くらぶとろぴか

きもちはいつもシパダンの海の中。シパダンとコタキナバル旅の備忘録、ときどき弾丸、そしてホームワークアウトおたく。

今日もシパダンネタ・・・

2006-05-26 02:15:50 |  未分類
25日付の新聞記事で、マレーシアの観光・文化・環境大臣(?)のカー・キアットさんによれば、シパダンを今すぐクローズする予定はないそうだ。
(シパダンは、今、外国からの予約のキャンセルが続出らしい。)
この大臣のコメントも、当初事件が発覚した頃の、鼻息の荒さとはうってかわって、「今回のダメージは、シパダンのリーフ全体の0.1パーセント」だと言い、今回の一件が実際のレベルより、大げさに取り沙汰されていた、と言いたげだ。
0.01パーセント…これで、きのうのダトゥッなんとかさんの10分の1に減った。

↓が、新聞にのってたシパダンのリーフの図。図の中の赤いところが、被害にあった場所ってことらしい。
http://www.newsabahtimes.com.my/Project.jpg

大臣によれば、ダメージの範囲は、2~3キロではなく、372.2m。
実際に、作業船がひっかけたのは、ドロップオフ。ただし非常に深いので、作業船はほんのへりの部分だけを破壊し、ネットでさわがれたほどではないって強調してる。

また、当の建築会社は、補償を払うらしい。当然だ。

そして、ちょっと気になるのは、大臣いわく、「建築を中止する必要はない。必要な施設を完成させるようトライすべきだ」という発言。

海で用が足せない人のため、また、突然、大をもよおしたときのために、まともなトイレが設置されているのは、よいかもしれないが…
でも、この後におよんで、億単位の予算をもってた建築の続きをサポート?
マブールだって、カパライだって、近いんだから、高級な施設は無用だと思う。
一度だけ、シパダンでの水面休息中、すさまじい雨・あらしにみまわれたことがあるから、そうしたとき、みんなで雨やどりができる、質素なあずまやでもあれば、十分だと、私は思う。

まだまだ目の話せないニュースなのだ。
あした以降も、ブログでブツブツいうと思う…

たったの1パーセント!?

2006-05-24 21:18:31 |  未分類
シパダンのサンゴが破壊されたことを知った日から、マレーシアのいろんな新聞のホームページを毎日チェックしている。

「Berita Harian」という新聞の、今朝の記事は、ちょっと楽観的。
サバ・ツーリスト・ボードのトップ、トゥンク・ザイナル・アドリンさんという人のコメントは、「シパダンのコーラルの破壊は、ちょうどテニスコート2面分ほどで、シパダンのコーラルリーフ全16km中の、たった1パーセントにすぎない」という表現。

1パーセントと言うと、なんとなく、被害小さめに聞こえる。
でも、テニスコート2面っていうのは、相当な広さだ。
テニスコートの規定では、縦23.77m×横10.97m。
それが2面となると、ほぼ50mプールな感じ。
ウォーターボーイズが、思いっきりシンクロできる大きさだ。

それを、マレー語で、CumaとかSahjaとかhanyaという、英語の「ONLY」にあたる言葉を多用してるのだが、はたして「だけ」と言ってしまえるものなんだろうか。

FwdにFwdを重ねて、私のところにたどりついてきた「Bad News from Sipadan」というメールでは、91年からシパダンに通い続けているというドイツ人のコメントと、無残なサンゴの写真が添付されていた。
枝サンゴは、石がかぶってる中から、枝の先がちょっと見えているだけ。
たる型さんごの中は、石がめいっぱい詰まっていた。
サンゴの中でひっそりと暮らしている、ダルマハゼや、カニたちは、どうなってしまったんだろう。

今すぐシパダンに行って、事実をこの目で確かめることもできないし、ただ仲間うちでのメールや、こうしてブログで現状について、あーだこーだ書くしかない現状がもどかしい今日この頃。
マレーシアの関係諸機関には、事実確認や、被害の評価も大事だけど、さっさと前向きに水中・陸上の片付けから考えてほしいと思う。





シパダン 一縷の望み

2006-05-21 23:55:47 |  未分類
シパダンのサンゴが破壊されたニュースを最初に知った時は、ショックのあまりテンパってしまい、ブログ投稿やら、シパダンつながりのダイビング仲間、昔シパダンで働いてた人、今も、あの界隈で働いている人、と様々な人々にメールをしてしまいましたが、冷静になった今、一縷の望みを見い出しました。
いずれにしても、ここ数日中には、もっと詳しいことがわかるでしょうから、これから書くことは、すべて希望的観測です。
とあるインストラクターに、「ドロップオフのコーラルは、根こそぎ破壊されて、カバーンは崩壊の危機で、バラクーダポイントまで影響が出てるの?」ってメールをしたら、「No! All OK」という、いとも楽観的な返事でした。
そもそも、今回の事件が発覚したのは、イタリア人フォトグラファーのカップルが、ブログ投稿したことから、メディアに取り上げられたようです。
14日に起こった事件が、20日まで報道されなかったということからも、誰もその間に、このことをクレームしなかったということではないでしょうか。
彼らの最初のブログや、新聞報道では、バラクーダポイントにいたるドロップオフのコーラルが壊滅状態のような言いようですが、いくら巨大な作業船とは言え、そこまで大きくはないでしょう。
それに、ドロップオフも、リーフエッジは、美しいサンゴに覆われてましたが、その手前、ビーチに向かっては、もともと砂地です。
根こそぎえぐられ、まったいらにしたような記事がかかれてはいましたが、実際は、そこまでではないことを願います。
わずかでも、自然の力以外のものによって、サンゴがおられたり、欠けたりということは、あってはならないのですが、おそらく、新聞やWEBに書かれているほど、ひどくはない、という希望を持つことにしました。
渦中のサバ・パークスのダイブチームの調査の結果が出るのを待つのみですが、どうか、よい結果でありますように。




シパダン、悲しい出来事

2006-05-19 22:16:08 |  リゾート
今朝、たまたま早起きをして、出勤前にネットサーフィンをした。
いつも気持ちがシパダンら辺をさまよっている私は、サバのローカル新聞、Daily ExpressとNew Sabah Timesのサイトと、ナショナル誌のUtusan Malaysia Onlineの記事をチェックしたら、いずれもSipadanの文字。
大好きなSipadanで、また何が起こったのか!?

なんと!5月14日に、シパダンのサンゴが、破壊されてしまったのだ。
それも、まったくの人為的ミスで。

シパダンでは今、なんでも500万リンギット(日本円で1億5千万?)の予算で、レストハウスやレストラン、ダイビングサービスなどの施設を作ろうと、何トンもの建築資材を運搬するための鋼鉄の作業船(英語では、モンスターサイズのはしけと表現されていた)が停泊し、その船には、砂利、鉄パイプ、ブルドーザー、セメントやら、重いものばかりが乗せられているらしい。
今回の悲劇は、クレーンでブルドーザーを降ろそうとするときに起こったそうだ。
作業船は、そのあまりの重さで、ドロップオフに着底してしまったらしく、それでサンゴを根こそぎえぐりとってしまった、という、あってはいけない事故だ。
現場の撮影をした、フォトグラファーの人のHPを見ると、水中が真っ白白になってしまっていて、愕然。

さらに悪いことに、その作業船は、タートルカバーン上のリーフにのっかてしまったもので、カバーンも崩壊の危機にさらされているらしい。
タートルカバーンの入り口は、水深18Mにあるが、カバーンの天井部分で、一番薄い部分は、せいぜい水深4m半くらいしかないんだそうだ。
そして、その薄い天井が崩壊したら、ビーチも崩れ、島も崩れることになってしまうという。

