福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

東洋文化史における仏教の地位(高楠順次郎)・・その8

2020-09-13 | 法話
 それでバラモン僧正(菩提僊那のこと。インドのバラモン階級の生れ。青年期に入唐。日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、ペルシャ人の李密翳や、唐人で唐楽の演奏家の皇甫東朝、林邑出身の仏哲、唐の僧侶道璿、袁晋卿らとともに736年(天平8年)に来日した。51年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師。菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」とされる。)が来ると直ぐ僧正に任ぜられて、時服を賜い荘田を与えられて大安寺に寓せしめられた。大仏が立つ時になると、バラモン僧正は開眼供養の大導師を命ぜられ、臨邑の仏哲に大音楽師として楽隊の長とならしめられた。そして開眼供養を行われる。東大寺の開基というのは聖武天皇とバラモン僧正、行基。行基は建った時には死んでおりますから、開眼供養には臨まなかったのですが、これも開山に加えられている。それからいま一人は行基の弟子で一番偉い良弁僧正(日本の華厳宗第二祖。幼少期に鷲にさらわれて春日社前の杉(良弁杉)の枝に置かれ,義淵に養育されたという伝説は有名)この四人が開基になっている。そういうふうに非常に用いられて、バラモン僧正は大安寺で、仏哲と同住して音楽を教え、梵語を教えた。仏哲の梵語の文典が徳川時代まであったことは確かでありますから、古い寺々を探しましたがどうしても見つからない。他書に見ゆる引文からどんなものであったかということは分ります。文典が残るくらいでありますから梵語を教えたということは確かであります。それから一切経の中から歌唱の文句を撰出して音楽の囀(歌詞)とするのは僧正の役で、これを舞楽に編み込み舞踊の型を作るのは仏哲の仕事であった。
 後には朝廷の音楽の中に「臨邑楽」というものを付け加えられそして盛んに教えられ、伎楽に代る舞楽全盛の時代となった。それが今日まで残っているのであります。こういうふうに音楽も教え梵語も教えてインド人、准インド人が奈良には居住しておったのであります。それでご承知の五十音の図でありますが、あの図は梵語の字音の並べ方の通りであります。あれは吉備真備が作ったというようなことを伝えているのでありますが、そうではなくて、この二人が教えておった梵語の表が自然に日本の言葉に移ってそうして五十音図表が出来たのだと思うのであります。(梵字を系統だって伝来したのは弘法大師でありますから、大師が五十音も作られたとする説もあります)而してまたかかる人が奈良におったのでありますから言葉も多少輸入され、日本の国語も影響を受けずにはおらない。今はちょうど二月で如月でありますが、木更衣とも書きます。木が衣物を着換えるというような意味で、木の芽立ちのことをいったのかも知れない。「キサライ」というのは梵語でそのまま「木の芽立ち」という語であります。これは月の名ではないが、この言葉が移ったのだと思います。ここに現に梵語を教えつつある人があり、また伏見の翁もインド人らしいのでありますから、教えて貰う人はどうしてもその勢力を受ける。かように日本語の中に梵語が入っているのは、ただ仏教と一緒に来たのではなく直接受取ったということが分るのであります。
 御経の中に見当らない言葉がたくさんある。例えば瓦というものはこれは梵語の「カパラ」である。これは御経の中を見ても出て来るものではない、その時まで草葺であったのが瓦葺が出来るようになった、これはインドでなんというか、それは「カパラ」であると教えられる。それから瓦という日本語が出来てきた。私共が小学校に行っていた明治八年頃に、掛図がありまして、掛図の一番初めの図に「瓦」がありました。なぜ「カハラ」と書かなければならぬかというと、それはカハラだからカハラと書かなければならぬ、こういう仮名遣いだから仕方がないというふうに教えられたのであります。が、それは元がカパラであったからそれが柔らかくなっても、カハラと書いて根本のパの音を残している。
 日本のハヒフヘホの音は元はP音であった証拠には、北の方で大平山を今でも「おうぴらやま」といっているので分る。また琉球では「大きに」というのを「オホキニ」と言っている。また大きな瓦を「イラカ」(甍)と申しますがこれも梵語であります。日常用いる物から眼に付くような物はたいてい梵語でいう。それからまた隠し言葉にもある。学林の中であらわにいうと気の毒なことがある。例えば酒のことを般若湯といって見たり、甘露水といって見たり香水といったりするのはみな隠し言葉である。一例を申しますと鼻のない人が来ると「カサ」がきたという。「カサ」とか「クサ」とかいうのはインド語であって、今では「カサ」というとすぐ分りますがその当時は梵語でカサといえば向うには分らないでお互いには通ずる。それから疱瘡を患った人を「アバタ」というが、疱瘡という語は「アブタ」、それがアバタとなって、アバタがきたといえば疱瘡を患った人がきたという意味である。それから今では馬鹿といえば誰でも怒りますが、馬鹿という語にはいろいろ説がありますが、インドでは馬鹿の表現が青鷺である。青鷺を「バカ」といいます、それが馬鹿ということになったのであろうと思います。しかしこれには新村博士の説には慕何と云う梵語の訛りだという説を採用すべきであるとのことである。男子の隠し所の名前も隠語から転じたのであります。それから寺の庫裡という言葉、これは煙出しのある家という梵語「クテイ」で、庫というのも梵語らしい、厨も同じ梵語かと思われます。たいていラの字の付いたものは梵語が多いのであります。
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