腐敗検察の横暴・暴走を断ち切らねばならない
検察の暴走が続いている。
昨年の「三.三事変」、本年の「一.一五事変」により、検察の暴走、政治権力による検察権力の不正利用が誰の目にも明らかになった。
「三.三事変」は政権交代の是非を問う決戦の総選挙を目前にした時期に、野党党首を狙い撃ちにした政治謀略であった。何よりの証左は、結局検察が立件した事案が、通常は収支報告書の修正で済まされるような、重箱の隅をつつくような瑣末な問題だったことだ。
逮捕、起訴された大久保隆規氏は政治資金規正法の条文に忠実に、報告書に献金を受けた二つの政治団体名を記載して報告した。ところが、東京痴犬地検
特捜部は、これを「虚偽記載」だと因縁をつけた。二つの団体が「架空団体」だとして、大久保氏の報告を「虚偽記載」だとの理由で犯罪に仕立て上げた。
ところが、公判で西松建設元総務部長が、大久保氏に二つの政治団体には実体があることを示す説明をしていたことを証言した。二つの政治団体は事務所も保有し、実体的な活動も行っていたのであり、客観的に見て「架空団体」とは言えない存在であった。
したがって、大久保氏の無罪は決定的であり、東京痴犬地検は、無実の人間に罪を着せて逮捕、勾留し、公判請求したことになる可能性が高い。
もっとも日本の場合、裁判所も不正機関の一角を占めており、東京地裁が不正判決を下す可能性が無いとは言えないわけだが、法律を客観的に判断する限り、大久保氏の行動は合法的であることがはっきりしたのである。
日本のような国においては、裁判所の判断についても相対化して評価する必要がある。裁判所自身が歪んでいれば、判決も歪むのである。有罪の判決が、罪が本当に存在したことの絶対的な根拠にはなり得ないのだ。
本年の「一.一五事変」も検察の暴走の上塗りである可能性が高い。検察は犯罪行為である国家公務員の守秘義務違反の犯罪を重ねながら、無実の人間の人権を侵害する犯人視報道を助長した。検察と結託するマスゴミは、土石流のように小沢一郎氏に対する誹謗・中傷を繰り返した。
検察は仰々しく家宅捜索を繰り返したが、結局、小沢一郎氏に対する攻撃で白旗を上げざるを得なくなった。暴走する検察は大敗北のうえに大敗北を重ねたのである。
民主党議員のなかに、検察をはじめとする公権力に対して市民がどのように対応するべきか、市民に対する検察などの公権力の行使に対して、どのように間合いを取るべきかを、完全にはき違えている者が存在する。由々しきことだ。
「日本国憲法が保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利」であるとの日本国憲法の規定を知らない恐るべき無知の人間が民主党に存在することになる。
検察が権力を行使したからといって、それだけで罪が確定するわけでない。刑事捜査に代表される市民に対する公権力の行使こそ、人権擁護の視点からは、市民が「権力に対して」監視の目を光らせなければならない事項である。
検察の権力行使について、権力が適正に行使されたのか、権力行使に際して人権が不当に侵害されていないかに、強い監視の目を光らせることが市民を代表する代議士の責務である。
民主党の前原誠司氏、渡部恒三氏、枝野幸男氏などは、検察を絶対視する発言を繰り返している。このような検察絶対視の姿勢が悲惨な冤罪事案などの重大な人権侵害問題を引き起こす最大の背景である。
石川知裕氏が逮捕、起訴されたが、検察の「虚偽記載」の主張に説得力はない。小沢一郎氏による一時的な資金立て替えとその返済を収支報告書に記載しなかったこと、不動産取得時期を登記のタイミングに合わせて報告書に記載したことなどは収支報告の修正で処理すべきことで、犯罪としての立件に正当性はない。
「一.一五事変」も検察暴走による巨大な政治謀略である疑いが一段と濃厚になっている。
これらの事案の対極にあるのが検察の裏金疑惑である。国民の血税が検察ぐるみで組織的に横領されていた疑惑である。この疑惑封殺のために、検察最高幹部が小泉政権と不正取引したことを三井環氏が「けもの道」と表現している。
検察首脳が後藤田法務大臣を訪問して「けもの道」取引を実行したことを、三井氏は具体的にかつ実名で告発している。「けもの道」以降、検察は自民党政権の狗(いぬ)として行動してきた疑いが濃厚である。
私は2月8日に、
「腐敗した検察もう一つの重大犯罪と全面可視化」
と題する記事を掲載した。
「三.三事変」、「一.一五事変」に加えて、もうひとつの検察大暴走が白日の下に晒され始めている。
虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われた元厚生労働省局長村木厚子氏の事件である。2月に入ってこの事件の公判が集中して開かれているが、検察の暴走、歪んだ犯罪ねつ造の実態が次々と明らかにされている。
村木氏の元上司の塩田元部長は、村木氏の被疑事実について「すべて壮大な虚構」と証言。起訴された上村氏の前任者である村松係長も「村木さんは冤罪と思う」と発言している。
2月24日の第8回公判では上村氏が証言し、村木氏について「当時企画課長でお顔は知っていたが、仕事の話をしたことは無い」と村木氏から指示を受けていないことを明確に述べた。
上村氏は、「取り調べで、誰からも指示されず、自分一人でやったと伝えたが、検事が調書に入れてくれなかった。村木被告とのやり取りはでっちあげで、検事の作文だ」と明言した。
また、偽証明書を村木被告に手渡したとする検察側主張についても「再逮捕をちらつかされ、耐え切れなくなって認めた。村木被告には渡していない」と述べた。
公判では弁護側が、上村氏が取り調べ期間中に記述した被疑者ノートに基づいて証人尋問を行ったが、ノートには「調書の修正はあきらめた」、「冤罪はこうして作られるのかな」などの記述があることが明らかにされた。
私は1月28日に、
「検察官が「勝手に」作成する聴取調書作成実態」
と題する記事を掲載したが、裁判に証拠として提出される「供述調書」というものが、「供述調書」の名称とはかけ離れたものであることを私たちは十分に知らなければならない。
上村氏が法廷で述べた、「調書の修正はあきらめた」の発言を一般の人々は奇異に感じるだろう。自分の供述調書について、なぜ「修正をあきらめる」のかと。
ここには重大なシステム上の問題がある。
「供述調書」と言っても、被疑者が供述したことを記録する調書ではないのである。検察官が「勝手に作成する文章」なのだ。
調書作成の最後に署名、押印がある。ここで納得しなければ署名と押印をしなければ良いのだが、それはあくまでも理論上の話である。
検察官が大声を張り上げ、机をたたきまくるなかで、署名も押印も完全に拒絶することは至難の業である。
検察官は必ず「恐喝」的な手法を採用する。拒絶すれば相手を地獄に突き落とすことを、手を変え品を変えて叫ぶのである。
被疑者が調書に記載された内容に異議を唱えると、被疑者が供述調書の内容の「修正」を求めたとして調書に追加される。つまり、当初の内容を被疑者自身が発言したとの前提のうえで、その供述内容の修正を被疑者が申し出たとして記録が残されるのだ。
弁護士が的確に指導して、調書作成において、一切の妥協をしてはならないとの強力な助言を行えば、意志を貫くことも可能である。しかし、一般的には十分に的確な指導を行う弁護士は多くない。
小沢一郎氏が検察の事情聴取に応じた際、当初「秘書が勝手にやったこと」と供述したが、その後に「もう少し穏やかな表現に改めてほしい」と述べたかのように報道された。
これも、まったく同じトリックによるものと考えられる。小沢氏は「秘書が勝手にやったこと」などとは一切発言していないのだ。検事が勝手に「秘書が勝手にやったこと」と作文したことに対して、小沢氏が「そのようなことを言っていない」と発言しただけだろう。
村木氏の事件でも、検察の犯罪ねつ造の手口が手に取るように伝わってくる。
私は日本の警察・検察には法外な裁量権が付与されていると述べてきた。裁量権とは、
①犯罪事実が存在しても不問に付す裁量権、
と
②犯罪事実が存在しなくても犯罪を作りだし無実の罪を着せる裁量権
である。
上村氏は、「冤罪はこうして作られるのかな」と被疑者ノートに記載したそうだが、冤罪は誰にも見えない密室の取調室において、警察や検察によって作りだされるものなのだ。
日本のように取り調べの様子が第三者からうかがい知れない「密室」で長期間行われるのは先進国では例外的で、多くの国では、取り調べの全過程録音・録画(可視化)や弁護人の立ち会いが導入されている。
日弁連の調査によると、英国やイタリア、オーストラリア、韓国、台湾と米国の一部州で、可視化と弁護人立ち会いの両方が認められ、フランス、ドイツ、モンゴルでは弁護人が立ち会える。
検察の暴走を止め、市民の基本的人権を擁護するには、取り調べの全面可視化と取り調べに際しての弁護士の立ち会い容認が絶対に不可欠である。鳩山政権は取り調べ過程の全面可視化法案を今次通常国会に提出し、参院選の重要争点のひとつとするべきだ。