される傾向を生む。時には格好の政府広報や単なるセレモニーの場に変質したりする。この両面の功罪を踏まえて政治的にどう打開すべきか、これが問われていることになる。

 しかしながら、れんだいこには、こうしたレベルでの評論にとどまるならば表層的であり、真の問題に踏み込んでいないように思われる。記者クラブ制問題がクローズアップされつつある裏事情には、次のような問題が宿されているのではなかろうか。即ち、現下の有力報道機関、総じてマスコミは、現代世界を牛耳る国際金融資本(以下、ネエシオニズムと仮称する)の支配下にあり、厳しく情報統制されている。彼らのメディアリテラシーに監視され、スルーした情報のみが伝達されている。逆は逆である。それは同時に長期的な愚民化政策に基づいており、世界一識字率の高い日本人民大衆の軽薄化、野番衝動化を画策している。このことを踏まえなければ事の真相の深層に迫れないのではなかろうか。

 これについて詳しく知りたければ、「シオン長老の議定書の言論機関、マスコミに関する記述一覧」で考察しているので参照されたい。れんだいこは、あらゆる兆候から、この問題を真実とみなしている。
(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/neozionismco/zionnogiteisyoco/theemabetuco/theemabetuco10.htm)

 このクビキの下で、日本マスコミ界は本来のジャーナル精神を歪められ、ネオシオニズムのエージェントとして彼らを利するプロパガンダを一方的に垂れ流したり、その意を汲む政府の御用聞きに勤め、その意を汲まない政府、政治家に対する当てこすり、針少棒大批判に耽っている。しかも、近年、こういう姿勢をますます強め次第に顕在化させつつある。かのロッキード事件における稀代の有能政治家・田中角栄失脚訴追キャンペーンなど最たる例であった。ここ十年で見れば、自公政権、これを背後で操る国際金融資本のメディア戦略は、マスコミを駆使して世論誘導し、新自由主義政策という名のハゲタカ利権擁護のペンを思う存分ふるってきた。小泉政治を称揚し、狂人小泉を名宰相としてもてはやした。これに一定の距離を保とうとした安倍、福田、麻生の各政権に対しては批判の舌鋒を鋭くしてきた。ペンの正義を云うには恥ずかしい政治主義ぶりを発揮してきた。

 この間、新聞紙面が活力を失い、新聞各社が系列支配しているテレビメディアは、日常的にこれでもかというほどバカ番組を粗製乱造し、1億総白痴化を画策している。そういう事情によって、多少なりともまともな者のテレビ離れを促しつつある。他にも、中近東に於けるイスラエルの蛮行が国際的批判に遭っている時には決まって北朝鮮のテポドン、拉致問題を採り上げ、関心をそらせるという新たな機能をも露骨化させつつある。直近の例でいえば、2009総選挙、これに引き続く鳩山政権誕生前後に合わせて報道され続けた酒井法子大麻事件の執拗さは、その好例である。同事件が総選挙過程で発生し、逮捕、釈放が政局の重要な節目に合わせて演出されたのは決して偶然ではなかろう。かく共認したい。

 日本マスコミ界がネオシオニズムにコントロールされる度合いに応じて、記者クラブ制の弊害が目立ち始めた。これには以上のような相当の根拠があるとみなすべきであろう。既存メディアは役に立たないばかりか今や腐り抜いている。この認識が元になって、記者クラブ制という大手メディアのプレス特権からの開放が迫られつつあると認識すべきではなかろうか。もはや大手メディアは当てにならないのであり、彼らに代わるあるべきメディアの創出こそが真に望まれている。記者クラブ制問題をこの座標で位置づけて解く必要があろう。

 鳩山民主連合政権が、かく腐敗堕落しきっているマスコミ、その表出権力体としての五大新聞による報道管制システムと闘わず、逆にその圧力に迎合するようなことでは先行きが暗かろう。世間では、鳩山政権に於ける小沢幹事長との二重権力問題に講釈を垂れる手合いが多い。しかしながら、れんだいこの見るところ、それを咎めるならメディア権力問題の方が本ボシであり、これを切開することこそが真の政治評論であるように思われる。誰か、かく共認せんか。

 ところで、記者クラブ制には、もう一つ著作権問題が絡んでいる。現代マスコミは業界上げて著作権狂いしている。その酷さは、著作権法が開放しているところの時事報道ニュース、死亡記事に対しても、利用規制網を仕掛けているところにある。「要事前通知、要事前承諾、要対価制」という檻を設け、著作権利権に囲い込み、その圧力をますます強めつつある。「1997.11月付け日本新聞協会編集委員会のネットワーク上の著作権に関する協会見解」がその申し合わせであり、以来猛威をふるいつつある。

 これの音頭取りしたのがナベツネ派である。ナベツネ派の生息する読売新聞が記事と云う記事の末尾に「無断転載禁止」を但し書きし顰蹙を買っているのは偶然ではない。読売系は、見出しにおいても著作権を主張し、いくつかの訴訟に持ち込んで得意然としている。バカさ加減も極まれりというべきではなかろうか。いずれにせよ、ナベツネ派が画策し読売系が水先案内した結果、この風潮が全マスコミ界を汚染し、今や自縄自縛に陥っているという滑稽さを見せつつある。にも拘わらず、更に著作権狂いせんとしつつある。こうなると不治の病に陥っていると見立てるべきであろう。

 この問題は、著作権棒を振り回しながら、その実狙いは報道管制にある。この報道管制は、愚民化政策と一体となって推進されつつある。ここを見てとらねば、著作権問題の深刻さに至らない。著作権棒をもっとも強引に振り回す読売-日テレ系が殊のほかバカ番組に執心し垂れ流し続けているのは偶然ではないということになる。

 かく判ずれば、我々は、その対抗策として、既存メディアとは違う別系の政治情報に於ける人民大衆的利用を良しとするメディアを創出せねばならないことになろう。記者クラブ制は、この問題を見据えて議論していかなければ十全な解決にはならない。つまり、プレス特権による優待つきの著作権棒を振り回すような輩に特権は与えられないとする立場から、どちらかを選択させねば解決しない。特権まみれにしがみつくのか、特権を離すのか、はっきりさせねばならない。手前が特権まみれに居りながら官僚特権の舌鋒を振り回すのを茶番劇という。

