福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんの「江戸三十三観音・東京十社巡拝記録第11回目」・・3

2016-03-16 | 開催報告/巡礼記録
角田さんの「第11回目の江戸三十三観音・東京十社巡拝記録」・・3

午前11時10分、江戸三十三観音霊場第25番札所魚籃寺を暇乞いします。同寺のすぐ隣りに、「銘三郎 御箭調製・長谷川弓具店」があることが、妙に懐かしく、嬉しい思いに浸されます。いまどき、珍しいのではないかと。そして、5分もかかるかかからないかでこの日、第三番札所である、道往寺に来ました。
 

江戸三十三観音霊場27番札所
一声院 来迎山 道往寺(東京都港区高輪2-16-13)
本尊 聖観世音菩薩
   千手観世音菩薩
宗派 浄土宗

思わず「凄い!!」とうなり声を上げるような現代建築の粋を凝らしたような様式のお寺です。お寺というより、近代美術館に来たような感じがします。そして、詳しくは解かりませんが、どうやらこのお寺は、墓地・葬式の斎場とコラボしているようで、表通りから入る所に、お寺ビルに地下に当たる場所に、高輪会館という斎場があり、斎場の上はお寺ビル。規模も大きく並みの建物ではありません。そのうえ、「高輪庭苑」という樹木葬が出来る、墓所もあり、それらの施設が、近代ビルの中にワンセットになっています。いわゆる、ゆりかごから墓場までを絵に画いたようなお寺の構造です。高輪という高級住宅の立ち並ぶ町のど真ん中で、こうした現代建築ビルを造るため、ビルの構造設計の工夫があらゆる寺の施設に見られ、回遊式庭園をめぐっている楽しくなるような雰囲気が漂う思いがしたものです。

江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に、同寺は、創建。同寺一帯は、その昔、東京湾に面した高台になっていて、高輪の海岸線が連なっていたといいます。葛飾北斎の「阿蘭陀画鏡」(オランダえかがみ)の「江戸八景高輪」にこの場所が描かれているそうです。また、江戸時代には、「二十六夜待ち」の月の名所でもあったそうです。江戸三大月見といわれ、十五夜(旧暦8月15日)、十三夜(旧暦9月13日)、二十六夜(旧暦7月23日)で、大勢の人出でにぎわったそうです。とくに、二十六夜のお月様は、阿弥陀様、観音様、勢至菩薩様のご三尊の御姿が現れると、月待講の人たちに信じられていました。高輪は、海岸線に上がってくる満月が美しく見え月見処として有名で深夜まで、月見の人で賑わったそうです。

同寺は、多聞にもれず東京大空襲で、庫裏は焼失してしまいましたが、本堂は残ったそうです。2013年、本堂の大規模立替工事と納骨堂の新設設置を行い、高輪に佇む開かれた寺院として親しまれるよう努めながら、先祖を想い、現代的な風情を漂わす、生きる癒しの場にしたいという同寺20世、柏昌宏住職の熱い思いが伝わってくる仏殿空間になっています。

本堂には、寛文年間、道往寺開基の際、近くにある御田八幡神社に安置してあった阿弥陀如来像を請来して御本尊として祀られています。このお像は、寺社書上・高輪台町伊皿子還寺社書上によりますと、恵心僧都の作とされています。戦乱、空襲の難から耐え抜いて1000年の時空を超えて、今います阿弥陀如来様が、頼もしく、信心弱い私たちを、静かに励ましを戴く思いに浸されます。

ここまで、幾多の災難に遭遇したものの、臆せず立ち上がってきた寺寺の奇蹟にも近い復興の模様。もとより、信篤な信者の熱心な尽力あってのことなのですが。「奇蹟」をテーマにした、前回の映画「LOURDES」の奇蹟信仰を発祥させた「ルルドの泉」の話をもう少しご紹介したいと思います。お付き合いください。

今回は、「ルルドの泉」の奇蹟が起きた物語の映画「THE SONG OF BERNADETTE」(邦題 聖処女)をご紹介いたします。
この映画は、1943年に製作され、名匠ヘンリー・キング監督。奇蹟の聖女・ベルナデットに、「終着駅」「慕情」で有名な女優、当時は、若く美くしかつたジェ二フアー・ジョンズが演じ、第16回アカデミー賞に輝いた名作です。

