一葉は14歳のころ、小石川安藤坂にあった中島歌子の主宰する歌塾「萩の舎」に入門する。この塾は、主に上流階級の女性に和歌や書を教える私塾で、最盛期には1000人を超える塾生が集ったという。
樋口家は、父則義の事業失敗などで経済は苦境に立たされ始めていたが、青海小学校高等科を首席で卒業した一葉にもっと学問させたいとの父の思いもあり、入塾がかなった。
そうして一葉の十代は、主としてこの萩の舎を中心として過ぎていくことになる。
萩の舎の跡には案内プレートがあるだけで、今は全く跡形もない。18歳の時にはここ萩の舎に寄宿していたこともある。
塾の主催者・中島歌子は、武蔵国の豪商の娘に生まれ、後に日本女子大の教授に迎えられるほどの知識人。一時は一葉にこの塾を継がせようとしたこともあった。
歌子の歌碑が、安藤坂近くの北野神社内に残されていた。
この神社は俗に「牛天神」と呼ばれ、寝転んだ牛の像が境内に置かれている。
ここで、夏目漱石と一葉がひょっとして兄妹になっていたかもしれないという、意外なエピソードを紹介しよう。
漱石の父夏目直克は牛込馬場下横町(現新宿区)の町方名主だったが、明治維新後警視庁の役人となった。一方一葉の父則義は同心だったが、維新後警視庁に入った。そんな関係で漱石の父は一葉の上司になる。則義は事業に手を出して多額の負債を背負っており、しばしば上司の直克から借金していたという。
そんな折、双方の関係者から一つの縁談話が持ち込まれた。「(夏目家の長兄)大一に、樋口家のお奈津さん(一葉)はどうだろう?」「歌も作るし、大層な才媛。あの娘をもらったらいいんじゃないか!」。
しかし、直克はしばし考えた。「今でもちょこちょこ金をせびられる。なのに娘を貰ったら、それこそどうなるか・・・」。
かくして漱石と一葉の縁はつながることなしに終わってしまった。この話は漱石の妻・鏡子が後に「漱石の思い出」に記し、これを司馬遼太郎が「街道を行く 本郷編」に綴っている。
話を戻そう。法真寺からいったん本郷通りに戻り、春日通りの交差点を右折して桜木神社を過ぎると、右に下る坂がある。
ここが本妙寺坂。
この坂上に本妙寺という寺があったことから名付けられた名前だ。
この寺は江戸時代の大事件の源となった所。1657年(明暦3年)正月に発生した「明暦の大火」だ。この火事は死者10万人以上、江戸城本丸まで焼け落ち、その後現在に至るまで江戸城に天守閣がないという原因を作った火事だ。
この火事については、改めてテーマを掲げて検証することにしよう。
本妙寺坂を上りきると、左に入った所に「オルガノ」という会社の建物がある。その突き当りに1つの碑が建てられている。
「本郷菊富士ホテル」跡だ。
隣の石に、このホテルに宿泊した著名人の名前がずらりと記載されている。石川淳、尾崎士郎、正宗白鳥、谷崎潤一郎・・・。まさに綺羅星のごとくに列挙されている。
ここはホテルという名前ではあったが、いわば高級下宿。営業期間は大正3年から昭和19年までのわずか30年。同20年3月10日の東京大空襲で焼け落ちてその歴史を閉じたが、帝国ホテルなどと並ぶ東京で3つ目のホテルとして‟ハイカラ”な魅力にはまった作家たちが多かったようだ。
そんな中で文壇の1つの‟事件”もあった。
若き日の宇野千代が、このホテルに一時住んでいた尾崎士郎と会った。同席していたもう一人の作家が席を立ったが、
宇野は「しかし、私は立てなかった。二人はその後何か話をしたのであろうか。北海道へ帰る時間は、もうとうに過ぎていた。夜が更けたので、尾崎は私のために部屋をもう1つ用意させたのであったが、それは、二人の間に燃え上がった感情を抑制する役には立たなかった」(宇野千代「生きて行く私」より)
そんなロマンスの刻まれたホテルは、もう全く面影もない。
たぶんこの付近から見えたであろう富士山の姿も、もう見えることはなくなってしまった。