極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

隣人愛 vs 兼愛

2013年01月20日 | 日々草々

 

 

 

 

【兼愛は果して夢想か】

墨子の兼愛は、キリスト教の隣人愛(アガペーに由来する人間同士の愛)に似ている。身分や立場
に関わらず、今この時に目の前にいる人を大切にする思想で、行動指針であることは多くの識者か
ら指摘いるところでもある。また、墨子が目指すのは、人間が平等になることで完成する平和な社
会で、キリスト教の目指すのは、神によるこの世界の支配とし、前者は人間の幸福追求、後者は神
の慈悲に縋るものとして考えられている。ここでキリスト教の愛は、隣人愛によって成立する人類
という大きな家族像を示唆し、キリストが十字架にかけられ、全人類の(過去と現在と未来永劫の)
罪を贖ったことで実現される愛であり、人類は神の創造物、神の姿を模った特別な「神の子供達」
として、平等という前提で、自然や組織による差別を超越して、同胞的愛を地上に実現しようとさ
れ、限りなく寛大で慈愛あふれる庇護者として支え合い、譲り合い許し合い和解すべきと啓示され
る。これに対し、兼愛は、経験主義的、歴史学的、唯物論的でいて現実的な共産主義的な側面をみ
せ、また、仏教をめぐる自力本願と他力本願というふうな対照的な側面をみせる(解釈により様々
であり、プロテスタントとカトリックと同様な解釈議論がある)。もっとも、神は自ら助くるもの
を助くというサミュエル・スマイルズの『自助論』や『自灯明』の特定の個人などに帰依するので
はなく、この世で自らを灯明とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、自分の人
生は自分が主役であって自らを頼りにし自ら責任をもって切り開く他に道はないとの釈尊の教えが
あるように、現実に迫った問題を解決するのか、それとも、保守・保身に徹するのかという行動に
おける、あるいは実践における選択と、その意志力の強弱として顕れるほかない。さて、「兼愛は
果たして夢想か」を墨子の説話に温ねてみよう。


               然而天下之士、非兼者之言也、猶。               
              未止也。日、兼即仁矣義矣。黙然壹  
              可為裁。吾替兼之不可為也、猶撃泰            
              山以超江河也。故兼者直願之也、夫
              貴可為之物故。子墨子日、夫翠泰山
              以超江河、自古及今、生貝而来、未
              官有也。今若夫兼相愛文相利、此自
              先聖四王者親行之。何知先聖四王之
              親行之也。子墨子日、吾非与之並世
              同時、親閲其声、見茜色也。以其所
              書於竹帛、銕於金石、琢於槃孟、伝
              遺後世子孫者知之。

               泰誓目、文王昔日若月、作照光子
              四方子西土。即此言文王之兼愛天下
              之博大也、讐之日月兼照天下之無有
              私也。即此文王兼也。雖子墨子之所
              謂兼者、於文王取法焉。且不唯泰誓
              為然、雖禹誓即亦猶是也。両日、済
              済有衆、咸聴朕言、非惟小子敢行称
              乱、廳茲有苗、用天之荊。若予既率
              爾群封諸君、以征有菌。高之征有苗
              也、非以求以重富貴干福禄楽耳目也。
              以求興天下之利、除天下之害。即此
              両兼也。難子墨子之所謂兼者、於瓜
              求焉。且不唯禹誓為然。難局説即亦
              猶是也。局日、帷子小子履、敢川玄
              牡、告於上天后土。日、今天大旱、
              即当朕身履、未知得罪子上下。有善
              不敏蔽、有罪不敢赦、簡在帝心。万
              方有罪、即当朕身。朕身有罪、無及
              万方。即此言賜貴為天子、富有天下。
              然且不仰以身為犠牲、以祠説子上帝
              鬼神。即此賜兼也。雖子墨子之所謂
              兼者、於賜暇法焉。

               且不惟禹誓与湯説為然、周詩即亦
              猶是也。周詩日、王道蕩蕩、不偏不
              党。王道平平、不党不偏。其直若矢、
              其易若砥。君子之所覆、小人之所視
              若吾言非語道之謂他。古者文武為政
              均分、賞賢荊暴。勿有親戚弟兄之所
              阿。即此文武兼也。雖子墨子之所謂
              兼若、於文武取法治。不識天下之人、
              所以皆聞兼而非之者、其故何也。

          

 然り而して天下の士の兼を非とする者の言、なおいまだ止まず。曰く、「兼はすなわち仁なり義
なり。然りといえどもあになすべけん。われ兼のなすべからざるを暫うるに、泰山を撃げてもって
江河
を超ゆるがごとし。故に兼はただこれを願うのみ、それあになすべき物ならん」。子墨子曰く、
「それ泰山を撃げてもって江河を超ゆる
は、古より今に及ぶまで、生民ありてよりこのかた、いま
だかつて
あらず。今かの兼ねて相愛しこもごも相利するがごどきは、ごれ先聖四王より親しくこれ
を行なえり」。なんぞ先聖四王の親しくこれ
を行なえるを知るや。子墨子曰く、「われこれと世を
並べ時を同じ
くして、親しくその声を聞き、その色を見たるにあらず。その竹帛(ちくはく)に書
し、金石に錦め、槃孟に琢り、後世子孫に伝遺するところのも
のをもってこれを知る」。

