きょうは何の日…。
20年前のきょう、私がシパダンへ初上陸した日。
超個人的記念日。
1994年9月11日 早朝
たった50分の仮眠。
短時間でも熟睡しなくちゃ、ちゃんと起きなくちゃ、と思うあまり、眠っているともいないともつかない状態のまま、無常にも4時半を告げるモーニングコールが鳴った。
目を無理に開けてロビーに降り、ボルネオ・ダイバーズのワンボックスに乗り込む。
このドライバーの人たちも、夕べはさんざんだったなぁ・・・と思いつつ。
乗り込んだら、また目を閉じてZzz...
しばらくたっても、車が動く気配はない。
時計を見たら、すでに乗り込んで20分たっている。
車内、みんなそろっているようなので、なんで出発しないのかよくわからない。
誰もが睡魔が勝ってか、何も言わない。
ここはボルネオ。
南の国だから、時間にたいしては、こんなもんなのかな?
また目をつぶって、こっくり、こっくり、んごっ。
目を開けるが、窓から見えるのは、相変わらずホテルのエントランス。
こんなん待たせるならモーニングコール、あと30分遅くてもじゅうぶんだったじゃんと、腹立たしい。
やがてぞろぞろ、日本人グループが出て来た。
あとから聞いたら、彼らはショップツアーで、鳴ったアラームを止めて二度寝したらしい。
分乗なんだから、待たなくてもいーのに。
結局、車が出たのは、ほぼ1時間後だった。
MH2121便とキナバル山
タワウゆきのMH2121は、6:10発。(今は7:30だけれど、長年6:10発だった。)
空港でのチェックインは、人数が多いうえに、みんなにダイバー仕様の荷物がもれなくついてきているので、時間がかかる。
なんだか、待つことの多い旅だ。
ボーッと夢遊状態で、意識なくチェックインを終え、セキュリティチェックを通り、PINTU(ゲート)へ。
ゲートは冷え冷え。
さらによく冷えたエンジ色の椅子に座って、凍えながら搭乗開始を待つ。
とにかく、1分でも1秒でも長く目を閉じていたい。
寒くても頭は冴えず、またまた夢遊状態で機内に入ると、ここでもまた凍える。
外はどんどんどんどん明るくなってゆくが、今は景色どころではない、睡眠だ。
離陸して少したつと、ピーナツが配られ(今も変わりませんね)、ついでマンゴネクター(これも変わりませんね)、さらには、ツナとハムが入ったサンドイッチ2切れが出た(これは廃止になりましたね)。
突然、機内が金色になり、窓の外にはギザギザの稜線。
キナバル山だ!
初めて見る、朝日に照らされたキナバル山の神々しさに、感動。
キナバル山の名は知っていたが、まさか、フライトからこんなに間近にながめられるとは思わなかった。
なんだか得した気分。
ああ、来てよかったと思えるひとときだった。
キナバル山が見えなくなり、サンドイッチも食べたら、またまた貪欲に眠る。
わずか45分の飛行時間だから、タワウなんてあっという間。
ターンテーブルで荷物を待っていたら、寝坊したショップツアー参加の男性がひとり寄ってきて、なれなれしく「よろしくお願いしまーす」と声をかけきた。
なんだこいつ、延々待たせて詫びの一言もないし、図々しいぞ。
私だってアラーム止めて、あと1時間横になっていたかったよ、とムカついていたので、無愛想に会釈だけ。
しかし、友だちは、さっそくその人が気に入ったようで、うれしそう。
もー、私は誰とも友だちになんかならないからね。
タワウ空港も、今のジャングルの中ではなく、町からすぐのところにあった時代。
空港のスクワット式トイレは、頭上にタンクがあり、紐を引くと水が流れる、日本ではとんと見かけなくなったレトロなものだった。
半日がかりのタワウ~センポルナ~シパダン
タワウからセンポルナへの迎えはワンボックスと、小型のバスの2台に分乗。
個人参加組はワンボックス、ショップツアー組はバスだ。
タワウ空港を出ると、高床式の木造家屋なんかがあって、ん~、アジアの田舎に来たなって感じがした。
すぐに町の中に入り、そこには低いビルが並び、やがて建物がまばらになり、上り道に入った。
左手に大きな霊園が現れ、キリスト教、ムスリム、仏教と、宗教ごとに異なる形の墓標が並んでいた。
そこから先は、著しく道路状況が悪化し、舗装はされているけれど、でこぼこ。
すさまじく揺れるので、眠れたもんじゃない。(2-3年後には、劇的に道がまともになった。)
腰痛の人には、大ダメージな揺れ。
ときどき犬は交通事故死してるし…。
ひたすら椰子の木農園を見ながら揺られること1時間半強。
車がガタガタしなくなったと思ったら、人里っぽくなった。
小さなサッカー場が現れ、ロータリーをまわったら、海が現れた。
ドラゴンイン横のボルネオダイバーズのボート小屋に通され、リストに名まえと国籍を記入させられるが、そんな作業は秒殺で終わってしまう。
みんなよそよそしくソファに座ってもう1台のバスを待っていると、物売りの女性が、べろーんとやたら長いものを携えて登場。
なんとバラクーダの干物!