1858年2月11日、ルルドの村に住み、貧しい暮らしをする14歳の少女、ベルナデットが、実際に聖母マリアの顕現に出会った実話に基づいて作られた映画です。ルルドは、フランスとスペイン国境であるピレネー山脈の麓にある、フランスのオート・ピレネー県の人口1.5万人の町。聖母マリアの出現と難病治癒のルルドの泉で知られ、カトリック教会の巡礼地になっています。

イエス・キリストの誕生と同じように、ルルドの「奇蹟」の顕現も、極貧の農家の一家三人娘の長女14歳のベルナデットに、「奇蹟」に与る役目を担わされました。ナポレオン3世の第二帝政期のフランスでしたが、小さな町では、教会が、学校教育を司っていました。シスターの先生に、「三位一体」を説明するよう問われたベルナデットは、答えることが出来ず、“劣等生”の烙印を押されてしまいました。勉強は出来なくとも、心根は優しく、素直な明るい少女でした。神様・聖母マリア様は、「奇蹟」を生みだす使命を与える人間を決めるとき、どの様な資格・条件・選出する尺度を持つておられるのか?我々俗人には、一切わかりません。”今、アメリカ中を席巻していて、大金持ちといわれる次期米国大統領候補になるトランプ氏も選ばれる可能性も無いことはないのでしょうか?ともあれ、これまでのところは、お金持ちより、イエスのような、貧しい暮らしの人に託されたことが多いようです。

運命の1858年2月、ベルナデットは、郊外のマッサビエル洞窟の傍で、薪拾いをしている時に、初めて、聖母マリアが顕現したのを目撃します。しかし、このときは、聖母マリアとは、知らず、[若い貴婦人]としか思っていませんでした。しかし、この「貴婦人」から、「15日間、ここへ通い続けなさい。あなたの幸せは、後の世で約束しましょう」というご託宣を受けました。自宅に帰り、見聞したことを、両親に話すのですが、当然ながら、両親は、聞く耳を持ちません。しかし、不思議なことが起こります。職に困った父親が、職にありつけます。食べ物が無かったのに、パンにもどっさりありつけます。が、誰もが、たまたまそうなったとしか思いません。ベルナデットは母親から厳禁されたにも拘らず、意地にかけて15日間洞窟に通い続けました。そうしているうち「貴婦人」から、「洞窟前に、聖堂を建てよ。多くの人に、ここに来てもらいなさい」と、たびたび、ご託宣を戴くようになり、必死で、「貴婦人」の話を皆にしはじめます。そのうち、ベルナデットの奇行の噂が町中に広まり、両親、隣人、教会の司祭、果ては、町の行政役人、警察、検察などの人たちから好奇の目で見られるようになり、ベルナデットに、幾多の災難が降りかかります。

しかし、彼女は、襲い掛かる、困難、恥辱、迫害、尋問、罵詈罵倒などのあらゆる苦難にも耐えました。見かねた、ベルナデットの通う教会の司祭が、「貴婦人」の名前を聞くように、彼女に幾度も指示したのです。その結果、「貴婦人」から「(自分は)無原罪の御宿りなり」という言葉を聴いたと、司祭に報告しました。(「無原罪の御宿り」とはウキぺヂアによると、「聖母マリアが、神の恵みの特別なはからいによって原罪の汚れととがを存在のはじめから一切受けていなかったとする、カトリック教会における教義、ということです。)これで、これまでは、懐疑的であった司祭は、聖母の顕現を信じるようになりました。因みに、「無原罪の御宿り」が、カトリックの教義として公認されたのは、この聖母が出現する4年前、1854年だったそうです。

ベルナデットが、今や、聖母マリアとなった“、貴婦人”から、指示された15回目の巡礼のとき、本当に奇蹟が起こるのか、半信半疑で大勢の待ち人たちが、洞窟の前に集まり、固唾を呑んで、ベルナデットの礼拝を見ています。周りの人々には、聖母マリアの姿は見えません。聖母マリアは、ベルナデットにいいます。「あなたの足元の土を掘り、湧き出た水で、顔や体を洗いなさい。」言われるままに、穴を掘ると、湧き水が出てきて、滾滾と湧き出て来るではありませんか。そして、その水で、顔を洗った男が言います。「今まで、物が見えなかった眼が、見えるようになりました!!」奇跡が、現実に起こった第一号でした。続いて、我も我もと、体の悪い人たちが、湧き出てくる霊水を浴びると、全快したのです。「ルルドの泉」巡礼地の始まりです。

ベルナデットには、この聖母マリアが18回に亘って姿を顕現したといわれています。1864には、聖母が現れたという洞窟に聖母像が建てられました。「ルルドの泉」の噂は、ヨーロッパ中に広がり、大聖堂も建てられ、巡礼者で賑わうカトリックの最大の巡礼地になりました。

