シパダンなしの9月
忘れもしない20年前のきょう、9月10日は、私がはじめてのシパダンにむけて旅立った日だ。
そして、それからは、9月という月はシパダンの月になった。
9月にシパダンへ行かなかった年は、たぶん2~3回。
夏の終わりにはシパダン。
毎年、新米の越路早生を食べるないと秋が来ない!と思っているのと同様、これがなければ秋が迎えられないといえるほどのシパダン。
私にとっては、今なおシパダンがNo1であり続けるし、いつだってシパダンに行きたい気持ちに変わりはない。
なのに、この9月は、あえてシパダンに行かない。
いや、9月だけではない。
今年もあと3か月だから、20年潜り続けたシパダンの海に、今年は一度も潜らないかもしれない。
まさか、こんな時が来るなんて、思いもしなかった。
20年ふたむかし
1994年4月。
カート・コバーンの死の衝撃から5日後のこと。
今は休刊中のDW(ダイビングワールド)で「ボルネオ大紀行」という特集を掲載した号が出た。
この1冊で、この年の夏休みはシパダンに決定。
ジュリア・ロバーツとデンゼル・ワシントンのペリカン文書を、有楽町のマリオンで見たあと、友だちとシパダンの日にちを決め、翌日の昼休みには、公衆電話からテレカで旅行会社に電話して申込み。
映画本編上映前の宣伝で、篠原涼子の「愛しさと切なさと心強さと」がストリートファイターのCMで流れたのがとても印象に残っている。
1994年は、そんな年だった。
きっかけ
シパダンを知ったのは、たぶん、92年頃DWで紹介されたことからだった。
ダイビング雑誌はほとんど処分してしまったが、今でも、DWのシパダン特集はとってある。
これらDWのバックナンバーは、私にとってはバイブルのようなもので、捨てられない。
あとは、その頃に発行された、地球の歩き方マレーシアも。
今ではビルが建ち並んでいる場所がまだ海だったり、コタキナバルも様変わりしたので、今となっては使い物にはならないが、これまた捨てられない。
当時は、映画「彼女が水着に着替えたら」がきっかけで巻き起こったダイビングブームの名残りで、ブームにのってダイビングをはじめた人たちが、まだけっこうアクティブダイバーでいた。
私もダイビング業界がいちばん元気だった時代にオープンウォーターをとった。
もっとも私は、「彼女が水着に...」にインスパイアされたわけではなく、映画を見てすらいない。
ちょうど当時の女子大生に人気の某社への就職が決まった夏、残業の多さで悪名高くもある会社だったので、就職したら、思うように遊べないぞ、という先入観から、沖縄行ってみたいしー、とれるうちにCカードとっておこーっと、ってノリ。
まさに学生が英検や秘書検をとるのと同じような感覚でとった。
Cカードだけ持ってればいいや、と思っていて、ダイビングを続ける気はあまりなかった。
アドバンスなんて、はなっから考えていなかったが、誘われるままにアドバンスをとり、そこからはまった。
当時はまだ高かった講習代に器材一式、ドライスーツにと、学生時代にバイトでためた貯金を全部つぎ込んだ。
今とは違って、20代ダイバーがとても多かった。
同世代のダイバー仲間の間では、シパダンは、もう行くところがなくなった人びとがたどりつく辺境の地と目されていた。
100本で行ったら「何しに来たんですか?」と言われるくらいの勢い。
今は、ダイバーの絶対数が減り、高齢化しているが、何百本と本数を重ねているダイバーは珍しくない。
でも当時は、シパダンには200本は潜っていないとだとか、予約は2年前からで1年前じゃもうとれないだとか、行くのも予約するのも敷居が高いというふれこみだった。
その頃の私は、すでに200本以上潜っていたが、伊豆半島に月3回とたまに三宅と沖縄、海外はモルディブとパラオしか行ったことがなかった。
