10番切幡寺から11番藤井寺までは9キロあると案内図にあるので緊張して歩きます。途中吉野川にある沈下橋という洪水でも橋が流されないために手すりを付けてない橋もわたります。町中も通るのですが山すそにの遍路路には廃屋が多くあらわれ、やるせない気持ちになりました。このあとの各遍路道にも廃屋は累々と横たわっているのを見ることになります。
◇
方丈記には「ユク河ノナガレハ絶エズシテ シカモモトノ水ニアラズ 澱ミニ浮カブ ウタカタハ カツ消ヱカツ結ビテ ヒサシク留マリタルタメシナシ。 世中ニアル人ト 栖ト マタカクノゴトシ。
昔アリシ家ハマレナリ・・・ 世ニツカフルホドノ人 タレカ ヒトリ故郷ニノコラン。
ツカサ位ニ思ヲカケ 主君ノカゲヲモタノムホドノ人ハ 一日ナリトモトクウツラントハゲミアヘリ 時ヲウシナヒ世ニアマサレテ期スル所ナキ物ハ ウレヘナガラトマリオリ・・・」 とあり、私自身も振り返ると「ツカサ位ニ思ヲカケ 主君ノカゲヲモタノムホドノ」思いで、家を継がずに東京に出てきた事はたしかです。いつの時代もこういうことを繰り返してきたのかと人間の業の深さに暗然としました。
ただ廃屋は最近のものが特に多いようでした。17年には小泉改革の市場原理主義の濁流はこういうところまで容赦なく押し寄せていることが実感させられ暗澹たる気持ちになりました。
11番藤井寺は臨済宗のお寺でした。大師は三方を山に囲まれた幽邃な霊地に心ひかれ、堂宇を建立し、自刻の薬師像を奉安し、護摩修法され、堂塔の前に五色の藤を植えられ、藤井寺と名づけられたとされます。
「空性法親王四国霊場御巡行記」には単に「無比中道の藤井寺」とのみあります。これは御詠歌「いろもかも むひちゅうどうの ふじいでら 真如の浪の たたぬひもなし」よりとったのでしょう。
澄禅「四国遍路日記」には「地形尤も殊勝なり、二王門朽ち失せて礎のみ残れり、寺楼の跡、本堂の礎も残って所々に見えたり・・二天、二菩薩、十二神将、二王などの像、朽ちたる堂の隅に積みおきたり、庭の傍に膝を容れるばかりの小庵在、その中より師形のもの一人出て仏像修理の勧進を云、各奉加す」とあります。しかし今は立派な本堂があり、大師堂もちゃんとあります。納経所も25年には新しくなっていました。入口には立派な藤棚もあります。
「四国霊験記」には、「昔大阪に和泉屋治平と云う人あり。・・足なへの膝(いざ)りと成り、夫より千万つきて四国の霊地へ順拝の心願発して二月十五日より国元を出立致しけるに、一日に半道か一里迄ハ行(あゆむ)事化叶わず。然るに四国を一度廻る間は誠に難行苦行成りしに、早二度目順拝して丙寅の三月十一日に十一番藤井寺に通夜しけるに、その夜の夢に薬師如来現われ玉ひてのたまわく、
『汝が病は業因成る故今この壷に有る妙薬を与へるから藤井の水にて足を洗へ』と、 御告有る、と思へば直に夢覚たり。然るに枕元にその薬あり。是ハ不思議也、勿体なやと明朝薬師の香水にて如来の真言唱へツヽ足を洗へば、あら不思議や忽ち足は立ちのびたり。同行皆々肝をつぶしあまりの利益にあきれはて大師の宝号一心に大音声にて唱へける。治平ハ是より剃髪致しこの大恩乃報謝の為と廿一度四国地を一心に拝礼致し帰国の後は千人講を発願し大師堂を建立す。是ぞ如来の神通自在、この霊験の尊ふさを信ずべし信ずべし。 」とあります。御薬師様お大師様の霊験あらたなりということです。
17年には9番の古老のいったことを思い出しご住職に「ご本尊は他にお祀りしてあるのですか」と聞くと「ご本尊は本堂にきまっておる」と不機嫌に答えられハッとしました。つまらぬことを物知り顔に聞いてしまった自分が愚か者だったと反省しました。本堂にご本尊を置いてないなどいう住職はいるはずありません。本当の信仰心があればこんなつまらぬことをことを聞くことは無かったのです。自分自信の愚かさに索漠とした気持ちが湧いてきました。
