67番大興寺は雲辺寺から約十二㌔下です。遍路宿・青空屋からは五キロくらいでしょうか。青空屋からはあっという間につきます。67番大興寺ご詠歌は 「うゑおきし こまつをでら ながむれば のりのおしへの かぜぞふきぬる」です。この「こまつおでら」というのは 67番大興寺の山号小松尾山からきています。
縁起によれば、弘仁十三年(八二二)嵯峨天皇の勅命で弘法大師が熊野三所権現鏡護の霊場として開創、ご本尊の薬師如来を彫刻して安置されたそうです。後に真言、天台の二宗によって管理され、真言が二十四坊、天台は十二坊あって本堂の左右に真言、天台の大師堂があったといいます。その後天正の兵火で本堂を残して他の堂塔を焼失し、慶長年間に再建されています。仁王門より、大師お手植えの楠と榧の老樹を見ながら石段を登ると正面の本堂です。
仁王門は八百屋お七の父か恋人の吉三のいずれかが、お七の菩提を弔うために遍路となり、その途中に寄進したとも伝えられるものです。
最初の遍路の時は、夜明け前に降っていた雨もお経を読んでいる間にすっかり上がりすがすがしい朝になりました。ここでも早朝だれもいない境内でお大師様のありがたさがひしひしと感ぜられ感涙にむせびました。
縁起によれば、弘仁十三年(八二二)嵯峨天皇の勅命で弘法大師が熊野三所権現鏡護の霊場として開創、ご本尊の薬師如来を彫刻して安置されたそうです。後に真言、天台の二宗によって管理され、真言が二十四坊、天台は十二坊あって本堂の左右に真言、天台の大師堂があったといいます。その後天正の兵火で本堂を残して他の堂塔を焼失し、慶長年間に再建されています。仁王門より、大師お手植えの楠と榧の老樹を見ながら石段を登ると正面の本堂です。
仁王門は八百屋お七の父か恋人の吉三のいずれかが、お七の菩提を弔うために遍路となり、その途中に寄進したとも伝えられるものです。
最初の遍路の時は、夜明け前に降っていた雨もお経を読んでいる間にすっかり上がりすがすがしい朝になりました。ここでも早朝だれもいない境内でお大師様のありがたさがひしひしと感ぜられ感涙にむせびました。