新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

隅田川⑬ 江戸一番の盛り場・両国橋の四季を彩る華やかな催しが浮世絵に

2018-02-10 | 東京探訪・隅田川の橋

  (歌川広重「両国橋大川端」)
 明暦の大火の教訓から、市街地の再開発がすすめられた。江戸城を中心にして中央部に密集していた武家屋敷を、上屋敷と下屋敷などに分散するとともに、要所要所に延焼防止の空間を設けることで、大火を未然に防ぐ工夫がなされた。

 こうして出来た空間は広小路と呼ばれる。やがてこのスペースが、小屋掛けの見世物や出店の格好の広場となり、江戸の賑わいを象徴する地域となってゆく。
 両国広小路が、その典型的な一例だ。

 こうして江戸の代表的な盛り場の1つとなった両国は、季節季節に応じた遊び、イベントが催された。

  (歌川国芳「隅田川花見」)
 春は花見。着飾った人たちが川沿いに咲きほころぶ桜を見物に、続々と繰り出した。

  (歌川国貞「両国橋夕涼光景」)
 夏は夕涼み。きれいどころが、そそと橋に出かけた。

  (歌川広重「両国花火」)
 また、今も風物詩となっている隅田川花火大会も、1733年に始まった両国の川開き花火大会が起源となっている。
 きっかけは八代将軍吉宗時代の、1732年の大飢饉とコレラ流行。多くの犠牲者の慰霊と疫病払いのために催された。それが、一時の中断を経ながらも今日まで続いている。
 当時は8月後半まで川に船を浮かべての納涼が許されて賑わいを見せていた。

 現在は桜橋下流と駒形橋下流の2会場から打ち上げられ、数十万人の人出でにぎわう。

  (歌川芳虎「両国橋秋月」)
 さらに、秋は何といっても仲秋の名月をめでる月見だ。

  (歌川国郷「両国相撲繁栄の図」)
それらに加えて、この地で開催される相撲興業は江戸っ子たちを大いに興奮させた。


 また、田山花袋は著書の中で「隅田川はちょっと面白い。下流に下ると吾妻橋から厩橋、殊に両国橋あたりは灯の都会。赤い青い灯の都会だという気が盛んにする。橋の上の轟きがすさまじく水に響き渡って聞こえる」としている。

 今の両国橋は、高速道路と交差する形になっている。

 親柱に載っている大きな球体は花火の大玉をデザインしたものだ。

 また、橋の中央付近は丸く土俵の形になっており、

 車道と歩道を分ける柵には軍配と、

 花火のデザインがあしらわれている。

 このように江戸時代から脈々と伝えられてきた伝統が、今も橋の意匠として残されている。

 また、橋のたもとには葛飾北斎の両国橋の絵が掲示されていた。

 両国橋の上流に見えるのはJR総武線の橋梁だ。



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隅田川⑫ 我が国史上最悪の大火の反省から架けられた両国橋 その「明暦の大火」とは

2018-02-06 | 東京探訪・隅田川の橋

 両国橋は、千住大橋に次いで隅田川で2番目に架けられた橋だ。その原因となったのは、1657年に発生、10万人もの死者を出したの明暦の大火。

 (橋本貞秀「東部両国橋夏景色」)

 大火の際逃げようとした江戸の町民たちは、隅田川まで来ても川に阻まれてその先に逃げることが出来ず、災害が極端に大きくなってしまった。
 その反省から、新たに掛けられたのがこの橋だった。

 名称は、川の東側、下総の国と西側、武蔵の国とを結ぶということで、「両国橋」と名付けられた。

 ここで、江戸の歴史を語るうえで最も重大な影響を及ぼした災害である「明暦の大火」について触れておかないと、その後の物語も語れないので、この大火について経緯をたどってみよう。


 地下鉄南北線東大前で降りて、東大のキャンパスを左に見ながら高い街路樹の茂る本郷通りを南に歩く。

 農学部、法文学部と過ぎて、元前田藩の屋敷だった赤門を見ながら本郷3丁目手前の菊坂に入り、4本目の右の坂を上る。

 ここは本妙寺坂。かつてこの坂の上に本妙寺という寺があったことから名付けられた。

 ここが、江戸3大大火の中でも最大の被害をもたらした明暦の大火の発生場所だ。



 1657年(明暦3年)1月18日の昼頃、本郷円山町の本妙寺付近から火の手が上がった。
 その冬は前年11月から2か月以上も雨が降らず、江戸の街はカラカラに乾ききっていた。それに加えてこの日は、折から激しい北西風が吹いていた。 
 火は瞬く間に燃え広がり、湯島から浅草、佃島までも燃やす大火となった。

 19日未明、一旦火は収まったかに見えたが、昼前になって小石川伝通院、さらに匠町からも燃え上がり、今度は江戸城本丸、二の丸、三の丸までも焼き尽くした。
 さらに、同日夕麹町5丁目の町屋からも出火して、結局江戸の三分の二が焼失、死者10万人という我が国最大級、世界でも有数の大惨事となってしまった。

