18番から19番立江寺までは4キロです。17年のときは、途中狭い道筋でライトバンが私の前に止まりました。初老の男の人が降りてきて、「お接待させて欲しい」といいます。運転席には初老の女性が、後ろには若い男性が乗っています。私はつかれていたので次の札所まで接待で乗せていただけるのかと勝手に思い込みそれでも「歩いているのでいいです」といいましたが何か様子が違います。どうも乗せてやると云っているのではなさそうでした。
そのうち後ろの席にいた青年が降りてたどたどしい足取りでパンとジュースを持ってきてくれました。
父親らしい男の人は「この子が生まれる時に、難産で頭を産道で圧迫されて知恵遅れになりました。四国を回れないのでこうしてお遍路さんに親子三人でお接待してます。」というのです。 わたしはわれながら早とちりを恥ずかしくなりましたがそれでも気を取り直し、錫杖でこの人の頭を加持してあげ「よくなりますよ」と思わず言ってしまいました。しかしこの青年は必ずしも満足した様子ではありませんでした。ご本人は手で直接頭にさわってほしかったようです。こちらの自身のなさも見抜いているかのようでした。父親のほうは「この子は今必ずしも機嫌よくはなっていません。もとしっかり加持してください。」と青年の気持ちを代弁されました。私は自信のないまま何度か錫杖で加持しましたが、気持ちを汲んで、手で直接触ってあげるべきだったと後で後悔しました。
ご両親とも白髪になっており青年の行く末を案じていることは痛いほど良く分かりました。死んでも死に切れぬ思いでこうして遍路に次々とお接待をしておられるのでしょう。
白髪の母親を見てなぜか中川宋淵禅師の「たらちねの生まれる前のうすあかり」という句が思い出されました。この苦悩を生じた原因の原因の原因と原因を次々と、どこまでもどこまでも辿っていくとついに空空寂幕とした、でも何か明るい世界があるということでしょうか。現在の苦も永遠に続くものではなくまさに空です。
しかし一茶も幼な子をつぎつぎと亡くして詠んだように「露の世は露の世ながらさりながら」です。この方々のことを、88箇所の最後までお祈りしました。同時にこういう人々を助ける力が欲しいと改めて強く思いました。
「日本仏教学会年報 通号 64」には「共生の関係論、高石伸人」という論文がありました。一部引用します。
「今まで私たちは障害や病気を体の一部が損傷されること,正常でなくなることと考えてきたのではなかろうか。そうではなく「病気や障害はその人に何かが欠けていることではなく何かをもたらしている」のではないか。・・
Ⅰ、多様性、一人一人の個としての差異の世界を分らせてくれる。まさに障害者一般などとはとても括れない個別性に満ちていて
2、人はそう簡単には分らないということを分らせてくれる。交換(感)不可能ということから尊厳性という世界が立ち上ってくる。
3、、ゴールとは何か、どこにあるかを立ち止まって考えさせてくれる。彼らはとても地位や名誉や金銭などといった安手のゴールには収まってくれない。
4、今日的価値に対抗している。「早く・ゆっくり」「しっかり・ぶらぶら」「がんばる・ぼちぼち」「わすれない・わすれることもある」等。「無形態、無方向、無時間性、無用性、無効性、無力性、無限性、非日常性、非現実性,誌的世界」を生きているともいえる。
5、競争より助け合うことに関心が深い。「智慧遅れの人たちはお互いに競争するより助け合いたいのです。スタイデル八重子氏」
6、居心地よい関係をもたらしてくれる。かれらはいつも自然体であり、ユーモアに充ちていて、そのぬくもりが辺りの空気を柔らかく包む。
7、「いのち」の平等性について考えさせてくれる。彼らのシンプルさを真似て私たちの身に貼り付いたものを剥ぎ取っていけばその芯にある「いのち」に突き当たる。何とも豊かさに充ちた世界がここにある。・・つまり彼らは「智慧遅れ=悪智慧遅れ」を生きることでわれわれにもう一つの価値を教えてくれる。すなわち「智慧遅れ」の世界から照射されることで私たちの依って立つ価値が如何にあてにならないものかを教えられるのである。そのような真実の智慧を佛教は説いてきたのではなかったか。]