まだまだ行きたいところは山ほどあり、行くところがなくなった人ではない私が、シパダンにさっさと行くことになったのは、モルディブのイントラから、「休暇で行ったシパダンが、すごくよいから、絶対に行って」と強くすすめられたからだ。
素晴らしいモルディブの海を毎日潜っている人のすすめだから、説得力があった。
リゾート選び
島にはボルネオ・ダイバーズ、PSR(プラウシパダンリゾート)、SDC(シパダン・ダイブ・センター)の3件。
噂によると、ボルネオ・ダイバーズがいちばん老舗で高く、欧米人が多い、PSRがこぎれい、SDCはいちばん安く、日本人も多いが、ビーチダイブをするときに器材をかついでえっちら歩かなければならない。
日本人ばかりじゃ旅情がないし、タンクしょっての陸移動もいやなので、まずSDCが候補から消える。
選択肢はボルネオ・ダイバーズかPSR。
実はその前の年に、ジスコ経由でPSRの申し込みをしたが、会社で同じグループのリーダーが入院してしまい、ペーペーの私が何ヶ月も前から予定していた年休は却下され、2ヶ月以上前のキャンセルなのに、ジスコに友だちの分と申込金2名分6万を没収されたというのがトラウマになっていた。
今のジスコは、そんな厳しい規定は設けていないが、当時は強気だった。
シパダン行きたいけれど、3ヶ月先の予定なんてどう変わるかわからないし、とシパダン経験者の友だちに相談したら、クルーズ・インターナショナルという会社なら、1か月前からしかキャンセル料がかからないと聞き、その会社が扱っているボルネオ・ダイバーズに決定。
でも、リゾートといっても簡素なシャレーで、共同トイレ共同シャワーで長居はつらそう。
旗日ごとに、どこかしらへ潜りに行きたい年頃だったので、よくわからないシパダンにそうそう日数は費やせないと、土日+祝日1日+年休けちって3日だけの、全行程7日間にした。
土曜出発、木曜早朝着で、そのまま会社へGO!にした。
とりあえずは、シパダンというところに、一度行ければ気がすむだろうと思っていた。
最後の伊豆
予約が取れたら、あとは練習。
同行者は、シパダン的にはありえない100本未満ダイバーだったので、まずは久米島で練習。
そして、シパダンへ行く前の週の週末には、富戸で特訓。
富戸ビーチだけのつもりで行ったのに、サービスに強くすすめられ、ボートダイブにも参加。
富戸ビーチは好きだったのに、ボートのポイントは、ひたすら真緑で、トビエイが1匹出ただけで、金返せー!な内容で、それっきり伊豆に行かなくなってしまった...。
MHデビューでイレギュラー
そして9月10日がやって来た。
成田に8時30分集合と早い時間なのに、チェックインは長蛇の列。
その頃の私の荷物は、往きにはだいたい28キロ。
私と友だちのところに、同世代の男がやって来て、荷物を一緒にチェックインしてくださいと懇願。
うちらだってじゅうぶんHEAVYなのに、人のためにさらにHeavierにしたくないし、それに、良からぬものを持っているのかもしれない。
かなり食い下がる男だったが、ばっさりお断り。
はじめてのマレーシア航空で、聞き取れるマレー語は「とぅりまかし」だけ。
機内でKELUARがEXIT、TANDASがトイレというマレー語からさっそく覚える。
クアラルンプールまでの約7時間、2回もミールが出て、すっかりブロイラー。
クアラルンプールの空港も、今のKLIAではなく、スバンにあった。
スバンで国内線乗り継ぎのためのイミグレーションにたどりつくと、我々が若かったのもあると思うが、入国審査官はちゃらちゃらと仕事をしており、「どこに行く?」と聞かれ、「シパダン」と答えると、「俺たちも先週行って来たゼィ」なーんて調子。
嘘だろ、と半ば呆れるテキトーさである。
そして、なにやらバスに乗って、国内線ターミナルへ移動した。
コタキナバルへの国内線までは、4時間くらい時間があいて、確か20時台の便だったと記憶している。
ゲートについてしばらくすると、DELAYのアナウンス。
えー、まじっすか?
