知性的自覚と霊性的自覚との相違は,一方では対照的・分別的・能所的であるが、他方では即非の論理の上に立つのである。同じ鐘の声を聞いてこれを鐘の声であると意識するとき、知性的でも感性的でも、対象世界観以上に出ないのですが、霊性面にそれが映ってくると、宇宙が直ちに一つの鐘の音となるのです。『寒時には闍梨を寒殺し、熱時には闍梨を熱殺する』のです。雨は誰の上にも降る、禍は、悲しみは、誰の上にも襲ってくる。達人は不昧因果でそれに徹底する、而してその徹底の事実を霊性的に自覚し得るのでる。これが不昧因果の不落因果である。彼は宇宙を通して現はれる神意の認覚者となったのです。(運命と一体となるといっても実際には苦が来れば苦しみます。禅はあまりにも理論的すぎる気もします。これにくらべて密教のほうは覚れないために個別に苦しんでいるものをも救うという優しさがある気もします。)
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