その建築作業は、政府が業者に、シパダンの基本的なインフラとして、トイレやレストハウス、その他アメニティ施設を建築することを許可してのものだったという。
政府が建築業者に許可、というような表現で、一体、作業依頼の主が、誰なのか、新聞からは読み取れない。
私の読みでは、政府が、2007年のマレーシア観光年の営業開始をめざして、
リゾートを建てようとしたんだろうな、とかんぐってしまう。
2004年12月31日、政府の自然保護という大義名分と指導のもと、シパダンの全リゾートは、撤収させられ、ボルネオダイバーズとプラウシパダンリゾート以外の施設は、すべて取り壊された。
残った2件だって、セキュリティが使用しているにすぎない。
トイレは、クローズ後、ずっと使えていなかったが、3月にシパダンに上陸したときには、昔のボルネオダイバーズの恐らくスタッフトイレが復活して、男女別で、たしか3個室ずつあって、水もちゃんと出た。
そこに、インフラ整備といって、物価の安いマレーシアで、億からの予算だったり、自然保護区のはずのところを、ブルドーザーで整地したり、トイレを作るために、クレーンで作業する必要もないだろう。
そもそも、シパダンにリゾートがあった頃は、オフシーズンになると、古くなったコテージが取り壊され、わずか数日で、こどもみたいな作業員たちが、あっという間に新しいハットを手動でトンテンカンテン、どんどん建て替えていたくらいだから。
ニュースだと、施工業者のせいにばかりしているが、政府からの許可があるなら、設計図だってあって、しかるべき機関のチェックは受けているはずだ。
だいたい、自然保護のために、民間のリゾートがどかされ、壊したあげくに、わずか1年半で施設を作ること自体がアンフェアだ。

それにしても、エルニーニョの影響で、一時はほぼ壊滅状態だったシパダンのサンゴも、やっとここ1、2年で、以前の美しさを取り戻していたのに、なんということをしてくれたんだろう。

今回の事件をうけて、サバ州の観光の大臣のコメントは、シパダンのリーフがよみがえるまでは、島のクローズも視野にいれているという。
さらに、サバは、シパダンだけではなく、他にもいくらでもよいダイブサイト、たとえばマブール、マタキン、ラブアンもある、というようなコメントまでしていて、まったく、勝手な話だ。
もちろん、その大臣は、今回の一件に、非常にご立腹とはいうが・・・

2、3ヶ月前のダイビングワールドの、ボルネオ特集記事に、シパダンのリゾート撤退により、昔ながらのシパダンが戻ってよかった的なことが書かれていたが、本当にそうなのだろうか。
シパダンのリゾートが、どのように汚水処理をしていたか、詳しくは知らないが、もちろん、リゾートがあれば、多少は、海を汚すことは否めない。
たとえば、よくある光景として、海に直接流れ込む屋外のシャワーでシャンプーしたり、マスクの曇り止めとして、中性洗剤が置いてあって、そのまま海へ垂れ流しなんて状態だったから。
でも、ビーチには、以前にあんなにゴミはなかった。
もちろん、リゾートの敷地内は、毎朝掃き掃除とかしてたから。
シパダンで、PADIのプロジェクト・アウェアに参加したことがあるが、もちろんゴミはあって、そこそこ拾えたが、今のように、ひどくはなかった。
また、ダイビングで浮上して、ボートが拾ってくれるのを待っているときに、リゾートがなくなっているわりには、水面で、大量のゴミ、スナックの袋や、ビールの缶、タバコのパッケージなどが漂ってくるありさまだ。
島のセキュリティは、いるだけではなく、ちゃんとゴミ処理もしてほしいものだ。

シパダンは、1984年にオープンしたが、私のシパダンデビューは1994年、ちょうど10周年記念かつ、マレーシア観光年だった。
1992年頃から、日本でもメジャーになったシパダンであるが、昔に行った人たちに言わせれば、その頃、もうシパダンは、「悪くなった」という話だった。
それでも、私がはじめて言った時は、水深5mより浅い棚の上は、見事な枝サンゴの群生だった。
95年にマブールにリゾートができて、毎日、何十人、時には100人近いダイバーがマブールからやって来て、まず、島の桟橋がボロボロになった。
その後、桟橋は、かけかえられたが、やはり、シパダン自体のリゾート、周辺のマブールや、他の島々のリゾートが増え、シパダンに潜りに来るダイバーが増えるにつれ、サンゴに次第に勢いがなくなっていった。
そんなところに、97年のエルニーニョが原因で、島のサンゴたちは、98年の9月に潜った時は、すべて真っ白く、瀕死の状態になり、その後、きれいなサンゴ礁は、昔のプラウ・シパダン・リゾートの前に、一部残っていただけであとはガレ場になってしまった。
はたして私が現役で潜ってられるうちに、ここのサンゴは復活するのだろうか、と思っていたが、うれしいことに、思ったより、短い年数で、サンゴは見事に復活をとげた。
その間、わずか、4~5年。
こんどは、自然現象ではなく人為的な事故だが、元に戻る日は、いつになるのか。
そして、シパダンの今後はいかに!?
シパダンをこれ以上、痛めつけるようなことはしたくないし、やめてほしい。
そのためには、人が海・陸とも足を踏み入れないことなのかもしれない。
でも、あんなに素晴らしい海を一度知ると、潜らないではいられない。
いずれにしても、当分、心配な日々が続きそう。

KKスパ探訪~カンダマン・スパ 

2006-05-14 23:35:02 |  スパ


カンダマン〈Ka'andaman Traditional Healing Garden〉は、KKでいちばんお気に入りのスパ。
キナバル山登山翌日にはじめて訪れ、その後もカパライやセレベス・エクスプローラーの帰りに、必ず寄り、かれこれ10回は通っている。
サバ州政府観光局に行って、おすすめスパをたずねれば、カンダマンがイチオシといわれ、信頼もある。
何がよいかと言うと、メニューが豊富、天然植物素材がメイン、かつお値段も、同等クラスのプライベート・スパの中ではいちばんリーズナブルだし、さらにリピーターへのディスカウントも、なかなか魅力的なのだ。

KKのスパは、大きくリゾート・ホテル型とプライベート型に分けられ、カンダマンは後者。
プライベート・スパは、ほとんどが郊外にあり、カンダマンもKKから車で約20分のところにある。
また、最近は、センターポイントやワリサンスクエアにもスパがぞくぞくオープンしており、場所は便利だが、メニューは限られ、どこも似たようなサービスで、「こだわり」が感じられない。

キナバル登山の翌日、スパに行った。
泊まっていたマジュラン・ステラ・ハーバー・リゾートには、マンダラ・スパがあるが、マンダラ・スパはほうぼうにあるので、あえてカンダマン〈Ka'andaman Traditional Healing Garden〉という、ローカルのプライベートスパを選んだ。
このスパは11時~23時まで営業しているが、その日はまる1日予定がなく、予約の際に「何時でもよいです。」と告げたら、「午後2時からにすれば、ディナーに出かけるのにちょうどよい時間に終わるわ。」と、すすめられるままに午後2時スタートにした。
スパの場所は、KKから車で約20分のピナンパン(Penampang)というヴィレッジにあり、スパが往復1台20リンギットで送迎車を用意してくれる。

送迎をホテルのロビーで待っていた私たちは、前日の山登りによる全身筋肉痛で、ドライバーのおじさんがやってきてもすぐに立ち上がれなかった。
立ったり座ったりするたびに、つい、イテテ、と言ってしまう。
ホテルのエントランスのわずか数段の階段でさえも、もたもたおりる私たちを、おじさんが怪訝な顔でみていたので、「きのうキナバル山から帰ってきたばかりなもんで…。」と言うと爆笑して、「マッサージは、少し加減してもらったほうがいいよ。山登りをしたってちゃんと言わないと、よけいにひどくなっちゃうよ」と言った。

ピナンパンは、郊外の住宅街な感じ。
瀟洒な白い家が並ぶところもあれば、古い木造の高床式の住居があるカンポンや、ただの野原だったり、なんとなくなつかしさを覚える景色だ。
道端にはヤギや野犬がほっつき歩いていたりする。

そんな景色をながめているうちに、車は、ローカル風の大きな屋根がみえる敷地に入った。
そこはカダザンドゥスン・カルチュラル・アソシエーション(KadazanDusun Cultural Association)、通称KDCAというところで、その一角にカンダマン・スパがある。
5月末のカマタン(サバ州の収穫祭)や、カダザン族のイベントがない限り、人影もまばらである。