 鳩山政権は、記者クラブ制にとどまらず現代メディアが陥っている奇形化、著作権狂いに対して踏み込む力があるだろうか。否逆に、これを更に推し進める恐れはないのだろうか。こういうところが関心にならざるをえない。れんだいこ的には、著作権、プレス特権からの楽市楽座的開放政策こそが望まれており、この方向に針路を執らなければ、初手から危ういと見立てる。旧政権のウミをださせるとは、こういう問題にも及ぶべきだと考える。

 2009.9.20日 れんだいこ拝


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【第45回2009.8.30衆院選考その3、世界がどう伝えたか】

2009-09-11 10:38:33 | たすけあい党

【第45回2009.8.30衆院選考その3、世界がどう伝えたか】

 8.31日、2009衆院選について、各国メディアがどう伝えたかを見ておくことにする。(2009.9.1日付け毎日新聞その他参照)

 米国のウォールストリート・ジャーナル紙は、「日本現代史の分水嶺(ぶんすいれい)として後世に伝わるだろう。米国などにとって、自民党政権に比べ対応が難しくなるが、より意欲的な同盟国となるかもしれない」とジャーナルしている。冷静客観的に事態を分析していることが伝わる。

 英国のフィナンシャル・タイムズ紙は、「極めて日本的な反乱。民主党に革新的な新政策が見られないのは、日本人が今もそれなりに現状に満足しているからだ。社会的な革命を求めたものではなく、これまでとは違った手法で現状を維持しようとする試みに見える」。インディペンデント紙は、「民主党の外交方針は、日本がようやく冷戦終結を確認したことを示す。アジア重視の姿勢から『地域勢力』化する可能性がある」。9.1日付けのアル・ハヤート紙(ハージム・サーギーヤ)はコラムで、「日本の政権交代について」採り上げ、「日本の革命?」との見出しで、「日本で、第二次大戦後と呼ばれた長い時期、自民党がその象徴であった時期は終了した。そのかっての盟友イタリアでキリスト教民主党が去ったのと同様に」とした上で、意訳概要「第一党となった民主党の鳩山代表は穏和系であり、革命的な動きは採らないだろう」と評した。

 イスラエルのイスラエル民放は、「鳩山氏は日本のオバマ」と報じた。8.31日付のイスラエル有力紙ハーレツは、「鳩山政権は、例えば(パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム原理主義組織)ハマスの承認に踏み切るなど、より親アラブ的な姿勢を取るようになりそうだ」と分析した。執筆者は知日派の大学教授で、鳩山代表が選挙戦で自らをオバマ米大統領になぞらえて変革を訴えていたことを指摘し、「対イスラエル政策について、オバマ、鳩山両氏はイスラエルが望まない形の協調を進める可能性がある」と懸念を示した。

 イタリアのメッサジェーロ紙は、「イタリアと日本は人口減、移民規制、年金問題など似た問題を抱え、右派から左派への政権交代が必要だった」と論じた。8.31日付のイタリア紙コリエレ・デラ・セラは、「東京に(政治的な)津波」との見出しで国際面の見開きで伝えた上で、鳩山代表を「日本のケネディ」に例えた。政権交代を翻訳することなくそのまま「セイケンコウタイ」と記し、歴史的な出来事として紹介した。

 欧州のベルギー紙は、概要「民主党政権が、自民党の対米追従路線から、日米同盟を維持しつつ対米依存を軽減する方向へどこまで外交方針を軌道修正するのかに注目している」とコメントした。欧州のラジオは、「民主党は米国から多少距離を置き、アジアの近隣国との和解を進めようとしている」と伝えた。民主党内に意見の相違があることを指摘した。EU筋の「政権公約が政策にどう反映されるかを見極める必要がある」との声も伝えられている。

 仏国際関係研究所(IFRI)アジアセンターのバレリー・ニケ所長は、「米軍基地の扱いなどを見直す余地はあるだろうが、米国は日本の安全保障戦略の中心であり続け、(日米関係の)激変ではない」と分析している。 

 オーストラリアのオーストラリアン紙は、「日本の近代史において、明治維新や戦後の経済復興に並ぶ大きな変革だ」と評した。

 ロシアの政府紙「ロシースカヤ・ガゼータ」は、「震度7級の出来事。米国が終戦後の日本で2大政党制を根付かせようとしたが、当時の日本は受け入れられず、巨大な自民党と政権を担えない野党による『1・5党制』が続いたが、(経済)危機に耐えられなかった」と伝えた。

 中国の京華時報は、鳩山氏のあだ名を「宇宙人」と紹介した上で、「『宇宙人』鳩山の夢かなう」と見出しに書いた。広州日報は、「吉田茂、鳩山一郎両元首相の孫同士の戦い。政権は代わっても、世襲政治は変わらない」と評した。

 韓国の朝鮮日報は、「政権交代後の日本がどこに向かうかは非常に不透明」と伝えた。北朝鮮の朝鮮中央通信は、論評なしで「自民党が大惨敗を喫した」と選挙結果だけを伝えた。

 インドのタイムズ・オブ・インディア紙は「鳩山氏は『新しい侍』」と伝えた。シンガポールのストレーツ・タイムズ紙は、「民主党のマニフェストからは、不振が続く日本経済をいかに上向かせるか、はっきりしない」とコメントした。

 中東諸国でも関心をもって取り上げられている。中東の大手紙の大半が「自民党長期政権の終焉」を大きく取り上げた記事を流した。汎アラブ衛星放送の「ジャジーラ」は、投票日当日深夜、大勢が判明するとすぐ「野党、圧勝」の一報を流した。エジプトの最大日刊紙のアルアハラム紙は、「民主党の地滑り的勝利は、国民生活重視の政策を掲げ、官僚の政治支配に反対したことが背景にあった」と解説した。汎アラブ紙で「アラブのワシントン・ポスト」とも呼ばれるインテリ日刊紙の「ハヤート」は、9月1日付けのコラムで早速、民主党の成り立ちや鳩山代表の出自にまで触れて、「実は政策的には自民党とたいした違いはない」と分析している、とある。

 もっともっと多くの情報を得たいが分らない。いずれにせよ、かなり注目されたこと自体は確かで、今後の成り行きに相当な関心が払われていることも間違いない。

 れんだいこが興味深く思うことは、「2009衆院選政変」を「革命政変」と読むのか「穏和政変」と読むのかで両論が生まれていることである。れんだいこが、海外メディアにサジェスチョンするとすれば、「日本型平和革命」として評するべきであろうということになる。