それを、30半ばのコリアンだと思っていたカップルが、機内でもらったピーナツとの物物交換を関西弁で交渉という暴挙に出ている。
う…日本人なんだ、この人たち。
絶対、友だちになれなそうと、生暖かい目で見守っていた。
それにしてもいっこうに着かないもう1台のバス。
待ちくたびれていたら、ボート小屋のフィリピン人に「あっちにアクアリウムがあって、ないすぷれいすなので見てこい」と言われた。
じゃ、その「ないすぷれいす」を見てくっか。
ドラゴンインの水上シャレー群を横目に、てってってっと歩いてゆくと、渡り廊下の下に、網でちょこっと囲んだところがあり、その中にナポレオンがいた。
それだけ。
アクアリウムって、単なる生け簀じゃん。
楽しくもなんともないので、すごすご戻る。
遠くに見える寝姿山がユニークだ。
それにしても、汚い海。
濁っているし、ゴミだらけ。
ここからわずか1時間のところに、DWで見たような海があるとはとても思えない。
もう猜疑心のかたまりとなり、シパダンに来るのは、これが最初で最後、と思うのだった。
結局、1時間以上待って、やっともう1台がたどりついた。
荷物を降ろし、ボートへの積みかえに、またまた時間がかかる。
日程表ではとうに島に着いている時間に、まだセンポルナ。
やっとボートに乗り込むや否や、日本人のヤロー二人組の、バンダナをかぶった男が、周囲の迷惑も顧みず、耳栓をして、ベンチに横になり、占有してしまった。
なんて非常識。
こいつとは、絶対友だちになれない。
ボートに乗ると、やはり海は衝撃的に汚い。
数十分走っても汚い。
天気はよいのだが、水面はちゃぷちゃぷ。
よく揺れて、波をたくさんかぶる。
おまけにボートは頻繁に止まる。
止まると、エンジンチェックで、しばし漂流。
あー、シパダンって、なんでこんなに大変なんだろう?
一方、どんなに揺れようが、漂流し始めようが、非常識なバンダナ男はよく寝ている。
水面がやっとおだやかになったと思ったら、そこはもうシパダンだった。
そして、海はもう汚くなかった。
バンダナ男はむくむくっと起き上がり、先に島に入っていたと見られる、やたらうるさい日本女子ふたりに「ヘーイ!セニョリータ!」と叫んでいる。
こいつ、うざったーい。(当時はまだウザイよりうざったいだった気がする。)
Welcome to Sipadan Island!
シパダンのビーチに降りたった瞬間、胸に去来したこと。
これが最初で最後のシパダンだ。
ゲストとも、スタッフとも、誰とも友だちにならない。
私は、純粋にダイビングだけ楽しもう。
ボルネオダイバーズのカンティーンに入ると、「Help yourself to drinks」と言われ、オレンジジュースっぽいのを入れたら、超味の薄い濃縮ジュース。
おいしくないが、シパダンの味覚の一つだ。
もう、ひといきついたから、さっさと部屋に通してほしいのに、待ちぼうけ。
前日、早朝に家を出てから着替えができていないうえに、ボートでさんざん波をかぶってしおしおだから、ソッコー水着に着替えたい。
しかし、もう1ボートがまだ着いていない。
カンティーン前には、荷物が並んでいるが、どうやらまだ着いていない人びとのものが先に届いたもよう。
私たちの荷物は、あとから来るボートに乗っているようだ。
はたして、きょう中にオリエンテーションできるんだろうか?
