福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが先日の定例会の模様を記録して下さいました。

2015-05-18 | 講員の活動等ご紹介
福聚講(高原耕昇講元)では、5月16日(土)午後3時から、東京・文京 護国寺で、定例の参拝を行いました。この日、護国寺は、17日(日)に行う大施餓鬼会の準備で、本堂では、若いお坊さん達が、座椅子を並べたり、祭壇取り付けたり、忙しく立ち働いていました。また、本堂前の外の境内には、大きな天蓋が設けられていました。5月、初夏という時季に、お施餓鬼会が行われるとはと思ったのですが、お施餓鬼は、一般には、盂蘭盆会に行われることが多いのですが、催行の時季は、決まっている訳ではないようです。

この日は、8人が集まり、うち女性3人。新しく若い男性がひとり参加されました。般若心経・観音経・祈願・そして、各講員が、一人ずつ、お焼香をしながら、ご真言・ご寶号をお唱えします。このあと、座禅のひと時を過ごします。気がつくと、私達の後ろに、数人の参詣者が並んで、一緒に、経を読誦していました。

帰りは、境内山門のあたりで、講元のご子息が、小さな長男坊やを連れてきており、高原講元様が、修行の時と180度も違う面相で、愛想を崩しておられ、嬉しそうでした。

そして、解散前の恒例の小憩。その前に、皆で護国寺通りの歩道のゴミを拾い集めました。近くのレストランに入り、高原講元様と質疑応答の時をもちます。この日は、かなり難解の話もあり、2時間は悠に過ぎました。

記憶に残っているものを、ご紹介しますと、

H さんは講に参加して観音経・般若心経を読誦することで観音様に窮地を救って頂いたが実は観世音とは自分のことでもあると思うようになっている、そして最近では観音様の信仰からか、いろいろな出来事に遇っても「万事大丈夫」という安心感を実感できるようになった、とのことでした。

高原講元様の話です。
(1)仏像を拝むことは、偶像崇拝に当たるか?否、仏像は、仏の法やお経の真理を表現したものであって、普通いわれる、偶像崇拝にはあたらない。もし、偶像崇拝だといって、仏像拝顔を否定したら、仏の法や、お経の真理を否定することになる。高原講元様は、いまや、仏像のみならず、自分の目、心眼に映るものは、どんな物でも有り難く感ぜられ、何でも拝んでいる。偶像崇拝とかアニミズムというものはレッテル張りで否定するなどもってのほか、逆にもっともっと原子や分子のレベルの極限にまで推し進めて拝むべきである。
(2)毎朝、毎夕、修法していると、所謂「不生不滅」の世界が現出する。「嗚呼、これが、般若心経でいわれる、「空」と言う状態なのか!生ズルモノモナケレバ、滅スルモノモナイ」真空の状態だ。」と確信することができる。 
(3)これは、まさに、五大・地水火風空の世界であり、曼荼羅の世界である。我々は実はこの中にいるのでありここでは自他・生死すべてが一つになっている。こうなると、もはや、「個」の世界はない、全てが一つで何とも言えない有り難い感謝の念がわいてくる。
(4)いままさに、有り難い感謝の念の観想の、もう一つ上のところに、届こうとしている。だが、これは、悟る、悟ったなどということを超えたところにある。

このほか、この日は、講員の人たちの意見もあったが、メモすることが出来ず今日は、このくらいにしておきます。

一方、私は、やはり、まだ、レベルが低いのでしょう。サラリーマン生活50余年つづけていると、いわゆる、世間的価値がしみついていて、これを払拭 することが並大抵ではないのです。回り世間が、アベノミックスだの、サラリーアップだの、企業業績過去最高益だ、などと騒がれると、心やりきれない思いがします。もう、世間の幸福な人たちとは、自分の生活は比較できない。、自分の幸福は、自分で基準を設けて、つくりあげてゆくほかはない。そう、仏縁をしっかりと中心にすえて、レーゾンデートルを造り、今日一日を、全力で生きることが、仏道修行にも通じることになるだろう。生活基準を変えて、自分自身で生きねば人生は、開けないのだと思うこの頃です。
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