 1993年時の細川政変に比するならば、こたびは格段に重みが違う。この流れは不可逆的で、自民党の亀裂の深さから見て復権はもう有り得ないだろう、よって米英的な二大政党制による政権交代は有り得ないだろう、欧州的な多党化も有り得ないだろうということである。民主党が、かっての自民党の座に深く納まって盤石の政権与党化し、恐らくかっての自民党がそうしたように、左右両翼を抱えたまま「大同一致」で政局をこなして行くことになるだろう。そういう新たな日本型政治の始まりが予見できるということである。民主党の308議席の重みは、それほど画期的で、八百万の神々の為し給うた叡慮のように思われる。

 国際金融資本勢力が、これを無理やり突き崩すとするならばクーデター的な非合法手段に打って出るよりない。しかし、日本政治に於いてそのような方法が受け入れられるだろうか。「和をもって尊し」とし、「談じ合い」に世界一長けている日本政治には邪道が過ぎるのではなかろうか。つまり、もはや民主連合政権を突き崩す方法はないということになる。こう認識すべきだろう。

 かくて、日本の新時代がが始まったと受け止めるべきであろう。問題は、新日本政治が、どのように動き出すかである。それは恐らく、オバマ流のチェンジ、イエス・ウィ・キャンに感化されながら、日米同盟に依拠しつつも共に非軍事的な国際協調路線へと向かうことになるだろう。戦争に明け暮れる時代が食傷され、裏の仕掛けも見えてきたことでもあり決別へと向かうであろう。産業と通信技術の発展により世界はますます緊密化を深め国際化時代になる。これをこなす能力に於いて、日本的な在り方を追求する政治へと向かうであろう。

 なぜなら、この道以外に現代世界の苦悩から脱出できないからである。なぜなら、それが国際社会の中で日本が生き延びる道であるからである。それは同時に国際金融資本への隷従から遠ざかる道である。その意味で革命的な政変であったことが、これから分かるであろう。中曽根政権以来営々と敷設してきた邪悪な政治が、この政治の日本における奥の院である中曽根、ナベツネの寿命が尽きるのに応じて一掃されるであろう。なぜなら、それが歴史の法理であるからである。れんだいこにはそのように世界が見える。

 2009.9.3日 れんだいこ拝

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【第45回2009.8.30衆院選考その2、各党寸評】

2009-09-10 20:24:30 | たすけあい党


【第45回2009.8.30衆院選考その2、各党寸評】

 2009衆院選の各党の議席の割り振りは次のようになった。これを各党別にみておく。

 自民党は、212→300→119議席(小選挙区64、比例55)となり歴史的な大敗北を喫した。2005総選挙で300議席を獲得し大勝利したが、こたびはその逆に地滑り的に凋落しスッテンテンになった。目標としていた過半数の241議席を大きく割り込み、野党に転落することになった。自民党の野党化は、細川政権誕生時の1993年以来のことになる。2005総選挙では青森、群馬、栃木、石川、島根、愛媛など13県で小選挙区を独占したが、こたびは逆に岩手、秋田、福島、埼玉、新潟、山梨、長野、静岡、愛知、滋賀、長崎、大分、沖縄の13県の小選挙区で全敗し「空白県」となった。小選挙区で全議席を獲得したのは、福井、鳥取、島根、高知の4県のみにとどまった。麻生首相、党三役は即刻の辞任表明を余儀なくされた。

 特記すべきことがある。こたびの選挙で、小泉系シオニスタンが脳震盪を見舞われるほど壊滅的打撃を受けた。僅かに手勢十数名が残ったが、もはや政治的影響力はない。それにしても小泉チルドレンが揃いも揃ってお粗末さ、不甲斐無さを示した。比例代表当選圏の座が保障されないという理由で降りた者、無所属に転じた者、ろくに選挙戦を戦わなかった者も続出した。そういう訳で、1対1の小選挙区ではレースにならず殆どが餌食にされた。総帥小泉の出向いたところ全員討ち死にという滑稽無残な結末となった。当人は既に引退し、無責任極まる余興生活に入っているというのに、小泉チルドレンは今なお慕うという漫画的構図を見せている。

 ひょっとして、麻生政権の役割は、小泉派退治にあったのかも知れない。この観点から見れば頷けることが多々ある。そうとすれば麻生は重要な役割を果たしたことになる。吉田茂のDNAの為せる技かもしれない。付言しておけば、小泉教の信者たる武部、小池、中川がいずれも比例当選で復活しており、今後の動きが注目される。自民党は当分ゴタゴタし続け悩まされることになろう。小泉の息子の進一郎はオヤジの世話にならず、比例保険を掛けずの気骨を示し、ただ一人新人当選した。小泉チルドレンは時の甘言に乗り、手痛いしっぺ返しを受ける破目になった。やったら倍してやり返されるのが世の習いであることを肝に銘じるべきだろう。

 公明党は、31→31→21議席(小選挙区0、比例21)。太田代表、北側幹事長、冬柴前幹事長ら小選挙区候補全員が討ち死にすると云う前代未聞の事態に陥った。同党の場合、お題目の力を信じてと思われるが、小選挙区候補は比例当選の保険をかけていない。これにより全員落選となった。遂に「全員当選常勝神話」が潰えた。公明党の今後は、自民と蜜月を深め過ぎた故に却って舵取りが難しい。総括する力があるだろうか。

 民主党は逆に、177→115→308議席(小選挙区221、比例87)となり歴史的な大勝利を収めた。近畿では候補者が足りなくなり2議席が他党に回ったほどオセロ倒し的に自公候補をなぎ倒した。2005総選挙で議席を減らした分以上に大幅に取り戻す格好になった。岩手、福島、山梨、新潟、長野、滋賀、長崎の8県で議席を独占した。推薦区や無所属を含めると、秋田、埼玉、静岡、大分、沖縄でも非自民で全議席を占めたことになる。新たに「小鳩チルドレン」が生まれた。鳩山代表は続投し、間もなく首相として政権を担うことになろう。呉越同舟にならず三本の矢で結束できるかどうかが注目される。

 社民党は、前回と同じ7議席(選挙区3、比例4)。将来の党首候補と評されている保坂展人は、東京8区で石原候補と対決したが競り負けし、比例区でも議席を獲得できず落選した。福島執行部は恐らく信任され、新政権入りの道が開かれようが、足腰を鍛える課題は「永遠の課題」となり続けるのだろうか。