またまた1時間ほどたってから、ショップツアーを乗せたもう1ボートがやってきた。
これでやっと全員そろったので、レセプションからのブリーフィング、ダイブマスターのブリーフィング。
暗記するかと思うほど、集中して聞いちゃった。
オリエンテーションダイブは午後4時とのこと。
これでなんとか明日は3ボート行けると安堵。
やっと部屋に案内されると、部屋までけっこう遠くて、またまた、ぶつぶつぶつぶつ。
荷物を開けたら、けっこう浸水していて、さらにぶつぶつ。
もう1パイのほうが、私たちよりも漂流タイムが長くて、遅れた様子だし、積まれた荷物も水没・・・。
オリエンテーション兼サンセットダイブ
待ちに待った16時、ドロップオフでのオリエンテーション。
メンバーは、バラクーダの干物とピーナツの交換を試みていた夫婦、バンダナ男とその連れの弱々しい人(男性)、あとは白人の美男美女カップルと、われわれ2人。
若者ダイブマスターに率いられ、記念すべきドロップオフデビュー。
ダイブステーションからタンクをしょって、ビーチをてけてけ歩いて、Jettyの西側から入る。
白砂の浅瀬は、ミルキーがかっているが、強い西陽が差し込み、もうサンセットモード。
白砂が途切れると、これほど潔いドロップオフがあるかと思うほど、ズドンと落ちていた。
青緑がかった海で、深海の方に目を凝らすと漆黒のイメージ。
透明度はあんまり良くないし、こんな暗い海いやだ。
やっぱりシパダンはこれで最後だ。
どれほど目を凝らしても、太陽の光が吸収されてゆく筋が見えるだけ。
「暗い!こわい!」と、またさっそく不平不満を発してみる。
その様子に、ダイブマスターが「モンスター?」とからかってくる。
この私が、真剣にこわがるわけないじゃん。
まがりなりにもダイブマスターで伊達に200本以上潜ってないよ、と思い上がりつつ潜降。
ほとんど寝てないわりには、耳抜きよし。
プランクトンが多くて透明度は悪いが、水深5メートルでみんなウェイトOKか確認している時点で、もうぶつぶつ文句を言っていたことすら忘れてしまった。
Jetty下には、DWのフォトコン入賞作でとても印象的だった、ツバメウオの幼魚の群れがさっそくいて、あー、シパダンに来たんだ、と実感。
ナポレオンもホワイトチップも通るし、ギンガメの群れもいる。
1ダイブでどっぷり、早20年
オリエンテーションのわずか50分で、もうシパダン精神昂揚。
初日のディナーにして、友だちにはなれないと思っていた関西人夫妻と早くも意気投合。
翌日の記念すべき初ボートでは単体だけれど、いきなりハンマー。
2本目は、軽くマンタ。
シパダンでは、普通のことなんだろうと錯覚に陥ったほど。
他では大騒ぎなアオウミガメはそこここにいるし、カンムリブダイの群れに、ギンバラトルネード。
道中の長さに反して、島での4泊は一瞬だった。
2日目からは、別ボートではあるが、寝坊なショップツアーの人たちともよく話すようになった。
同じボートの、美男美女のヨーロピアンとも仲良くなった。
スェーデン人で、自分たちは結婚してやっていけるか、テストしているところだと言っていた。
2人とも常にバスタオルを巻いているので、なんだ?と思っていたら、荷物に浸水し、着替えが全部びしょびしょになったそうで、水着にバスタオルといういでだちだという、かわいそうさ。
さらに、ログブックをスーツケースに入れていたうえに、万年筆でログづけしていたので、過去の思い出が全部読めなくなってしまったらしい。
あとは同じボートだった、パリのお父さんに、ジュネーブの大学生男子とも仲良し。
早朝もサンセットもナイトもごはんもボートも、みんないつも一緒。
ダイブマスターとも意気投合。
結局、友だちにならなかったのは、バンダナ男だけだ。
サンセットのエントリー前、セニョリータ達と潜るバンダナ男から、「そっちのグループは右行きます?左行きます?」と問われ、「うちら右に行くんで、皆さんは左へどーぞ」なんてやりとりをしたほど。
