原発再稼働に向けての茶番を演じる利権亡者たち
3月11日の大震災で東電福島第一原子力発電所が人類史上最悪レベルの放射能災害を引き起こした。幸い、これまでのところ原子炉格納容器を吹き飛ばす核爆発が発生しなかったため、被害は相対的には軽微に留まっているが、これは偶然による結果であって、事故の過程で大規模な各爆発が発生した可能性は十分に存在した。
事故発生は地震と津波によるものだが、福島原発地点の地震規模は決して「異常に巨大な」ものではなかった。津波は「巨大」ではあったが、過去に事例が残されており、「異常に巨大な」規模のものではなかった。
政府と東電は、これまで絶対安全神話を掲げて原発事業を実行してきた。
ところが事故は発生した。
そしていま、事故原因を究明するべく事故調査委員会が活動を開始したところである。
ところが、海江田経済産業大臣は、6月18日に全国の原発の再稼働を求める要請を出した。
狂気の沙汰としか言いようがない。
さらに驚くべきことは、エネルギー政策を白紙に戻して再検討すると公言している菅直人氏が、直ちに海江田経産相の発言を支持したことだ。
日本における原子力利用は米国が持ち込んだものだ。米国の原子力産業とウラン鉱山保有者が販売先を求め、米ソの冷戦構造のなかで米国が核競争に邁進するなかで、日本に対しては、米国の監視下で日本が原子力を利用することを米国が強制したのだ。
その手先として活用されたのが、米国のエージェントと見られる正力松太郎氏と中曽根康弘氏である。
日本国内の政官業学電にとって、原子力利用は麻薬だった。広大な土地、巨大な工事、巨大なプラント、膨大なメンテナンス業務、研究開発は、日本国内の政官業学電に巨大な資金を投下するものだった。
さらに、電源三法は、地元自治体に法外な資金を投下してきた。
この巨大なカネに、すべての関係者が擦り寄ってきたのである。
この巨大なカネの力なくして、原発は推進されるはずはなかった。
本当に原発が安全なら、東京に原発を建設すればよいのだ。
重大な原発事故が発生しても、政府閣僚も、東電幹部も、原子力保安・安全院のスタッフも、誰一人として福島原発の現場で対応を続けた者はいない。
福島の大地、空気、地下水、河川水、海洋水は著しく汚染された。深刻な問題がいまなお広がっている。
この状況下で、何を根拠に「安全宣言」を示すことができるというのか。
電力会社の株主総会で「脱原発」の議案が否決されたことをメディアは大きく取り上げているが、株主総会前に、執行部が利権複合体の株主の委任状を取っているのだから、否決は当たり前である。
これだけの事故が発生し、人類の存続をも脅かしかねない事態が発生したにもかかわらず、原発推進に再び突進を始めた現実を、日本国民はどのように受け止めるのか。
「長いものには巻かれろ」なのか。「お上には口を差し挟まない」なのか。「人類が滅亡しようと、子孫を放射能漬けにしても構わない」ということなのか。
地元の町長が原発再稼働を容認するのは、カネのためでしかない。地元の知事が原発再稼働を容認するのも、カネのためでしかない。
どうして、カネのことしか考えない政治から、一歩身を引こうとしないのか。
海江田氏にしても、経済産業大臣のポストまで獲得して、そのうえ、まだ何かの物欲にとりつかれる理由でもあるのか。
2009年8月に政権交代を実現し、政官業のしがらみにとりつかれた日本の政治を、国民目線で一新することを目指したのではなかったのか。
「絶対安全神話」が崩壊し、人類滅亡のリスクが表面化した以上、日本全国のすべての原発について、万が一にも、事故が生じないことを確認できるまでは、運転を中止するのが当然の対応であるはずだ。
電力が足りなくなるなら、足りないなりの生活に転換すれば良いだけのことだ。電力利用を中止して差支えのない部分は、広大に存在する。
フジテレビのBS放送が、毎日午後8時から政治番組を放送しているが、出演者がネクタイ、背広を着込んで、涼しげな様子で節電を論じるさまは、コメディーとしか言いようがない。スタジオは煌々とライトアップされ、この状況で節電を呼び掛けるのは、暑さのせいで脳をやられてしまっているということだろうか。
テレビ番組など、ほとんどは不要のものばかりだ。不要だからといって、片端からなくしてしまえば重大な雇用問題が発生するが、これからの時代は、エネルギーを消費しない分野で雇用拡大を図ってゆく必要がある。
佐賀で原発を再稼働させてしまえば、ひとつの流れができる。ここまで、利権複合体は必死に暴走してしまおうということなのだろう。
脱原発を決断すれば、原発村の事業は、根本から見直さなければならなくなる。それは、たしかに、関連産業に大きな影響を与えるだろう。しかし、いま、日本国民が考えなければならないことは、原発利用を今後も継続してゆくべきであるのか、それとも、原発利用から脱却してゆくべきであるのかという、まさに、未来への分岐点上のもっとも重大な選択の機会を得たということなのだ。
巨大利権が存在するから、あるいは、巨大ビジネスであるから、ということだけでは、核利用を継続してゆくことの十分な理由には成り得ない。
地元の利権関係者が原発を受け入れようとするのは、電源三法による巨大な資金流入があるからでしかない。カネで頬を叩いて、誰もが忌み嫌う原発を押し付けているだけではないか。
カネのためなら何でもOKということなのか。
カネのためなら、将来の日本国民に大量の放射性物質を押し付けて構わないということなのか。
世の中には、カネの力だけで解決してはならないことがらがたくさんある。核利用の是非も、カネの力で解決を図る問題ではない。
一度、電源三法を棚上げにして、そのうえで、地元自治体が、それでも原発賛成に回るのかどうか、確かめるべきである。
一連のことがらは、この国の政治が「利権」だけを軸に回っていることの証しである。このような政治を排して、利権にとらわれない、主権者国民の利益を軸に動く政治を確立しようというのが、政権交代の、最大の目的だったのではないか。
利権を軸に回る政治を刷新するには、政治を取り巻く資金の流れを清冽にしなければならない。だからこそ、政治献金の全面禁止が求められるのだ。
政治家の仕事が利権に絡むことを阻止する制度の構築が不可欠なのだ。
経産大臣の原発再稼働要請、地元首長の再稼働容認、電力会社株主総会での「脱原発」決議案否決、これらのすべてが茶番である。
この茶番を容認してしまうのかどうかは、国民の矜持の問題だ。
このまま原発推進が強行されるというなら、「脱原発」の是非を問う総選挙が実施される方が、はるかに、この国の未来のためには好ましい。
国民が核利用を選択するなら、それに伴う弊害は、国民自身の選択による自己責任ということになる。
しかし、財政論議で常に用いられる、「子や孫の世代に負担を押し付けられない」のフレーズが、核利用に際しては一向に聞かれない。
地球は人間だけのものではない。現在を生きる人間だけのものでもない。核使用は、生命体としての地球の根本原理に反しているのだ。核使用は「人道に対する罪」である。国民の力で、必ず「脱原発」の方針を樹立してゆかねばならない。