小学生の頃、奈良の学園前に住んでいた。
もう40年近く前の話だが、既に美しく整備された町として知られていた。
近鉄奈良線の駅に隣接して手塚山学園があり、それが駅名になっている。
駅前にはロータリーがあり、北方には大規模な公団住宅があった。
私はその公団住宅の住人だった。
真新しい公団は壁面も真っ白で清潔な感じがした。
学園前という地は当時の近鉄の総帥である佐伯勇氏の豪邸のお膝元で、近鉄が開発した大規模な住宅都市である。
電鉄経営の象徴的な町で、私にとっては興味深い場所だ。
東にあやめ池遊園地、西に百楽荘が控える。
電車は当時は特急は停まらず(鶴橋の次は西大寺というノンストップ型だった)
急行停車駅だったが後に快速急行が停車し、さらに有料特急が停車する駅になった。
当時はまだ800系が走っており、8000系が増備されている最中であった。
色は勿論クリーム色にブルーのライン。
さて、そうは言っても、まだ北方の丘陵地帯は何も無かった。
今の高級住宅街、中登美ケ丘地区は森や池があり、大きな貝が取れたり、
不思議な生物がたくさんいた。
佐伯社長の豪邸の西側の地区も生駒まで続く広大な森と山で、カブトムシや
クワガタの宝庫だった。
駅から木津まで行くバスはボンネットバスで、私が虫を取りに行くと言えば、運転手さんは、わざわざ登山口までバスを回してくれた。
さて、時は経ち、大学生の頃に学園前を訪れた。
写真は、佐伯社長宅前で撮った奈良交通(=近鉄)のバス。
これとて25年以上前の写真だ。
この何千坪もの広大な邸宅は、その後、美術館になっている。
ちょうど東急の五島家の上野毛の居宅がその後美術館になったのと同様だが、
佐伯邸のまるでゴルフ場のような広大さには到底敵わない。
私のような鉄道好きには佐伯氏は他の電鉄経営者とは違って見える。
東大を卒業後、近鉄の駅員、運転手を経て、庶務課社員、総務部長から
後に7代目社長までなった稀なケースだ。
現在の学園前は、緑が多く、しっとりした落ち着きも加えて、
ますます素敵な町になっているようだ。
オリンパス OM-1、レンズは不明。
(絹目のプリントをスキャンしているので、画像がデコボコしています。)
もう40年近く前の話だが、既に美しく整備された町として知られていた。
近鉄奈良線の駅に隣接して手塚山学園があり、それが駅名になっている。
駅前にはロータリーがあり、北方には大規模な公団住宅があった。
私はその公団住宅の住人だった。
真新しい公団は壁面も真っ白で清潔な感じがした。
学園前という地は当時の近鉄の総帥である佐伯勇氏の豪邸のお膝元で、近鉄が開発した大規模な住宅都市である。
電鉄経営の象徴的な町で、私にとっては興味深い場所だ。
東にあやめ池遊園地、西に百楽荘が控える。
電車は当時は特急は停まらず(鶴橋の次は西大寺というノンストップ型だった)
急行停車駅だったが後に快速急行が停車し、さらに有料特急が停車する駅になった。
当時はまだ800系が走っており、8000系が増備されている最中であった。
色は勿論クリーム色にブルーのライン。
さて、そうは言っても、まだ北方の丘陵地帯は何も無かった。
今の高級住宅街、中登美ケ丘地区は森や池があり、大きな貝が取れたり、
不思議な生物がたくさんいた。
佐伯社長の豪邸の西側の地区も生駒まで続く広大な森と山で、カブトムシや
クワガタの宝庫だった。
駅から木津まで行くバスはボンネットバスで、私が虫を取りに行くと言えば、運転手さんは、わざわざ登山口までバスを回してくれた。
さて、時は経ち、大学生の頃に学園前を訪れた。
写真は、佐伯社長宅前で撮った奈良交通(=近鉄)のバス。
これとて25年以上前の写真だ。
この何千坪もの広大な邸宅は、その後、美術館になっている。
ちょうど東急の五島家の上野毛の居宅がその後美術館になったのと同様だが、
佐伯邸のまるでゴルフ場のような広大さには到底敵わない。
私のような鉄道好きには佐伯氏は他の電鉄経営者とは違って見える。
東大を卒業後、近鉄の駅員、運転手を経て、庶務課社員、総務部長から
後に7代目社長までなった稀なケースだ。
現在の学園前は、緑が多く、しっとりした落ち着きも加えて、
ますます素敵な町になっているようだ。
オリンパス OM-1、レンズは不明。
(絹目のプリントをスキャンしているので、画像がデコボコしています。)