74番を御参りしていよいよ75番善通寺をめざしました。
遍路あこがれの場所です。
お大師様の誕生された所だからです。17年のときは、手前の遍路道で若い女遍路が歩いていました。
細身の全身を白装束に包み、リュックまで白でした。
昔のお遍路さんそのままの姿です。
何回も廻っているのでしょう、一陣の風のように歩き去りました。
善通寺に着くと境内にホトトギス主催三代の親子句碑というのがあります。
「さきみちてこぼるる花もなかりけり」高浜虚子
「風少しあり梅の香を運ぶほど」稲畑汀子とある中に「お遍路の美しければあはれなり」高浜年尾、という句が刻まれていました。
さきの女遍路そのままの句です。
ただ現代若いお遍路さんに悲壮感はありません。
むしろ優雅で爽やかです。
2回目のときは夕方善通寺で泊まることとしていたためそれまで時間があったので76番金倉寺をさきにお参りしました。善通寺から片道4キロですから往復で2時間です。急ぎ足で金倉寺まで歩き、あたふたとお参りしました。ここは弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」がご誕生の地。縁起によると、弘法大師がお生まれになった宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善が建立したので「道善寺」と称せられたといいます。その後、帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、本尊薬師如来を刻まれ、928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんで「金倉寺」となったようです。 ここには明治31年から4年間乃木大将が住み、善通寺師団へ馬で通ったらしいのですが、その折東京から夫人がきても会わなかったので、夫人が其の下に佇んだという「乃木大将妻返しの松」がありました。乃木大将は緊迫した国際情勢の下、部下が必死に演習をしている中で夫人に会うわけにはいかなかったのでしょう。それにしても乃木夫人が不敏です。いつも妻を留守番させて独りで遍路に来ている自分もなにか急に妻が愛おしくなりました。
このあと75番善通寺近くまで来てまよいました。
すると転車の上品な老婦人が近寄ってきて「どこかへおまいりですか?」と聞いてくれます。
「善通寺です」というと「ああお大師さんですか」といい道案内してくれました。このあたりでは「善通寺」は「お大師さん」というのです。78番高照寺も土地の人は「天皇さん」といいました。歴史と一体に成った土地の人々のゆかしさを感じます。
遍路あこがれの場所です。
お大師様の誕生された所だからです。17年のときは、手前の遍路道で若い女遍路が歩いていました。
細身の全身を白装束に包み、リュックまで白でした。
昔のお遍路さんそのままの姿です。
何回も廻っているのでしょう、一陣の風のように歩き去りました。
善通寺に着くと境内にホトトギス主催三代の親子句碑というのがあります。
「さきみちてこぼるる花もなかりけり」高浜虚子
「風少しあり梅の香を運ぶほど」稲畑汀子とある中に「お遍路の美しければあはれなり」高浜年尾、という句が刻まれていました。
さきの女遍路そのままの句です。
ただ現代若いお遍路さんに悲壮感はありません。
むしろ優雅で爽やかです。
2回目のときは夕方善通寺で泊まることとしていたためそれまで時間があったので76番金倉寺をさきにお参りしました。善通寺から片道4キロですから往復で2時間です。急ぎ足で金倉寺まで歩き、あたふたとお参りしました。ここは弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」がご誕生の地。縁起によると、弘法大師がお生まれになった宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善が建立したので「道善寺」と称せられたといいます。その後、帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、本尊薬師如来を刻まれ、928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんで「金倉寺」となったようです。 ここには明治31年から4年間乃木大将が住み、善通寺師団へ馬で通ったらしいのですが、その折東京から夫人がきても会わなかったので、夫人が其の下に佇んだという「乃木大将妻返しの松」がありました。乃木大将は緊迫した国際情勢の下、部下が必死に演習をしている中で夫人に会うわけにはいかなかったのでしょう。それにしても乃木夫人が不敏です。いつも妻を留守番させて独りで遍路に来ている自分もなにか急に妻が愛おしくなりました。
このあと75番善通寺近くまで来てまよいました。
すると転車の上品な老婦人が近寄ってきて「どこかへおまいりですか?」と聞いてくれます。
「善通寺です」というと「ああお大師さんですか」といい道案内してくれました。このあたりでは「善通寺」は「お大師さん」というのです。78番高照寺も土地の人は「天皇さん」といいました。歴史と一体に成った土地の人々のゆかしさを感じます。