新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

東京探訪・樋口一葉編④ 「近代文学の揺りかご」本郷界隈の階段で、一葉と正岡子規がすれ違う!?

2017-04-11 | 東京探訪・樋口一葉編

 一葉の旧宅から質屋の伊勢屋まではほんの数分。3階建ての家屋のある10数段の石段を上ると、伊勢屋の白い壁が見えてくる。
 当時は石段ではなく土の坂だったろうが、この上り坂を風呂敷包みを片手に、小走りに駆け上がる若き一葉の姿が、思い浮かぶ瞬間があった。

 
 また、この場所にももう1つのエピソードがある。 石段の下、坂道の突き当りの家の2階には、一葉が死亡してからちょうど25年後の1921年(大正10年)1月にに宮沢賢治が岩手から上京し、この場所に下宿した。東大赤門前にあった文信社で筆耕、校正などの仕事をしながら自活していた。
 その間、「注文の多い料理店」の中の「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」などはこの地で執筆したものだ。 

 ただ、8月に妹トシの肺炎悪化の知らせを受けて花巻に戻ることになり、賢治の短い東京生活はあっけなく終わりを告げた。トランク一杯の原稿を携えての帰郷だった。


 菊坂町一帯には明治時代菊畑があったことから、その名前が付いた。訪れたのが春だったので、さすがに菊の花は見かけなかったが、そこかしこに花々が見られた。

 井戸水を汲み上げるポンプも、旧一葉宅以外でも設置されていた。

 その菊坂町の1段上は本郷台地になる。

 急な上り坂があり、炭団坂と命名されていた。

 標識には「雨上がりには炭団のように転び落ち、泥だらけになってしまったことであろう」と、地名の由来が記されていた。

 上りきると、標識がある。1884年からの3年間、ここに坪内逍遥が住んでいた。
 坪内逍遥は明治期の写実主義の作家。ここで「小説神髄」「当世書生気質」を執筆した。

 逍遥の精神を表現した言葉「文学は芸術である」は有名な言葉だ。この言葉からふと浮かんだのは、昨年のボブ・ディランのノーベル文学賞受賞。あのニュースは「歌詞は文学である」と宣言したような出来事だった。

 また、この地を訪れた二葉亭四迷に逍遥は言文一致の小説執筆を勧め、その結果「浮雲」が誕生したというエピソードも残っている。

 また、逍遥が転居した後は旧伊予藩久松氏の所有する寄宿舎「常盤会」となり、そこに若き頃の正岡子規が寄宿していた。



 子規は上京して第一高等学校から帝国大学に入学、ここで学生生活を送った。ここから菊坂方面を見て作った句がある。
 「ガラス戸の外面に夜の森見えて 清けき月に 鳴くほととぎす」

 子規は、一時引っ越したこともあったが、1890年(明治23年)1月から1891年10月まではこの常盤会に住んでいた。一方、一葉が菊坂町に引っ越して住んだのは1890年9月から1893年7月まで。
 つまりこの期間は2人の文人がわずか数10mの距離の地に住んでいたわけだ。従って学校帰りの子規が質屋に走る一葉と、あの狭い石段ですれ違ったことも十分考えられる。
 ただ、まだ2人とも文壇デビュー前の無名の市民だった。


 この高台からの見晴らしは、晴れ晴れとした気分にさせてくれる。

 さらにもう少し西側の坂は鐙坂(あぶみざか)。坂が鐙状に曲がっていたことから名付けられた。

 この坂もかなり急。しかし、脇の石垣など風情のあるままに残されていて、菊坂町ともども明治の雰囲気を懐古出来そう。

 そのためか、文京区の景観賞受賞のプレートが貼ってあった。

 「旧真砂町」という標識も。これによると、泉鏡花の「婦系図・湯島の白梅」の舞台となったことでも有名だという。

  学生早瀬主税と元芸者お蔦との悲恋の物語。「別れろ切れろは芸者の時に・・・」の名セリフで有名だ。そのロケで、鶴田浩二と山本富士子のコンビのシーンがこの周辺で撮影されたという。

 また、この坂の途中に金田一京助の旧居跡という標識も見つけた。本当にこの付近は文学にゆかりのある標識があふれていた。

 司馬遼太郎は「街道をゆく 本郷編」で、本郷界隈のことを「明治の近代文学の揺りかご」と評している。
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東京探訪・樋口一葉編③ 質屋通い、ほのかな恋の行方

2017-04-08 | 東京探訪・樋口一葉編

 散策に戻ろう。ホテル跡のすぐ下を通る菊坂を西に向いて歩く。

 本郷3丁目31の路地を左手に入ると、行き止まりの、しかし落ち着いた小路がある。ここが、一葉が18歳の時に転居した家の露地だ。
 当時、父や兄たちが次々と死去、母親と妹を抱えて自らが戸主となって暮らしを支えなければならない苦境に立っていた。

