繰り返しますと、吾等人間は常時[業]の重荷を背負ってゐてしかもそれから釈放せられたいと願って止まないのです。この止むに止まれないものが却って人間をして業を超越せしめるのです。これは霊性の働きに外ならないのです。それで祈りは宗教生涯の神髄を構成するといふのです。いくら祈っても人間生活に何等の加ふるものがないと云へば、それまでのやうですが、その實、祈りは人間性を構成してゐる最強の要素を引き出すのです.これで人間生活の展望が根元からひっくりかえるのです。。今までの汚れた悪業がそのままで浄らかなものになるのです。即ち悪業から離脱するのです。これが業にゐて業に囚へられないと云ふ意味あひになるのです。しかしこれは業にゐるものと業を離れたものとが別々になるといふことではない、・・業を離れて業を離れずであるから、即非の境地は決して人間を人間世界以外に放逐するものではありませぬ。人間としてのあらゆる苦しみは此の人の心に日夜迫り来るのです。維摩が『衆生病むがゆえに我もまた病む』(注)と云ふ所以はここにあるのです。
(注、華厳経問疾品に以下のようにあります。
「(文殊が維摩居士に問うて)『・・居士よ、この疾は、むしろ忍ぶべしや不や。療治は、損ずること有りや不や、増すに至らんや。世尊、慇懃に問いを致すこと無量なり。居士、この疾は、何の因起する所ぞ。それ生じて久しきなりや。まさに云何が滅すべき。』と。
維摩詰言わく、『癡に従りて、愛有れば、すなわち我が病生ず。一切の衆生病むを以っての故に、我病む。もし一切の衆生の病滅すれば、すなわち我が病も滅す。所以如何となれば、菩薩は、衆生の為の故に、生死に入る。生死有れば、すなわち病有り。もし衆生、病を離るることを得ば、すなわち菩薩また病むこと無からん。譬えば、長者に、ただ一子のみ有りて、その子病を得ば、父母もまた病み、もし子の病癒えなば、父母もまた癒えんが如し。菩薩もかくの如し。諸の衆生に於いて、これを愛すること子の若し。衆生病めば、すなわち菩薩病み、衆生の病癒ゆれば、菩薩もまた癒ゆ。また、『この疾は、何の因起する所ぞ』と言えるには、菩薩の病は、大悲を以って起こる。』と。」)
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