新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

上野歴史散歩⑨ わが国初の駅伝競走は京都から東京までの500キロ。そのゴールは上野公園だった

2022-09-13 | 上野歴史散歩

 弁天島の入口から少し不忍池沿いに歩くと、「駅伝の碑」に遭遇する。

 こんなところに、どうして?

 由来を聞いてみると、なるほどという歴史がここに残されていた。時は1917年4月、上野では勧業博覧会が開かれていた。その博覧会を盛り上げるために企画されたのがこれ。京都から東京までの508キロを3日間走り続けてゴールしようという、「東海道駅伝徒歩競走」が行われたのだ。

 参加したのは東京組と名古屋・京都組の2チーム。京都三条大橋をスタートして、ゴールはここ上野公園。博覧会の正面玄関前だった。

 ただ、当時天龍川や木曽川には橋がなく、渡し船を使っての横断といった異例の競走場面もあった。結果は東京組が41時間44分で優勝。名古屋・京都組とは1時間42分もの大差がついたという。

 その東京組の最終ランナーとしてゴールテープを切ったのが、金栗四三。この5年前のストックホルム五輪のマラソン代表として我が国が初めて参加した日本マラソン界の父だった。

 金栗は、数年前のNHK大河ドラマ「いだてん」の主人公となった人でもある。今では陸上長距離競走の花となった駅伝だが、その歴史は上野公園から始まったということになる。

ここで、上野での博覧会の背景についても触れておこう。上野公園は開設以来数多くの博覧会が開かれてきた。

 開園翌年1877年の第1回内国勧業博覧会を始め、1881年の第2回、1907年の東京勧業博覧会、1922年の平和記念東京博覧会、1930年の海と空の博覧会など。

 こうした博覧会が残したものも多い。東京国立博物館は、内国勧業博覧会に合わせて建設されたものだし、国立科学博物館も、博覧会開催に合わせて収集した天然資源などが元になって誕生した。東京大正博覧会の際には不忍池にロープウエイが設置されたこともある

 1914年の東京大正博では、現在の中央噴水広場と不忍池との間に、我が国初のエスカレーターが造られ、大人気を博するといったこともあった。 

 こうして上野公園は徳川時代の風景を一変させ、近代日本の象徴としての場所に変貌させる試みが、矢継ぎ早に実践されていった。

 駅伝の碑から少し先にブロンズの彫像がある。朝倉文夫作「生誕」。これが造られたのは1946年。新生日本の立ち上がる姿を擬人化したもので、1964年の東京五輪時には公園入口に設置された。しかし公園整備の過程で一旦撤去されたままになっていた。

 それが、再び五輪が開かれるということで2020年に収蔵庫から出されて公園に復活したものだ。

 

 

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上野歴史散歩⑧ 弁天島で見つけた碑の数々。フグやスッポンからメガネや暦まで、感謝の気持ちがあふれる島

2022-09-09 | 上野歴史散歩
不忍池に浮かぶ弁天島。この島でだれもが気付くのは、やたら石碑が多いことだ。何気なしにそれらをたどってみた。
 まず目立ったのは琵琶の碑。ここが琵琶湖を模して整備されたという由来からして、もっともな碑だ。
 系統別でみると、特徴的なのは動物類の碑が多いこと。中でも一番目立っているのはふぐ供養碑。
 こちらはスッポン感謝の塔。これらは料理人たちからの、供養の意味が込められているのだろう。
 対してこれは鳥類を一まとめにした鳥塚。日頃料理させてもらっている(食べさせてもらっている)対象を供養するという、塚の本来の姿なのかもしれない。
 
