新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

隅田川⑤ 隅田川で最も美しい橋・中央大橋には兜の冠が。

2018-01-14 | 東京探訪・隅田川の橋

 佃大橋は、景観的にはあまり見栄えのしないものだったが、その1つ上流にある中央大橋は、対照的に隅田川全体の中でも1,2を争う優美な姿を誇っている。

 1993年の完成。真っ白な橋桁からワイヤーが伸びて広がる。

 32本の斜めに張ったケーブルを橋桁に直接繋げて支える、斜張橋と呼ばれる様式。レインボーブリッジにも似た姿だ。

 周囲の高層ビル群に囲まれて、まるで空中に飛び立とうとするツルのような美しさを見せている。「東京リバーサイド」の風景を代表する光景だ。

 塔の先端にはかぶとのデザイン。隅田川河口の三角州が「兜嶋」と呼ばれていたことから、このデザインが加えられた。

 また、昼と夜とのビジュアルの変化も見所の1つだ。

 カクテル光線に照らされた橋の夜景と、

 周囲のビル群との光の調和も見逃せない。

 橋の中間部分に「メッセンジャー」と題するモニュメントがある。1989年に隅田川がパリのセーヌ川と友好河川提携を結んだことで、パリ市から贈られた。

 著名な彫刻家ザッキン作。ただ、橋側からは後ろ向きの姿しか見られないのが玉に瑕。夜、満月に照らされた像はちょっと神秘的だった。

 江戸時代、この付近に罪人の更生を目的とした人足寄せ場が設けられていた。
この施設によって、治安維持、罪人の早期社会復帰が図られたが、それを提唱、実現したのは、池波正太郎作「鬼平犯科帳」のモデルとなった長谷川平蔵だった。



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隅田川④ 佃大橋、南高橋、亀嶋橋。写楽や広重の痕跡をたどる

2018-01-11 | 東京探訪・隅田川の橋

 勝鬨橋の一つ上流には佃大橋がある。この橋は、オリンピックと深い関係がある。完成は1964年。つまり前回の東京五輪開催に備えた関連道路として建設されたものだ。

 こうしてみると、隅田川最下流の3つの橋は➀勝鬨橋=中止になった1940年の幻の東京五輪➁佃大橋=アジアで初めて実現した1964年の東京五輪➂築地大橋=2020年開催予定の次期東京五輪と、それぞれにオリンピックと深い関係があることがわかる。

 この橋建設は、第二次世界大戦後初めて隅田川に増設された橋でもある。

 それまでこの地では「佃の渡し」が江戸時代から約320年間運航されていたが、橋の完成によって廃止され、これによって、隅田川にあった渡し船はすべてなくなったという、歴史的なエピソードも。

 江戸幕府は首都防衛という観点から、当初橋の建設を極力制限し、多くは渡し船で川の両岸が結ばれる形になっていた。だが、そんな歴史の名残も、ついに終止符が打たれることになった場所だ。

 橋越しに見えるリバーサイドのビル群の風景は見ごたえがあるが、橋そのものの形にはあまり面白みがない。

 ただ、ここから下流を眺めると、勝鬨橋の2つのアーチの間(昔開閉していた部分)に最下流の築地大橋のアーチがすっぽりとはまって、3つのアーチがある橋に見えていた。

 佃大橋を渡れば月島。名物のもんじゃ店が軒を連ねる。

 中央大橋の手前で隅田川に注ぎ込むのは亀嶋川だ。その河口に架かる南高橋は、実は「リサイクル橋」だ。

 今の橋は1932年に造られたが、使われている資材は関東大震災で破損した旧両国橋のうち、被害の少なかった中央部分を再利用したのだという。

 とてもそうは見えない立派な姿をしている。貫禄のある姿が美しい。

 南高橋のもう1つ上流に架かるのが、八丁堀にある亀嶋橋。

 この界隈には江戸時代の歴史に登場するいろいろな人たちが住んでいたことを表す説明版などが見られる。

 橋の西詰にあるこの碑は、堀部安兵衛が今の八丁堀一丁目に住んでいたことを示すもの。赤穂浪士の一員であり、剣道の達人で高田馬場の決闘でも有名な人物だ。

 また、橋の南側案内板には、東洲斎写楽と伊能忠敬の名前がある。
伊能は近代的日本地図作成の基礎を築いた人で、富岡八幡宮の近くに住んでいたが、深川から1814年にこの地に移り、4年後ここで亡くなったという。
 一方、写楽に関してはだれが写楽だったのかという論争に決着はついていないが、その有力な候補の一人とされる斎藤十郎兵衛がここに住んでいたことから、この説明版が掲げられている。

