二十六聖人記念館は、記念碑のすぐ後方に建っている。館西側の壁には陶片による壁画が施されている。これは、京都で逮捕された26人が殉教の地長崎までたどった道中にある幾つもの窯元に呼び掛けて、提出してもらった陶片で作成されたものだ。
十字架など、意匠を凝らしたモチーフがちりばめられている。
館内には貴重な資料が多数陳列されている。これはフランシスコ・ザビエルの手紙。我が国に最初にキリスト教をもたらしたザビエルが、ポルトガル・ヨハネ3世に宛てた手紙だ。国内に残る唯一のザビエル直筆。
実に慈悲深い表情をしたマリア像があった。「雪のサンタマリア」。外海町の潜伏キリシタンの家に伝えられたもの。用紙は和紙を使っており,岩絵の具で彩色されている。長崎の南蛮絵師による17世紀の作品だ。
また、舟越保武作の高山右近像もあった。代表的なキリシタン大名であり、戦国武将として信長や秀吉に仕えた。 禁教令が出ても信仰を捨てずに国外追放となり、マニラで病死した。
今年1月、バチカンは彼を「聖人」に次ぐ「福者」に認定した。ちょうど長崎を巡っている中でふと手にしたパンフレットに、2017年2月に大阪城ホールで高山右近の列福式が行われるとのニュースが掲載されていた。
小さな銅版画も。聖母子を描いた繊細なタッチの絵で、日本人によって造られたとみられる。タイトルは「セビリアの聖母」。天正遣欧少年使節一行が持ち帰った印刷機で刷られたもののようだ。
その少年使節の1人、中浦ジュリアンを描いた絵と、彼が1621年9月にローマのイエズス会に送った手紙も保管されていた。
彼ら天正遣欧少年使節に触れるならば、彼らが辿った波乱の生涯をたどる必要があるだろう。
少年使節とは、伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノ、千々石ミゲルの4人。いずれも13~14歳の少年が、長崎の港から欧州に向けて出港したのは、1582年2月20日のことだった。
イエズス会東インドの責任者アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が、当時の天下人織田信長の信任を得て少年たちをローマに派遣した。キリスト教の日本布教への経済的精神的援助を依頼しようとの趣旨だった。
マンショは大友宗麟、ミゲルは大村純忠の親戚で、キリシタン大名の名代としての意味も兼ねていた。一行は2年半後にポルトガルに到着、1年半をかけてスペイン、イタリアを巡回しフェリペ2世やグレゴリウス・ローマ法王と謁見するなど歓待を受けた。ローマではイエズス会の総本山ジェズ教会にも滞在した。この際、狩野永徳の描いた安土城屏風を法王に献上している。
そして、1590年7月21日、さっそうと長崎に帰ってきた。
しかし、その8年間にキリスト教に関わる国内情勢は大きな変化を見せていた。まず、布教に理解を示していた信長は、彼らが出発したその年6月に、本能寺の変で死去。豊臣秀吉はキリスト教への警戒心を募らせて、1587年には伴天連追放令を出していた。
まだ、この段階では日本人信徒への弾圧までには至らなかったが、1597年宣教師ら26人の磔刑という事件が発生した。次に江戸幕府を樹立した徳川家康は1614年、全国に禁教令を出して全面的な締め付けが始まった。
こうした中で、4人はどうしたのか。
ミゲルを除く3人は1601年からマカオに行き、司祭になるための修行を積んで見事司祭に昇格した。
しかし、マンショは1612年に病に倒れて死亡。マルチノは1614年に迫害を逃れてマカオに行き、帰国できないままに客死した。
ジュリアンは禁教令後も日本に留まり、潜伏しながらも布教や信者たちの指導に努めていた。記念館に残る手紙はそうした当時のものだ。
「私は最も厳しい迫害、すなわち宣教師を日本から追放し、すべてのキリシタンたちに背教させようとした年から、潜伏しております」との書き出しで始まり、「ちょうど今、新たに迫害を始めるという知らせがありました。神様が私たちに忍耐と勇気をお与えになるよう祈っています」とポルトガル語で記されている。
ジュリアンの潜伏生活は実に18年にも及んだ。が、1632年に逮捕され、1年間の拷問の末1633年10月、長崎で穴吊りになって殉死。悲劇の最期を遂げた。そのとき彼は「私はローマに赴いた中浦ジュリアンである」と言い残したという。彼は2007年、福者と認定された。4人のうち福者になったのはジュリアンただ1人だけだった。
残るミゲルは、帰国後ラテン語などの勉学に努めていたが、キリスト教を棄教、大村家の家臣となった。だが、ジュリアンの死を聞いて後、衰弱死したとも伝えられる。
記念館の裏口の扉には大きな手のひら。
その前には二十六聖人の一人トマス小崎の小さな像が飾られていた。
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