 国民新党は、4→3議席(小選挙区3、比例0)。小選挙区を譲り比例代表北陸信越ブロックに転じた綿貫民輔代表と亀井久興幹事長が落選した。亀井静香氏(広島6区)、松下 ただひろ(鹿児島3区)、下地幹郎(沖縄1区)が当選した。野党連合の下働きに尽力し、精も根も使い果たした格好となった。比例区で取れなかったのは、郵政問題1本槍が過ぎたのかも知れない。8.31日、東京で開かれた党の幹事会で、綿貫代表が国民新党最高顧問、亀井静香代表代行が代表に就任することを決めた。新政権入りと要職が担保されるべきであろう。

 新党日本は、0→1議席(小選挙区1、比例0)。党代表の田中康夫(兵庫8区)が小選挙区当選し瞠目させた。公示前の駆け込みで立候補したにも拘わらず公明の冬柴前幹事長を破った。この功績により、新政権与党派の道が開かれたと思われる。

 新党大地は、1→1議席(小選挙区0、比例1)。鈴木宗男(新党大地)が比例北海道ブロックで当選した。八代英太の当選までには至らなかった。新党日本同様に新政権与党派の道が開かれたと思われる。

 みんなの党は、4→5議席(小選挙区2、比例3)。「政権交代プラス政界再編」を訴え、代表の渡辺、江田憲司の2名は小選挙区で、山内康一は比例単独で、浅尾慶一郎、柿沢未途は比例復活当選で、計5名が当選し善戦した。選挙直前に結成された党にも拘わらず非常に健闘したことになる。相変わらずの旧自公政権と新政権の両睨みによる遊泳が始まるものとみられる。

 改革クラブは、1→0議席。唯一の現役候補であった西村真悟(大阪17区)が落選し、自公連合の別動隊の正体を露にしつつ露と消えた。 

 共産党は、前回と同じ9議席(選挙区0、比例9)を維持した。志位執行部は安堵し、建設的野党論の下に是々非々路線をまさぐることになる。

 無所属は、6→6議席。このうち、平沼グループは、候補者17人のうち平沼元経産相、小泉龍司(埼玉11区)、城内実(静岡7区)の3名が当選した。3名当選は快挙であるが、公職選挙法が定める政党要件(国会議員5人以上)を満たさず、新党結成が厳しい状況となった。

 宗教法人「幸福の科学」を母体とする幸福実現党は、小選挙区と比例代表計337名と云う候補者数では最大の候補を擁立したが、小選挙区、比例区とも議席0となった。特段の声明も出されず仕舞いになっている。 
 かように分析できるが、我々はどう受け止めるべきだろうか。れんだいこは、日本政治史の新たな時代が始まったと素直に受け取る。遂に、1980年代初頭の中曽根政権以来のシオニスタン政治からの転換を闘い取った。新政権が、内憂外患の中、有能に漕ぎ続けることを願う。真剣に学ぶべきは、1980年代初頭まで続いた政府自民党内のハト派政治の手法であろう。吉田茂、池田隼人、田中角栄の内外政治のキモである「内治優先の経済成長政策、国際協調の軍事防衛費軽減、自衛隊の海外派兵禁止」政治復権こそ日本の進路とすべきではなかろうか。その為にまずはシオニスタンを一掃し、如何に愛国的に見せかけようとも二度と売国勢力をのさばらせてはいけない。話はここからであろう。日本国憲法が息を吹き返し、光り輝くことになるのを願う。

 2009.9.2日 れんだいこ拝

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第45回2009.8.30衆院選考その1、永田城炎上】

2009-09-09 20:42:09 | たすけあい党

第45回2009.8.30衆院選考その1、永田城炎上】

 2009.8.30日に実施された第45回衆院選の結果は、小選挙区300、比例区180の全480議席のうち、「民主308、自民119、公明21、共産9、社民7、みんな5、国民新党3、大地1、新党日本1、改革0、無所属6」となった。

 総評として、「民主連合軍勢が津波の如く押し寄せ、自公政権の立てこもる永田城を炎上瓦解させた」との言葉が相応しい。まさに投票一揆により自公を壊滅させた感がある。ここに、日本政治史上初の、「『選挙による政権交代』と云う日本式平和革命による政権奪取史」が刻まれた。やる時にはやる、しかも極力穏和に下手な暴力より凄いことをやる日本人民大衆のこの資質は誇って良いように思われる。

 かくまで完膚無きまでに自公勢力を壊滅させたことにより政権交代が確定した。これは、非自民の8党派による細川政権が発足した93年の衆院選以来の快挙である。野党が第1党となって政権交代を果たすのは、社会党を中心とした47年の片山内閣以来で62年ぶり。過半数を確保しての政権奪取は戦後初めてとなる。歴史眼的には、55年続いた自民政権が遂に崩壊し、幕引き期に続いた自公政権は10年で終止符が打たれ、政界は不可逆的な盤石の民主党時代に入ったとみなせる。現代世界を牛耳る国際金融資本によるクーデターないしはロッキード事件のような大がかりな陰謀事件が引き起こされない限り、この新体制は続くと観て良かろう。以下、分析によって見えてきたことを記しておく。

 新聞各社の事前予想が当たった。2005総選挙の時もそうだったが、各新聞社の予想は非常に正確ということが裏付けられた。れんだいこの予想は、2005総選挙の時の大外れに比してこたびはほぼ的中した。社民、国民新党の議席増予想が外れたが、その分まで民主が食ったことによる。これがブーム威力なのかも知れない。

 こたびの選挙の意義は、小選挙区制史上初めて、野党が小選挙区制の意味を理解して陣立てし、与党連合対野党連合の構図で激突したことにある。その結果、民主候補を立てた選挙区はほぼ圧勝し、社民、国民党で臨んだ選挙区ではそうはならなかった。つまり、社民、国民党は候補を立てなかった選挙区では民主を推薦し、実際に投票行動が結び付いたのに比して、民主が候補を取り下げ社民、国民党を推薦した選挙区では、民主票がさほど流れなかったことを意味する。この辺りが今後の教訓となるべきであろう。

 共産党が、全選挙区立候補戦略から転じて選挙区を絞り込んだことで、候補を立てなかったところでの民主候補勝ちも際立った。もっと早くからそうしておれば、もっと早く分かったであろう。共産党の全選挙区立候補戦略が如何なる役割を果たしてきたのか、大衆的に明らかにしたことも意義深い。

