福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その28

2014-05-28 | 四国八十八所の霊験
18番から一時間くらい歩いて19番立江寺につきます。近つ゛くと参道に九ツ橋(自鷺橋)が見えます。やっと着いたとほっとするところです。この橋はいかにも札所の橋という風情で、欄干は擬宝珠です。19番立江寺は関所といわれ、罪深い遍路はここより先はいけないとされています。
 立江寺でいただいた略縁起です。『当山は人皇45代聖武天皇の勅願寺という格式をもった名刹であり、天平19年(747)に行基菩薩が光明皇后のご安産の念持仏として勅命により閻浮壇金の1寸八分の本尊「延命地蔵尊」(世にこれを子安の地蔵尊と称し奉る)をお作りになり伽藍を建立開基されました。伽藍建立の地を卜するにあたり、一羽の自鷺が何処ともなく飛んできまして九ツ橋(現在の自鷺橋)の上に止まり、行基菩薩に仏天の暗示として霊域を示したと伝えられています。
以来この橋に白鷺が止まっているときに橋を渡ると、仏罰を受けるといわれています。
弘仁6年(815)に弘法大師が四国八十八ケ所霊場をご開創時に、ここの行基菩薩のお作りになりました一寸八分の小像では後世になって紛失してしまうおそれがあるとお考えになり、御自ら一刀三礼、六尺に余る大像を刻まれ、かの小像をその御胸に秘収安置されまして当山を「立江寺」と号し、第19番の霊場とされたということです。この当時は、現在地より西へ400mはなれた現在の奥の院のあるところに、境内地3町四方を有する巨刹であったと伝えられています。
天正年間に四国制覇をめざした長曽我部氏の兵火にあい、ご本尊を残して灰燼に帰しましたが、阿波藩主蜂須賀家初代蓬庵公の藩命により現在の地に移転再興されています。当山は「子安の地蔵尊」あるいは「立江の地蔵さん」との俗称で古くより霊験のあらたかなことで知られ、西国巡礼御詠歌集に高野山、善光寺などとならんで取り上げられている程に全国の善男善女の信仰の篤い名刺です。
ご詠歌は「いつかさて西の住居のわが立江 弘誓の舟に乗りて到らん」です。
また「四国の総開所」として四国八十八ケ所の根本道場としても有名であります。
昭和49年10月28日未明の祝融の災により、本堂他諸堂を焼失しましたが、奇蹟的に焼失をまぬがれましたご本尊のご威光と有縁の方々の浄業により昭和52年12月に復興事業が完成し、旧にましてすこぶる壮厳な昭和を代表する名寺院建築という評価を得た見事な聖堂に生まれかわり、わけても内陣の絵天井の豪華絢爛さは比類ないものとして有名であります。』 とありました。

「空性法親王四国霊場御巡行記」では「立江の地蔵伏拝、次に渡せる石橋に、白鷺居ると見得し日は、過失その身に降りかかる、其の知らせぞと言い伝ふ」とあります。白鷺のことは昔からのいいつたえだったのです。自分はいつも幸いこの白鷺の留まっている姿にはお目にかかりることはありませんでした。「四国霊験記」には「此立江寺の御本尊地蔵菩薩ハ四国第一等の御尊体成れば御霊現の多き故恐れざる者一人もなし。四国の札所七八回廻りて札を納めて此立江寺より一寸もさきへ行れずして亦跡へ戻る者数多是れあり。毎年いざりは足が立つ、盲は眼が開らき唖者ハ言語り、癩病の業人も此寺にて平癒して帰るもあり。亦聾は耳が聞へしも数多是れあり。亦々鉦の緒の髪に纏い付て髪の毛が根元よりきれたるもあり。亦さんげをして離るヽもあり。此立江寺のあらた成る霊験は一々筆にて記する事あたわず。」とあります。余程霊験が多かったのでしょう。
その一つ、肉付鐘の緒の由来 (四国の総関所と呼ばれる由縁について)という説明も寺にありました。
「石州浜田(現在の島根県浜田市)城下通町3丁目桜井屋銀兵衛にお京という娘あり、16歳の時大阪新町へ芸妓に売られ勤めるうち、要助という者と契りそめ、22歳の時大阪を脱走し生国浜田へ立ち帰り親に頼みて要助と夫婦になりしが、お京心様最も悪しく馴れるにつれ我儘増長し、鍛冶屋長蔵という密夫をつくり、之れを夫要助に嗅ぎ付けられ、二人とも散々に打ち擲されければ、邪見のお京は長蔵を手引きして、夫安助を打ち殺し、讃岐丸亀へ渡り自害せんとするも気おくれし、後生のため四国巡拝をなさんものと当山まで来たり。地蔵尊を伏し拝まんとするや忽ちお京の黒髪逆立ち鐘の緒に巻きあげられ苦痛の体に長蔵狼狽し、院主へ救いを請いければ、院主は罪の次第を問いただし、お京懺悔すれば、不思議にも、お京の黒髪もろともに肉はぎて鐘の緒に残り辛じて命はたすかりける。
生国にて自害の時おくれ、当山まで来りて大罪をこうむるは天の然らしむところと両人改悛の心を起し発心出家して、当村田中山(当山より北へ500メートル・現在のお京塚)というところに庵をむすび一心に地蔵尊を念じ生涯を終われり、肉付鐘の緒を当山の堂に納め置くは享和3年(1803)の春のことなり。」ということでした。


 境内にはこの髪が小さい祠に奉納されており茶色に変色し土埃にまみれていました。両手で抱えられるくらいのボリュームがあります。25年に行った時も大師堂の隣にあり、同行の御夫婦は「こんなに髪の毛があるのは少し気味が悪い」と言っていました。
澄禅「四国遍路日記」には「坊主は出世無学の僧成れども、世間利発にして富貴第一なり、堂も寺も破損したるを此の僧再興せらるたり也」としています。ここは宿坊もあり、この澄禅の時とは違い、お遍路を大切に扱ってくださいます。夕方には、本堂の巨大な延命地蔵様の前で勤行できます。私は二十数年前ここの先住庄野琳城師に高野山で伝法灌頂を受けておりなんともいえず懐かしく、いつもここでは同宿のお遍路の皆さん方の去ったあと夕闇のなか再度本堂に御参りし、一人でゆっくりお経をあげることにしています。
22年春太龍寺から歩いてきた四度目の巡拝の時は「あるき遍路の僧侶の方からは納経料は頂きません」といわれた上に、特別な部屋に通されました。申し訳ないので祈願料を払い先祖代々佛果増進の祈祷をお願いしました。泊めていただくのも4回目でしたがいつきてもなにかほっとするところです。特にご本尊様の巨大なお地蔵様がなんともいえずお優しい懐かしさを覚えるお顔なのです。


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