小善も世の中に無限の功徳を生むこと
- 毎朝伝授された或る秘法を修して二十年くらいになります。この中に「行者の三密の加持力により衆生を仏の位にする」という趣旨の部分があります。最近までは「皆さんが幸せになりますように」という気持ちのみで修していました。
- しかしよくよく考えると、「三密の加持力により」ということは身口意の三密を仏と同じにするということですから十善戒を守っていてもこれは達成できるわけです。つまり十善戒を守れば人々を幸せにできるということです。
- いままでは戒律は自身を守るものと思っていましたが実は戒はとんでもない功徳を生じるものであるのかもしれないと思った次第です。
- このことを敷衍すると山中で修行しておられる行者さんも実は世間に対してすばらしい功徳を生じてくださっていることになります。千日回峰行などでも信者さんが信心講などを造ってこういう行者の行を守っておられるのも単に行が自利の為でなく世間への利他の力を持っていると感じているからではないかと思います。山の修行より里の修行などともいいますが山の修行も大変な功徳を生じているのです。
- これをさらに敷衍すると「俗人の小善」でもその効果は他者にも及び世の中に対するおおきな功徳となるということでもあろうかと思います。
「法句經第十七惡行品二十二章」に「小善を軽んずること莫れ、 以って無福なりといえども水が微なりといえども漸く大器を盈すがごとく 凡そ福は充滿す・・」とあり、「大智度論」に「人ありて常に天を供養するがごときは其人貧窮なるも一心に供養して十二歳に満ち富貴を求索するに天は此人をあわれんで自ら其身を現じ之に問うて曰く、「汝何等をか求む」答て言く「我富貴を求む。心の所願をして一切皆得ならしめんと欲す」と。天、一器をあたふ。名て曰く徳瓶と。而して之に語りて言く、「所須うる所の物は此瓶より出ず」と。其人得已って應に意の欲するところに応じて得ざるところなく、如意なることを已って具に好舍・象馬・車乘を作り、七寶具足し、賓客に供給するに事事乏しきことなし。客之に問うて言く、「汝先に貧窮なりき。今日何に由って此のごとき富をうるや」と。答言「我天瓶を得、瓶能く此の種種の衆物を出す故に富如是なり」。とあるのも小善の功徳は世間に効果を及ぼすことを示唆していると思われます。