福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの「江戸三十三観音・東京十社巡拝記録第11回」・・2

2016-03-15 | 開催報告/巡礼記録
角田さんの「第11回目の江戸三十三観音・東京十社巡拝記録」・・2
第二番札所 江戸三十三観音霊場第25番札所
三田山 水月院 魚籃寺(東京都港区三田4-8-34)
本尊 魚籃観世音菩薩
宗派 浄土宗-

斎海寺から、歩くこと10分余りで、魚籃寺に着きます。真っ赤な派手な山門が眼を引きます。向って左側に、六体のお地蔵様が並び、迎え入れてくださいます。山門から本堂に向かう境内は、かなりの広さがあり、敷石で作られた参道と石灰で敷かれた境内の庭。土の匂いのないお寺です。寺の周囲は、民家が取り囲むように並び立ち、開いた空間を巧みに拡げ活かしたような堂宇の配置です。

同寺は、元和3年(1617年)法譽上人が、豊前国中津圓應寺に、草庵を結んで魚籃院と号しました。寛永7年、三田に移り、一寺を開創使用としましたが果たさず、弟子の称譽上人が、遺志を継いで承応元年(1652年)、観音堂を建立して一寺となったといわれています。法譽上人が、長崎で、錫をとめておられたところ、馬郎という家の子孫に当たる老婆が、霊夢のお告げにより、自家に代々祀られて来た魚籃観音尊像を、法譽上人に奉献しました。始め、この尊像を、豊前中津に、安置していましたが、承応元年、法譽上人の弟子である称譽上人が、魚籃寺を建立したとき、奉安したといいます。

さて、この魚籃観音菩薩像とは、頭髪を唐様の髷に結った乙女の姿をした観音像で、右の手に魚の入った竹のかご(籃)を持ち、左の手に、天羽衣を携えて、魚を売りに歩く麗しい乙女の姿を写し取った8~9寸ばかりの尊像でした。縁起によると、唐の憲宗の元和年間(804~824年)、金沙灘という佛教信仰の全く無かった地方に、魚を籃にいれて,売りさばく乙女の姿で御出現され、仏の教えを広められたという。そのお姿を写し取ったのが、ご本尊観音像で、馬郎という家に代々祀られていたそうです。

この逸話は、面白いので、少し長いのですが、ご紹介してみます。
もろこし金舎檀というところに住む浦人の老いた漁師が、漁をすれども、魚が獲れず餓え苦しんでいた時、ひとりの美しい乙女が、藍に魚を入れて持ち寄り、この老いた漁師に、与え助けました。そのうえ、肌が透ける薄物の衣も惜しみなく与えたのです。老いた漁師は、その若い乙女の美しさに心を奪われ、何とか、この美しい女と一緒になりたいと願うようになりました。漁師の仲間たちは、皆、この老漁師を羨ましく思い、また自分達も、恋するようになりました。若い女は、一計を計らい、漁師達に、言いました。先ず、観音経を差し出して、「このお経を一日で覚えきった人の妻になりましょう」。これを聞き、皆必死に観音経を読み込み、暗記して覚えてしまいました。次に、若い女は、「しからば、これを覚えた人こそには」と法華経を差し出し、皆に授けましたが、今度は、読み覚える人はいませんでした。が、ただ一人、馬郎という男が一人、「われ覚えたり」と名乗り出たのです。若い女は、「約束通り、あなたの妻になりましょう」といい、馬郎の妻となって、馬郎の家に入りました。しかし、その夜、若い女は、突然、高熱が出て、あっという間に、死んでしまったのです。馬郎の悲しみは、いかばかりか。深い悲しみの中で、荼毘に付したのです。そして、翌日、名の知らない老翁が、尋ねてきて、馬郎に、「女はどうした」と問いかけてきました。馬郎は、泣く泣く、折角、若い女を妻として、一緒になったのに死んでしまいました」というと、その老翁は、厳かに、「私は、若い女の父親だよ。荼毘に付した女の跡を見せてほしい」と懇望するので、馬郎は、仕方なく、案内すると、女は、燃焼した灰の中に、白骨(舎利)になって横たわっていました。これを見た老翁、「かの女は、観音の化身なり!!」「我もまた、分身の菩薩なり!!」と、一喝。そのまま、姿を消してしまいました。驚く馬郎。一瞬の内に、佛・法・僧の三宝を悟ることが出来ました。
こうして、「魚籃」という号が出来、観音様が奉安されたといいます。」(同寺の縁起より)