そのうち後ろの席にいた青年が降りてたどたどしい足取りでパンとジュースを持ってきてくれました。
父親らしい男の人は「この子が生まれる時に、難産で頭を産道で圧迫されて知恵遅れになりました。四国を回れないのでこうしてお遍路さんに親子三人でお接待してます。」というのです。 わたしはわれながら早とちりを恥ずかしくなりましたがそれでも気を取り直し、錫杖でこの人の頭を加持してあげ「よくなりますよ」と思わず言ってしまいました。しかしこの青年は必ずしも満足した様子ではありませんでした。ご本人は手で直接頭にさわってほしかったようです。こちらの自身のなさも見抜いているかのようでした。父親のほうは「この子は今必ずしも機嫌よくはなっていません。もとしっかり加持してください。」と青年の気持ちを代弁されました。私は自信のないまま何度か錫杖で加持しましたが、気持ちを汲んで、手で直接触ってあげるべきだったと後で後悔しました。
ご両親とも白髪になっており青年の行く末を案じていることは痛いほど良く分かりました。死んでも死に切れぬ思いでこうして遍路に次々とお接待をしておられるのでしょう。
白髪の母親を見てなぜか中川宋淵禅師の「たらちねの生まれる前のうすあかり」という句が思い出されました。この苦悩を生じた原因の原因の原因と原因を次々と、どこまでもどこまでも辿っていくとついに空空寂幕とした、でも何か明るい世界があるということでしょうか。現在の苦も永遠に続くものではなくまさに空です。
しかし一茶も幼な子をつぎつぎと亡くして詠んだように「露の世は露の世ながらさりながら」です。この方々のことを、88箇所の最後までお祈りしました。同時にこういう人々を助ける力が欲しいと改めて強く思いました。
「日本仏教学会年報 通号 64」には「共生の関係論、高石伸人」という論文がありました。一部引用します。
「今まで私たちは障害や病気を体の一部が損傷されること,正常でなくなることと考えてきたのではなかろうか。そうではなく「病気や障害はその人に何かが欠けていることではなく何かをもたらしている」のではないか。・・
Ⅰ、多様性、一人一人の個としての差異の世界を分らせてくれる。まさに障害者一般などとはとても括れない個別性に満ちていて
2、人はそう簡単には分らないということを分らせてくれる。交換(感)不可能ということから尊厳性という世界が立ち上ってくる。
3、、ゴールとは何か、どこにあるかを立ち止まって考えさせてくれる。彼らはとても地位や名誉や金銭などといった安手のゴールには収まってくれない。
4、今日的価値に対抗している。「早く・ゆっくり」「しっかり・ぶらぶら」「がんばる・ぼちぼち」「わすれない・わすれることもある」等。「無形態、無方向、無時間性、無用性、無効性、無力性、無限性、非日常性、非現実性,誌的世界」を生きているともいえる。
5、競争より助け合うことに関心が深い。「智慧遅れの人たちはお互いに競争するより助け合いたいのです。スタイデル八重子氏」
6、居心地よい関係をもたらしてくれる。かれらはいつも自然体であり、ユーモアに充ちていて、そのぬくもりが辺りの空気を柔らかく包む。
7、「いのち」の平等性について考えさせてくれる。彼らのシンプルさを真似て私たちの身に貼り付いたものを剥ぎ取っていけばその芯にある「いのち」に突き当たる。何とも豊かさに充ちた世界がここにある。・・つまり彼らは「智慧遅れ=悪智慧遅れ」を生きることでわれわれにもう一つの価値を教えてくれる。すなわち「智慧遅れ」の世界から照射されることで私たちの依って立つ価値が如何にあてにならないものかを教えられるのである。そのような真実の智慧を佛教は説いてきたのではなかったか。]