これだからMHはやだよ、初めてのくせに、ぶーたれてみる。
当時は名古屋からペナンゆきのMHが運航されていて、その名古屋便が遅れるので、コタキナバルへ乗り継ぐ人がたくさんいるのを待つとのことだった。
さいしょのアナウンスでのRETIMEは23時。
翌朝のタワウへのフライトは6時過ぎ。
島に着いたらオリエンテーションでドボンなわけで、睡眠不足で耳が抜けなかったら困ると、さっそく仮眠を決め込むことにした。
その頃は、まだダイバーズウォッチなんてのをつけていて、アラームかけてZzz...。
途中でアナウンスがかかり起きると、午前1時までは飛ばない、もっと遅れるかもというインフォメーション。
ゲートに大勢いた日本人がざわざわ。
耳が抜けないのもいやだが、島3泊しかないのに、あした島にたどり着けないピンチである。
でも、1時までは飛ばないなら、これはさらに寝るしかない。
友だちは「こんなとこでは眠れないので、寝ない!」と言う。
アラームをセットしなおすのも面倒臭いので、「じゃ、寝ないんなら、アナウンスかかったら起こしてね。」と言って、私は本格的に眠ることにした。
いー感じで寝ていたら、激しく揺り起こされた。
友だちが、「いま、寝てたら、蚊の鳴くような声で、コタキナバル~って聞こえた!」と血相変えている。
時計はまだ23時。
「なんで寝てんのよー、寝ないって言ったくせに!」と寝起きの不機嫌炸裂。
まわりには、もう誰もいない。
ゲート変わったのかな?くらいに思い、「まだ1時じゃないから、ゲートの係の人に聞いてきて・・・むにゃむにゃ」と友だちを走らせる。
遠くから、彼らのやりとりをぼんやりと眺めていたら、ゲートの職員と友だちが必死の形相で、すさまじいスピードで手招きしている。
あれ?もう出るってことっすね・・・。
機内に入ると照明はもう落とされていた。
乗客は皆静かに座っており、左3席、右3席の間にある通路は、誘導灯に照らされて、まさに花道状態。
超気まづいが、幸い、すでに眠りに落ちている人も多かった。
友だちとは通路をはさんで隣の席で、私の横は日本人カップル。
おそろしく地味なカップルなのに、おそろしく派手にいちゃついており、かなりいかがわしい体勢になっていたので、私が遅れて来たことなんか意にも介してないようだった。
リゾートまで我慢しなさいと思ったが、ある意味、ありがたい。
座るや否や、ドアクローズ。
そして、意識が遠のき・・・。
途中ミールはしっかり食べた。
そして、また意識が飛んだ。
東京ー沖縄ほどの距離のある、クアラルンプールーコタキナバル。
もっともっと寝ていたいうちにコタキナバルに着いた。
コタキナバルに着いたら、すべてがスロー。
クアラルンプールで入国手続きしているのに、州またがりだと、またまたパスポートコントロールを通らなくてはいけないのにいらっ。
とにかく、早く眠りたい。
イミグレ後、荷物が出てくるのを延々と待ち、やっと出てきたと思ったら、ターンテーブルが止まった。
と同時に、白人女性が「I missed my baggage」と訴えていた。
あー、気の毒。でも、荷物が出て来ないときは、あーいえばいいのね、なんて学んだ。
ボルネオ・ダイバーズの送迎とミートしてからも、なかなか出発できない。
ワンボックス2台が待機していたが、人と荷物がそろうまでに時間がかかるのだ。
タッチ&ゴーだった初コタキナバル
空港を出たら、物珍しいので、眠気はどこへやら、窓の外を凝視。
市街地に出るまでの道路にある蝶やラフレシアの電飾に、なんだか昔懐かしさを感じた。
1泊するはずだったシャングリラに着くと、近くから、ギターを持った若者たちの弾き語りが聞こえた。
そう、はじめからコタキナバルというのは、なんだかやたらと懐かしさを感じる場所で、直感的にここが好きだと思った。
で、ホテルに着いたのは午前3:30。
ピックアップは午前4:30との沙汰。
もう絶句。
1時間仮眠なら、空港待機のほうがマシなのに。
さて、ホテルは、想像していたより、はるかにまともだった。
とにかく、耳が抜けないのはイヤなので、さっさと寝なくては。
とりあえず、トイレには行っておこう。
流れが悪い。
ベッドに入る前に、カーテンがあるのでいちおう開けてみたら、壁。
窓ははるか上の方にある。
ランボルギーニカウンタックみたい。
もう50分しか眠れないんだから、そんなことはどうでもいい。
とにかく、1分でも長く寝よう。
何はともあれ、予定どおり、シパダンにたどりつけそうで良かった。
というわけで、20年前のきょうは、長い長い1日だった。
20年も昔のことなのに、ついさっきのように鮮明に覚えている。
94年はマレーシア観光年。
今年も20年前同様、マレーシアは観光年。
それなのに、3月と7月のMHの事故というショッキングな年になってしまった。
欠シパダン理由
さて、どうして今年はシパダンに行かないか?