車は半屋外のレセプション前に止まり、ドライバーのおじさんが、レセプションの人に、「この人たちは、キナバル山に登ってきたんだから、マッサージは、力を加減してやって。」とご親切にアドバイス。
アロマな香り漂うレセプションでは、ピーチティーのサービスがあり、メニューの確認。
メニューには、マッサージ、スクラブ、フットスパ、ハンドスパ、ネイル、フットマッサージ等、様々な組合せがあるが、欲張って、そのトリートメントのほとんどを網羅できる、「Haminodun Package」という3時間半コースにした。
そして、「マッサージオイルはどれにしますか?」と3つの小瓶を差し出され、香りをくんくんくんくん。
ラベンダー、レモングラス、そしてイランイランの3種類で、イランイランにした。
ロッカーキーをもらい、建物に入ると、ロッカールームで、備え付けの甚平のようなウェアに着替える。
あとは、使い捨ての紙パンツを着用だ。



着替えをすませると、女性セラピスト2名がおだやかな笑顔で迎えてくれた。

2人用の部屋に通され、まずはフットバスからスタート。
ここで、早くも2回目のお茶、ジンジャーティーのサービスが。
ジンジャーの効果はてきめんで、一口すすっただけで瞬時に体の中が急速に活性化するのを感じると同時に、気持ちは鎮まっていく。
ベッドに腰かけ、きれいな花が浮かぶフットバスは、暑めのお湯が心地よく、登山で疲れた足を生き返らせる。
だけれど、フットスパというのは、どこのスパに行っても思うのだが、軽くかかとに軽石と、爪にブラシをかけて、申し訳程度でさっさと終了してしまうことが残念。

続いてボディスクラブ。
まずはうつぶせになり、足から徐々に上へと、背面側からスクラビング。
うつぶせになると、顔のところが穴になっており、床にはお花が一輪浮いた鉢が置かれる。
ささやかな癒し。
スクラブには、Kudat産(KKから車で3~4時間、ボルネオ島北端の街)の生のココナッツをふんだんに使う。
ひんやりとしたスクラブが、パラパラっと素肌にまかれるたびに、体温との温度差でちょっとゾクっとする。
この日は、日本を出て5週間がたったところだ。
この5週間で、モルディブのダイブサファリ・サザンクロス→カパライ→ラヤンラヤンと潜り歩き、どこもシャワーの出は申し分なかったけれど、それでも毎日潜り、日焼けして、とどめに山登りまでして、潮と強い日差しと汗で、きっと老廃物だらけの肌になっているだろうから、セラピストさんも、やりがいがあったことだろう!?
ココナッツずきの私にとっては、こんなにも贅沢にフレッシュ・ココナッツを使ってくれるのが、うれしくて仕方なかった。
30分間の全身スクラブ後に、体についたココナッツを落とすためにシャワーを浴びる。
腕の臭いをかぐと、わずかに甘い臭いがした。

お次は、楽しみにしていたマンディ・スス。
マレー語でマンディ(Mandi)は風呂、スス(Susu)はミルク、牛乳風呂だ。
実際には、薄いカルピス程度の濁りで、たくさんの花が浮かんでいた。
浴槽につかっていると、「Enjoy your snacks!」と、またも菊花茶とビスケットが出てきた。
生ぬる~いお湯に15分つかる。
これは、想像していたリッチな牛乳風呂ではなく、たいした感動はなかった。

それからフェイシャルを30分。
クレンジングからスタートするが、途中で眠くなってしまい、記憶があいまい。
香りから、ハチミツを使っていたと思う。
友達はなめたら甘かったと言っていた。
仕上げに、よく冷えたキューカンバーのスライスを顔に並べられるが、ここでびっくりして目がさめる。
キューカンバーは軽く30~40枚は使っており、圧巻。
私はかなり気に入っている。

そして、ボディマッサージ。
私は、ふだんは肩こりも感じないし、くすぐったがりなこともあって、マッサージにはたいして用はないと思っていたけれど、イランイランの心地よい香りに、適度な力加減で1時間リラックス。

マッサージが終わると、個室から、別のラウンジに案内される。
ラストはフットレフレクソロジー。
フットは、男性のセラピストさんが担当。
これも1時間みっちりの指圧で、とてもよく効く。
すっかり血行がよくなった。
ここで、またまたサンドイッチとジンジャーティーが出てきた。
体によさげなお茶のオンパレードだ。
連れは、足ツボを刺激されたことで腸が動いたのか、さっそくトイレ(大)に行きたくなったと言っていた。

こうして、午後2時から3時間半のはずの全メニューを終えた時には、時計はもう午後6時をまわっていた。
料金は、二人で税込で798リンギット也。
一人あたり約12,000円で、これだけ内容の濃いサービスだから、いいお買い物だ。



すっかり全身が軽くなり、かつ自分的にはツルツルになった気分でスパから出ると、キナバル山が遠くにおだやかに佇み、虹までかかっていた。
昨日、あの悪夢のようなドロドロの下り階段と格闘していたことが、もう、遠い昔のように思えた。
KKまでの送迎は、しばらく待つように言われたが、ちょうどいい感じに空がオレンジ色に染まってきたので、しばしKDCAの敷地で、サンセットを楽しむことにした。
どこからか野良犬がやってきて、まるで私たちと一緒に夕日を楽しむかのようにすぐ近くにすわりこみ、のんびりした空気が流れる。
はじめのうちは「夕日キレイ~っ!」とか言って、写真をとりまくっていたが、さすがに20分もたつと、空も金色がかったオレンジから、紫がかった色へと変化し、どんどん暮れてきた。
野良犬くんも去っていってしまった。
急ぐ用もないが、ちょっと待たされすぎなので、「送迎まだ?」と催促をしたら、ドライバーはしっかりそこにいた。
往きに送ってくれたおじさんとは、違うおじさんだ。
しかし、様子が変。
「いや~、車はあるけれど、キーを、『フレンド』が持って行ってしまって・・・その『フレンド』が戻って来ないと、車を出せないんだよ~。」という、ちょっとまぬけな理由で待たされていることがわかった。
結局、「フレンド」が登場し、キーが戻って来た頃には、日はとっぷりと暮れてしまっていた。
まあスパですっかりリラックスしたあとで、気分もゆる~い感じだったので、サンセットも堪能したしと、ご満悦状態でKKに帰った。

その後も、KKに行くといつもこのスパに通っている。
どうやら、送迎のドライバーは、実はご近所の人達がバイトでやってるようだ。
KKに用事があった人が、ピナンパンに帰るついでに、等、車を出せる人が随時出動、って感じだ。
来る人もおじちゃんだったり、おばちゃんだったり、カップルだったり。
ときに施術をしてくれたセラピストさんだったり、レセプションのお姉さんだったり、さまざま。
車もダイハツミラパルコから、ランドローバーまで、いろいろ。
タクシーを使うより安いし、安全運転であればよいでしょう。

キナバル山の話(3) 登山2日目

2006-05-13 23:59:07 |  旅行
2005年5月13日、午前1時半@バタカップINラバンラタ小屋。

午前2時にアラームが鳴るまで、ゆっくり寝ていたかったが、あまりにも廊下を行きかう人々の足音がうるさいので、あきらめて1時半過ぎにベッドから起き上がった。18時すぎから横になっていたが、ほとんど眠れなかった。起きてみると、ふくらはぎの痛みはうそのように引いていた。出発前の食事はKitKatだけ。昼間はジャージとTシャツの重ね着だったが、これからは気温の下がる早朝なので、上はTシャツ+裏起毛のトレーナー+ブレーカー、下はジャージの上にナイロン素材の撥水性の黄色のパンツを着用し、頭にはニット帽をかぶり部屋を出た。

午前2時半、ガイドのジーさんと再集合、真っ暗な中を、いよいよ頂上をめざして出発。ここでまた、準備不十分な私が、ライトを持っていないと言い出だしたものだから、親切な彼は、ライトを貸してくれた。心から申し訳ない・・・。ロンリープラネットに、ライトのレンタルがあると書いてあったので、安易に借りよう思っていたら、売店の人にない、と言われてしまった。友達は、しっかり水中ライトを持ってきていた。賢い。