 遡ったついでにもう少し歩こう。

 京橋一丁目九番地。歌川広重が1849年から約10年間ここに住んでいた。
本名は安藤重右衛門。歌川豊広の門下に入って、師匠の広と本名の重を取って歌川広重と名乗った。
 (昔学校では安藤広重と習ったのだが、いまは歌川広重になっている。浮世絵師としての名前なら、本名の苗字より一門の苗字が適正ということになったのだろう)

 30代で「東海道五十三次」を出版して評判を取り、さらに「名所江戸百景」を描いた。
 名所江戸百景はすべてこの地で描かれたものだ。

 ただ、あるはずの説明版が見当たらない。近くに住むベテラン職人さんに聞いてみると、「そう、あすこんとこに説明版があったんだけんど、今工事中でどっかに一時避難させちゃったらしいな」。

 残念!でも多分この辺りです。

 
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隅田川③ 慶応、青山、立教・・・多くの大学がみな築地で産声を上げた

2018-01-08 | 東京探訪・隅田川の橋
 築地に行ったついでに、この周辺を散歩してみよう。

 勝鬨橋手前にある築地市場。

 それに、すぐ近くの築地本願寺。築地の二大ランドマークともいえる。

 高くそびえる聖路加タワー。この辺りは学問の歴史上からも重要な場所だ。
 聖路加看護大学前には、「日本近代文化事始の地」と書かれた碑があり、さらに「慶應義塾発祥の地」「蘭学の泉はここに」と記されている。



 この場所には豊前中津藩奥平家の中屋敷があった。その藩医だったのが前野良沢で、オランダの解剖書「ターヘルアナトミア」の翻訳が前野と杉田玄白を中心に行われ、「解体新書」が完成した。それを記念した碑が建っている。(文字が薄くて、読みにくくなっていた)

 また、慶應義塾の起源は、福沢諭吉が中津藩の蘭学塾教師に就任し、教育を始めたことからスタートするということで、慶応義塾大学創立百年のときに碑が作られた。

 「学問ノススメ」初版本の「天は人の上に・・・」の文字が刻まれている。

 福沢諭吉に関するこんなエピソードを、司馬遼太郎が「街道をゆく」に記している。

 福沢が横浜の外国人居留地に出かけた時、外国人にオランダ語で話しかけたが、一向に通じない。また、通りの看板も解読できなかった。それによって、オランダ語が欧米における少数言語に過ぎないことを初めて知り、以降英語を学び始めたーーーという。

 実は徳川家康が幕府を開いたころ、築地はまだ海面下だった。だが、1657年の明暦の大火によって出された大量の焦土を利用して埋め立てられた土地が築地だった。
 
 1858年、欧米5か国との修好通商条約が結ばれて開国が決定し、来日する外国人たちを受け入れるための外国人居留地として、築地明石町一帯が開放され、そこが文明開化の窓口となり、また、学問の拠点となっていった。

 そんなわけで、今も続くキリスト教系の学校はほとんどがこの地で誕生した。

 青山学院、立教、

 女子学院など、築地居留地は文教都市としての歴史も担っていたわけだ。

 さらに、聖路加大学の敷地にはこんな碑もある。

 芥川龍之介生誕の地。芥川は築地明石町で生まれた。辰年、辰の日、辰の刻に生まれたため、名前に龍の字が付けられたという。
 ただ、生後間もなく母の兄・芥川家に養子として引き取られて、両国3丁目に移って行った。

 もう1つは浅野内匠頭邸跡の碑。江戸城松の廊下での刃傷沙汰で、切腹を命じられた浅野内匠頭が生前江戸での生活をここで送っていた。

 このように、築地周辺は江戸から明治にかけての我が国の歴史の痕跡が、いまだに残っていることを再確認できる。

 紹介が後回しになってしまったが、聖路加国際病院は1902年、アメリカ人宣教師トイスラーによって開設されたのが始まり。「せいろか」と呼ばれているが、福音書記者聖ルカの名を取っており、「せいるか」が正しいのだという。