MHショックは、少なからずある。
でも、これからも私は、ふつうにMHに乗ると思う。
シパダンを見送りのきっかけは、7月にマブールで起こった事件だ。
昨年末にはポンポン島で台湾人カップルの男性が射殺され、相方の女性が誘拐された事件。
4月のシンガマタ・リゾートでは、チャイニーズの女性ゲストとフィリピナスタッフが誘拐された事件。
次いで、センポルナ界隈で、確か漁業会社のチャイニーズマネジャーも誘拐された事件。
ここのところ、チャイニーズをターゲットとした誘拐事件が立て続けに発生している。
犯人集団は、サザンフィリピノの過激ムスリム。
サバ州東海岸にとって、もう、サザンフィリピノの過激派対策は、永遠のテーマではなかろうか。
いつになったら、あのエリアに平和は来るのだろう。
最近に限らず、以前からサバの東海岸では、けっこうな頻度で誘拐事件が発生している。
日本人が巻き込まれていないので、日本でニュースにならないだけだ。
それを知りながらも、私にシパダンゆきを思いとどまらせるものはなかった。
1995年6月には海賊が何度も島へのアプローチを試みていた。
なにしろ、日没後は海賊が出没するので、センポルナと島の間の移動は日のあるうちにっていう海域だった。
島に向けてボートに乗っていると、違法なダイナマイトフィッシングをボギョンとやっているのなんかも見かけることがあった。
2000年にアブサヤフがPSRで集団誘拐をする直前まで島にいたし、その数ヶ月後には、普通にシパダンに行ったものだ。
シパダン歴が浅かった頃には、帰ってくると、家族に強制的にシパダンのスライド(銀塩時代)を見せてあーだこーだ語っていた。
「あらー、パラオよりもすごいわねー」なんて感じで、親までも、シパダンの海の良さに理解を示してくれた。
そのせいか、海賊が来てさー、なんて話をしても、なぜか、「そんな危ないとこ、行っちゃいけません!」なんてことにはならなかった。
なにしろ、アブサヤフの誘拐事件が報道されたとき、そのニュースを最初に教えてくれたのは、母だった。
「あんたがいつもいってるところで、誘拐があったみたいよ。」
が、なぜだかシパダンにはあまり心配せずに送り出してくれた。
一度事件が起きた場所は、警備が厳しくなってそうそう同じことは起こらないと思っていたのもあるようだ。
それに、根拠はないが、大丈夫っていう直感みたいなものが働いていたように思う。
しかし、今年7月の事件は、ちょっと違うふうに感じた。
マブール、こともあろうにSMARTのウォーターバンガローのJETTYから武装集団が上陸し、マリンポリス2人のうちひとりが射殺され、もうひとりは拉致され、無事だとは言うが、未だ解放されたというニュースは聞いていない。
(ちなみに、前出のチャイニーズは、みな日数はかかっているが、解放されている。)
これまで、拉致事件があっても、リゾートエリアで、人死にが出るようなことはなかった。
この人が一人亡くなっているというのは大きなインパクトだ。
ポリスがいたって、賊をのうのうと上陸させてしまう環境。
武装集団の狙いは、ツーリストを拉致だったのが、たまたま先にポリスとでくわしたがために戦闘となり、ポリスが犠牲になったのだ。
この件を受けて、日本の外務省は、サバの東海岸に対して、危険情報をレベル2から3に引き上げた。
長年続いた「渡航の是非を検討してください」には慣れっこになって麻痺していたが、さすがに3となり、【サバ州東海岸のうち,ラハ・ダトゥ,クナ及びセンポルナ周辺地域には「渡航の延期をお勧めします。」の危険情報が発出されていますので,同地域への渡航は経由地である場合を含め,どのような目的であれ,控えてください。】
どのような目的であれ、とまで表現されると、そうそう見過ごすこともできない。
もとシパダンのDMだったコタキナバル人に、ローカル目線からのアドバイスを求めたら、「危険すぎるから行くな」という。
もうひとりは、「警備が厳しくなって、たぶん安全。みんなが来なくなるから水中もいいかも」と脳天気。
7月の事件を契機に、東海岸海域では夜間後航海が禁止されているので、不審船の航行チャンスも減って入ると思うし、新しい事件も聞いてはいない。