ラバンラタ小屋を出ると、すぐに悪夢のような階段が待ちうけていた。足はもう痛くないが、今度は大腿部から、ずっしーん、とだるい感じがする。しかし、階段は狭く、あとからどんどん人が続いて来ているので、どんなにバテバテでも、頑張ってすすむしかない。10分くらい登ったところで、日本人のおじさんとおばさんがペアで引き返してきた。高山病で断念したらしい。せっかくここまで来て、もったいない、と思ったが、高山病のつらそうな様子をみると、仕方がないことなんだろう。道は頭につけたランプが照らす、わずか数メートルの範囲しか見えないので、いったい階段がどのくらい続いているか見当がつかず、気持ち的にも、肉体的にも、すっかりめげてしまった。

つらいつらい階段が途切れると、岩のスロープがはじまった。疲れてはいるが、坂道は階段よりずっと登りやすい。岩にはロープがはってあるが、ロープをつかまなくったって、楽勝とさえ思えた。友達は昼間と変わらず歩みが早い。私はカメの歩みだが、振り向けば、まだまだ遥か下の方から、途切れることなく、まるで高速道路の渋滞のように、ライトの列が続いていた。途中、休憩している人を見かけると、私もつられて休みたくなり、ジーさんに、休憩をリクエストした。

標準的な登山者に比べ、はるかに休憩回数が多かったと思うが、なんとか3668mのサヤッサヤッ小屋チェックポイントにたどり着いた。サヤッサヤッ小屋を、ロンリープラネットは、「あなたが冷水シャワーずきで、朝食前に10キロのハイキングをしたいと思うのならば、この小屋を気に入るだろう。電気はなく、水は下から運んでくるか、近くの小川の泥水をわかさなければならない。」と言い、地球の歩き方は、「ガイドでさえ泊まるのをいやがる」と言い、けっこうな書かれようだ。IDパスのチェックと休憩のため、小屋の中に入ると、裸電球がひとつだけぶらさがっていて、目をこすりたい薄暗さ。床ははってなく、土間のようなところに、ボロい二段ベッドがいくつかあった。目が暗さに慣れると、ねずみが走っているのが見えた。1泊12リンギットだそうだが、屋根もあるし、アウトドア派の人なら、数時間の仮眠だし、いけそう!?

ロンリープラネットには、「キナバル山登山のカギは、スタミナ。とにかくゆっくり登れ、疲れたら、ペースを落とせ」、と書いてあったので、ジーさんには、休みたくなれば、遠慮せずに申告するようにしていた。そのせいで、ジーさんは、恐らく私の疲労度合いを、3割増しくらいに見積もってしまったようだ。サヤッサヤッ小屋を出るとき、ジーさんは、まったく疲れをみせない友達に、「君はカメラだけ持って、このロープづたいに、先に頂上まで行ってて。」と送り出した。ご来光をのがさないようにとの配慮だ。そして私には、「君は疲れているから、僕がリュックを持つよ。」という。「ラバンラタ小屋においてきた荷物もあるし、今は2キロくらいしかないので平気。」と辞退するが、「いいから。」と言ってかついでくれた。再び申し訳ない思いでいっぱいだ。そのうえ、少しもたつこうものなら、ひっぱってくれてしまうので、ジーさんもお疲れモードになってしまった。広い岩盤の上で休憩をとったとき、ジーさんが、「きのうはあまり眠れなかったんだ・・・。疲れた。」と言って、ぐったりと岩の上に横になった。ジーさんは、自分と友達と私の3つのリュックをかつぎ、時に私の手を引きで、疲れるわけだ。私は休憩をリクエストする回数が多いわりには、回復も早く、「もう歩けるよ。」と出発を促すが、ジーさんは起きあがらず、「先に行ってて。すぐに追いつくから」と言った。体力使わせるゲストで、ごめんなさい、と思いつつ、しばらく一人で登っていった。振り向くと、KKの街明かりが見えた。なんとなく人里が見えるとほっとするものだ。黙々と広い岩盤の上を登っていると、誰かが、「あの赤いランプが頂上だよ。」と教えてくれた。暗い夜空に浮かぶそのランプは、すぐそこにあるように見えていたが、あと1.5キロ先といわれ、がっくり。そしてそのランプは、歩いても歩いても、いっこうに近づいてこない感じがした。ふとKKの方を振り返ると、南シナ海に浮かぶ島々の形がくっきりと見えてきた。朝が来る。山の稜線も浮き上がってきた。どんどん明るくなっていくことに気持ちはあせるが、どうしょうもない。そして、あたりが薄紫色にかわった頃には、赤いランプもかなり近づき、頂上はすぐそこになった。

頂上近くになると、足元は、一枚岩のスロープから、ごつごつした岩場に変わる。大小さまざまな形の岩が重なったところをよじ登る。頂上までのわずかの距離は、ジーさんは待機で、ひとりで登る。この日の日の出は6時ジャスト。そして、ついに頂上に到達できたのは、6時をまさにまわったところだった。残念ながら、雲が多く、ご来光らしいご来光はなかったが絶景。頂上といっても、キナバル山全体を見ると、山のてっぺんはぎざぎざで、実際に8つの頂上があるが、私たち一般登山者がめざすのは、標高4095mのロゥズピークだ。キナバル山は、今も、年間5ミリずつ、背が高くなっているということで、実際には4095mではないらしいが・・・。

荒々しい岩肌、奇岩の数々といった自然の造詣は、写真では、そのスケールの大きさは表現できない。飛行機から見える、上からのキナバル山の景色も確かに素晴らしいが、いくら近くを飛行するといっても、その体感するスケールは、まったく違うものだ。「飛行機から見る景色と同じだぜぃ。」と言ったアメリカ人よ、あんたは何をみていたんだ…。

















 
頂上のギザギザ感は、こんな岩肌だったのね。

ロゥズピークの4095mの標識前には、たくさんの人が写真をとるべくごったがえしていて、けっこうな順番まちだ。それなのに、日本人熟年登山者のグループは、いつまでも標識前を占有しており、まわりの諸外国人のひんしゅくを買っていたのが、この登山での唯一不愉快な記憶になってしまった。ゆっくり頂上にとどまっていられる状況ではないので、気に入った構図で記念写真なんてことは言ってられない。近くにいたガイドにシャッターを押してもらったが、液晶を覗くと、しっかりどこかの人のお尻がうつりこんでいた。頂上に到達したという事実は一応わかるし、混んでるから仕方がないや、とさっさと下山開始。少し下りると、頂上に小一時間前に到達した友達が、岩に座って寒そうに待っていた。「ごめんね~。」「ええんよ。」的な会話のあと、友達とジーさんと、3人で、写真をとりながら、下りていった。頂上からしばらく続く岩場は、面倒くさくはあるが、問題なく下りることができた。岩場が終わり、広いグラナイトのスロープに出たところで、いっきょに足のだるさが爆発した。そして、標高が高く、空気が澄み、さえぎるものの何もない、一枚岩の上、強力な朝日で、顔がじりじりと焼けるのを感じた。登りでは、中腰でロープをつかむ方が面倒、くらの認識だったロープが、すべりやすい花崗岩の下りでは必須になる。ロープをつかみ、中途半端な姿勢で前をむいてのろのろと下りていると、後ろからやって来たチャイニーズの女性が、「このロープはこうやってつかんで、後ろ向きに下りると楽よ!」とお手本を見せてくれた。スルスルっ、と下りていく彼女の姿は、みるみる遠ざかっていった。アドバイスどおり、後ろ向きの姿勢にしたら、幾分下りやすいが、彼女のようにスムーズにはすすめない。と思っていたら、しばらく下りたところで、斜面で大の字になって休んでいる彼女に再会した。オンとオフの激しい人だ。彼女によれば、「友達が、ずっと遅れて、あとからおりて来るの。」だそうだ。このサヤッサヤッ小屋まで続く岩は、幅は広いがすべりやすいのが難点。しりもちをついたら、いい感じで、滑り台のように滑れたので、面倒になると、誰も見ていないタイミングを見計らって、お尻でツルーっと滑ってみたりしていた。