 れんだいこは、かって、2005総選挙の教訓として次のように指摘している。「最大野党民主党の単独政権構想は有り得ない。社共、造反派を相手せずでは結局こたびのようになる。造反派が二党発生したけれども、互いが連携しないようでは結局こたびのようになる。これは普通に算数で分かる話であった。実際には相乗効果というものがあろうから、与党は一本化でより強化され、野党は乱立でより弱くなるという仕掛けになっている。誰かが高等数学で分析すれば、こういう闘い方では政権移動が有り得ない話だと云うことが証明されよう。通りで、政権与党が気前良く党首討論会に臨み、少数政党にも発言の機会を等しく与えるという鷹揚さを見せる筈である。そういう裏の意図が分かった。政権与党に取って、野党各党が互いに分裂的に票を分け合うことほど望ましいことはない訳だ。小選挙区制が必ずしも悪いとは思わない。小選挙区制になっても、従来の中選挙区制時の頭で対応しようとしている野党各党の対応が悪いと思っている。いつもの定番では有るが、日共批判をしておきたい。同党・不破-志位ライン指導による『国会共闘はすれども政権共闘、その為の選挙共闘はしない』という戦略戦術ほど政権与党を有利にさせる手法はない。『本物の野党』なるコマーシャルで選挙区に分け入り野党間をかき混ぜているが、悪質と断定すべきではなかろうか。自公のように『小選挙区共闘、比例区分かち合い』まで行かなくても、『小選挙区共闘、比例区競合』という戦術がありそうなところ、それに向わない同党指導部の意図はナヘンにありや」。

 この指摘が生かされたかの如く野党連合を誕生させたのが、こたびの勝利の戦略的要因であったと思われる。選挙は、お祭りであると同時に現代的な合戦でもある。戦となると軍師が要る。この理が分からず、日本左派運動同様、軍師なき合戦に明け暮れていた野党が漸く軍師的眼力を持ち、闘いに臨んだことが、こたびの当り前の結果を生んだと理解すべきであろう。そういう意味で、野党連合の形成、続く共産党の「我こそが真の野党論」から「建設的野党論」への転換は、遅すぎたとはいえ祝すべきであろう。

 2005総選挙に比して、こたびの2009総選挙は何もかもが野党側の政権交代論を有利にさせた。これも勝利のキーワードであろう。自民党は、2005総選挙に於ける郵政造反派駆逐騒動のしこりが未だ深刻に続いており、そのダメージを修復できないばかりか、ますます傷口を深め広げつつある。この暗闘は今後更に強まることが予想される。れんだいこが見る限り、この問題は、小泉シオニスタン派が自民を飛び出して新党を結成しない限り解決しない。彼らが居残り続ける間じゅう悩みを深め党内亀裂を露にすることになるだろう。しかしながら、小泉シオニスタン派には自民を飛び出る勇気も能力もない。つまり、寄生する習性しかないので死ぬまで居座り続けることになるだろう。かくて自民は永遠のジレンマに陥り、恐らく解決能力を持たないままジリ貧化しやがて博物館入りして行くことになるだろう。ネオシオニズムを懐深く招き入れたところでは、いつでもどこでもそうなる。これが古来より歴史の教えるところである。

 民主党は逆に、2005総選挙敗北を奇禍として立て直しに向かった。岡田代表辞任、続く前原代表の偽メール事件による辞任の後、最後の切り札として新進党→自由党経由の小沢が代表に就任し、政策を磨く他方で軍師的采配で「勝てる選挙」を目指して勝利の方程式構築に向かった。時は幸いし、2005郵政解散騒動を通じて郵政造反組の中から国民新党が生まれ、選挙後、共に天下取り戦略を練った。こういう観点は、口舌のみでしたり顔するいわゆる万年野党ボケの頭脳からは生まれない。かって自民党内で主流派として政権を運営していたことから来る責任政治能力を持つ頭脳からしか生まれない。これを持つ二者が連衡することで真の意味での政権取りが始動することになった。郵政民営化騒動は、こういう思わぬ副産物をもたらしたことになる。この二派のルーツを辿れば角栄チルドレンに至るところが奥ゆかしい。これを解き明かす政治評論家は、今のところれんだいこしか居ない。れんだいこ評は認められてはいないけれども稀少価値を持つとつくづく自分で思うふふふ。

 民主党と国民新党は社民を引きよせ、福島執行部がこれに加わったことで三角トライアングルが形成された。こたびの選挙を見ても社民の足腰は相変わらず強くはない。福島党首に功績があるとすれば、細川政変で野に下らせた自民党を結果的に助け起こし政権党に帰り咲かせた村山、土井の旧社会党末期執行部に比べて、野党の共同戦線強化による政権奪取の道を採択したことであろう。野党連合内左バネに位置付けて党を再始動させた意義は大きい。

 これに日本新党、大地党が加わったことで野党連合は厚みを増した。ここに四本柱が立った。何事も、四本柱が立つとどっしりする。この予行演習は参院選、都議選で試された。いずれも野党連合の勝利の方程式の確かさを確認させた。この流れを見て、共産党が都議選後急きょ、「我こそ真の野党論」から「建設的野党論」に転換し、野党連合の政権取り陣営に加担した。この時既に供託金没収の重みと党内批判により、従来式の全選挙区立候補を取りやめ選挙区絞り込み方式に転換する方針を打ち出していたが、党中央が敢えて「政権交代優先、空白選挙区に於ける自由投票」を指針させたことにより野党連合に票が流れ込む構図ができあがった。これが追い風となった。

 この間、自公政権の失政は続き、人民大衆の間に次第しだいに怨嗟の声が強まって行った。バブル経済崩壊以降、何ら有効な対策を講ぜず不況を長期化させ、否むしろ国富の流失、民族系企業の外資売りを加速させて来た。国内問題では財源不足を持ち出す癖に、対外問題となると請われるままにいとも簡単に野放図にお供えし続け、軍事防衛絡みの支出には金に糸目をつけず、思いやり予算を計上し続けて来た。国内景気が良い時にはまだしも余裕とみなされたが、かくも悪化した現在では怒りを呼ぶばかりであるのに、相変わらず垂れ流し続けた。国内問題では費用対効果を云い公共事業を制限するのに、国外問題では問題にせず国際金融資本の要請するままにジャブジャブ金を使うシオニスタン売国政治ぶりが浮き彫りになった。景気対策と称するものは小手先、目先に終始し、せいぜい給付金発想で歓心を買うぐらいのことしかせず、長期戦略的な増収の道を開拓しない。国債発行抑制は掛け声ばかりで、実際には途方もなく刷りまくって来た。それでいて景気はいっこうに良くならない現実のイライラが高まって行った。