きっと何事もないんだろうけれど、何かがひっかかる。
個人的には、10周年の2004年にシパダン島がクローズして、何かが決定的に終わってしまってはいる。
せっかく20周年、1800本記念と意気込んでいたのに、まさかこんなことで頓挫するとは思わなかった。
いつまでセンポルナ界隈の緊張は続くのか、そして、いつまで私がシパダンに行かずにがまんしていられるものか・・・。
20代、30代、そして40代となり、えらいこっちゃだ。
とにもかくにも、シパダンにゆけず、悶々とする9月。
忘れもしない20年前のきょう、9月10日は、私がはじめてのシパダンにむけて旅立った日だ。
そして、それからは、9月という月はシパダンの月になった。
9月にシパダンへ行かなかった年は、たぶん2~3回。
夏の終わりにはシパダン。
毎年、新米の越路早生を食べるないと秋が来ない!と思っているのと同様、これがなければ秋が迎えられないといえるほどのシパダン。
私にとっては、今なおシパダンがNo1であり続けるし、いつだってシパダンに行きたい気持ちに変わりはない。
なのに、この9月は、あえてシパダンに行かない。
いや、9月だけではない。
今年もあと3か月だから、20年潜り続けたシパダンの海に、今年は一度も潜らないかもしれない。
まさか、こんな時が来るなんて、思いもしなかった。
20年ふたむかし
1994年4月。
カート・コバーンの死の衝撃から5日後のこと。
今は休刊中のDW(ダイビングワールド)で「ボルネオ大紀行」という特集を掲載した号が出た。
この1冊で、この年の夏休みはシパダンに決定。
ジュリア・ロバーツとデンゼル・ワシントンのペリカン文書を、有楽町のマリオンで見たあと、友だちとシパダンの日にちを決め、翌日の昼休みには、公衆電話からテレカで旅行会社に電話して申込み。
映画本編上映前の宣伝で、篠原涼子の「愛しさと切なさと心強さと」がストリートファイターのCMで流れたのがとても印象に残っている。
1994年は、そんな年だった。
きっかけ
シパダンを知ったのは、たぶん、92年頃DWで紹介されたことからだった。
ダイビング雑誌はほとんど処分してしまったが、今でも、DWのシパダン特集はとってある。
これらDWのバックナンバーは、私にとってはバイブルのようなもので、捨てられない。
あとは、その頃に発行された、地球の歩き方マレーシアも。
今ではビルが建ち並んでいる場所がまだ海だったり、コタキナバルも様変わりしたので、今となっては使い物にはならないが、これまた捨てられない。
当時は、映画「彼女が水着に着替えたら」がきっかけで巻き起こったダイビングブームの名残りで、ブームにのってダイビングをはじめた人たちが、まだけっこうアクティブダイバーでいた。
私もダイビング業界がいちばん元気だった時代にオープンウォーターをとった。
もっとも私は、「彼女が水着に...」にインスパイアされたわけではなく、映画を見てすらいない。
ちょうど当時の女子大生に人気の某社への就職が決まった夏、残業の多さで悪名高くもある会社だったので、就職したら、思うように遊べないぞ、という先入観から、沖縄行ってみたいしー、とれるうちにCカードとっておこーっと、ってノリ。
まさに学生が英検や秘書検をとるのと同じような感覚でとった。
Cカードだけ持ってればいいや、と思っていて、ダイビングを続ける気はあまりなかった。
アドバンスなんて、はなっから考えていなかったが、誘われるままにアドバンスをとり、そこからはまった。
当時はまだ高かった講習代に器材一式、ドライスーツにと、学生時代にバイトでためた貯金を全部つぎ込んだ。
今とは違って、20代ダイバーがとても多かった。
同世代のダイバー仲間の間では、シパダンは、もう行くところがなくなった人びとがたどりつく辺境の地と目されていた。
100本で行ったら「何しに来たんですか?」と言われるくらいの勢い。
今は、ダイバーの絶対数が減り、高齢化しているが、何百本と本数を重ねているダイバーは珍しくない。
でも当時は、シパダンには200本は潜っていないとだとか、予約は2年前からで1年前じゃもうとれないだとか、行くのも予約するのも敷居が高いというふれこみだった。
