「第廿六番常州清瀧
干立の國筑波郡小野村南明山清瀧寺は筑波権現降遊の砌、行基大士艸創の地なり。本尊聖観世音菩薩、御長丈六、おなじく開山大士の彫像。今の堂地中興のことは花山法王御叡慮なり。
・清瀧寺の北背に筑波根につずく山あり。土俗これを小野山と称す。山の高さ一里半余、東西はながく南北は狭し。このゆえにまた布引山といふ。當初筑波二柱神諸神をひきて此に遊び、しきりに渇の意地(ここち)したまふにもとより地勢乾燥にしてかって水を求むるによしなし。ここにおいて去來諾の尊(いざなぎのみこと)天の鉾をもちて山を突きたまへばたちまち地裂けて清水湧出し、流れて流れて南北へ漲り落る。二神諸神これをよろこびて、雌神は瀧口の北に立ち、雄神は瀧の南に立ちたまふ。・・・千歳の後にいたり、行基大士此処に浄刹をはじめ、南明山清瀧寺と号す。・・一時漲落る瀧の中に大悲の聖容彷彿として見えたまふ。すなわち大士感見の霊容を模しててずから丈六の形像をつくり山頂の滝口に就いて安置したまふ。これ清瀧寺艸創の因縁なり。ここより土人大悲水と号し、競来て此れを飲此れに浴するに必ず疾病を治し災厄を祓ふ。
行基大士開基の後、二百七十余歳を経て、花山法王御巡礼の時、此の霊場の因縁を聞こし召されかかる険阻の山頂にありては老若の結縁普く及ばずと。御堂を山の麓へ移したまふ。これなお大悲者の内鑑に叶ひ、じつに永世の大利益なり。
巡礼詠歌
我心今よりのちは濁らじな清瀧寺へ参る身なれば
この歌の意、按ずるに法華の一称南無佛皆以成佛道の文は微善も捨てたまわざる佛の大悲なり。凡人佛縁にあいて善心をおこすまでを佛は優曇華、盲亀にたとえたまふ。今此清瀧寺は詣るものは己造の罪を消滅すれば未作の悪意はなお不起。後世清浄土の身となる故に、わがこころ今より後は濁らずといふ。妄想の垢を大悲の清瀧にて洗ひ、菩提の心水澄彌りて佛日の影を現ずる也。なおまた唯心の弥陀、己身の浄土の意あり。古歌に浮草をかきわけみれば水の月、ここにありとは誰かしるべき。・・・
干立の國筑波郡小野村南明山清瀧寺は筑波権現降遊の砌、行基大士艸創の地なり。本尊聖観世音菩薩、御長丈六、おなじく開山大士の彫像。今の堂地中興のことは花山法王御叡慮なり。
・清瀧寺の北背に筑波根につずく山あり。土俗これを小野山と称す。山の高さ一里半余、東西はながく南北は狭し。このゆえにまた布引山といふ。當初筑波二柱神諸神をひきて此に遊び、しきりに渇の意地(ここち)したまふにもとより地勢乾燥にしてかって水を求むるによしなし。ここにおいて去來諾の尊(いざなぎのみこと)天の鉾をもちて山を突きたまへばたちまち地裂けて清水湧出し、流れて流れて南北へ漲り落る。二神諸神これをよろこびて、雌神は瀧口の北に立ち、雄神は瀧の南に立ちたまふ。・・・千歳の後にいたり、行基大士此処に浄刹をはじめ、南明山清瀧寺と号す。・・一時漲落る瀧の中に大悲の聖容彷彿として見えたまふ。すなわち大士感見の霊容を模しててずから丈六の形像をつくり山頂の滝口に就いて安置したまふ。これ清瀧寺艸創の因縁なり。ここより土人大悲水と号し、競来て此れを飲此れに浴するに必ず疾病を治し災厄を祓ふ。
行基大士開基の後、二百七十余歳を経て、花山法王御巡礼の時、此の霊場の因縁を聞こし召されかかる険阻の山頂にありては老若の結縁普く及ばずと。御堂を山の麓へ移したまふ。これなお大悲者の内鑑に叶ひ、じつに永世の大利益なり。
巡礼詠歌
我心今よりのちは濁らじな清瀧寺へ参る身なれば
この歌の意、按ずるに法華の一称南無佛皆以成佛道の文は微善も捨てたまわざる佛の大悲なり。凡人佛縁にあいて善心をおこすまでを佛は優曇華、盲亀にたとえたまふ。今此清瀧寺は詣るものは己造の罪を消滅すれば未作の悪意はなお不起。後世清浄土の身となる故に、わがこころ今より後は濁らずといふ。妄想の垢を大悲の清瀧にて洗ひ、菩提の心水澄彌りて佛日の影を現ずる也。なおまた唯心の弥陀、己身の浄土の意あり。古歌に浮草をかきわけみれば水の月、ここにありとは誰かしるべき。・・・