 財源不足を名目に租税公課各種を引き上げ、こたびの総選挙では、麻生政権は堂々と消費税値上げを公言して選挙に臨む痴呆ぶりを見せていた。ハト派時代の自民党政権が確立していた医療、年金、雇用、教育システムが壊され、社会的貧富と所得格差が広がり、それを構造改革の成果と称して居直り続けて来た。年金等の国庫金をハゲタカファンドに運営を任し、スッテンテンにさせられて来た。税金で立て直した長銀を格安で売り渡して来た。いつしか社会に夢がなくなり、猟奇的犯罪が次から次へと引き起こされ、他方で自殺者、失業者、債務者が量産されて来た。生活保護世帯が増え続け、新たな社会問題になりつつある。個々の分野での目先の利益を追う結果が、回り回って総合損益上由々しき損失を生みだしつつある。

 こういう馬鹿げた政治にうつつをぬかし、山積する諸問題を解決する能力を持たない自公政権の貧能ぶりに対するイライラ感とあきらめ感が募った。小泉政権以降、安倍、福田、麻生と1年も持たずに政権がたらい廻しされて来た。最後の麻生政権時代、カンポ施設の1円売り、残ったカンポ施設を破格安でハゲタカファンドが操るオリックスに一括譲渡する事態が明らかになり、異例なことに鳩山郵政相がストップをかけた。小泉-竹中ラインの露骨な売国シオニスタン政治ぶりに人民大衆の怒りは頂点に達した。ところが、麻生政権は、閣僚仲間である鳩山郵政相を支援するのではなく、逆に首を切るというお粗末な対応を示した。合わせて漢字を日本語的に読めない麻生首相の能力が問題になり、人民大衆の自公政権に対する失望とあきらめムードが蔓延した。この問題についてはこれから関係者に対する証人喚問で徹底調査し、小泉-竹中の政治責任を厳しく問わねばなるまい。民営化の背後に潜む悪巧みを明らかにして関係者を成敗せねばなるまい。

 もとへ。この問題を切開せぬまま、検察があろうことか、民主党の小沢代表の政治資金収支報告書記載問題にメスを入れ始め、いきなり秘書逮捕という強権発動による国策捜査が始まった。臭い話でしかなかろうに、自公の大物議員が揃って大げさに取り上げ批判を強めて行った結果、小沢代表は辞任を余儀なくされた。こうして鳩山代表が登場したが、この時既に野党連合の政権取りシフトが完了していた。自公政権にとって皮肉なことに小沢降ろしが遅過ぎた。民主党はむしろ禊を済まし、鳩山代表、岡田幹事長体制の下でまなじりを決して衆院選を待ち受ける体制に入った。自民内の分裂模様に比して、民主はむしろ政権交代の一点に向けて阿吽の呼吸による各派共闘を成立させ、老壮青が一手一つになって今や遅しと待ちうける体制を構築した。総選挙のゴングが鳴るや、大物議員が手分けして全国津々浦々にテコ入れに向かった。他方、自民党は、選挙参謀の古賀が突如辞任するお粗末ぶりであった。

 国際情勢の変化も、これに幸いした。米国ではブッシュ政権が命脈尽き、民主党のオバマがチェンジ、イエス・ウィ・キャンで新時代を切り拓いて行った。この風が日本政治に伝わる。これらの要因が合わさって、野党連合の政権交代が現実性を強め、こたびの総選挙で自公立てこもる永田城攻めに立ち向かった。人民大衆は、籠城する自公と攻めのぼる野党連合を比較して、野党側に正義を見出した。自公はネガティブキャンペーンを開始したがお粗末極まるもので、逆効果でしかなかった。そういう能力しか持たない哀れさが却って政権交代の流れを強めた。総選挙史上最長の40日ロングランを経て、ついにその日が来た。人民革命第一章の幕が開いた。

 2009.9.2日 れんだいこ拝

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【第45回衆院選、終盤情勢考】

2009-09-07 08:35:41 | たすけあい党

【第45回衆院選、終盤情勢考】

 第45回2009衆院選は、いよいよ大詰めを迎えた。新聞各紙の予想が既に出されており、ともに自民党の半減以下の歴史的大惨敗、民主党が300を超える議席を獲得して圧勝するとの見通しを報じている。7.13日の麻生首相の解散宣言以降、このところの民主ブームが更に加速し、与党政権側には為すすべがないという状況下にある。

 際立つ特徴として、2005郵政解散で大量当選した小泉チルドレンが壊滅的に一掃されることが予想されている。そればかりか、自民の首相経験者、派閥の長、その他大物議員、現役閣僚、党三役を含む上から下までの劣勢が伝えられている。公明党代表の当選も危ぶまれている。かくて政権交代が本当の話となりつつあり、現実性を帯びている。今やその刻待ち通しとする空気がみなぎっている。

 れんだいこが思うに、この政変は、去る日の自民党総裁選時の小泉候補の雄叫びであった「自民党をブっ潰す」から始まった。小泉元首相のこの公約は絵空事であったのではなく、本当の話であったということになる。どうやって潰すのかシナリオが分らなかったが、今日の事態を迎えて、なるほどこうやって潰すのかと感心させられている。奇人変人狂人と云われる小泉の心中はいかほどのものなのだろうかと推測したくなるが、各地に応援に出向いては演説で能天気な酔狂発言を繰り返し続けている。処置なしというべきだが、招く方も招く方と云うべきだろう。

 自民党内は結党以来、右から左まで、ハトからタカまで親米派から親ソ、親中、親台派まで、改憲派から護憲派までの寄り合い世帯を、派閥中心の合従連衡で政局運営してきた。政権派閥は、反目の派閥であろうが、将来の逸材を見出しては登用し経験を積ませる度量があった。それは、ある意味で日本政治の粋であったとも云えよう。