 路地の途中には堀抜き井戸があり、ここから汲み上げた水が一葉一家の生活用水となっていた。


 「小説を書いて、小説家として生活したい」。それは、明治の女性としてはまだ誰も成し遂げたことのない、無謀とも思える決意だった。
 だが、一葉は歌塾「萩の舎」で学習した経験も生かして、作家として身を立てようとしていた。しかし、当面の暮らしのめどは全く立たないまま。

 このころから書き出した日記には「我が著作いまだ成らず。一銭を得るの目当てあらず」。

 「昨日より家のうちに金というもの一銭もなし」などと記されている。

 そのため何度も近くにあった質屋「伊勢屋」の世話にならざるを得なかった。

 「此の月も伊勢屋がもとに走らねば事足りず。小袖四つ、羽織二つ風呂敷に包みて、母君と我と持ちゆかんとす」。


 「蔵のうちに はるかくれ行 ころもがえ」

 この質店は1860年、つまり江戸時代に開業し、1982年まで営業していた。建物は文京区の指定有形文化財として跡見学園が管理しており、土、日曜は一般公開されていた。それで、中を見せてもらうことが出来た。

 係員の説明では、土蔵は明治20年に足立区から移築したもので、火事に強く延焼を防ぐ重要な役割を果たしていた。また、壁はねずみ壁といって黒く塗られており、日差しの反射などで着物が日焼けしたりしないような工夫がなされていた。

 そんな質屋通いの苦しい日々の中にも、一筋の希望の光を見た時があった。
 菊坂に転居してから7か月後、1891年4月に、小説執筆や発表などについての指導を仰ぐため、知人から東京朝日新聞の小説記者半井桃水を紹介された。


 桃水は当時31歳、スマートでハンサム、妻と死別して独身だった桃水に一葉は惹かれて行った。
 「君は年の頃30ばかりにやおはすらん。・・・色いと白し、面(おもて)おだやかに少し笑み給へけるさま、誠に3歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ」。


 1892年2月4日の雪の日、桃水の家を訪れた一葉に対し、桃水は自らお汁粉を振る舞い、「雪が降り続いているから、今夜は泊まって行ったら・・・」と声をかけた。

 迷いつつもそれを断り、自宅に戻った一葉だったが「種々の感情胸に迫りて、雪の日という小説一篇編まばやの腹稿なる」と、あふれる思いの中でその心持を小説に表現しようと思ったことを日記に綴っている。

 ただ、桃水が妹の友人に子供を産ませた、などのうわさが流れ、一葉との関係もスキャンダルとして友人間に広まったことで、親友から彼との絶交を迫られた。

 こうして一葉の恋は、わずか1年あまりではかなく終焉を迎えることになった。

 「哀(まこと)に悲しく 涙さえこぼれぬ」。


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東京探訪・樋口一葉編② 歌塾「萩の舎」、漱石と一葉が義兄妹に!?

2017-04-04 | 東京探訪・樋口一葉編

 一葉は14歳のころ、小石川安藤坂にあった中島歌子の主宰する歌塾「萩の舎」に入門する。この塾は、主に上流階級の女性に和歌や書を教える私塾で、最盛期には1000人を超える塾生が集ったという。

 樋口家は、父則義の事業失敗などで経済は苦境に立たされ始めていたが、青海小学校高等科を首席で卒業した一葉にもっと学問させたいとの父の思いもあり、入塾がかなった。
 
 そうして一葉の十代は、主としてこの萩の舎を中心として過ぎていくことになる。

 萩の舎の跡には案内プレートがあるだけで、今は全く跡形もない。18歳の時にはここ萩の舎に寄宿していたこともある。

 塾の主催者・中島歌子は、武蔵国の豪商の娘に生まれ、後に日本女子大の教授に迎えられるほどの知識人。一時は一葉にこの塾を継がせようとしたこともあった。

 歌子の歌碑が、安藤坂近くの北野神社内に残されていた。

 この神社は俗に「牛天神」と呼ばれ、寝転んだ牛の像が境内に置かれている。

 ここで、夏目漱石と一葉がひょっとして兄妹になっていたかもしれないという、意外なエピソードを紹介しよう。

 漱石の父夏目直克は牛込馬場下横町(現新宿区)の町方名主だったが、明治維新後警視庁の役人となった。一方一葉の父則義は同心だったが、維新後警視庁に入った。そんな関係で漱石の父は一葉の上司になる。則義は事業に手を出して多額の負債を背負っており、しばしば上司の直克から借金していたという。

 そんな折、双方の関係者から一つの縁談話が持ち込まれた。「(夏目家の長兄)大一に、樋口家のお奈津さん(一葉)はどうだろう?」「歌も作るし、大層な才媛。あの娘をもらったらいいんじゃないか!」。

 しかし、直克はしばし考えた。「今でもちょこちょこ金をせびられる。なのに娘を貰ったら、それこそどうなるか・・・」。


 かくして漱石と一葉の縁はつながることなしに終わってしまった。この話は漱石の妻・鏡子が後に「漱石の思い出」に記し、これを司馬遼太郎が「街道を行く 本郷編」に綴っている。