ところで、バンダナ男のバディ=弱々しい人は、小柄で痩せていて、無制限ダイブに消耗しているふうだった。
時代が時代だったので、弱々しい人はバンダナ男から、「おめえ100本でシパダンに来てんじゃねーよ」と、よくいじめられてた。
バンダナ男はいつも水鉄砲でシュパシュパ弱々しい人を攻撃して、それに弱々しい人がいつも「やめてくれよー、やめてくれよー」という寸劇を、毎回、ダイビングの前に見なくてはならなかった。
弱々しい人はとろくさく、なかなか器材のセッティングができないし、ウェットも着れない。
するとバンダナ男自身はせっかく着たウェットを脱いでまた、早くしろよと水鉄砲に蹴り攻撃。
ひとしきり水鉄砲攻撃が終わると、バンダナ男は、またウェットを着直すのだ。
これはもしや、バンダナ男の弱々しい人への歪んだ愛情?
弱々しい人が、いつもしいたげられているのを見て、関西人のご主人は、時に優しく声をかけてあげるくせに、「弱々しい人は、こっちのグループに入りたいみたいやけど、それはあかん」と。
バンダナ男の女子のお友だち、セニョリータたちとは、後年、シパダンでばったり再会してからは意気投合。
みんなキャラ濃かった。
でも、こんな辺境まで来る人びとは、本当にダイビングが好きな人たちばかりで、クセはあってもいい人が多かった。バンダナ男を除いては。
Win95が普及する直前の時代だったので、まだメアド交換なんてのはない。
関西の夫婦、ダイブマスターや、ジュネーブの学生・・・みんな帰った後、文通してた。
リゾートには天気が悪いとつながらない電話があるだけ。
テレビもなかった。(アストロが入ったのはだいぶあと)。
夜はダイブマスターの弾き語りに、シパダンソング。
すべてが素朴だった。
朝は、独特な鳥のさえずりで目が覚める。
ぴぽぱぴぽぱぴぽー。
1日中、はだしの生活。
ビーチやJettyで焼けば、サンドフライで強烈なかゆみ。
共同シャワーは時にラッシュとなり、並ばなければならなかったり、ナイト後はソーラーがきいていなくて水シャワーを浴びるはめになったり。
共同トイレは、夜になるとタンクバルブのパッキンがバカになって、巨大なバケツから水を手桶でくまないといけなかったり。
夜はゲッコがトケケケケ。
ゲッコはいいのだが、2棟続きのシャレーは、梁の部分はふさがれておらず、夜中にはネズミが走りまわる。
ネズミにつきもののダニもいる。
ネズミに頭をかじられた人、カバンをかじられた人。
ときに部屋にはネズミのおみやげが…。
ネズミ禍多かったな。
いま思うと、かなりきつい環境だけれど、そんなことも、道中の大変さも、どうでもよくなってしまう海がそこにはあった。
たぶん、シパダンが素朴さを保っていた最後の頃だったように思う。
タイムマシンがあるなら、あの頃のシパダンには、もういちど戻ってみたい。
水中も、陸上も、超密度の濃い、島での4泊5日だった。
帰りもワンボックスとバスだったが、ワンボックスには、別のグループで潜っていた日本人大学生男子と、私と友だちの3人だけだった。
3人とも興奮冷めやらぬといった感じで、センポルナからタワウの車の中ではしゃべりっぱなし。
バスはあんまり走れないようで、なかなか来ないからと、わざわざタワウのボルネオダイバーズオフィスに連れて行かれ、いま思えば、甘いテタレと、お菓子でのおもてなしがあった。
コタキナバル、クアラルンプールと乗り継いで、クアラルンプールから成田ゆきでは、他人に席を代わってもらってまでも、3人でしゃべり続けで帰る意気込みだったが、さすがに夜ばい便だし、日々の無制限ダイブの疲れで意識はなくなっていた。
昼前に、水質がよいわけのない共同シャワーでシャワーを浴びたのが最後で、真昼だから大汗かき、シパダンからセンポルナへのボートでは日焼けの上塗りに、またまた潮までかぶり、飛行機3回乗り継いでという、ちょっと臭う感じで帰国。