 小泉が、この仕組みをズタズタに切り裂いた。2004-5年の過程で、党内に郵政民営化一本槍の賛成か反対かを迫り、反対派を駆逐し、刺客を送り込んで徹底殲滅に乗り出した。それは、反目の派閥のみでなく自らの派閥まで対象とする残酷な党内レイプであった。反対派のある者は落選し、ある者は生き残り、そのうちのある者は国民新党を結成し、ある者は復党し、ある者は民主党に流れ、自民党内の再結束を決定的に困難にさせた。自民党内には、この怨讐が未だ続いており傷は予想以上に大きい。もはや党分裂不可避の局面に至っていると云えよう。ここまで亀裂を深めさせたのが小泉政治であり、「自民党をブっ潰す」を本当の公約にさせたことになる。自民党内ですら、この仕掛けを予想し得た者はいまい。それはまさに奇策であった。史書は恐らく、小泉政権をそういう意味で格別に評することになるだろう。

 これに時代が噛み合った。米国政界でブッシュ派ネオコンが退場を余儀なくされ、オバマ新大統領によるチェンジとイエス・ウィ・キャン時代が始まった。日本政治が、これに連動する。細川政変過程で、後に雲散霧消する幾多の政党が生まれた中で、民主党が次第に勢力を伸ばして行った。これに自由党が加わり厚みを増し、以来押せ押せムードに入った。これに郵政民営化騒動で生まれた国民新党が連動するようになった。更に社民が連なり、日本新党、大地党も共同戦線化した。かくて、日本政界は、自公与党と民主連合と共産党の三派に整序されるという分かり易い構図ができあがった。加えて、共産党が、都議選の敗北以来、我こそ真の野党論から建設的野党論に転換し、民主連合寄りにシフト替えすることになった。この野党津波が、自公ブロックに襲いかかり、政権交代必至局面を生みだしている。

 これにより間もなく、日本政界にこのところ久しくのさばっていた国際金融資本の走狗シオニスタン派が一掃されることになるだろう。これはまことに欣慶の至りである。日本政治は与党であれ野党であれ、民族派であれ国際派であれ、改憲派であれ護憲派であれ、国権派であれ民権派であれ、まずは日本の国家と民族と歴史を愛する者の手によって担われねばならない。この当たり前のことが永らく失われてきている。こたびの第45回2009衆院選は、当たり前の政治に戻す元年となるだろう。

 してみれば、民主連合の完膚なきまでの圧勝は、日本政治史上類例のない椿事と云うことになる。議会政治史の精華であり、総じて日本人民大衆の見識の高さを示すことになる。痛みに耐える我慢強い特徴を持つ日本人民大衆が怒った時、阿吽の呼吸でいかほどのことを為し得るのか、下手な暴力革命論者は尻尾を巻いて逃げださざるをえまい。それを間もなく見せられることになる。野党連合勝利のこの日は、100年に一度の珍事に相応しいお祭り騒ぎをするに値する。実にすばらしい。民主連合政権が権力をどのように扱い、政策を盛るのか、それを知らされるのはこれからである。一興とすべきだろう。

 それはさておき、第45回2009衆院選の最終局面のれんだいこ予想をしておく。自民は、解散前の303議席から110議席前後に凋落する。これを上回る場合には、劣勢を終盤で跳ね返したことになる。公明は、31議席から23議席前後に落ち込む。常勝の全員当選の夢が潰えるのは間違いない。自公合計で150議席に至らないことになる。解散前の334議席の半数以下ということになる。これは、麻生が悪いのではない。能力の無さよりも、小泉政治の尻拭いをさせられる身の気の毒を思う。

 民主は、解散前の112議席から290議席前後へと大躍進する。少なくとも倍増以上が間違いない。小選挙区での圧勝は、既に民主議員の能力の方が政権与党側のそれより上回っていることを示している。雌伏20年有余、悲願の美酒に酔うべしであろう。社民は、7議席から15議席前後に向かう。数字的には倍増するが、かっての黄金時代から考えると喜ぶほどのことではあるまい。国民は、5議席から10議席前後に倍増する。大健闘したと評されるべきだろう。こたびの民主連合の立役者であり、この党は政治の醍醐味を教えてくれる貴重な政党である。大地は1から2が予想される。北海道限定の政党であるが、国民新党同様に民主連合圧勝の立役者であり評されるに値する。日本新党は1から1、改革は1から0、みんなは2から2と予想できる。無所属は、平沼グルーフを含め6議席ほどを維持することになるだろう。

 共産は、9から7へと更にへこむ可能性がある。大方の予想は9から10としているが、そうはいくまい。仮にへこんだとしても、建設的野党論を捨てる必要はない。反省すべきは、我こそ真の野党論で長らく野党陣営を分裂させてきたことであり、漸く正規の軌道に乗ったと思えば良い。今後は、建設的野党論による是々非々活動の中味によって評価される日が来るであろう。それにしても、70年代の民主連合政権構想が変な形で生まれることになったもんだ。

 さて、こう予想して前祝いの祝杯を挙げに行くことにする。この予想がどれほど当たるか当たらないか、もう一度検討し直すことにする。歴史は面白いな、生きてて良かったな、もう少し長生きしてみたいなと思う次第である。さあて、あさって日曜日の夜にはテレビ漬けとなろう。高速道の無料化、ガソリン価格の低下の話は本当だろうな。少し気になるが、民主連合のお手並みを拝見しよう。


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Re::れんだいこのカンテラ時評597

2009-08-28 00:38:14 | たすけあい党

Re::れんだいこのカンテラ時評597 れんだいこ 2009/08/21 22:29

 【第45回衆院選、中盤情勢考】

 2009衆院選は8.18日公示され、小選挙区(定数300)に1139名、11の比例ブロック(定数180名)に868名(比例単独候補は235名)の計1374名が出馬している。小選挙区には自民289、民主271、公明8、共産152、社民31、国民9、みんな15、改革1、日本2、諸派293名が立候補している。

 序盤情勢は、民主党が都議選以来の勢いを持続しており、与党にとってただならぬ気配を見せている。選挙区では自民70議席前後、公明3、民主200議席前後、社民5、国民新5、日本0、共産0、無所属9見当が予想されていた。これに比例区票を加えると、与党170議席前後、野党310議席前後となり、与党が過半数の241議席を獲得するのは不能とのご託宣だった。

