福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

正法眼蔵行持

2013-02-25 | 法話
正法眼蔵行持 上

いま有道の宗匠の会をのぞむに、真実請参せんとするとき、そのたよりもとも難辨なり。ただ二十三十箇の皮袋にあらず、百千人の面々なり。おのおの実帰をもとむ。授手の日くれなんとす、打舂の夜あけなんとす、あるひは師の普説するときは、わが耳目なくして、いたづらに見聞をへだつ。耳目そなはるときは、師またときをはりぬ。

耆宿尊年の老古錐、すでに拊掌笑呵呵のとき、新戒晩進のおのれとしては、むしろのすゑと接するたより、なほまれなるがごとし。堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし、師はあれども、われ参不得なるうらみあり。参ぜんとするに、師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。

大善知識、かならず人をしる徳あれども、耕道功夫のとき、あくまで親近する良縁まれなるものなり。

雪峰のむかし、洞山にのぼれりけんにも、投子にのぼれりけんにも、さだめてこの事煩をしのびけん。

この行持の法操あはれむべし。参学せざらんはかなしむべし。


(今、仏道を実践指導している師の道場を眺めると、真実に教えを学ぼうとした時に、その指導を受けること自体が最も難しい。なぜか、学ぶ者はただ二十人三十人ばかりではありません。百人千人もの人々なのです。その各々が真実の道を求めているのです。
そのために、法を授ける師の一日は、その指導で日が暮れてしまい、法を受けようとする者たちの夜は明けてしまうのです。また、師が説法する時には、自分に理解する耳目が無くて空しく聞き流してしまい、聞く耳目が具わった時には、師は既に説法を終わっているのです。
また、学徳高い先輩の老僧が、手を打って談笑している時に、初心の者としては、法座の末席に連なることさえ難しいのです。よって法の堂奥に入る者と入らない者と、師の秘訣を聞く者と聞かない者とがあるのです。

月日が経つのは矢よりも速く、人の命は露よりも壊れ易い。それなのに、学ぶ師はあっても、自分は直接教えを請うことが出来ないと恨むことがあり、或いは学ぼうとしても、師とする人がいないと悲しむことがあるのです。このような事を、私は目の当たり見聞した。

優れた師は、必ず人物洞察力を持っていますが、修行精進する時には、師に十分親近できる良縁は少ない。
雪峰が昔、洞山を訪ねた時も、また投子を訪ねた時も、きっとこの教えを請うための煩わしさを耐え忍んだことでしょう。

雪峰のこの修行に於ける求法の法操は感嘆すべきものです。これを学ばないことは悲しいことです。)

正法眼蔵 行持 上 
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