 泰誓に曰く、「文王は日のごとく月のごとく、昭光を四方に西土
になす」。すなわち、これ文王
の天下を兼愛するの博大なるを言い
て、これを日月の天下を兼照するの私あることなきに譬う。
すな
わちこれ文王の兼なり。子墨子のいわゆる兼なるものといえども、文王において法を取る。か
つただ泰誓のみ然りとなすのみならず、泰
誓といえどもすなわちまたかくのごとし。禹曰く、「済
済たる有
衆、みなわが言を聴け、これ小子あえて乱を称るを行なうにあらず、蠢(うごめき)たる
この有苗、天の荊を用う。ここにわれ、なんじ群封の諸君を
率いて、もって有苗を征す」。禹の有
苗を征するや、もって富貴を重ね
、福禄を干め、耳目を楽ましむることを求むるにあらず。もっ
天下の利を興し、天下の害を除かんことを求むるなり。すなわち
これ禹の兼なり。子墨子のいわゆ
る兼なるものといえども、禹にお
いて求む。かつただ禹誓のみ然りとなすのみならず。高説といえ
もすなわちまたかくのごとし。湯曰く、「これわれ小子履、あえて玄牡を用い、上天后土に告ぐ。
曰く、いま天大いに旱す、すなわち、
わが身履に当つるも、いまだ罪を上下に得るを知らず。善あ
ればあ
えて蔽わず、罪あればあえて赦さず、簡ぶこと帝の心に在り。万方罪あらば、わが身に当た
る。わが身罪あるも、万方に及ぼすことな
かれ」。すなわちこれ湯、貴きこと天子たり、富天下を
有つ。然れ
どもかつ身をもって犠牲となし、もって上帝鬼神に釧説するを憚らざるを言う。すなわ
ちこれ湯の兼なり。子墨子のいわゆる兼なるも
のといえども、湯において法を取る。

 かつただ禹誓と湯説と然りとなすのみにあらず、周詩もすなわち
またかくのごとし。周詩に曰く、
「王道蕩蕩たり、偏せず党せず。
王道平平たり、党せず似せず。その直きこと矢のごとく、その易
なること砥のごとし。君子の覆ところ、小人の視るところ」。この吾言は道を語るの謂にあらず
や。古は文武政をなし分を均しくし、
賢を賞し暴を罰す。親戚弟兄の阿るところあることなし。す
なわちこ
れ文武の兼なり。子墨子のいわゆる兼なるものといえども、文武において法を取る。識ら
ず、天下の人、みな兼を聞きてこれを非と
するゆえんは、その故何ぞや。

【解説】

しかもなお、兼愛に反対する意見はあとを絶たない。かれらはこうも主張する。「兼愛は、たしか
に仁と義に合致している。だが現実的ではない。まるで泰山を小脇にかかえて揚子江や黄河を越え
るようなものだ。夢想するのはいいとしても、到底実行できるものではない。なるほど、人類の歴
史はじまって以来、泰山をかかえて揚子江や黄河を越えたなどという話は、あったためしがない。
しかし、人類が分けへだてせず、お互いの利益のために尽くし合った事実は、これまでにいくつか
存在する。それは聖王たちがすでに実行していることなのだ。
 むろん、わたし自身が聖王の時代に生きて、自分の耳や目で確かめたわけではない。竹帛に書か
れたものや金石に彫られたもの、あるいはうつわに刻みこまれたもの、つまり後代の人々に伝え残
されたものを通じて、確認できるのである。『書経』の秦誓には、こう記録されている。
「文王は、日のごとく、月のごとく、遍く四方を照らし、西方の蛮土にまで光りを及ぼした」これ
は、文王の兼愛がいかに広くゆき及んだか、そのありさまを、太陽や月が世界全体を公平然払に照
らす事実にたとえたことばである。これが文王の兼愛であり、わたしの主張する兼愛も、この文王
を模範としているのだ。