ただ、動物類以外のものにも広がっているのが、この島の特徴だ。
 メガネの碑。このメガネは徳川家康が愛用していたメガネがデザイン化されているという。
 扇塚は舞扇の塚だ。初代花柳寿美が使っていた舞扇が埋められているそう。佐藤春夫の抒情的な詩が刻まれている。
 「ああ 佳き人か おも影もしのばらざめや 不忍の 池のほとりに 香を焚き かたみの阿ふぎ 納めつつ」
 包丁塚は調理師の会が奉納したもの。
 いと塚。三味線や琴などの芸事に欠かせない糸への感謝の塚だ。
 さらには暦塚などというものもあった。 
 これらは基本的にそれぞれのものへの感謝の気持ちが込められているわけで、一神教のヨーロッパと違って八百万の神を奉る日本人らしさが表されたのかもしれない。
 さらに、こんな碑もあった。弁天島に渡る天龍橋の手前にあったのがカナリヤ碑。
「歌を忘れた カナリヤは・・・」という有名な唱歌は1918年に発表された西条八十の作詞だが、その西条がこの辺りを散策していた時に詩想が浮かんだということでここに碑が建てられている。
 
このように碑にもいろいろな背景が積もり積もっているんだなあ、と妙に納得させられる時間だった。
 
 
 
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上野歴史散歩⑦ 不忍池では、ハスや水鳥の見物か、ボート遊びか、それとも芸の上達のお祈りをしようか?

2022-09-05 | 上野歴史散歩

 不忍池は、天海僧正が上野の地に京都の風景を再現しようという構想の一環として、琵琶湖を模して整備されたもの。従って弁天島は、琵琶湖に浮かぶ竹生島ということになる。

 池は蓮池とボート池とに分かれている。

 蓮池は夏場ハスの葉に覆われて水面が見えないほどになってしまう。

 が、冬になると広く水面が現れて、水鳥たちの格好の憩いの場になる。

 その鳥たちの動きと日の光が、水面に様々な模様を作り出すのを眺めているのも楽しい。

 一方ボート池は年間を通して家族連れやカップルがボート遊びを楽しんでいる。

 弁天島には弁財天が祀られている。

 朱塗りが映える六角堂は、不忍池のどちら側からでもお参りができるように、六角形になっているのだという。

 弁財天は芸能上達の神なので、堂の正面には芸能人たちが奉納した提灯がずらりと並んでいる。でもやっぱり演歌系の歌手の提灯が目立つなあ。

 

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上野歴史散歩⑥ 清水観音堂には、江戸時代からの名所「くるりと輪を描く月の松」がある。

2022-09-03 | 上野歴史散歩

 清水観音堂。最初は「しみず」観音堂と呼んでしまったが、正式の名称は「きよみず」観音堂。そのいわれを知れば間違いようのない名称だ。

 というのは、前回に触れたようにこの寺は京都の清水寺を模して造られたものだからだ。

 観音堂は丘の上に建設して、本家の清水寺の「清水の舞台」を連想させるロケーションに設定された。下から見上げると、入母屋造りの観音堂は、いかにも清水寺を思い出させる雰囲気を持っている。

 朱塗りの外観はすっきりとした風情。

 手水舎の龍はなかなかの貫禄だ。

 社殿に上る階段にも趣が感じられる。

 「清水の舞台」ももちろん設営されている。

 渡り廊下をくぐると、公園の広い道に出ることができる。

 上野独自のものもある。その筆頭は「月の松」。正面の松の枝が、まるで満月のように真ん丸に曲がって輪を描いている。どのようにしてこんな形ができるのかは不明だが、江戸時代にここが名所として有名になったようだ。

 その証拠に、歌川広重の名所江戸百景にも「上野山 月の松」「上野清水堂 不忍池」と2点も描かれている。実はこの松、1887年に一度枯れてしまったが、2012年に復元されて今日に至っている。

 この「月の松」からのぞくと、ちょうど真正面に弁天島の社殿が視界に入る。

 また、堂内には子育て観音が祀られており、毎年人形供養が行われている。境内には人形供養碑が建っている。

 ある日の夜、上野からの帰りがけに観音堂に立ち寄ったら、弁天堂がライトアップされてこんな風に輝いて見えた。

 

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