これ正純密教の立場からすると精神と物質は一如であり、内と外とは不二のものなるが故である。元来、毒蛇もしくはこれに類する種々の災厄を治すための明呪を孔雀明王と名ずくることは、これこの孔雀明王が蛇を捕食するものなるがゆえである。それが「大孔雀本生物語」などを経て、太陽崇拝と関連し、特に太陽を以って金羽鳥とするヴェーダ思想などに影響され、金羽鳥なる金色の孔雀明王そのままが太陽と同一視さられ惹いては太陽に其の名を得たる大日如来としての金輪佛頂と同体といふことになってきたのである。
これを西蔵の畫像に徴するに、吉祥菓の外に金輪や白傘蓋等を執持せる八臂の孔雀明王があり、亮尊の『白宝抄』によると・・・孔雀明王は一字金輪と同体の義なりといっておる。
この金色孔雀明王がただちに太陽と同視せらるるのみでなく、更に進んで、佛頂尊と合一したる所以如何といふに、これこの佛頂が種々の光明の根源として全く太陽に類似するが故であるらしい。・・これによりてこれをかんがふるに密教における孔雀明王はただ呪力そのものとしての明王でなく、これがそのまま一切を照らし一切を生かす根本佛としての大日如来であり、すなわち内外一体、自他一如の実相世界たる曼荼羅境地に君臨したまふ天王尊であり、金輪聖王であり、佛頂の如くに最勝最尊の佛としてこれを尊崇し供養するのである。
さればこそこの真言の如きも「おん、まゆら、ぎらんでい、そわか」の真言を以ってするのである。すなはち「ありとあらゆる如何なるものもそれに違越し超越することのできない最尊最勝の孔雀明王よ」といふ真言なのである。・・これを要するに、普通の『孔雀明王呪経』そのものとしては一種の鬼神崇拝、呪力信仰の外ないのであるけれども正純密教の思想を通ずることによってのみそれが浄化され精神化され、自他不二、物心一如の曼荼羅境地たる理想国家をこの土の上に建設するための護国経典といふことになるのである。・・
これを西蔵の畫像に徴するに、吉祥菓の外に金輪や白傘蓋等を執持せる八臂の孔雀明王があり、亮尊の『白宝抄』によると・・・孔雀明王は一字金輪と同体の義なりといっておる。
この金色孔雀明王がただちに太陽と同視せらるるのみでなく、更に進んで、佛頂尊と合一したる所以如何といふに、これこの佛頂が種々の光明の根源として全く太陽に類似するが故であるらしい。・・これによりてこれをかんがふるに密教における孔雀明王はただ呪力そのものとしての明王でなく、これがそのまま一切を照らし一切を生かす根本佛としての大日如来であり、すなわち内外一体、自他一如の実相世界たる曼荼羅境地に君臨したまふ天王尊であり、金輪聖王であり、佛頂の如くに最勝最尊の佛としてこれを尊崇し供養するのである。
さればこそこの真言の如きも「おん、まゆら、ぎらんでい、そわか」の真言を以ってするのである。すなはち「ありとあらゆる如何なるものもそれに違越し超越することのできない最尊最勝の孔雀明王よ」といふ真言なのである。・・これを要するに、普通の『孔雀明王呪経』そのものとしては一種の鬼神崇拝、呪力信仰の外ないのであるけれども正純密教の思想を通ずることによってのみそれが浄化され精神化され、自他不二、物心一如の曼荼羅境地たる理想国家をこの土の上に建設するための護国経典といふことになるのである。・・