昔の人の一途な信仰心と情報記憶能力の強さに驚きます。欲望に突き動かされ若い女の人を虜にしたい煩悩の動機からの知的活動でしょうが、パソコン・スマホそれに、インターネットなどの、情報文明利器の無い時代の人たちの情報吸収能力や、情報解読の深さは、今の我々も及ばない能力があったことに驚かされます。「観音経」を一日で、覚えることは、今の、私では、殆ど、不可能です。覚えようとする気力すらありません。情けないことですが、事実なのです。

お釈迦様・玄奘三蔵・弘法大師のころの情報収集・伝達の手段というのは、今日、我々が享受している情報文明機器などは無く、極端に言えば、命がけの作業であつたに違いないと思うのです。お釈迦様の発する一言一句の「真理の言葉」は、聞く人は、メモする筆記用具も無ければ、紙もない。ある意味では、2500年前の、貧しい、文明の時代環境であったはずです。しかし、人々は、釈迦の教えを、一言一句、間違えなく、脳裏に叩き込み、暗記していったと思います。その努力の結果として、「ダンマパダ」などの、原始仏典として、残されている大きな事績であると思います。また、仏の教えを知りたくて、17年の歳月を、中国からインドへ、あの過酷な気象のシルクロードの砂漠を、命をかけて、往復し、佛教教典を渉猟して、人間の真実を求めて、人生の全てを賭けて追求するため、高僧にまみえ、たった一言の教えを請うため、遠路、身の危険を顧みず、文明利器の乗り物の無い、自分の足が頼りで、会いに行く。そして、高僧から教えを聞いた、一言一句は、自分の血肉になるまで、何度も、何度も反芻しながら、三蔵法師は、旅路を急いだことでしょう。弘法大師もそうでした。

それに引き換え、今日の現代社会は、パソコン・スマホ・ケイタイ、さらには、インターネットと、情報機器は、進化が留まることを知りません。昔を思えば、今ほど、便利な時代はありません。集めた情報は、ビデオレコーダーに収録,あとで、再生すればいい。パソコンにいたっては、今や、毒性薬物服用以上の依存症になっています。パソコンにかじりつき、インターネットの情報検索に相当な時間を費やしています。スマホにいたっては、電車の中の、異常に見えるほど、殆どの乗客が「何かを見てます」。レストランでは、母子は、会話無くただスマホをいじってる。インターネットでは、世界のあり方を根底から変貌させた文明機器で、使い方如何によっては、人間に理不尽な苦しみを与える道具であると思っています。ただでさえ、いかにして、煩悩や欲望を押さえ込もうと志しているのに、インターネットは、これでもかとばかり、人間に、欲望を掻き立て、煩悩・無明の世界に誘惑しようと躍起になっています。恐ろしいのは、自分の知らない所で、自分の名前が流通し、悪用される道具でもあるのです。こうした情報機器の発達は、今後も際限なく広がることでしょう。今という時代は、一国だけのことでなく、世界規模で、物事が関連して動いています。グローバル時代といい、一国で起きた政治・経済・金融・文化など様々の分野では、大きな影響を及ぼし、今や、地球規模の動きになってきました。インターネットで入ってくる邪悪な情報に影響されないように、自分を鍛錬しなければならない負担が否応なしに増えました。老病の次に恐ろしい苦しみになっています。

本堂は、山門の派手な趣とは異にするようなごく質素な木造の寺院建築。
境内には、亀石があり、通称、子宝石といわれ、子供の無い人が子宝を希う石になりました。継いで、塩地蔵尊が立つていて、沢山の塩の入った袋詰めが奉納されていました。

御詠歌 身をわけて 救う乙女の 魚かごに 誓いの海の 深きをぞ知る
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