でも会社に直行した。
あとのふたりには、満足に挨拶をするゆとりもなく、「じゃ!」と言って去った。
しかも荷物がなかなか出て来なかったので、成田から東京駅南口までタクって大枚はたいた上に、結局遅刻した銭失い。
私と入れ替わりに年休をとる人がいたのと、翌週からギリシャとイタリアへ仕事で行くことになっていたので、どうしても、その日は、這ってでも出社しなくてはならなかったのだ。
もう頭の中はシパダンでいっぱいで、うわのそら。
次をいつにするかに思いを巡らせているだけで、使い物にならない人だったことは言うまでもない。
20年たっても、ことこまかに覚えている最初のシパダンの記憶。
その後、猿岩石日記の影響で、ログのすみっこに、珍道中を書き止めたりするようになったりしたが、初回については、ログブックと、ニコノスVの20ミリでとった水中写真と、陸上のスナップ写真が1ロールある程度だ。
20年前は、カメラはフィルムカメラだから、今みたいになんでも手当り次第に写真に撮ったりできなかった。
というわけで、最初で最後になるはずのシパダンだったのに、20年も持続してしまった。
誰とも社交しないはずのシパダンだったのに、シパダンでできた友だちは多い。
20年前のきょうをもって、私にとって、シパダンはなくてはならない場所となったのだった。
20年前のきょう、私がシパダンへ初上陸した日。
超個人的記念日。
1994年9月11日 早朝
たった50分の仮眠。
短時間でも熟睡しなくちゃ、ちゃんと起きなくちゃ、と思うあまり、眠っているともいないともつかない状態のまま、無常にも4時半を告げるモーニングコールが鳴った。
目を無理に開けてロビーに降り、ボルネオ・ダイバーズのワンボックスに乗り込む。
このドライバーの人たちも、夕べはさんざんだったなぁ・・・と思いつつ。
乗り込んだら、また目を閉じてZzz...
しばらくたっても、車が動く気配はない。
時計を見たら、すでに乗り込んで20分たっている。
車内、みんなそろっているようなので、なんで出発しないのかよくわからない。
誰もが睡魔が勝ってか、何も言わない。
ここはボルネオ。
南の国だから、時間にたいしては、こんなもんなのかな?
また目をつぶって、こっくり、こっくり、んごっ。
目を開けるが、窓から見えるのは、相変わらずホテルのエントランス。
こんなん待たせるならモーニングコール、あと30分遅くてもじゅうぶんだったじゃんと、腹立たしい。
やがてぞろぞろ、日本人グループが出て来た。
あとから聞いたら、彼らはショップツアーで、鳴ったアラームを止めて二度寝したらしい。
分乗なんだから、待たなくてもいーのに。
結局、車が出たのは、ほぼ1時間後だった。
MH2121便とキナバル山
タワウゆきのMH2121は、6:10発。(今は7:30だけれど、長年6:10発だった。)
空港でのチェックインは、人数が多いうえに、みんなにダイバー仕様の荷物がもれなくついてきているので、時間がかかる。
なんだか、待つことの多い旅だ。
ボーッと夢遊状態で、意識なくチェックインを終え、セキュリティチェックを通り、PINTU(ゲート)へ。
ゲートは冷え冷え。
さらによく冷えたエンジ色の椅子に座って、凍えながら搭乗開始を待つ。
とにかく、1分でも1秒でも長く目を閉じていたい。
寒くても頭は冴えず、またまた夢遊状態で機内に入ると、ここでもまた凍える。
外はどんどんどんどん明るくなってゆくが、今は景色どころではない、睡眠だ。
離陸して少したつと、ピーナツが配られ(今も変わりませんね)、ついでマンゴネクター(これも変わりませんね)、さらには、ツナとハムが入ったサンドイッチ2切れが出た(これは廃止になりましたね)。
突然、機内が金色になり、窓の外にはギザギザの稜線。
キナバル山だ!