このあとのベルナデットは、1866年、ヌーグエル愛徳修道会の修道院に入り、修道女となりました。彼女を指導するシスターから、「私も奇蹟に与りたく思って長い間、禁欲し、礼節を守り、神を崇めてきましたが、あなたのようになりませんでした」と述懐します。奇蹟が誰に起こるかは神のみぞ知る、ようです。ベルナデットは、1879年、35歳の若さでなくなりました。1925年には、列福され、1933年、ローマ教皇ピウス11世によって列聖されました。「貴婦人」の予言通り、後の世で、再会を果たしたことでしょう。

以上が、映画「THE SONG OF BERNADETTE」のストーリーですが、宗教色が鼻につかず、モノクロームの画面で物語の高い精神性を明確に表現した素晴らしい作品だと思いました。

「奇蹟」というのは、本当にあるのか?聖母マリアは、現実に、顕現するのか?「ルルドの泉の水」で、難病が快癒するのか?私たちは、いろいろ、詮索し懐疑を持ちながらも、心の奥深い所で、“ひょっとしたら”という、肯定する気心も持ち合わせています。映画のタイトルにもあるように、「神を信ずる者には,説明不要であり、信じない者には説明も意味をなさない」とあります。

でも、人間は、自分の持つ小さな脳味噌で、どのくらいのことが考えられるのでしょうか?恐らく、∞(無限大)の時間・空間の両域を超えた素晴らしい事象をも考えることが出来るのではないかと思うのです。ただ、無限大の「智慧」の扉を開く鍵を持っているのに、遣っていない。もし、この鍵を使って、扉を開けば、「奇蹟」も、さらに「お蔭」も、すべて、現実に起こるものだと考えられるのではないでしょうか。「奇蹟」とか「お蔭」とかは、自分の都合の良し悪しや甚だしい損得勘定でのみ、いわゆる、狭量な此岸の物差しだけで脳味噌を使うだけでは、勿体無い。こうして、先月、今月にわたって、「奇蹟」の話を書いてきたのは、「奇蹟」を取り扱った映画があり、外国人の感覚では、どの様に考えられているのか知りたかったのです。やはり、外国、特に、ヨーロッパでは、「奇蹟」と宗教とは切り離せないものでした。また、文化が違っても、15回のお参りなど、我々の、21回、お百度詣りなど、同じ考えがあるようでした。

翻って、佛教、特に、高原講元様の「お蔭」の信仰は、その「お蔭」を戴くためには、どうすればよいのか。お寺でも、一心祈願・心願成就といわれます。一心祈願・商売繁盛・当病平癒とお唱えしています。そして、「本当か?」という邪念も付いて回ります。もし,叶えられなければ、どう気持ちを整理すればよいのでしょうか?人によっては、「なんだ?!」と、離れてゆく人も多いのではないでしょうか。しかし講元は「お蔭は100パーセント信ずる人にのみあたえられる」といいます。

しかし、私の脳味噌は、小さいくせに、欲望・煩悩・無明が、長年の不信心で積もり積もっていて、詰まらない悩み事ではち切れそうになっています。苦しいですね。しかし、何とか悩みにも耐えて、生きています。そのために、脳味噌は、もう今までのような世間の幸せを求めるのではなく、改めて、自分のあり方を考える。私の場合は、仏道修行に専念すること。此のことこそ、私の生き甲斐である、と思うことに徹することにしています。このため、マイ遍路巡拝をして、祈願をしています。マイ遍路巡拝は、散歩にもなり、運動にもなっています。祈願は、「お蔭」を戴くことも意識しています。自分の「お蔭」を戴いたと、はっきり断定できた時は、多聞、自分に有利で自己満足した、至って功利的な情況や心情の時でないかと思います。それでいいのかな?と自分に都合のいいことばかりではないか!!とも思います。確かに高原講元様が言われるように、毎日、神仏から、知らず知らずのうちに「お蔭」を戴いているのでしょう。大病もせず、巡拝行も出来るのも、こうして、ブログがかけるのも、沢山「お蔭」を戴いているからかもしれません。こう思えるようになっているのも、「お蔭」を戴いているからでしょう。有り難いことです。講元も「お蔭は疑わない人のみが受けられる」と説いておられるのですから。。

御詠歌 かかるよに うまれあうみの あなうやと をもはでたのめ 十こえ
    ひとこえ

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