地蔵菩薩三国霊験記 12/14巻の3/6
三、佛の大慈は親子を念ふに似たると示し給事
上野國小原の御庄中里(現在の群馬県神流町か)と申すに古き堂舎一宇屁べり。本尊は通身の地蔵菩薩にて在す。往昔には霊験まして人の渇仰もありき。さるほどに寄附の田地も巨多なりしを近年世末代になりもてゆきて、寺領も人に給はりければ、寺舎荒廃して棟梁苔に埋もれ、人の敬ふ荘厳こそかつて絶え果て便宜のよきさまなるときは狼藉の輩、不浄を犯すといへども、刑罰を加る人もなく、寄進の佛物を盗めども其の罰もなし。去るほどに河井七郎伊光と申す俗、信心のものにてありしが此の事をつらつら思ふに、さればこそ世の末になれば佛の威光も失玉ふやらん亦人の罪障の厚くなりて是非の外なりとも佛の人を捨てさせ玉ふやらん。件の重罪人も罰にあたらず狼藉の族も利生がましくあることの不思議さよ、若し末世には随ふて此の如き不当の仁を佛眼只何となく照覧あるかなれどと案じ煩ひてありしが薄智の凡夫の知るところにあらずと思ひけるほどに、月の十八日に参籠して人に物を申すごとくに具に此の旨を夙夜に祈り申しける。所詮これをはれやらで人をそしり、罪に落ちて阿鼻大城に入なんこと豈地蔵薩埵はかなしみ玉はざらんやと、肝胆を砕きて祈り申しければ佛意にや通じけん、其の夜の夢にけだかき御僧の伊光に向て、汝が申すところ理なれども自ら慈悲門に入りて見る所をしらずして人を以て、はるかに上を謀るにいかでしるべけんや。假命佛の方便門より出、一切衆生を哀れみ玉ふことは唯汝が一子を思ふに似たるをや。汝が太郎は殺盗の二を法とせり。人是を諫るに汝其の人を怨みて其の子をいましめず。次郎曲心誑惑を旨とせり。人彼が哀しみを汝に向て語るに、汝其の人を怒りて彼の子を罰せず。三界は己が膝の上に居て拳をあげて汝が頬を打つに、汝是を愛してえみを含み居る。佛意の哀愍と汝が子を思ふ既に以て同じ。汝が息男忠勤し、かすかなるをいたせば忠孝の人にすぐれたりと思へリ。悪人を助けんと思ふ佛心には片手をあぐる程の志をも大善をなすと思へリと御涙を流し玉ふ。伊光猶も不足の心ありて申しけるは、其の中に何とて急に罰を蒙る族も侍るや。僧の玉はく、何とて汝が先腹の息男をば誅しけるぞ。伊光申しけるは、根性凶徒にて人の世のためにあしかるべきに依りて誅伐仕りきと申す。沙門の云く、當代の衆生も唯是の如し。作業一つ二つを作すときは佛の憐憫の御目には見許しはごこみ玉へども、罪業重畳すれば輪廻の業を悲しみて彼の衆生を捨て玉ふ。此の時天神地祇も當伐神と成りて冥罰をあたへ玉ふ者也。悲哉苦哉との玉ふかと思へば夢覚めにけり。伊光夢は覚めけれども唯幻の心地して御身のうつり香伊光に移り止てあれば人ごとに香ぞ孟子ける。さればそら怖ろしく申しければ、常に思寄りける不浄なんどをも犯すことなく、日来胸中の不審晴れて他のなすところの悪は目を閉じて但一念に地蔵を念じ奉りける。弥よ大悲の御恵にぞあずかりける。されば経に曰、諸佛衆生を念ずれども 衆生佛を念ぜず、父母常に子を念ずれども子父母を念ぜずと説けり(諸回向清規「諸佛念衆生。衆生不念佛。父母常念子。子不念父母」)。地蔵菩薩も此の由を以て伊光が不審を示し玉ひて忽ち迷路を引き、菩提の直道に入らしめ玉ふ者か。忝くも地蔵薩埵の異香の我等に薫じ止けることに恐れて伊光俗聖となりて一身清浄の行人となりにき。正(まさし)く菩薩済度の化儀にあずかるものなり。直心清浄なる人は正しく盧遮那の引接にあずかり、称名口にひまなきともがらは終に正覚の蓮臺に遊ぶ者也。