3、原人論(終南山草堂寺沙門宗密述) 斥迷執第一(迷執を斥する)
(儒・道二教は、「天地間にある生き物はすべて虚無の大道から生育す」と説く。また、「大道は元気を生み、元気から天地が生まれ、天地が万物を生み出す。随って愚智・貴賤・貧富・苦楽などはすべて天の意思による。人は死ぬと先ず元の天地に戻って行き、虚無の大道に落ち着く」と云う。儒道二教の主旨は、ただ身を修めよと云うだけで、人の由来を究明するものではない。万物とは云うものの、 現実の世界を超越した本質の問題には触れていない。虚無の大道が根源だとは云うが、順逆・起滅・浄染などの因縁については何も明らかにしていない。儒道二教を学んでいる者は、それが方便の教えであることを知らずに、執着して良しとしている。要点をまとめてこの二教を問い糾すこととする。儒道二教の「万物は虚無の大道から生まれる」が真ならば、大道が生死・賢愚・吉凶・禍福などの現象の本となり、本であるならば常に存在していることになる。ならば、禍乱・凶愚・福慶・賢善などなどは人力が及ばないものとなる。しからば何故老荘の教えを用いる必要があろうか。またこの大道が虎狼を生育し、桀王・紂王を生み出し、顔回・冉耕を早世させた事にもなるし、伯夷・叔斉兄弟を餓死させたことにもなる。これではどうして老荘の教えが尊いものだと云えるだろうか。また自然生化説で「万物は全て自然に生ずるもので、因縁とは無関係」と云うのであれば、石から草が生えてきたり、草が人を生み出したり、人が畜生などを生ずることになる。またその生ずる時に前後・早晩もなく、神通力を得た仙人も丹薬を作る必要もなく、天下太平の為に賢人良士の力を借りる必要もなく、仁義について勉強する必要もなくなる。ならば何故老子・荘子・周公・孔子らの教えを用いる必要があるのか。
また元気説で「すべての物が元気から生まれてくる」と云うのであれば、どうして嬰児が感情を表に顕すことが出来るのか。またこの考えでは、五徳・六芸も自然に身に付いて思いのままに理解出来ると云うことになる。これでは学習してこそ五徳・六芸等が修得出来るということは嘘ということになる。またもし、「人の生は気が集まって始まり、死は気が散って終わる」と云うのならば、誰が死者の霊魂たる鬼神となるのか。時には過去を知る人が居る。それは生前から受け継いだ記憶であり、気が集まってすぐに現れたものではない。また、「鬼神には霊知が存在する」とも云う。だから死後気が散れば何も無くなってしまうと云うことはない。故に鬼神を祀ったり、祈祷したりしている。死者が生き返ってあの世のことを語ったとか、あるいは死者が現れて妻子を喜ばせたとか、恨みを晴らしたとか、恩返しをしたとか云う話が今も昔もある。また仏教に対し「もし人が死んで鬼になるというなら、昔からの鬼達で巷は溢れ、人々の目に触れるはずだが、どうして見えないのだ」という批判があるが、これに仏教徒は答えて、「人は死ぬと六道の世界に輪廻して、必ずしもすべての人が鬼になる訳ではない。鬼が再びまた人間に戻ることもあり、巷に鬼が溢れてしまうと云うことはない」とする。しかも儒道二教を信ずる者は、「天地の気には、もともと何も備わっていない」と云う。人が空っぽな気から生まれ出たとするならば、どうして生まれてすぐに知恵を働かせることが出来るのだろうか。草や木もまた気から生じるとすれば草や木にも知恵が備わっている筈だが、それが認められないのはなぜか。また、儒・道は「貧富も貴賤も賢愚も善悪も吉凶も禍福もみんな、天命だ」と云う。ならば、どうして世の中はこうも貧しい人や地位の低い人や災いが多く、豊かな人や地位の高い人や幸せな人が少ないのだろうか。全ての現象が天命に由るのであれば、天というものはなんと不平等なものだろうか。さらに功績も無いのに高い地位に居たり、正しい行いをしているのに地位が低かったり、徳も無いのに裕福だったり、徳が有っても貧しかったり、理に背いているにも拘わらず恵まれていたり、身持ちが正しいのに恵まれなかったり、慈悲深いのに早死にしたり、暴れん坊なのに長生きしたりと、道に叶った生き方をしている者が恵まれず、道を踏み誤った者が恵まれるとは、一体どう言うことか。何事も天意によるとするのであれば、天は道に外れた行いを奨励して、人の道を滅亡させようとしているのだろうか。どうして善人には幸せを与え、慎み深い人には利益をもたらすように褒め称え、道に外れた者には災いを下し、驕り高ぶった我が儘者には天は罰を加えないのか。また全ての災いや世の乱れや反逆者の出現が天命に由るのであれば、聖人が教えを設けて人々を責め立てて天にはその責任を問わないと云うのでは道理に合わない。そして「詩経」の中では乱政を戒め(「詩経・大序)に「治世の音は安じて以て楽しく、其の政和す。乱世の音は怨みて以て怒