サヤッサヤッ小屋まで戻り、IDパスのチェックを受けると、係の人に「登頂証明書はどうしますか?」と聞かれ、ここで改めて、ああ、登りきったんだ、と実感した。それと同時に、まだサヤッサヤッかぁ、と、まだまだ先は長いことに気づき、テンションが下がりもした。登頂証明書は、もちろんお願いした。証明書には、2種類のデザインがあり、好みの方を選ぶ。サヤッサヤで休憩をしていると、きのうの登りの道で、何度も励ましてくれたKKの男の子から、チョコレートをもらい、ありがたくエネルギー補給。

サヤッサヤッからラバンラタまでの下りは、標高が下がるにつれて、地質、地形ともにどんどん歩きにくくなってきた。登りの時は真っ暗で、地形を把握しないまま、ただひたすら前に進むことしか考えていなかったが、明るくなってみると、こんなに急なところを登ってきたんだ、とびっくりした。ロープがはってあるわけだ。暗くて全貌が見えなかったからこそ、登れたような気がしてきた。登りでうらめしかった階段は、思っていた以上にさらに長く、そしてよくすべる。きのう、センターポイントのNikeで買ったトレーニングシューズのソールが、山歩きの間に、ツルツルになってしまったのではないか、と思うほどだ。私がツルッといくと、うしろから、昨日は高山病に苦しんでたタイワニーズのご老人に、「アブナイデスヨ。」と声をかけられた。「ワタシハトシヨリデスカラ」などと、発音よく話すおじいさん、高山病克服して、無事登れてよかった。あまりにも滑りやすい靴に、すべりそうな場所に突入するごとに、あらかじめジーさんが、ストッパーになってくれた。またまた申し訳ない・・・。

そうして、ラバンラタ小屋に戻ると、しばし放心状態。おいしくない朝食を軽くすませ、部屋に戻り、きのう水洗いだけしておいたTシャツに着替えた。期待どおり、すっかり乾いていたが、なんとなくすっぱいニオイがするような気が…。 そして、部屋で1時間休憩して、チェックアウト。一路ふもとをめざす。ラバンラタを出るとき、ジーさんは、またストックを貸してくれた。またも申し訳ない・・・。ジーさんから「すぐに追いつくから先に行ってて。」と言われて、友達と二人で先に出発した。ラバンラタ横の階段を下りると、砂利敷きの開けた場所があり、ワラス小屋に出る。ワラス小屋を過ぎると、また山道がはじまる。10分ほど歩いただろうか、ジーさんが小走りともいえる足取りでおりてきた。山道に入ってまもなく雨が降ってきたが、まだたいしたことないので、エマージェンシーコートは出さず、そのまま、ゴロタっぽい中サイズの石が続く道を注意深くゆっくりとおりていく。登りと違い、苦しさは全然ないし、上半身はピンピンしているが、足はだるいの域を超えて、ヒザがバカになってしまった。石に左足をなんどもとられたが、とにかく、下りるしかないんだ。サーフィンをはじめるときに知ったが、私は右足が利き足なので、左が弱いのだ。


下り道で、一つめのシェルターに着いた時には、シェルターに着いたことを喜ぶと同時に、まだ500mしか歩いていないんだ、またもテンションダウン。あとは、シェルターごとにこの思いの繰り返し。またも、友達から遅れ気味で下りて行くと、サヤッサヤッでチョコをくれた男の子が下りてきた。他の人たちもそうだが、道は1本なのに、先に行ったかと思うと、また後ろから現れたり、どこで順序が入れ替わるのか、よくわからない。「先に行ってね。」と道を譲ろうとすると、もたつく私を見て、「いっしょにおりよう。」と手をひいてくれようとした。お言葉に甘えたいところだが、言うことをきかないヒザなので、手を引いてもらっても、引きづられることになりそうなので、丁重にお断りし、「下で会おう」、と言って別れた。雨が本ぶりになり、ジーさんが、「エマージェンシーコートはどこにしまったの 」というので、次のシェルターまで、このまま下りるよ、と言って、ひたすら雨に打たれながら下りた。雨で笑う膝に追い討ちをかけるように、道は、すっかりドロドロになってしまった。それでも、ラヤンラヤン小屋までは坂道なのでまだよいが、ラヤンラヤン小屋での休憩を終えると、またも恐怖の階段攻撃がはじまった。階段の段差が大きすぎるので、笑う膝には本当にこたえる。ときどき、足がぐにぐにっ、とねじれ、ついに足が痛くなった。実は、マレーシアに来る前、モルディブでダイビングクルーズに参加したが、その船上で、自分の不注意により、50cmくらいの段差に気づかず落下し、左足を打撲していた。一時は腫れて、象の足のようになり、「骨折してるんじゃないの?」、と言われながらも、「まさか!」と言って、湿布のみで放置。3日くらいで、腫れはひき、多少の痛みとしびれは残っていたが、単なる打撲と信じていたので、その後も普通にダイビングもしていた。それに、もう3週間たっているし、キナバル山に登る3日前くらいからは、痛くもなくなっていたので、完治したものと、信じていたが、どうもおかしい。制御不能な膝に痛む足のところに、雨に打たれ、心底情けない気持ちになった。永遠に続くかと思える階段にぬかるみと、ひたすら格闘。15時すぎには、公園管理事務所に到着したかったが、その時間には、まだティムポホンゲートまで1.5キロの位置にいた。わずか1.5キロ、平地ではなんてこともない距離が、山道になると、こうもしんどいものかと思う。聞いていたとおり、登りより下りがよりつらい。時間が遅くなってくると、時々、おんぶされた人が下りてきた。誰かに聞いたことがあるが、確か、300リンギットだか払うと、動けなくなった人は、おんぶでおろしてもらえるらい。そうこうするうちに、下から、ローカルの男の子が二人、駆け上がってきた。ある程度の時間になると、山道に動けなくなっている登山者がいないか、確認に見回るらしい。彼らや、追い抜いていく人々の励ましを受けながら、棒になった足で歩き続け、ティムポホンゲートに帰りついたのは16時半をまわっていた。もう、パワーステーションの駐車場への平坦な道を歩くのも、よろよろな感じだった。ゲートでは、またも一時間ほど前に着いた友達が、寒そうに待っていた。ミニバンで公園管理事務所へ戻り、登頂証明書をもらい、ここでジーさんとはお別れ。本当によく面倒をみてくれたことに、心からお礼を言った。KKへの送迎車に乗る前に、トイレに寄りたかったが、トイレは、管理事務所の向いにあるレストランまで行かなければならない。そのレストランは、そのときの私にはいやがらせのような、長~い階段を下りたところにある。登山道とは違い、非常に浅い階段だったけど。夜はまた、KKのマジュラン・ストゥラ・ハーバーだ。キレイなリゾートホテルに、ドロドロのジャージで到着ではまずいので、トイレで着替えをした。おととい買ったばかりの黄色いパンツは、お尻でグラナイトをすべったりしたから、しっかり穴があいており、水色のジャージは、再起不能などろどろ。どうみても、破棄してバチがあたる状態ではなかったので、ゴミ箱に入れてきた。管理事務所前に戻り、ジーさんに見送られながら、たいへんだったキナバル山をあとにした。達成感と、持久力のなさへの反省と、一期一会、途中で会って励ましてくれた多くの人たちへの感謝の気持ちをもって。


KKへの車中では、ほどなく意識がなくなった。カーブ続きの道の記憶はほとんどなく、リカスのモスク前あたりで目がさめた。雨はしつこく降っていた。ホテルに戻り、夜9時過ぎになって、アンズホテル1階の中華にゆく。店に着いたとき、外の席で、チャイニーズのおっさんがひとり、10リンギット札をひとさし指と中指の間にはさみ、店員にむかって早く会計せんかい、と格好つけてアピールしているところだった。なんなんだ、そのポーズとそのシルバーのごついリング?ん!?どこかで見覚えのある…。うげげ。一昨日のタクシードライバー、裕也だー。夜にグラサンはなしだったが、常にコンセプトはろっけんろーらーらしい。やっぱりうける。さてさて、大好物のミバサも、どうもあんまりすすまない。疲労っておそろしい。