 夜、大学の十字架を配した塔が夜空にそびえるように光っていた。

 以前、聖路加タワーに登った時に撮影した夜景。手前に勝鬨橋があり、左後方にはレインボーブリッジの姿が望める。このころには築地大橋はなかった。


 
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隅田川② 勝鬨橋の雄姿。下流に新しい橋が・・・

2018-01-05 | 東京探訪・隅田川の橋

 隅田川に架かる橋巡りを始めようと、まず最下流の勝鬨橋を目指した。地下鉄日比谷線築地駅で降り、東に歩くと、堂々とした橋が見えてくる。

 橋の完成は1940年。実はその年に開催予定だった幻の東京五輪と国際博覧会を目指して建設が開始されたものだった。ただ、日中戦争の激化で中止となり、当初の目的とは異なった形での完成だった。


 それまでは築地と対岸の月島とを結ぶ「渡し」が設けられていた。

 この渡しは、明治38年、日露戦争に勝利したことを記念して設けられたもので、戦勝にちなんで「勝ちどきの渡し」と命名され、現在の橋の名前に引き継がれている。

 完成時は全長246mのうち中央の44m部分が「ハ」の形に開閉する可動橋として機能していた。
 戦前は一日5回、戦後は3回開いて船が航行する風景が見られたが、次第に物資運搬の主役は車へと変化したことで、1970年11月29日を最後に橋が開くことはなくなってしまった。

 ただ、当時の最新技術を駆使した国内最大規模の跳開橋として国の重要文化財に指定されている。

 ここが開いていた部分。

 その先には大川端リバーシティのビル群が林立する景色が続く。また、橋のたもとには当時を振り返る記念館もオープンしている。

 ところで、勝鬨橋が隅田川最下流に架かる橋とばかり考えていたが、橋から下流を眺めると、何と別の立派な橋があるではないか!

 きれいなカーブを描いた橋げたを持つ橋だ。

 勝鬨橋のすぐ南側には、移転問題でもめていた築地市場があるが、その先にもう1つ別の橋があるのだ。

 聞いてみると、これは「築地大橋」という。実は新橋から豊洲までをつなぐ都道「環状2号線」が計画され、新しくできる豊洲市場や晴海の東京五輪選手村などを結ぶ大動脈の一環として建設されたもの。
 ただ、市場問題がネックとなって、橋は完成状態だがまだ使われていないということだ。
このほどやっと豊洲市場の10月オープンが決まったことから、まもなくこの新しい橋も開通することになりそうだ。

 勝鬨橋は夜にはライトアップされ、昼とは違った艶やかな姿を見せる。グリーンに輝く橋は夜空に飛び立つ白鳥を連想させる。
 現在隅田川の橋のうち6本がライトアップされているが、都では東京五輪に向けてさらに6本を新しくライトアップする計画で、隅田川はさらに美しく彩られそうだ。

 その候補の1つ築地大橋も、勝鬨橋から見ると今は大都会のビル群の中で美しいシルエットを見せていた。
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隅田川① 隅田川を遡り、東京・江戸の歴史を垣間見る旅を始めた

2018-01-02 | 東京探訪・隅田川の橋

 「この大川に撫愛される沿岸の町々は皆、自分にとって忘れがたい懐かしい町である。

 ああその水の聲のなつかしさ、つぶやくやうに拗ねるやうに舌うつやうに、

 草の汁をしぼった青い水は、日も夜も同じやうに両岸の石崖を洗っていく」

 (大川の水)


 築地で生まれ、両国で育った作家芥川龍之介は、時に触れ折に触れ、隅田川の流れとともに日々の生活を育んできた。
 それだけに。この川に寄せる思いは格別のものだった。

 また、彼一人だけでなく、江戸・東京で生まれ育った人々、他県から上京して東京に住んだ多くの人々にとっても、大なり小なり隅田川との触れ合いを経験したことがあるに違いない。

 東京と切っても切れないこの川の橋を1つ1つ歩くことによって、東京という街のある側面が見えるかもしれない。
 そんな思いからこの橋歩きを始めてみた。

 1590年、徳川家康は江戸に居を定め都市造りを開始したが、敵の進入を防ぐという観点から隅田川や多摩川など江戸市街の境界となる河川には、基本的に橋を設けなかった。

 (歌川広重 「千住の大橋」)

 しかし、例外的に1つだけ設けた橋が千住大橋。家康が江戸に入って4年目の1594年のことだった。

 以来約420年、千住大橋から東京湾河口まで、現在は鉄道橋などを除いた、人の通れる橋は19に上る。

 その中には国の重要文化財が3橋(勝鬨橋、永代橋、清州橋)、都の歴史的建造物指定が7橋(蔵前、厩、駒形、吾妻、白髭、両国、言問)と、まるで橋の博覧会のような場所になっている。

 そんな隅田川の橋を、下流から順に遡って行こう!


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