両国橋を渡って回向院のある京葉道路(国道14号線)を東に進むと、芥川龍之介生育の碑が立っている。
築地編で見た通り龍之介は生後間もなく実母が亡くなり、築地から両国にある芥川家に養子となり、大人になるまで現両国3丁目のこの地で育った。
通った両国小学校には作品「杜子春」の一節を記した文学碑があった。
龍之介はこの生育の地とそこを流れる隅田川(当時は大川と呼んだ)に限りない愛情を抱いていた。
「東京のにおいを問う人があるならば、自分は大川の水のにおいと答えるのに何の躊躇もないであろう。
独、においのみではない。大川の水の色、大川の水の響きは、わが愛する東京の色であり、声でなければならない。
自分は大川あるが故に東京を愛し、東京あるが故に生活を愛するのである」(大川の水)
名所はそれだけではない。両国小の東隣りにある両国公園には「勝海舟誕生の碑」が立っている。
海舟は1823年父小吉の実家である本所亀沢町(地図㉚)で生まれた。
成長した後、1860年咸臨丸の艦長として太平洋を横断、アメリカに渡り、また1864年には軍艦奉行となった。
さらに、1868年には西郷隆盛との会談で江戸城の無血開城を実現して、江戸東京の後輩を未然に防いだ明治維新の立役者だ。
ところで、海舟は誕生後7歳で本所入江町(現墨田区緑町4丁目、地図の㉟)に転居、23歳までここで暮らした。
地図を見ると、海舟の2つの住所のちょうど中間に、葛飾北斎の誕生地(本所亀沢町、地図15のすみだ北斎美術館)がある。
北斎は1760年生まれだが長生きし、1849年、90歳で死去した。その間93回も引っ越しをしたが、ほぼすべてがこの本所界隈だけの転居だった。
とすると。生まれてから23歳までの海舟と、63歳から86歳までの北斎が、ほぼ同じ町内に住んでいたことになる。
北斎の代表作「富嶽三十六景」の発表は、北斎71歳時でちょうどこの時期に当たり、もう江戸のみならずわが国最大の人気浮世絵作家になっていた。
老いてますます制作意欲をたぎらせていた北斎に対して、20歳でオランダ語を習い始め、21歳で直心影流免許皆伝を受けるなど人一倍進取の機運に富んでいた若き海舟が、身近に存在していた大画家に無関心だったはずはないだろう。
必ずや本所の町の一角、隅田川のたもとあたりで二人は出会い、何かを語り合っていたのではないだろうか。
想像するだけで、胸がわくわくしてくる。そんなことを思わせる両国界隈だ。
両国公園には、海舟がアメリカに渡った咸臨丸をデザインした意匠が門に掲げられていた。
もう少し散策を続けよう。
公園から西に戻ると、なまこ壁に囲まれた吉良邸跡が、本所松坂町公園として修復保存されている。ここは、あの赤穂浪士が討ち入りして、吉良上野介の首をとった忠臣蔵の現場だ。
吉良家の屋敷は元々江戸城近くの鍜治橋にあったが、松の廊下での刃傷事件後、赤穂浪士が討ち入りに入るという噂が流れて、周囲の大名屋敷から苦情が出た。そのため、ここ本所に移住していた。
これによって江戸城から遠く離れることになり、討ち入りは格段に容易になったともいわれる。実際移住は元禄14年、そのわずか1年後の元禄15年に討ち入りは実行された。
公園には吉良上野介像や松の廊下の図、吉良公首洗いの井戸などがある。
また、討ち入りの日には赤穂47士と吉良20士の両家の供養が行われるという。