登山から3日後、日本に帰った。そして念のため形成外科に行ってみた。「1ヶ月前、段差を踏み違えて、打撲して・・・。よくなったと思ったので、少し長く歩いたら、打撲したところと、そのまわりの靭帯が痛いんです。」と説明した。さすがに、無謀な山登りのことは言いたくなかった。ドクターは患部とおぼしきところをさわって、なんでもなさそう、といわんばかりの顔をしつつ、「一応写真をとってみましょう。ご心配でしょうから。」と言った。X線の結果は、「ありゃ、わっはっはっ、しっかり折れてますよ。3ヶ所。一度は良くなったのが、長歩きでまた離れたのかもしれませんね。」とのコメント。特に、固定もせず、左足をかばっていたときの、ヘンな歩き方の癖さえとれれば、自然につながりますよ」ということで、特別な処置もなし。それから、キナバル山登山は、下りの際に、全体重がつま先にかかるので、爪をはがす人が多いと聞いていた。爪は、下山時には、まったくなんでもなかったが、数週間たったら、親指の爪の中が、内出血したような色になった。爪は、赤紫から緑、そして茶色へとかわり、最後は黒ずんだ色、とナチュラルバンプカラーになっていった。結局、1ヶ月たって、左足親指の爪が、1ヶ月半たって右足親指の爪がはがれた。爪がはがれる、というとものすごく痛いという印象だろうが、下から新しい爪が生えて、古い爪を押しのけたような感じで、痛みはまったくなかった。

山登りはたいへんだ!おしまい。


キナバル山の話(2) 登山1日目

2006-05-12 20:55:40 |  旅行
2005年5月12日、午前6時。
キナバル・パイン・リゾートの部屋から出ると、キナバル山のほぼ全容が目の前にそびえていた。その威厳ある姿ゆえに、登山はなかなか手ごわそうな予感。コテージのまわりにはスズメがいっぱいいて、それぞれが口いっぱい、こわいほど虫をほおばっている。東京のスズメたちは、虫の取り合いをよくしているが、こちらのスズメたちは、青虫をつかまえても、半分だけ食べてポイ捨てをしたりして、贅沢だ。それに、都会のスズメと違い、羽も黒ずんでおらず清潔そうだ。

午前7時、オープンそうそうにレストランに行くが、特に朝食メニューがあるわけではなく、いきなりミーゴレン=焼そばだった。スタミナが勝負の登山前に、十分なエネルギー補給をしておきたいところだが、昼・夜ならばおいしいはずの濃い味つけの焼きそばは、起きたばかりの胃には、すんなりとは入っていかなかった。

午前8時、30リンギット(1リンギット約30円)でたのんであった送迎車で、いよいよナショナルパークへ移動。送迎車はワンボックスで、足元は乾いた泥だらけ。車中には、臭い靴のニオイが充満していた。みんな登山後はドロドロになり、足もこんなにもにおうようになるんだろうか。とても臭かったが、車は15分ほどでナショナルパークへ到着した。まず入り口で、車に乗ったまま入場料を、車を降りると、公園管理事務所でまたもろもろの登山費用を徴収される。

  • ナショナルパーク入場料 15リンギット
  • 登山許可 100リンギット
  • 保険料 3.5リンギット
  • ガイド代 70リンギット
  • 管理事務所からパワーステーション(登山口)までの送迎車 12.5リンギット
マレーシアの物価から考えると、けっこうな出費で、特別な装備も用具も必用としない山登りのわりには、お金がかかるものなんだなぁと認識。登山者の登録と、各種支払い手続きをすませ、登山のためのIDパスを受け取ると、ガイドのアサインのために、隣の建物へ行く。
IDパスの表はキナバル山の写真、裏には、名前と管理番号がプリントされており、登山中、各チェックポイントで、登山者名簿とチェックされる。

ガイド小屋(?)に行くと、「君たちのガイドはジージーディー、外にいるよ。」と言われ、ここで、2日間お世話になるガイドさんと対面。「ジーと呼んでくれ。」というガイドさんは、ドゥスン族の青年だった。友達は荷物をポーターに頼みたいということで、はかりに荷物を乗せてみると 9キロあった。ガイドのジーさんは、「9キロなら、僕が持つよ。」と、自らのデイバッグに友達のデイバッグをくくりつけ、ポーターはなし、ということになった。友達は、「タフやな~」と感心することしきり。私の荷物は3キロ程度しかないので、自分で持ってあがることになんら疑問を抱かなかった。そこへ木の杖を数本持った少年たちが、「Walking sticks!」と、売りに来たが、「ノーサンキュー」と断った。ロンリープラネットに、「walking sticks..Don'tlaugh」とあったのと、先週、KKのコンドミニアムのエントランスで、健康そうな白人の若者2人が、今、まさに少年達が売っているのと同じ杖をついて、大変そうに歩いていたことが、頭をよぎったが・・・。

そしてジーさんが、「今日は標高3272mのラバンラタ小屋までの6キロを、約6時間かけて歩く予定です。」というブリーフィングをして、顔合わせからものの10分もたたないうちに、いともあっさり出発だ。公園管理事務所から、ティムポホンゲート(1866m)というスタート地点までは送迎車利用。もちろん、この区間も1時間かけて歩く人がいるが、普通は、送迎車利用らしい。ちょうどそのゲート近くに発電所があることから、そのエリアはパワーステーションと呼ばれている。車を降り、ティムポホンンゲートの売店で、エマージェンシーコート(たんなる携帯用レインコート)を5リンギットで買い、いよいよ出発! 残念なことに、空は曇り。ゲートを出ると、しばらくの間、下り坂が続き、下りきると橋にさしかかった。流れているのは、カールソン滝というんだそうだ。ここから、いよいよ登り一辺倒の世界がはじまった。ちょうど10分くらい登ったところで、なぜかケツメイシの「さくら」が聞こえてきた。私のボーダフォンの着メロだった。時刻は8時40分。KKにいる友達がかけてきたらしいが、取り込み中なので出なかった。世界遺産に登山中に携帯電話ってのも興ざめな感じだったし…。でも、ガイドのジーさんの携帯も、しょっちゅう鳴り、なんでもガールフレンドから、やたらとSMSが来るらしい。歩きはじめてわずか30分ほどでさっそく息苦しくなり、ひとはキナバル山登山を楽勝と言うけれど、やはり山登りは山登り、楽なはずがない。最初のシェルターが、まだはるか彼方の地点で、早くも登山を選んだことを、内心しまった、と思った。でも、キナバル登山は、10年ごしの念願だったじゃないの、と自分に言い聞かせ、後悔の二文字を頭から消すよう努力した。キナバル山は、登山道も整備されており、誰でも登れるというが、その整備の産物である、膝丈くらいの高さの階段が延々と続くのが、何よりもうらめしい。ところどころ階段が途切れ、緩い傾斜や、ほぼ平らの場所のところになると、足取りが軽くなるが、そんな区間は短く、また目の前には、すぐに悪夢の階段が現れるのであった。心のささえは、500mおきにある標識の登場。あと何mで、次のシェルターか見て、一喜一憂。登っている時は、前しか見ない傾向にあるが、ジーさんにいわれて、時々振り向くと眼下に広がるはるか遠い街の景色が美しく、その時は、登ってみるもんだ、とちょっと満足。そして、ジーさんは、しっかりウツボカズラを見つけてくれた。ロンリープラネットによれば、ウツボカズラを見つけられるガイドは、いいガイドなんだそうだ。


