福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その102

2014-08-10 | 四国八十八所の霊験
67番大興寺から68番神恵院と69番観音寺迄の道のりは宿の人が「すぐですよ」というので一時間位の つもりで歩きましたがいつまでたっても着きません。
途中何度も道を間違えたと不安に思いましたが、人通りがなくて、聞けませんでした。結局 3時間かかりました。よく考えると11kmあるのですからかかるのは当たり前です。物事油断してとりかかっては駄目だということでしょう。2回目は前回のことがあるので緊張して歩きました。しかし2回目も同じように迷って長く感じました。特に観音寺市街に入ってからが長いのです。2回目のときも市街で何度も道を聞きました。


68番神恵院・69番観音寺へいくには財田川を渡って右にいくように標識がありますが、琴弾公園の銭型をみてから行くほうがおすすめです。公園は橋を渡ったところで左に曲がり琴弾八幡宮の鳥居の前をとおります。

琴弾八幡宮の横を少しのぼったところが琴弾公園の展望台でここから銭型が一望できます。 これは家光の名代として丸亀藩主生駒高俊が視察にくるのを地元民が歓迎のためつくったものとされます。


琴弾公園の展望台から68番69番の裏山におりることができます。68番神恵院も69番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹、同じ境内にあります。
68番神恵院の開基は法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で上人が修行中、宇佐八幡宮のお告げで、海上で神功皇后ゆかりの神船と琴を発見して琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りし、このとき、神宮寺として建てられた寺が68番神恵院の起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「神恵院」とし、68番霊場とされています。69番観音寺のご本尊は大師が神功皇后は観世音の生まれ変わりとして聖観音菩薩を刻まれ中腹に七宝山観音寺をおつくりになり安置されたということです。しかし、澄禅「四国遍路日記」は江戸初期に成立していますがここにはまだ「六十八番、八幡宮、南向き、本地阿弥陀如来」とあります。

その後、明治初年の神仏分離令で八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は観音寺境内に移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も西金堂に遷座。以降、「神恵院」は西金堂(2002年に新築)を本堂にして阿弥陀如来像を本尊として今に至っています。
余談ですがこの神功皇后のころのことは非常に興味をそそられます。日本書紀、八幡愚童記等には、仲哀天皇の后である神功皇后が、天皇が急死した後も、住吉大神の神託により、お腹に子供を宿したまま海を渡って三韓征伐に出兵し、新羅を降服させて朝貢を誓わせ、高句麗・百済も朝貢を約したという物語が記されています。琴弾八幡宮の祭神も他の八幡神社と同じく、応神天皇・玉依姫命(神武天皇の母)・神功皇后(応神天皇の母)の三神を祀っています。 神功皇后は三韓征伐のとき瀬戸内海を通ったとされますから此の神社もそのときのとおりみちであったのでしょう。)古来から、日本人は外国の脅威を忘れないように祭神に三韓征伐をした神功皇后を祀り八幡宮を全国に作ったのではないかと思います。
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