地蔵菩薩三国霊験記 5/14巻の15/17
十五、 漂流の人を救玉ふ霊験
越中國(富山県)宇治津と云ふ浦に住みける男漁して身命をつなぐものあり。されば晝とも夜とも分たず海上を家とし居りける。或時猛風俄かに吹き来り波濤山の如くなりぬ。此の漁舟のありさま虚空に一塵を飛ばすよりも軽く何方ともわかたず吹きゆきける程に舩中のたくはへもつき果て、船底にたをれ伏して今を限りの折節と思ひければ日比(ひごろ)魚鰕(ぎょか・魚とエビ)を友としける鄙き身なれども風に聞く地蔵大聖は衆生有縁の導師、麁妙を論じ玉はず利生新たに在すとなれば後生の事一切に御助けたまはれと一心に息の絶へるをかぎりに名号を念じける。然るに波風すこし静かに心も少し安くなりぬと覚へれば枕を挙げて見るに、磯の邊に寄せぬ。そのあたり瑠璃の沙を敷き金の岩そびへたり。餘り妙なる事哉と心もさながらうきたちて舟より漸々にあがり四方を見るに樹枝瓔珞の垂れたること露の如し。吹く風だも妙にさながら四徳波羅蜜(常楽我浄)の響をなす。鳥の囀り音律美盡し亦善を究む。いかさま凢境にはあらじ。自然は我此の比久しく風波に犯され日久しく糧絶へ心神守りを失て空華亂散するの見る所かと千思万慮忙々然たる所へ威有りて恐るべく、儀有りて則べき御僧の来り玉ひて、汝疲労の躰に見へたり、予に一藥あり、今汝に與ふとつて服すべしと言ふ。漁人こは有難き次第と頂き服用す。其の味天の甘露の如し。忽ち飢渇止み心意快然たり。さて彼の僧の言く、此の境は春夏もなく亦秋冬もなし。唯だ心意に
したがひて花實をなす。自然に妙法身を得たり。汝平日の志堅固なるにより守護を加ふものなり。今本國に皈すべしと言て同じ形なる僧の六人出現ありて船荘(ふなよそほひ)あそばされつつ俱にこぎ行き給ふが同音に歌って曰、弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 発大清浄願、との玉ふ。御音も波の音、松風ばかりのこりて夢の如くにあれば船底より忍び出て見れば本保宇治の浦にぞありける。餘り不思議にあれば此の夜の体はいかがと問ふに、されば常にかはりて夕部の夜半より今朝に至りて紫雲会場を覆ふ。別に替ることなしこれのみこそとぞ申し合ひける。漁人弥よ奇異の思ひをなし舟中を見るにさせることもなし。只異香舟中にのこり薫じて限り無し。されば薩埵の方便何の疑あるべきと弥よ地蔵尊を信じて一切漁を止め丹誠に名号を口唱す。見聞の浦人の佛種も此の縁より起こりて悉く地蔵信心の里となりぬとかや。されば重罪無道の漁翁だも堅固に善を執れば生身の薩埵に逢ひ奉る。尤も宿善多幸と申しながら順縁の熟す處なり。砂長じて岩となり塵積もりて山と現ずのことはりなり。況や旦夕功業を成し念誦するをや、敬すべし信ずべし。
引証。本願經に、若し未来世善男子善女人ありて或は治生に因り或は公私に因り或は生死に因り或は急事に因り山林中に入り河海乃及大水を過渡し或は險道を經るに、是人先ず當に地藏菩薩名萬遍を念ずべし。過ぐ所の土地鬼神衞護して行住坐臥永く安樂を保たん。(地藏菩薩本願經見聞利益品第十二「復次觀世音菩薩。若未來世有善男子善女人。或因治生或因公私。或因生死或因急事。入山林中過渡河海。乃及大水或經險道。是人先當念地藏菩薩名萬遍。所過土地鬼神衞護。行住坐臥永保安樂。乃至逢於虎狼師子。一切毒害不能損之。」)