その頃の私は、すでに200本以上潜っていたが、伊豆半島に月3回とたまに三宅と沖縄、海外はモルディブとパラオしか行ったことがなかった。
まだまだ行きたいところは山ほどあり、行くところがなくなった人ではない私が、シパダンにさっさと行くことになったのは、モルディブのイントラから、「休暇で行ったシパダンが、すごくよいから、絶対に行って」と強くすすめられたからだ。
素晴らしいモルディブの海を毎日潜っている人のすすめだから、説得力があった。
リゾート選び
島にはボルネオ・ダイバーズ、PSR(プラウシパダンリゾート)、SDC(シパダン・ダイブ・センター)の3件。
噂によると、ボルネオ・ダイバーズがいちばん老舗で高く、欧米人が多い、PSRがこぎれい、SDCはいちばん安く、日本人も多いが、ビーチダイブをするときに器材をかついでえっちら歩かなければならない。
日本人ばかりじゃ旅情がないし、タンクしょっての陸移動もいやなので、まずSDCが候補から消える。
選択肢はボルネオ・ダイバーズかPSR。
実はその前の年に、ジスコ経由でPSRの申し込みをしたが、会社で同じグループのリーダーが入院してしまい、ペーペーの私が何ヶ月も前から予定していた年休は却下され、2ヶ月以上前のキャンセルなのに、ジスコに友だちの分と申込金2名分6万を没収されたというのがトラウマになっていた。
今のジスコは、そんな厳しい規定は設けていないが、当時は強気だった。
シパダン行きたいけれど、3ヶ月先の予定なんてどう変わるかわからないし、とシパダン経験者の友だちに相談したら、クルーズ・インターナショナルという会社なら、1か月前からしかキャンセル料がかからないと聞き、その会社が扱っているボルネオ・ダイバーズに決定。
でも、リゾートといっても簡素なシャレーで、共同トイレ共同シャワーで長居はつらそう。
旗日ごとに、どこかしらへ潜りに行きたい年頃だったので、よくわからないシパダンにそうそう日数は費やせないと、土日+祝日1日+年休けちって3日だけの、全行程7日間にした。
土曜出発、木曜早朝着で、そのまま会社へGO!にした。
とりあえずは、シパダンというところに、一度行ければ気がすむだろうと思っていた。
最後の伊豆
予約が取れたら、あとは練習。
同行者は、シパダン的にはありえない100本未満ダイバーだったので、まずは久米島で練習。
そして、シパダンへ行く前の週の週末には、富戸で特訓。
富戸ビーチだけのつもりで行ったのに、サービスに強くすすめられ、ボートダイブにも参加。
富戸ビーチは好きだったのに、ボートのポイントは、ひたすら真緑で、トビエイが1匹出ただけで、金返せー!な内容で、それっきり伊豆に行かなくなってしまった...。
MHデビューでイレギュラー
そして9月10日がやって来た。
成田に8時30分集合と早い時間なのに、チェックインは長蛇の列。
その頃の私の荷物は、往きにはだいたい28キロ。
私と友だちのところに、同世代の男がやって来て、荷物を一緒にチェックインしてくださいと懇願。
うちらだってじゅうぶんHEAVYなのに、人のためにさらにHeavierにしたくないし、それに、良からぬものを持っているのかもしれない。
かなり食い下がる男だったが、ばっさりお断り。
はじめてのマレーシア航空で、聞き取れるマレー語は「とぅりまかし」だけ。
機内でKELUARがEXIT、TANDASがトイレというマレー語からさっそく覚える。
クアラルンプールまでの約7時間、2回もミールが出て、すっかりブロイラー。
クアラルンプールの空港も、今のKLIAではなく、スバンにあった。
スバンで国内線乗り継ぎのためのイミグレーションにたどりつくと、我々が若かったのもあると思うが、入国審査官はちゃらちゃらと仕事をしており、「どこに行く?」と聞かれ、「シパダン」と答えると、「俺たちも先週行って来たゼィ」なーんて調子。
嘘だろ、と半ば呆れるテキトーさである。
そして、なにやらバスに乗って、国内線ターミナルへ移動した。
コタキナバルへの国内線までは、4時間くらい時間があいて、確か20時台の便だったと記憶している。
ゲートについてしばらくすると、DELAYのアナウンス。
えー、まじっすか?
