新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

隅田川③ 慶応、青山、立教・・・多くの大学がみな築地で産声を上げた

2018-01-08 | 東京探訪・隅田川の橋
 築地に行ったついでに、この周辺を散歩してみよう。

 勝鬨橋手前にある築地市場。

 それに、すぐ近くの築地本願寺。築地の二大ランドマークともいえる。

 高くそびえる聖路加タワー。この辺りは学問の歴史上からも重要な場所だ。
 聖路加看護大学前には、「日本近代文化事始の地」と書かれた碑があり、さらに「慶應義塾発祥の地」「蘭学の泉はここに」と記されている。



 この場所には豊前中津藩奥平家の中屋敷があった。その藩医だったのが前野良沢で、オランダの解剖書「ターヘルアナトミア」の翻訳が前野と杉田玄白を中心に行われ、「解体新書」が完成した。それを記念した碑が建っている。(文字が薄くて、読みにくくなっていた)

 また、慶應義塾の起源は、福沢諭吉が中津藩の蘭学塾教師に就任し、教育を始めたことからスタートするということで、慶応義塾大学創立百年のときに碑が作られた。

 「学問ノススメ」初版本の「天は人の上に・・・」の文字が刻まれている。

 福沢諭吉に関するこんなエピソードを、司馬遼太郎が「街道をゆく」に記している。

 福沢が横浜の外国人居留地に出かけた時、外国人にオランダ語で話しかけたが、一向に通じない。また、通りの看板も解読できなかった。それによって、オランダ語が欧米における少数言語に過ぎないことを初めて知り、以降英語を学び始めたーーーという。

 実は徳川家康が幕府を開いたころ、築地はまだ海面下だった。だが、1657年の明暦の大火によって出された大量の焦土を利用して埋め立てられた土地が築地だった。
 
 1858年、欧米5か国との修好通商条約が結ばれて開国が決定し、来日する外国人たちを受け入れるための外国人居留地として、築地明石町一帯が開放され、そこが文明開化の窓口となり、また、学問の拠点となっていった。

 そんなわけで、今も続くキリスト教系の学校はほとんどがこの地で誕生した。

 青山学院、立教、

 女子学院など、築地居留地は文教都市としての歴史も担っていたわけだ。

 さらに、聖路加大学の敷地にはこんな碑もある。

 芥川龍之介生誕の地。芥川は築地明石町で生まれた。辰年、辰の日、辰の刻に生まれたため、名前に龍の字が付けられたという。
 ただ、生後間もなく母の兄・芥川家に養子として引き取られて、両国3丁目に移って行った。

 もう1つは浅野内匠頭邸跡の碑。江戸城松の廊下での刃傷沙汰で、切腹を命じられた浅野内匠頭が生前江戸での生活をここで送っていた。

 このように、築地周辺は江戸から明治にかけての我が国の歴史の痕跡が、いまだに残っていることを再確認できる。

 紹介が後回しになってしまったが、聖路加国際病院は1902年、アメリカ人宣教師トイスラーによって開設されたのが始まり。「せいろか」と呼ばれているが、福音書記者聖ルカの名を取っており、「せいるか」が正しいのだという。

 夜、大学の十字架を配した塔が夜空にそびえるように光っていた。

 以前、聖路加タワーに登った時に撮影した夜景。手前に勝鬨橋があり、左後方にはレインボーブリッジの姿が望める。このころには築地大橋はなかった。


 
コメント
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