弁天島の入口から少し不忍池沿いに歩くと、「駅伝の碑」に遭遇する。
こんなところに、どうして?
由来を聞いてみると、なるほどという歴史がここに残されていた。時は1917年4月、上野では勧業博覧会が開かれていた。その博覧会を盛り上げるために企画されたのがこれ。京都から東京までの508キロを3日間走り続けてゴールしようという、「東海道駅伝徒歩競走」が行われたのだ。
参加したのは東京組と名古屋・京都組の2チーム。京都三条大橋をスタートして、ゴールはここ上野公園。博覧会の正面玄関前だった。
ただ、当時天龍川や木曽川には橋がなく、渡し船を使っての横断といった異例の競走場面もあった。結果は東京組が41時間44分で優勝。名古屋・京都組とは1時間42分もの大差がついたという。
その東京組の最終ランナーとしてゴールテープを切ったのが、金栗四三。この5年前のストックホルム五輪のマラソン代表として我が国が初めて参加した日本マラソン界の父だった。
金栗は、数年前のNHK大河ドラマ「いだてん」の主人公となった人でもある。今では陸上長距離競走の花となった駅伝だが、その歴史は上野公園から始まったということになる。
ここで、上野での博覧会の背景についても触れておこう。上野公園は開設以来数多くの博覧会が開かれてきた。
開園翌年1877年の第1回内国勧業博覧会を始め、1881年の第2回、1907年の東京勧業博覧会、1922年の平和記念東京博覧会、1930年の海と空の博覧会など。
こうした博覧会が残したものも多い。東京国立博物館は、内国勧業博覧会に合わせて建設されたものだし、国立科学博物館も、博覧会開催に合わせて収集した天然資源などが元になって誕生した。東京大正博覧会の際には不忍池にロープウエイが設置されたこともある
1914年の東京大正博では、現在の中央噴水広場と不忍池との間に、我が国初のエスカレーターが造られ、大人気を博するといったこともあった。
こうして上野公園は徳川時代の風景を一変させ、近代日本の象徴としての場所に変貌させる試みが、矢継ぎ早に実践されていった。
駅伝の碑から少し先にブロンズの彫像がある。朝倉文夫作「生誕」。これが造られたのは1946年。新生日本の立ち上がる姿を擬人化したもので、1964年の東京五輪時には公園入口に設置された。しかし公園整備の過程で一旦撤去されたままになっていた。
それが、再び五輪が開かれるということで2020年に収蔵庫から出されて公園に復活したものだ。