地蔵菩薩三国霊験記 9/14巻の5/13
五、建長寺地蔵蝦夷嶋遊化の事
往日鎌倉に安藤五郎とて武芸に名を得たる人ありけり。公命によりて夷嶋に発向し容易(たやす)く夷敵を亡ぼし其の貢をそなへさせければ、日本の将軍とぞ申されければ夷ども年毎に貢をぞ奉りぬ。爰に彼の五郎年来地蔵を信じ長さ三尺(90㎝)の地蔵を造立安置し奉り誦経礼拝をこたらず信心底にとほりて、双人更になかりける。或時件の夷ども年貢上納に来りけるを安藤五郎召し寄せて結縁の為にとて御戸を開きて地蔵を拝し奉れとて見せられけば、夷ども悉く参り見て申しけるは、あのやうなる人我が國にもあり。あらむつかし朝には早天に露を拂、門ごとにたたずみ、暮れには家に入来たり、からめき杖を打ち振りて走りめぐり、或は網を下し漁すれば魚とりにがして人の否と云事をすすめ給ふ。これをかしをばけの小天道とぞ云合ける。五郎聞て、さては無佛世界の度脱をなされしめ玉はんとて夷狄の中に交て行玉ふにこそとぞ覚ふ。さらば其の人かさねて見玉はばつれだちてまいるべしと云ければ、夷ども頭をふりてかなひがたき事にて侍る。魚を網するとき交てむつかし。さにをしのけんとするが力強くしてさらず。足の早きこと電光のごとしとぞ申しける。五郎重ねて申すは人数をもよほしいかにもしてつれて参れ。三年の年貢を御免あるべきよし申し付けたりければ、畏まりとて下向しける。次の年、四月中旬に夷ども大勢にて小天道をとらへたりとて五郎が館の庭になみ立足をそろへ弓をよこたへて各の肩と肩とをならべをどりはね、同音に申しけるはいみじき大事にて力をつくしとらへたり。もれぬやうにつつみにけるやうにからげたり。力つよくしてにげつべしとぞ申しけり。五郎げにもしくはなけれども生身の地蔵尊を拝し奉らんことは不思議にありがたき御事と思ひ立出見ければげにもさるめかしくをぼへて、篠小竹と云物をあみてつよくまきこめて昆布と云ふ海草を以てつなにうちからみ三巻つめたり。夷ども五十人ばかり打ち圍ひ荷なはせ来れり。夷ども先ず祈り言かとおぼしくて何事やらん弓の弦を打ちならしつぶやきて刀をぬきてつなを切れば残者ども肩をゆり合せ、左右の手をひろげ眼を見張り爰を詮どと立こめて開き見れば何もなくして底には錫杖一つぞありけり。夷大にあきれて頭をなでて無念の事よ頭はげの小天道にげたりとて大音声にてどよめきけり。されども斯にからめき杖を取りをとしたるはとて、安藤武者にぞ奉る。五郎錫杖を頂き是こそありがたきしるしなれ。今も爰にましますらめと凢夫の眼に見へず誠なるかな顛倒の衆生をして近しと雖も而も見へざらしむ(妙法蓮華經如來壽量品第十六「我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見」)と如来の金口面(ま)のあたりたりと歓喜の涙をぞ流しけり。夷どもには茜の染めの布三端つ゛つ各のに輿へてぞ皈國せしめられける。其の比建長寺の本尊は一千一躰の地蔵にてありしが中尊の持ちたまへる錫杖を盗人の奪たりとて沙汰しけり。五郎此の錫杖を一宇の草堂をも建立して本尊に「いたすべく思へども建長寺へぞ持参してければ住僧請け取り是を見るに本の錫杖なり。衆人此の事を見聞する者弥よ信をなし参詣の歩みをはこびけるとなん。(建長寺にはもとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などが安置されている。)
引証。延命經に云、仏帝釈に告げたまわく。一の菩薩あり。名づけて延命地蔵菩薩といふ。毎日の晨朝に、諸定に入り、六道に遊化して苦を抜き楽を与ふ云々(仏説延命地蔵菩薩経「仏帝釈に告げたまわく。一の菩薩あり。名づけて延命地蔵菩薩といふ。毎日の晨朝に、諸の定に入り、六道に遊化して苦を抜き楽を与えへん。もし三途にありて、この菩薩に於いて、体を見、名を聞かば、人天に生じ或は浄土に生ぜん。三善道にありて、その名を聞かば、現には果報を得て、後には仏土に生ぜん。何况んや憶念せば 心眼開くを得て決定成就す。 亦是菩薩は十種の福を得しむ。」)。
十輪経に云、遍く十方諸佛國土に於いて一切所化の有情を成熟し、其の所應に随って利益安樂す(大乘大集地藏十輪經序品第一「此善男子。於一一日毎晨朝時。爲欲成熟諸有情故。入殑伽河沙等諸定。從定起已遍於十方諸佛國土。成熟一切所化有情。隨其所應利益安樂」)。