これだからMHはやだよ、初めてのくせに、ぶーたれてみる。
当時は名古屋からペナンゆきのMHが運航されていて、その名古屋便が遅れるので、コタキナバルへ乗り継ぐ人がたくさんいるのを待つとのことだった。
さいしょのアナウンスでのRETIMEは23時。
翌朝のタワウへのフライトは6時過ぎ。
島に着いたらオリエンテーションでドボンなわけで、睡眠不足で耳が抜けなかったら困ると、さっそく仮眠を決め込むことにした。
その頃は、まだダイバーズウォッチなんてのをつけていて、アラームかけてZzz...。
途中でアナウンスがかかり起きると、午前1時までは飛ばない、もっと遅れるかもというインフォメーション。
ゲートに大勢いた日本人がざわざわ。
耳が抜けないのもいやだが、島3泊しかないのに、あした島にたどり着けないピンチである。
でも、1時までは飛ばないなら、これはさらに寝るしかない。
友だちは「こんなとこでは眠れないので、寝ない!」と言う。
アラームをセットしなおすのも面倒臭いので、「じゃ、寝ないんなら、アナウンスかかったら起こしてね。」と言って、私は本格的に眠ることにした。
いー感じで寝ていたら、激しく揺り起こされた。
友だちが、「いま、寝てたら、蚊の鳴くような声で、コタキナバル~って聞こえた!」と血相変えている。
時計はまだ23時。
「なんで寝てんのよー、寝ないって言ったくせに!」と寝起きの不機嫌炸裂。
まわりには、もう誰もいない。
ゲート変わったのかな?くらいに思い、「まだ1時じゃないから、ゲートの係の人に聞いてきて・・・むにゃむにゃ」と友だちを走らせる。
遠くから、彼らのやりとりをぼんやりと眺めていたら、ゲートの職員と友だちが必死の形相で、すさまじいスピードで手招きしている。
あれ?もう出るってことっすね・・・。
機内に入ると照明はもう落とされていた。
乗客は皆静かに座っており、左3席、右3席の間にある通路は、誘導灯に照らされて、まさに花道状態。
超気まづいが、幸い、すでに眠りに落ちている人も多かった。
友だちとは通路をはさんで隣の席で、私の横は日本人カップル。
おそろしく地味なカップルなのに、おそろしく派手にいちゃついており、かなりいかがわしい体勢になっていたので、私が遅れて来たことなんか意にも介してないようだった。
リゾートまで我慢しなさいと思ったが、ある意味、ありがたい。
座るや否や、ドアクローズ。
そして、意識が遠のき・・・。
途中ミールはしっかり食べた。
そして、また意識が飛んだ。
東京ー沖縄ほどの距離のある、クアラルンプールーコタキナバル。
もっともっと寝ていたいうちにコタキナバルに着いた。
コタキナバルに着いたら、すべてがスロー。
クアラルンプールで入国手続きしているのに、州またがりだと、またまたパスポートコントロールを通らなくてはいけないのにいらっ。
とにかく、早く眠りたい。
イミグレ後、荷物が出てくるのを延々と待ち、やっと出てきたと思ったら、ターンテーブルが止まった。
と同時に、白人女性が「I missed my baggage」と訴えていた。
あー、気の毒。でも、荷物が出て来ないときは、あーいえばいいのね、なんて学んだ。
ボルネオ・ダイバーズの送迎とミートしてからも、なかなか出発できない。
ワンボックス2台が待機していたが、人と荷物がそろうまでに時間がかかるのだ。
タッチ&ゴーだった初コタキナバル
空港を出たら、物珍しいので、眠気はどこへやら、窓の外を凝視。
市街地に出るまでの道路にある蝶やラフレシアの電飾に、なんだか昔懐かしさを感じた。
1泊するはずだったシャングリラに着くと、近くから、ギターを持った若者たちの弾き語りが聞こえた。
そう、はじめからコタキナバルというのは、なんだかやたらと懐かしさを感じる場所で、直感的にここが好きだと思った。
で、ホテルに着いたのは午前3:30。
ピックアップは午前4:30との沙汰。
もう絶句。
1時間仮眠なら、空港待機のほうがマシなのに。
さて、ホテルは、想像していたより、はるかにまともだった。
とにかく、耳が抜けないのはイヤなので、さっさと寝なくては。
とりあえず、トイレには行っておこう。
流れが悪い。
ベッドに入る前に、カーテンがあるのでいちおう開けてみたら、壁。
窓ははるか上の方にある。
ランボルギーニカウンタックみたい。
もう50分しか眠れないんだから、そんなことはどうでもいい。
とにかく、1分でも長く寝よう。
何はともあれ、予定どおり、シパダンにたどりつけそうで良かった。
というわけで、20年前のきょうは、長い長い1日だった。
20年も昔のことなのに、ついさっきのように鮮明に覚えている。
94年はマレーシア観光年。
今年も20年前同様、マレーシアは観光年。
それなのに、3月と7月のMHの事故というショッキングな年になってしまった。
欠シパダン理由
さて、どうして今年はシパダンに行かないか?