 泰誓ばかりではない。禹誓にも、こう記録されている。「諸侯よ、よく集まってくれた。軍を起
こし世間を騒がすのは、わたしの本意ではない。しかし、不遜な有苗に対しては、天罰を加えねば
ならぬ。それ故、敢えてここに、なんじら諸侯を率いて、討伐におもむくのだ」
 すなわち、馬王が有苗を討ったのは、富貴福禄のためでもなければ、欲望を満たすためでもなか
った。「天下の害」を除いて。「天下の利」を追究するためであった。これが禹王の兼愛であり、
わたし主張する兼愛もこの禹王を模範としているのだ。
 さらに、湯王の祈祷文にもこう記録されている。
「わたしは天の子としてこの黒牛のいけにを捧げ、敢えて天帝に申し上げる。いま、天はわが国に
ひでりというわざわいを下し給うた。この天罰は、ほかならぬわたし自身に下されたものである。
しかし、その天罰が、わたしだけではなしに人民にまで及んでいる理由が、納得しかねる。人民に
善行があれば必ず表彰し、罪を犯せば必ず処罰しよう。そして、その当否は、天帝の心におまかせ
しよう。たとい天下万民に罪があったとしても、それはわたし自身の罪である。どうか、わたしを
罰して天下万民を巻き添えにしないで頂きたい」
 これは湯王が天子という最高の位と、天下という最大の富とを身につけた人でありながら、わが
身を犠牲にして、人民にわざわいを下さぬよう上帝鬼神に祈ったことばである。これが湯王の兼愛
であ
り、わたしの兼愛も、この湯王を模範としているのだ。
 また、周の詩にもこううたわれている。

「王道は坦々として私心なし   
 王道は広くして偏倚なし
 矢のごとく直く
 砥のごとく平らか
 君子は行ない小人は仰ぐ」

 これはまさしく道についていったことばである。文王も武王も国を治めるに当たって、公平を旨
とし、賢者ならだれでも登用し、悪人ならだれでも罰して、親類縁者にも勝手なまねはさせなかっ
た。これが文王および武士の兼愛である。わたしの主張する兼愛も、この文王、武王を模範として
いるのだ。天下の士が兼愛というとすぐ反対するのは、すじの通らぬ話である。出王の兼愛であり、
わたし矢のごとく直く砥のごとく平らか君子は行ない小人は仰ぐ」これはまさしく道についていっ
たことばである。文王も武王も国を治めるに当たって、公平を旨とし、賢者ならだれでも登用し、
悪人ならだれでも罰して、親類縁者にも勝手なまねはさせなかった。これが文王および武王の兼愛
である。わたしの主張する兼愛も、この文王、武王を模範としているのだ。天下の士が兼愛という
とすぐ反対するのは、すじの通らぬ話である。

※禹誓 未詳。現在の『書経』にはこの編名はない。夏の禹王が三蹟を征討したとき、師に誓った
文であるとされている。

※湯王の祈祈禱文 現在の『書経』にはこの絹名はない。『論語』の亮日編に、これと似た話が載
っている。『論語』では、殷の湯王が夏の梁王を械ぼした時に誓ったことばとされている。

※周の詩 前半は現在の『書経』洪範にあり、後半が『詩経』小雅に載っている。

 

 

 Trippa alla milanese

【イタリア版食いしん坊万歳 トリッパ料理、ミラノ風】

材  料: 

牛の胃 1.2 kg、バター60g、タマネギ1個、ニンジン1本、セロリの茎1本、セージの葉数枚、ス
ーゴ用トマト 500g、
ブイヨン、塩、コショウ、パルメザンかパダノのおろしチーズ、インゲンマ
メ400g 



つくり方:

ミラノ人達はトリッパ(牛の胃)料理の中でも、ミラノ風トリッ
パが一番であることを誇りにして
いて、彼等はこれに親しみをこめ
てブゼッカ(busecca)ともいっている(さらにここからブゼッコ
ニというニックネームもある)。作り方だが、まず最初にトリッパはよく洗い、不要なものは取
除いて、十分柔らかくなるまでかなり長い時間煮る(普通市販されているものは、すでに洗って
ゆでられているが、もう一度ゆで直し
たほうがよい)。下ごしらえがすんだら、バターを熟しセー
ジの葉数
枚と細かく刻んだタマネギ、ニンジン、セロリを入れ、炒める。これらが色づいてきたら、
トマトの身を細かくしたものを加え、かき
混ぜて塩,コショウで味付け、さらに煮続ける。
 必要ならばブイヨンを加えて,数回かき混ぜる。料理はこれでできあがりである。しかし、習慣
としてトリッパにはマメを添えるのが普通である。
確かに煮汁と混ざったマメの柔らかい風味は、
トリッパの風味にと
てもよく合う。そこでマメを料理しよう。イングンマメ400 g を前の晩から水
に漬けておき,トリッパを調理
している間に別の鍋でゆでて、水気を切っておく。トリッパができ
あがる10分前に同じ鍋の中に入れ,かき混ぜる。別にパルメザンかパダノのおろしチーズを添えて、
食卓に供する。

 

昨夜の続きになるが、幸せの方程式に前提があるを書き忘れてしまった。それは、それはというと、
つまり、現実逃避しないという大前提は欠くことはできない。自己満足、自慰行為、自己愛、自惚
れ、迂回、湾曲ということはあっても。

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