残念ながら、世界最大の花、ラフレシアは、シーズンではないらしく、見られなかった。山道では、アマガエルのような、小さな蛙で、色が真っ黒なやつにも出会った。植物や、山の生き物についての知識がまったく無いのが残念。 また、登山中に、登山客の荷物やラバンラタ小屋への物資を運ぶポーターたちの姿を見るが、彼らは30キロもある荷物をかつぎ、ぬかるんだ道でも、裸足にビーサンで登っていく。その強靭さにびっくりさせられる。それも、けっこう年配の女性もいたりする。 登山中に休憩をとるシェルターは500mおきに、1日目のゴールであるラバンラタ小屋までの間、合計7ヶ所ある。シェルターは、屋根、椅子、テーブル、トイレ、飲み水のタンクといった構成だ。飲み水は、「Untreated Water」と書かれているので、飲む勇気がなかった。汗をかいているので、トイレに行きたいとはまったく感じず、私はシェルターのトイレは使わなかった。トイレを使った友達によると、「誰かのウ×コが流れなくて、次に入った人は、うちがやったんと思うんやろうなぁ・・・」、とブツブツ言っていた。ジーさんは、シェルターでの休憩を終え、出発のたびごとにいつも、「次のシェルターまであと何キロ。Almost there, but still far」と言うのだった。still far...本当にそう感じる。途中、高山病に苦しむ台湾のご老人がいた。彼は、頭が痛いのに、片言の日本語で私達のことをはげましてくれた。私達は、高山病の気配は、幸い現れもしなかった。歩みが遅かったのがよかったのか!? 標高2702mのラヤンラヤン小屋で、持ってきたチョコレートを食べて昼食がわり。このあたりから植物層がかわってきて、それまではうっそうとした森の中を歩いている感じだったが、ここからは潅木の群生で、視界が明るくなった。潅木の中からは、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。足元も、それまでの土の道とはちがい、岩場へと変わった。岩といっても、さしてきつくはなく、階段よりはず~っとマシだ。それでも、ジーさんに、時々、「疲れたよ~」、と主張し、シェルターとシェルターの間にも適宜休憩をいれてもらった。すると彼は、私がものすごく疲れていると思ったらしく、ストックを貸してくれた。登山中は、他の登山者に追い抜かれたり、追い抜いたりの繰り返し。さっき道を譲ったと思った人が、20分後にはばてて、先にいってくれ、と道を譲ってくれたり。ほぼ同じ顔ぶれで抜きつ抜かれつが続く。友達は、京都に住んでいるが、これまでも何度か地元の山に登ったことがあるということで、軽い足取りでどんどん登っていく。私が遅れをとって歩いていると、他のチームのガイドさんや、通りがかりのローカルの人たちが、よく声をかけて励ましてくれた。立ち止まっていると、「いっしょに行こう」、と手をひいてくれようとするガイドさんもいたが、他の人の引率をしている人の助けを借りるのも悪くて、丁重にお断りをした。一歩一歩着実に、ラバンラタ小屋に近づいているのはわかるが、先は見えてこない。とろとろ登っていると、2人組のローカルが下りてきて、「ラバンラタまではあと20分だよ!」と声をかけてくれた。これは、私の足じゃ、倍はかかるね、と思ったら、やはり小一時間かかってしまった。潅木の並ぶ道が終わり、やっと視界が開けると、そこは標高3200m超。まずはワラス小屋という最初の山小屋がある。そのすぐ上に、ラバンラタ小屋がみえるものの、このわずかな距離でさえも長く感じた。結局、標準の6時間を大幅にまわってしまったが、16時前、やっとラバンラタ小屋に着くと、ふくらはぎがきんきん痛んだ。ジーさんから、「午前2時半に出発するよ。」と告げられ、解散。ラバンラタ小屋へのチェックイン時、鍵のデポジットとして10リンギットを支払うが、これはチェックアウト時に返金される。ラバンラタは、別に相部屋でも良かったのだが、予約の段階で、2名で申し込んだら、問答無用で「バタカップ」という部屋でOKが来た。「バタカップ」は、一番よい部屋らしく、地球の歩き方には、「泊まること自体がステータス」とさえ書かれていたが、山小屋なので質素だ。部屋はホットシャワーつきとうたっているが、シャワーはぬるい以下で全然温まれなかったし、髪を洗うのは断念した。バスルームの鏡の横には、「乾期のため、水圧を低くしてあり、お湯も出にくい」という趣旨の貼り紙があった。着替えは持っていたが、汗で濡れたTシャツをそのまま持ち帰るのはごめんだったので、洗剤を持っていないが、とりあえず、水洗いをした。ガイドブックに部屋のヒーターで、洗濯物はよく乾く、とあったのを信じて。

さて、部屋に入った時は、眼下に素晴らしい景色が広がっていたのに、さすがかわりやすい山の天気、みるみる雲が湧き、真っ白な世界になってしまった。夕食は17時半からだが、疲れて甘いものが欲しかったので、食事前にミロをオーダーした。ポットで出て来たが、4杯も取れた。予定時間より少し早目にバフェスタイルの食事がはじまったが、情けないことに、今日の登山の疲労か、あまり食べられない。友達はペロリとたいらげたが、私は、ひとり残ってノロノロと食べていた。部屋に戻り、2時半出発にそなえ、2時にアラームをセットし、18時過ぎから就寝体制に入るが、廊下からは、四六時中足音が響いていて眠れない。何時かな、と思って時計を見ると、19時。その後も眠れず、時々時間をチェックすると、20時、21時、といった具合で、全然眠れていないまま、時間ばかりがすぎていく。少しでも疲れをとるために、眠らなければ、と思うと、そのプレッシャーからますます眠れないようだ。それにしても、夜遅くまで足音は途切れることなく、みんな元気だ。ロンリープラネットには、空気が薄いのと疲労で、すぐ眠れると書いてあったが、嘘だ。ふくらはぎは痛むし、疲れたし、果たしてたったの7~8時間の休息で、この痛みと疲れはとれるんだろうか…と考えながら、眠るでも眠らないでもない状態で横になっていた。

2日めへ続く

キナバル山の話(1) 登山前夜

2006-05-11 01:28:09 |  旅行
きょうはダイビングではなく、登山の話。 

ちょうど1年前のきょう、5月11日は、キナバル山に向けて出発した思い出深い日だ。

もともと私は、マラソンや登山といった、地道さと持久力が要求されるスポーツが大の苦手だ。高校時代は、登山遠足などあろうものなら、友達とつるんでサボったほど。それなのになぜかキナバル山にだけは登りたかった。それは1994年9月11日、はじめてのシパダンに向かうときに、コタキナバル(KK)からタワウゆきの飛行機から見た、朝日に輝くキナバル山があまりに雄大で美しかったから。それと、シパダンの水深40m(公称)からキナバル山の高度4000mまでを制覇したいという自己満足的な動機以外のなにものでもない。

シパダンに行く時は、通常、KK発午前6時10分のMH2121便で、まずはタワウに向かう。ちょうど日の出を待ってKKを飛び立つ感じだが、飛行機が離陸して水平飛行に移ると、進行方向に向かって左の窓には、キナバル山の山頂の風景が広がる。早朝便なので眠りに落ちていたが、左側に強い光を感じて目をあけると、キナバル山の見事な景色がそこにあり、いっきに目がさめものだ。友達とは「次に来るときは登りたいね。」、「今度こそ登ろうね。」と、いつも話していたものの、限られた休みのうちでダイビングの日数を減らすのも惜しくて、登山になかなか踏み切れないでいた。それでも情報収集は怠らず、経験者に話を聞くのがいちばんと、いつもシパダンのダイブマスター達にキナバル山のことを聞いていた。彼らのほとんどはジモティーだけあって、キナバル山に登っていた。「はじめて登った時、高山病になって、これが最初で最後と言ったのに、もう4回も登ったよ。」とか、「登るより下りがいやだ。」などなど。やはりちょっと大変そうだ。それでも大体は前向きな意見が聞けた。あるときシパダンでBCDが壊れてしまい、安いからと、帰りにKKのボルネオダイバーズで新しいBCDを購入したことがある。もともと持っていったダイビング器材一式と水中写真用ハウジング、カメラ一式があるところに、さらに新しいBCDが加わり、荷物は40キロ超になった。エコノミークラスで20キロオーバーなので、当然ながらチェックインでエクセスチャージを請求される。わかっているくせに、大げさにショックを受けてみせ、エクセスチャージをなんとかまけてもらうよう、ネゴった。無理があるネゴだと思ったが、幸いそこには12人ほどの登山グループの方々がいて、チェックインスタッフが「あの登山の人たちと、いっしょってことにしてあげるよ。」と言ってくれて、大助かりだったことがあった。そのグループの中のおばさんたちに「キナバル山は、どうでしたか?」とたずねたら、「と~ってもよかったし、簡単なのよ~。」と、まったく疲れた様子もなかった。また、私がKKでファンダイブをしていたとき、オープンウォーターの講習を受けに来ていたおじさんが、コース終了後に日にちが余ってるからと、急遽キナバル山登山に行くことにしていた。そのおじさんと帰りのフライトが一緒だったので、どうだったかたずねると、「楽勝だったよ。」という答え。これで、キナバル山って本当に簡単なんだ、と確信。唯一ネガティブなアドバイスは、シパダンで知り合った、香港在住のアメリカ人のビジネスマンから。「俺も登ったよ。でも、やめとけ。朝のMHからみえる景色と同じだから、わざわざ登る必要なんかないよ。」・・・そのアメリカ人は六本木大好きという人だったので、あまり参考にならないな、と彼の意見は封印することとした。