◇
方丈記には「ユク河ノナガレハ絶エズシテ シカモモトノ水ニアラズ 澱ミニ浮カブ ウタカタハ カツ消ヱカツ結ビテ ヒサシク留マリタルタメシナシ。 世中ニアル人ト 栖ト マタカクノゴトシ。
昔アリシ家ハマレナリ・・・ 世ニツカフルホドノ人 タレカ ヒトリ故郷ニノコラン。
ツカサ位ニ思ヲカケ 主君ノカゲヲモタノムホドノ人ハ 一日ナリトモトクウツラントハゲミアヘリ 時ヲウシナヒ世ニアマサレテ期スル所ナキ物ハ ウレヘナガラトマリオリ・・・」 とあり、私自身も振り返ると「ツカサ位ニ思ヲカケ 主君ノカゲヲモタノムホドノ」思いで、家を継がずに東京に出てきた事はたしかです。いつの時代もこういうことを繰り返してきたのかと人間の業の深さに暗然としました。
ただ廃屋は最近のものが特に多いようでした。17年には小泉改革の市場原理主義の濁流はこういうところまで容赦なく押し寄せていることが実感させられ暗澹たる気持ちになりました。
11番藤井寺は臨済宗のお寺でした。大師は三方を山に囲まれた幽邃な霊地に心ひかれ、堂宇を建立し、自刻の薬師像を奉安し、護摩修法され、堂塔の前に五色の藤を植えられ、藤井寺と名づけられたとされます。
「空性法親王四国霊場御巡行記」には単に「無比中道の藤井寺」とのみあります。これは御詠歌「いろもかも むひちゅうどうの ふじいでら 真如の浪の たたぬひもなし」よりとったのでしょう。
澄禅「四国遍路日記」には「地形尤も殊勝なり、二王門朽ち失せて礎のみ残れり、寺楼の跡、本堂の礎も残って所々に見えたり・・二天、二菩薩、十二神将、二王などの像、朽ちたる堂の隅に積みおきたり、庭の傍に膝を容れるばかりの小庵在、その中より師形のもの一人出て仏像修理の勧進を云、各奉加す」とあります。しかし今は立派な本堂があり、大師堂もちゃんとあります。納経所も25年には新しくなっていました。入口には立派な藤棚もあります。
「四国霊験記」には、「昔大阪に和泉屋治平と云う人あり。・・足なへの膝(いざ)りと成り、夫より千万つきて四国の霊地へ順拝の心願発して二月十五日より国元を出立致しけるに、一日に半道か一里迄ハ行(あゆむ)事化叶わず。然るに四国を一度廻る間は誠に難行苦行成りしに、早二度目順拝して丙寅の三月十一日に十一番藤井寺に通夜しけるに、その夜の夢に薬師如来現われ玉ひてのたまわく、
『汝が病は業因成る故今この壷に有る妙薬を与へるから藤井の水にて足を洗へ』と、 御告有る、と思へば直に夢覚たり。然るに枕元にその薬あり。是ハ不思議也、勿体なやと明朝薬師の香水にて如来の真言唱へツヽ足を洗へば、あら不思議や忽ち足は立ちのびたり。同行皆々肝をつぶしあまりの利益にあきれはて大師の宝号一心に大音声にて唱へける。治平ハ是より剃髪致しこの大恩乃報謝の為と廿一度四国地を一心に拝礼致し帰国の後は千人講を発願し大師堂を建立す。是ぞ如来の神通自在、この霊験の尊ふさを信ずべし信ずべし。 」とあります。御薬師様お大師様の霊験あらたなりということです。
17年には9番の古老のいったことを思い出しご住職に「ご本尊は他にお祀りしてあるのですか」と聞くと「ご本尊は本堂にきまっておる」と不機嫌に答えられハッとしました。つまらぬことを物知り顔に聞いてしまった自分が愚か者だったと反省しました。本堂にご本尊を置いてないなどいう住職はいるはずありません。本当の信仰心があればこんなつまらぬことをことを聞くことは無かったのです。自分自信の愚かさに索漠とした気持ちが湧いてきました。