 公示後の8.21日現在の中盤戦に於いては、この動きが更に加速されつつある。民主は、優勢区をそのまま優勢に維持しつつ、競り合い区で抜け出し、劣勢区を競り合い区へと引き上げつつある。これまで自民の金城湯池となってきた常勝選挙区94が軒並み苦戦を強いられている。派閥幹部や大物議員まで揃って接戦を余儀なくされており、現職閣僚で議席獲得が確実気配なのは河村官房長官、小淵少子化担当相ら数人に止まる予想となっている。

 自民党にとっては特に小泉チルドレン問題が災いしている。比例区はさておき小選挙区に於ける小泉チルドレンはどいつもこいつも資質劣勢で使い物にならない。こたびの選挙では野党連合の食いごろにされている。強そうなのは郵政返り咲き組で健闘している。派閥では、津島派、古賀派が善戦している。しかし共に民主旋風により苦戦を強いられている。かくて自民の安泰的優勢区は指で数えられるほどしかない状況に至っている。公明も然りで選挙区での当選が覚束ない。公明党の場合、伝統的に比例重複を避けているので深刻な事態を迎えつつある。初めて一敗血にまみえるかもしれない。自公はひょっとして脳震盪を見舞われるかも知れない。

 してみれば、2005衆院選の小泉旋風の反作用的な、民主連合への追い風が吹きまくっていることになる。このままつつがなく投票日を迎えれば、まさに「投票一揆」が演ぜられるドラマが待ち受けている。実に痛快なことではなかろうか。巷の声は圧倒的に政権交代に傾いており、「ここは一つ民主にやらせ、ダメなら戻せば良い」とする国民的合意が形成されている。この合意は、政権党の悪政の長年の積み重ねから逆噴射的に自然次第に形成されてきたものであるからして、自公側にはこれに抗する妙薬がないというジレンマに陥っている。

 マスコミは、ふって湧いたものか意図的に引き起こされたものか分らないがノリピー問題、押雄問題、インフルエンザ問題を執拗に報道し、人民大衆の選挙熱を冷まそうと躍起になっている。しかし、日本人民大衆は、そうは馬鹿ではない。これまでの経験から、目くらましの術を見破りつつある。そういう訳で、マスコミを使っての陰陽動作戦もうまくいかない。つまりお手上げ状態になっている。

 かくて、日本政治史上初の「選挙を通じた政権交代と云う平和革命」が訪れようとしている。一体、誰が、この日を予見できただろうか。これを危ぶむ者がいるとするなら、れんだいこが反駁しておこう。君達の愚昧な頭脳による憂慮にも増して日本人民大衆の政治的センスの方が実は優れていることを示しており、何ら心配するに及ばない。それよりも強い者に巻かれろ式の言論提灯ばかりしてきた君達の失職がこれから始まる、覚悟しておけ。

 この事態の功労者は一体誰だろうか。れんだいこは、小沢采配もさることながら、蔭の功労者は国民新党ではないかとみている。これから述べるが、国民新党は、この功績により相応の評価を得るに値する。小選挙区の国民新党は全員受かるべきであり、比例区でも選ばれるが良かろう。玄人筋ならそう選択する。敢えて記しておく。

 もとへ。かの時、小泉郵政改革により自民党から弾きだされた郵政造反組の一部は俄か作りで国民新党を結成し選挙戦に臨んだ。何とか議席を持ちこたえた者もおれば苦汁をなめさせられた者もいる。選挙後すぐに気づいた。与党側が自公で共闘しているのに野党側が分裂していて勝てる訳がない、ここは一つ自民に対する公明の役割を我が党が引受けませう、民主を勝たせませうと割り切った。それについてはまず最低保証として次の選挙区をください、後の選挙区は推薦に廻りますと、どちらが持ちかけたかは分らぬが、そういう盟約を結んだ。この戦略に社民も乗った。かくて、民主を黄門様とする助さん、格さんによる野党連合が形成された。これに新党大地も日本新党も加わった。ここに勝利の方程式が生まれたように思う。

 これは何も難しい戦術ではない。当選者1名という小選挙区の仕組みを考えれば当然に生まれる判断である。これまでこの当たり前の協定ができなかった。してみれば、小泉の刺客騒動は、日本政治史上稀なるものであったが、思わぬ副産物を生んだことになる。その野党頭脳の貧困の程度に応じて与党はおごり高ぶった。小泉政治が、このおごり高ぶりの中で5年有余の長期政治となり、政権与党頭脳のお粗末さを嫌というほど見せつけた。何のことはない、現代世界を牛耳る国際金融資本の御用聞きに忠勤することにより御身を安泰にし、我が世の春を謳歌したに過ぎない。それにしても資質劣悪な者ばかりをよくぞ寄せたものではある。

 その化けの皮が剥げ、日本はいたるところで深刻な危機に見舞われている。小泉の自民党総裁選過程での絶叫「自民党をブっ潰す」は皮肉なことに結果的に本当のものとなり、「国民には痛みに耐えてもらう」も然りで、彼は自民党のみならず日本そのものを壊しレイプした。れんだいこが、狂人政治とみなす所以である。麻生は、小泉的狂人政治とは無縁であるが、今度はバカ殿政治に向かっている。景気立て直しも「上から目線」のものでしかなく、大判振る舞いによる財政悪化の咎めが待ち受けている。どこのコックをひねれば景気が良くなるか、税の自然増となるかの政治眼力はからきしない。漢字が読めない。国民が食傷する所以である。

 もはや自公政治ではどうにもならないのであり、民主連合政治がいかほどのものかは分らないものの、やらせてみるよりほかにないというのが人民大衆の政治眼力である。これはこれで素晴らしい。なぜなら、その通りであるからである。かくて、投票一揆が始まる。刻一刻とその日が迫りつつある。口元が緩む話ではないか。

 こういう歴史的遭遇に於いて、選挙に行かないようではつまらない。選挙速報で一喜一憂しても、やはり投票した身でないとつまらない。これはれんだいこの経験則である。確か、れんだいこの投票始まりは、去る昔のアントニオ猪木の「国会を卍がため」又は「国会を延髄切り」から始まった。あれから皆勤の癖がついてしまったが、世の中何が幸いするか分らないということになる。こたびは空前の投票率になりそうである。現代の若者はどう反応するだろうか。歴史的な政治の流れを受け止めてもらいたいと思う。以上を、れんだいこの2009衆院選中盤予想とする。

 2009.8.21日 れんだいこ拝


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