こうして、登ろう登ろうと思っているうちに、あっという間に11年もの月日が過ぎてしまった。去年、私がちょうど仕事を4月で辞めたとき、たまたま同時期にプーになった京都の友達がいたので、いっしょにモルディブとシパダンに潜りにいこうという話になった。当初はモルディブでダイブサファリに乗った帰りに、シパダン方面へ行って、全2週間の旅行にするつもりだったが、計画するうちに、モルディブでは、リゾートも行きたいね、マレーシアは、ラヤンラヤンにも行きたいね、ってことで、どんどんスケジュールが長くなっていった。友達は、キナバル山のことを知らなかったが、地元で簡単な登山もする人なので、「世界遺産のキナバル山に登ってみない?」って軽い気持ちで誘ってみたところ、「え?そんなすごいもん登れるんやろか?」と言ってたが、大乗り気。こうして、ついにキナバル登山が実現することになった。 

さて、前置きが長くなったが、実際に山登りをするのは5月12日。この日しか山小屋がとれなかったからだ。キナバル山登山は、通常2日がかりなので、山小屋をとらなくてはならない。山小屋は、ステラ・サンクチュアリー・リゾートというところが管理している。予約はメールで行うが、回答は遅いし、リクエストする日は、ことごとく「Accomodation Fully Booked」というレス。「5月1日から14日まで、いったいいつなら空いているの!?」というメールを出したら、問答無用で「5月12日でOK」というレスが来た。

そして登山前日は、高山病のリスクを減らすために、キナバル国立公園近くの、キナバル・パイン・リゾートというところで1泊することにした。パインリゾートは、「地球の歩き方」ではなかなかよさそうな評価だったので選んだ。2名で1泊190リンギット、朝夕食つきという、一人3000円もしないお手ごろさ。

ところで、登山についての知識が皆無の私は、どんな仕度が必要なのかもわからず、山の準備はほとんどせずに日本を出てきた。登山で使えそうだな、と持ってきたものは、家にあった裏起毛の古いヘリーハンセンのトレーナーにLa2のウィンドブレーカー、それとLove Boatのニット帽だけ。リュックサックもないので、BURTONのスノボ用巨大バッグのブーツ入れ部分をはずして代用。ひと昔前の、海と雪山が同居したような、相当変ないでたちだが、これで上半身はいけると思う。登山はきっと今回限りだろうから、あるものを使おう。腰から下は、ジャージや靴は日本では高いから、現地調達すればいいやと何も用意してこなかった。そんなわけで、登山前日の午後、泊まっていたストゥラ・ハーバー・リゾートをチェックアウトしたあと、ようやくセンターポイントへ登山用グッズを買いに行った。まずは靴。1000円程度のスニーカーを履き捨てで十分だとは思ったが、ついついNIKEショップで約8000円のトレーニングシューズを購入。いっそNIKEでウェア類もそろえようかと思ったが、スニーカーは履くことはあっても、他のものはドロドロになりそうだし、もったいないのでやめることにした。ウェアは、同じくセンターポイントにある、パシフィック・ニゥキーなるスーパーのワゴンセールで、水色のジャージのパンツと、黄色の、恐らくナイロン100%の撥水性素材のパンツを買って900円くらいだった。最後に地下の雑貨屋で、軍手を購入し、多分、これで衣類の準備はOK。

続いて、登山に必須と思われるチョコレートと水を求めて、センターポイントよりも安い、KKプラザ地下のスーパーへ。
クジラの絵にひかれてついつい…。
1.5リットルのペットボトルが約30円というクジラ微笑むミネラル・ウォーターを2本GET。
マレーシアには、さまざまなミネラルウォーターがあるが、これが一番安い。あやしく安い。ふだんは水にはうるさい私なのに。

足りないものがまだあるような気はするが、最低限のものはそろったと思うので、KKプラザ前で客待ちをしていたタクシーで、ストゥラ・ハーバーへ戻る。チャイニーズの運チャンは、グラサンかけて、なんだかしぶがってる。エンジンがかかるなり、いきなりエルヴィスが流れ始めた。そしてハンドル握る運チャンの指には、左右5本すべてにシルバーアクセが!ロックオヤジだぁ~。でも、車内のアクセサリーは、中国の暦とか縁起物。このミスマッチの妙。エルヴィスがガンガンかかる中、すぐにストゥラ・ハーバー到着。本人はCoolにキメキメのつもりなんだろうが、もう、ププッって感じだった。しぇきなべいべと言わせたい、内田裕也みたいなおっさんだった。こんなに印象に残るタクシードライバーははじめてだ。

ストゥラ・ハーバーには、キナバル山から降りてきたら、また戻ってくるので、ベルキャプテンに大部分の荷物は預かってもらい、最低限のものだけで山に向かう。午後3時半頃、また新たなるタクシーを呼んでKKを出発した。KKのバスターミナルから、キナバル国立公園ゆきのバスがあるのは早朝のみなので、タクシーを使わざるを得ない。KKの街の終わり、ウィスマ・サバを過ぎると、南シナ海が左手に開け、椰子の木が整然と並ぶ、いかにも南国の海辺という景観がしばらく続く。その後、リカスという街を抜け、有名なシャングリラ・ラサ・リア・リゾートのあるトゥアランを過ぎると、いよいよ車は山道に入っていく。標高が高くなるにつれて、天候が悪くなってきた。道は、何巻きもあり、ところどころ平地になると、古典的な売店があり、バナナなどフルーツが並んでいる。タクシーは、まれな長距離のせいか、山道でエンストを起こした。運ちゃんは、チャイニーズでも、さっきの裕也とはうってかわってやさしそうなおじさん。「僕はエンジニアだから大丈夫。」と言うが、小雨の中、エンジンと格闘するロスタイム約20分ののち、やっと復旧。キナバル・パイン・リゾートに着いた時は、KKを出てから約1時間40分たっていた。雨は本降りになっていた。パイン・リゾートの周辺には、ニッコウキスゲとそっくりの黄色い花が咲き乱れていて、気温は、18度くらいだろうか、かなり肌寒かった。パイン・リゾートは白い外観で、部屋は日本の高原のペンションのようだった。眺望が一番よいと言う売り言葉で、「BlockS4」という、一番高台にある部屋をとったが、その部屋までの坂道の傾斜がきつく、それだけで息切れがし、明日からが思いやられる感じがした。見晴らしがよいはずの部屋も、外は雲に覆われ、しばらくは何もみえなかったが、小一時間ほどで雨が止み、雲が切れると、目の前に、キナバル山がそびえたった。KKの街から、朝、頭だけが見えている姿とは違い、おごそか度が増していた。







山の夕暮れは早い。薄暗くなってきたので、ロッジのレストランで6時にはディナー。ミ・ゴレン(焼そば)とテ・スス(ミルクティー)で軽めにしておく。旅行中毎日飲んでいたビールは、明日に備えてパス。体力温存のため、部屋に戻って、少しでも早く眠ろうとするが、ここは高原。蛾やカメムシが部屋に入りこんでしまい、こわいこわい。蛾が落ちてきたらどうしようとか、カメムシがもし異臭を放ったらどうしようという、虫への恐怖と、山登りへの緊張感から、固まったままなんとか眠りについた。

続く。