 この大火は、通説では本妙寺が火元となっているが、異説もある。その1つが「火元引き受け説」だ。

 実は、真の火元は本妙寺の隣り、風上にあった屋敷、老中阿部忠秋邸だったというもの。
 老中の家が火元となると、幕府は国中の非難を浴び、威信が大幅に失墜してしまうことから、同寺に火元を引き受けさせた。その根拠としては、本来火元となれば厳罰が課せられるはずだが、寺に対しては一切おとがめなし、3年後には客殿が再建されたうえ、幕府の通達を他の寺院に伝達する役職に任ぜられている。
 さらに、阿部家からは明治に至るまで同寺に供養料が奉納されていた、というものだ。

 また、この大火は「振袖を焼いた火が火災の原因だった」とする「振袖火事」とも呼ばれたが、これも確証はない。

 さらにもっとすごいのが「幕府の放火説」。
 
 当時は江戸幕府が開かれて半世紀。急激に発展膨張した江戸の町は無秩序に都市化されてしまい、老中松平信綱は都市改造を企画したものの、どうにも手の付けられない状態になってしまっていた。
 その難題を一挙に解決する非常手段は、一旦町を平らにしてしまうことだった。

 ⓵実際この大火後、城内にあった御三家の屋敷を城外に移したほか、多くの大名の屋敷替えを実行、防火用地を確保した。
 ➁また、寺院群も一気に隅田川の東側や浅草地区に大移転。さらに道路拡張、広小路設置など、その後の江戸の都市地図の骨格を形成する大改革を実現することが出来た。

 ただ、江戸城本丸焼失(その後現在に至るまで再建されず)を始めとした被害の大きさからして、「幕府陰謀説」の妥当性は見いだせないようだ。

 ともかく、この大火を機に変わったものを、そのほか見てみると、➂浅草は寺院群のほか吉原も移転して繁華街に生まれ変わった⓸両国橋の設置⓹回向院の建設などが挙げられる。

 さて、本妙寺は今どうなっているのか。

 実は本妙寺は1910年に巣鴨5丁目に移転している。

 寺に行くと、本堂の横に明暦の大火への供養塔が立っている。本郷にあったものをそのまま移したものだ。同時に本郷にあった墓もそっくり移転したため、江戸時代の名士の墓もここで見つけることが出来る。

 その1つ、遠山の金さんこと遠山金四郎の墓はここにあった。




 
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隅田川⑪ 新大橋 広重の傑作の舞台。それをゴッホがマネをした!「人助け橋」でもあった。

2018-02-03 | 東京探訪・隅田川の橋

 新大橋は、清州橋の上流に位置する。「新」といっても完成は1693年。両国橋の次に隅田川第3の橋として架けられたが、両国橋が当時は「大橋」と呼ばれていたため、「新大橋」と名付けられたもの。
 もちろん現在の橋は新しく、1977年の完成だ。

 夕暮れ時など、オレンジ色の支柱が川の中央にそびえるように立つのが、遠くからでも鮮やかに認められる。

 橋の中央にある主塔に、歌川広重の浮世絵のレリーフがはめ込まれている。

 「大はしあたけの夕立」。広重の代表作ともいえる傑作だ。
 
 雨の降りしきる中を急ぎ足で橋を渡る町民たちを描いた絵。その大胆な構成と美的センスは、パリ印象派の画家たちにも大きな影響を及ぼした。

 これを忠実に模写したゴッホの絵も残されている。

 塔にもう1つのレリーフがあった。1977年までの旧橋。この橋は愛知県犬山市の明治村に移設されている。

 数年前、明治村に遊びに行ったときたまたま撮ったその橋の写真が、私のファイルに残っていた。

 この橋にまつわるエピソードが残されている。

 関東大震災、東京大空襲という東京を襲った大災害では、隅田川の橋はことごとく落ちてしまった。しかし、この新大橋だけは唯一被災せず、都民の貴重な避難路となって多くの人命を救ってきた。
 そのため、この橋には「お助け橋(人助け橋)」という、感謝を込めたニックネームが付けられた。

 西詰の浜町交番裏に「人助け橋」の由来を書いた碑があった。

 広重の絵のタイトルになった「あたけ」とは「安宅」のこと。橋の対岸には幕府の御船蔵があり、そこに将軍の御座船だった「安宅丸」が収蔵されていた。廃船になった後、供養のために塚が設けられたことから、付近を安宅と呼んだ。

 対岸の大きなガラス張りのビルに、橋の塔が映っていた。それと同時にスカイツリーの先端部分も。面白い形にゆがんでいて、とてもファンタスティック!

 もう1つ昔のエピソードを。

 この橋が最初にできた1693年12月。近くに住んでいた松尾芭蕉は、さっそく新しい橋の渡り初めを体験する。
 「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」

 1つの歴史の始まりに立ち会えた喜びを詠んでいる。

 「旅に病んで 夢は枯野を 駆けめぐる」の句を残して生涯を閉じる、一年前のことだった。



コメント (3)
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