MHショックは、少なからずある。
でも、これからも私は、ふつうにMHに乗ると思う。
シパダンを見送りのきっかけは、7月にマブールで起こった事件だ。
昨年末にはポンポン島で台湾人カップルの男性が射殺され、相方の女性が誘拐された事件。
4月のシンガマタ・リゾートでは、チャイニーズの女性ゲストとフィリピナスタッフが誘拐された事件。
次いで、センポルナ界隈で、確か漁業会社のチャイニーズマネジャーも誘拐された事件。
ここのところ、チャイニーズをターゲットとした誘拐事件が立て続けに発生している。
犯人集団は、サザンフィリピノの過激ムスリム。
サバ州東海岸にとって、もう、サザンフィリピノの過激派対策は、永遠のテーマではなかろうか。
いつになったら、あのエリアに平和は来るのだろう。
最近に限らず、以前からサバの東海岸では、けっこうな頻度で誘拐事件が発生している。
日本人が巻き込まれていないので、日本でニュースにならないだけだ。
それを知りながらも、私にシパダンゆきを思いとどまらせるものはなかった。
1995年6月には海賊が何度も島へのアプローチを試みていた。
なにしろ、日没後は海賊が出没するので、センポルナと島の間の移動は日のあるうちにっていう海域だった。
島に向けてボートに乗っていると、違法なダイナマイトフィッシングをボギョンとやっているのなんかも見かけることがあった。
2000年にアブサヤフがPSRで集団誘拐をする直前まで島にいたし、その数ヶ月後には、普通にシパダンに行ったものだ。
シパダン歴が浅かった頃には、帰ってくると、家族に強制的にシパダンのスライド(銀塩時代)を見せてあーだこーだ語っていた。
「あらー、パラオよりもすごいわねー」なんて感じで、親までも、シパダンの海の良さに理解を示してくれた。
そのせいか、海賊が来てさー、なんて話をしても、なぜか、「そんな危ないとこ、行っちゃいけません!」なんてことにはならなかった。
なにしろ、アブサヤフの誘拐事件が報道されたとき、そのニュースを最初に教えてくれたのは、母だった。
「あんたがいつもいってるところで、誘拐があったみたいよ。」
が、なぜだかシパダンにはあまり心配せずに送り出してくれた。
一度事件が起きた場所は、警備が厳しくなってそうそう同じことは起こらないと思っていたのもあるようだ。
それに、根拠はないが、大丈夫っていう直感みたいなものが働いていたように思う。
しかし、今年7月の事件は、ちょっと違うふうに感じた。
マブール、こともあろうにSMARTのウォーターバンガローのJETTYから武装集団が上陸し、マリンポリス2人のうちひとりが射殺され、もうひとりは拉致され、無事だとは言うが、未だ解放されたというニュースは聞いていない。
(ちなみに、前出のチャイニーズは、みな日数はかかっているが、解放されている。)
これまで、拉致事件があっても、リゾートエリアで、人死にが出るようなことはなかった。
この人が一人亡くなっているというのは大きなインパクトだ。
ポリスがいたって、賊をのうのうと上陸させてしまう環境。
武装集団の狙いは、ツーリストを拉致だったのが、たまたま先にポリスとでくわしたがために戦闘となり、ポリスが犠牲になったのだ。
この件を受けて、日本の外務省は、サバの東海岸に対して、危険情報をレベル2から3に引き上げた。
長年続いた「渡航の是非を検討してください」には慣れっこになって麻痺していたが、さすがに3となり、【サバ州東海岸のうち,ラハ・ダトゥ,クナ及びセンポルナ周辺地域には「渡航の延期をお勧めします。」の危険情報が発出されていますので,同地域への渡航は経由地である場合を含め,どのような目的であれ,控えてください。】
どのような目的であれ、とまで表現されると、そうそう見過ごすこともできない。
もとシパダンのDMだったコタキナバル人に、ローカル目線からのアドバイスを求めたら、「危険すぎるから行くな」という。
もうひとりは、「警備が厳しくなって、たぶん安全。みんなが来なくなるから水中もいいかも」と脳天気。
7月の事件を契機に、東海岸海域では夜間後航海が禁止されているので、不審船の航行チャンスも減って入ると思うし、新しい事件も聞いてはいない。
きっと何事もないんだろうけれど、何かがひっかかる。
個人的には、10周年の2004年にシパダン島がクローズして、何かが決定的に終わってしまってはいる。
せっかく20周年、1800本記念と意気込んでいたのに、まさかこんなことで頓挫するとは思わなかった。
いつまでセンポルナ界隈の緊張は続くのか、そして、いつまで私がシパダンに行かずにがまんしていられるものか・・・。
20代、30代、そして40代となり、えらいこっちゃだ。
とにもかくにも、シパダンにゆけず、悶々とする9月。