竜泉寺町での生活は、一葉の社会観、人間観に大きな影響を与えたが、商売は破たんへの道をたどっていた。
1894年(明治27年)4月雑貨店は廃業となり、一葉一家は通算15度目、生涯最後の転居を余儀なくされる。その場所を訪ねた。
以前住んでいた菊坂の長い坂を西に歩いて、言問通りから白山通りに入って北上する。白山通りは道路幅も広く、歩道もゆったりしているので、車も気にならず心地よく散歩気分が味わえる。
4~5分も歩いただろうか、右手の通りに紳士服のコナカの大きな看板が見える。そこが、一葉をたどる旅の最終目的地、本郷丸山福山町(現西片1丁目)。
店の正面右側に「一葉 樋口夏子の碑」と書かれた文学碑が立つ。
一葉の文学的才能は、この地で一気に開花する。
1894年12月、転居後約半年で、一葉は「大つごもり」を完成させ、文学界に掲載された。
これを機に、翌年から「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など、わずか14か月の間に7編の小説と4編のエッセイを次々と発表、後に≪奇跡の14か月≫と称される記念碑的な歳月が、ここに刻まれることになる。
当時、「たけくらべ」を読んだ森鴎外は「われはたとえ世の人に一葉崇拝の嘲りを受けんまでも、この人にまことの詩人という称をおくることを惜しまざるなり」と、絶賛している。
この地に建てられた碑には、一葉の日記(1894年4月25日と5月1日)を筆跡そのままに写した文章が掲載されている。
また、日記以外の文字は平塚らいてふの筆になる。(一葉の本名は樋口奈津。ただ、なつ、夏子などと書かれることもあった)
ただ、1896年3月ころから肺結核の病状が進行していた。そして、7月ころからはしばしば発熱し、床に臥すようになっていた。
11月23日、病床で妹の邦子に「向きをかえさせておくれ」、と言い、その通りにすると、そのまま呼吸が絶えてしまったという。
こうして、24年のあまりにも短い生涯を炎のごとく走り抜けた一葉は、まるで蜃気楼のようにその姿を消してしまった。
今、一葉は杉並区にある西本願寺和田掘廟に眠っている。
鏑木清方の筆になる「一葉女史の墓」の絵を最後に掲載して、このシリーズを終了することにしよう。