 話を戻そう。法真寺からいったん本郷通りに戻り、春日通りの交差点を右折して桜木神社を過ぎると、右に下る坂がある。

 ここが本妙寺坂。

 この坂上に本妙寺という寺があったことから名付けられた名前だ。
 この寺は江戸時代の大事件の源となった所。1657年(明暦3年)正月に発生した「明暦の大火」だ。この火事は死者10万人以上、江戸城本丸まで焼け落ち、その後現在に至るまで江戸城に天守閣がないという原因を作った火事だ。
 この火事については、改めてテーマを掲げて検証することにしよう。



 本妙寺坂を上りきると、左に入った所に「オルガノ」という会社の建物がある。その突き当りに1つの碑が建てられている。

 「本郷菊富士ホテル」跡だ。

 隣の石に、このホテルに宿泊した著名人の名前がずらりと記載されている。石川淳、尾崎士郎、正宗白鳥、谷崎潤一郎・・・。まさに綺羅星のごとくに列挙されている。


 ここはホテルという名前ではあったが、いわば高級下宿。営業期間は大正3年から昭和19年までのわずか30年。同20年3月10日の東京大空襲で焼け落ちてその歴史を閉じたが、帝国ホテルなどと並ぶ東京で3つ目のホテルとして‟ハイカラ”な魅力にはまった作家たちが多かったようだ。

 そんな中で文壇の1つの‟事件”もあった。

 若き日の宇野千代が、このホテルに一時住んでいた尾崎士郎と会った。同席していたもう一人の作家が席を立ったが、
 宇野は「しかし、私は立てなかった。二人はその後何か話をしたのであろうか。北海道へ帰る時間は、もうとうに過ぎていた。夜が更けたので、尾崎は私のために部屋をもう1つ用意させたのであったが、それは、二人の間に燃え上がった感情を抑制する役には立たなかった」(宇野千代「生きて行く私」より)

 そんなロマンスの刻まれたホテルは、もう全く面影もない。


 たぶんこの付近から見えたであろう富士山の姿も、もう見えることはなくなってしまった。
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東京探訪・樋口一葉編① 一葉が育った場所は東大赤門の真ん前だった

2017-04-01 | 東京探訪・樋口一葉編
 今月から新シリーズです。東京という街の歴史の面影を、著名人の足跡をたどりながら歩く‟独断的東京探訪”。出来るだけビジュアルにまとめて行こうと思っています。


  まずは、樋口一葉の生涯を中心に据えながら、東京の街を訪ねる第1シリーズ。

 最初に、これから歩く本郷、小石川地区の地図を。

 さわやかに晴れた日、地下鉄南北線に乗って東大前駅で降りた。改札口を通って後ろを振り向くとコンコースに大きな壁画が掲げてあった。



 よく見ると、それはラファエロがバチカンに描いた「アテネの学堂」の模写だ。学問の殿堂・東大のある駅だけに、この絵画が選ばれたのだろう。


 そういえば、御茶ノ水駅近くの東京医科歯科大学の屋上近くの壁にも「アテネの学堂」のレリーフがあったことを思い出した。

 土曜日なのになぜか人通りが多い。どうしてかと思いながら東大に近づいてみてその理由が分かった。この日は東大の大学祭だった。


 出入り自由だったので、中に入って安田講堂を一枚写真に収めた。この場所は70年安保闘争の時、全学連の闘争拠点となり、警察機動隊との激しい攻防戦が行われた所。

  さて、この日の第一目的は樋口一葉の足跡をたどること。地域の地図を入手するために文京区ふるさと歴史館に立ち寄った。すると、かなり詳しい本郷周辺の史跡地図を手渡してくれた。


 その途中で見つけたお菓子屋さん。一葉や漱石、鴎外の作品名の付いたお菓子などが販売されていて、ゆかりの場所といった雰囲気。

 地図を見ながら、最初に向かったのは一葉が幼少時代を過ごした場所。

 それは、まさに東大赤門の真ん前にあった。赤門前の横断歩道を渡ると、「法真寺」の文字が見える。

 ここが、一葉の少女時代の住家となった通称「桜木の宿」といわれるところだ。

 一葉は1872年(明治5年)3月25日、現在の千代田区内幸町で生まれた。本名は「奈津」。父則義が東京府庁の役人だったことから、内幸町にある府庁の公務員住宅に住んでいたためだった。

 
 その後、樋口家は本郷6丁目に転居。そこが法真寺の門前だ。

 一葉はここで4歳から9歳までの幼年時代を過ごした。一葉は生涯で15回の転居をしたが、その中でもこの時代が最も穏やかでゆとりのある生活が送れた日々だった。


 そんな境遇を反映するかのように、晴れ晴れとした少女姿の一葉像がちょこんと置かれていた。
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