る、其の政乖く。亡国の音は哀しみて以て思ふ、其の民困しむ。故に得失を正し、天地を動かし、鬼神を感ぜしむるは、詩よりも近くは莫し」とあり)「書経」の中では王道を讃え(書経に「二帝三王の治は、道に本づく。二帝三王の道は、心に本づく。其の心を得るときは、則ち道と治と、固に得て言う可し」)「礼記」の中では君主を安んじることを説いたり、「楽記」の中では良俗を勧めている。では、これは天の意思をよく守り、造物主の心に添えと云うだけのことか。これでは、二教の徒も人間の根源を窮めることは出来まい。)
「儒・道を習ばば儒・道の二教は、人畜等の類、皆是れ虚無の大道より生成養育すと説く。謂く、道法より自然に元氣を生じ、元氣は天地を生じ、天地は萬物を生ず。故に愚智・貴賎・貧富・苦樂は皆な天より禀くること時と命に由れり。故に死後却って天地に歸し、其れ虚無に復すとなす。然るに外教の宗旨は但だ身によって行を立つるにあり。身之元由を究竟するにあらず。説く所の萬物も象外を論ぜず。大道を指して本と為すと雖も而も備さに順逆・起滅・染淨の因縁を明かさず。故に習ふ者は是れ權なることを知らず。之を執して了と爲す。今略して擧げて之を詰せん。所言の萬物は皆な虚無大道より生ずるとせば、大道は即ち是れ生死賢愚之本、吉凶禍福之基なり。基本既に其常に存せば、則ち禍亂凶愚除くべからざる也。福慶賢善益すべからざる也。何ぞ老莊之教を用ん耶。又た道、虎狼を育し、桀紂を胎し、顏冉(徳行にすぐれた顔淵・冉伯牛)を夭し、夷齊(伯夷・叔斉)を禍す。何ぞ尊と名くる乎。又た「萬物は皆な是れ自然に生化す、因縁に非ず」と言はば、則ち一切因縁なき處、悉く生化すべし。謂く石まさに草を生ずべく、草或は人を生じ、人畜等を生ずべし。又應に生ずること前後なく、起つこと早晩なかるべし。神仙は丹藥に藉らず、太平は賢良に藉らず、仁義は教習に藉らずんば、老莊周孔、何ぞ立教し軌則と為すことを用ひん乎。又皆な元氣より生成すと言はば、則ち欻生(こっしょう・忽然と生じる)之神、未だ曾って習慮せず。豈に嬰孩にして便ち能く愛惡驕恣することを得ん焉。若し欻(こつ)有自然にして便ち能く隨念に愛惡す等と言はば、則ち五徳六藝悉く能く隨念に解せむ。何ぞ因縁を待ちて學習して成ずるや。又た若し生は是れ気を禀けて而ち欻(たちまち・突然)有り、死は是れ氣散じて欻(たちまち)無きならば、則ち誰をか鬼神と為さん乎。且つ世に前生を鑒達し往事を追憶することあるときは、則ち知る、生前の相續にして気を禀けて欻(たちま)ち有るに非ず。又、鬼神靈知、斷ぜざることを驗るときは則ち知る、死後氣散じて欻たちまち無なるに非ず。故に祭祀して求祷する典藉文あり。況んや死して蘇る者は幽途の事を説き、或は死後妻子を感動し怨恩を讎報すること、今古皆有るを耶。外、難じて曰く、「若し人、死して鬼と為るならば、則ち古來之鬼は巷路に填(み)ち塞がん。見る者あるべし、如何ぞ爾(しから)ざるや」。答曰「人、六道に死す。必ずしも皆な鬼と為らず。鬼は死して復た人と為る。豈に古來の積鬼常に存せん耶。且つ天地之氣は本と無知也。人は無知之氣を禀く。安なんぞ欻(たちま)ち起きて知あることを得ん乎。草木も亦た皆な気を禀く。何ぞ知らざる乎。又た貧富貴賎賢愚善惡吉凶禍福、皆な天命に由ると言はば、則ち天之賦命は、奚なんぞ貧は多く富は少に、賎は多く貴は少なく、乃至禍は多く福は少なることあらんや。苟くも多少之分、天に在らば、天は何んぞ平らかなざらる乎。況んや無行にして貴く、行を守って而も賎、無徳にして富み有徳にして貧、逆は吉、義は凶、仁は夭、暴は壽、乃至有道の者は喪び、無道の者は興るあり、既に皆な天に由らば天乃ち不道を興して有道を喪すなり。何ぞ善に福し謙に益するの賞、淫に禍し盈に害するの罰有んや。又た既に禍亂・反逆、皆な天命に由らば、則ち聖人教を設くるに、人を責めて天を責めず、物を罪して命を罪せず、是れ不當也。然れば則ち詩に亂政を刺(そし)り、書に王道を讃し、禮に安上を稱し、樂に移風を号す。豈に是れ上天之意に奉じ、造化之心に順ぜん乎。是に知る、此の教を専らにする者は未だ人を原(たずね)る能わず。」