初めて見る、朝日に照らされたキナバル山の神々しさに、感動。
キナバル山の名は知っていたが、まさか、フライトからこんなに間近にながめられるとは思わなかった。
なんだか得した気分。
ああ、来てよかったと思えるひとときだった。
キナバル山が見えなくなり、サンドイッチも食べたら、またまた貪欲に眠る。
わずか45分の飛行時間だから、タワウなんてあっという間。
ターンテーブルで荷物を待っていたら、寝坊したショップツアー参加の男性がひとり寄ってきて、なれなれしく「よろしくお願いしまーす」と声をかけきた。
なんだこいつ、延々待たせて詫びの一言もないし、図々しいぞ。
私だってアラーム止めて、あと1時間横になっていたかったよ、とムカついていたので、無愛想に会釈だけ。
しかし、友だちは、さっそくその人が気に入ったようで、うれしそう。
もー、私は誰とも友だちになんかならないからね。
タワウ空港も、今のジャングルの中ではなく、町からすぐのところにあった時代。
空港のスクワット式トイレは、頭上にタンクがあり、紐を引くと水が流れる、日本ではとんと見かけなくなったレトロなものだった。
半日がかりのタワウ~センポルナ~シパダン
タワウからセンポルナへの迎えはワンボックスと、小型のバスの2台に分乗。
個人参加組はワンボックス、ショップツアー組はバスだ。
タワウ空港を出ると、高床式の木造家屋なんかがあって、ん~、アジアの田舎に来たなって感じがした。
すぐに町の中に入り、そこには低いビルが並び、やがて建物がまばらになり、上り道に入った。
左手に大きな霊園が現れ、キリスト教、ムスリム、仏教と、宗教ごとに異なる形の墓標が並んでいた。
そこから先は、著しく道路状況が悪化し、舗装はされているけれど、でこぼこ。
すさまじく揺れるので、眠れたもんじゃない。(2-3年後には、劇的に道がまともになった。)
腰痛の人には、大ダメージな揺れ。
ときどき犬は交通事故死してるし…。
ひたすら椰子の木農園を見ながら揺られること1時間半強。
車がガタガタしなくなったと思ったら、人里っぽくなった。
小さなサッカー場が現れ、ロータリーをまわったら、海が現れた。
ドラゴンイン横のボルネオダイバーズのボート小屋に通され、リストに名まえと国籍を記入させられるが、そんな作業は秒殺で終わってしまう。
みんなよそよそしくソファに座ってもう1台のバスを待っていると、物売りの女性が、べろーんとやたら長いものを携えて登場。
なんとバラクーダの干物!
それを、30半ばのコリアンだと思っていたカップルが、機内でもらったピーナツとの物物交換を関西弁で交渉という暴挙に出ている。
う…日本人なんだ、この人たち。
絶対、友だちになれなそうと、生暖かい目で見守っていた。
それにしてもいっこうに着かないもう1台のバス。
待ちくたびれていたら、ボート小屋のフィリピン人に「あっちにアクアリウムがあって、ないすぷれいすなので見てこい」と言われた。
じゃ、その「ないすぷれいす」を見てくっか。
ドラゴンインの水上シャレー群を横目に、てってってっと歩いてゆくと、渡り廊下の下に、網でちょこっと囲んだところがあり、その中にナポレオンがいた。
それだけ。
アクアリウムって、単なる生け簀じゃん。
楽しくもなんともないので、すごすご戻る。
遠くに見える寝姿山がユニークだ。
それにしても、汚い海。
濁っているし、ゴミだらけ。
ここからわずか1時間のところに、DWで見たような海があるとはとても思えない。
もう猜疑心のかたまりとなり、シパダンに来るのは、これが最初で最後、と思うのだった。
結局、1時間以上待って、やっともう1台がたどりついた。
荷物を降ろし、ボートへの積みかえに、またまた時間がかかる。
日程表ではとうに島に着いている時間に、まだセンポルナ。
やっとボートに乗り込むや否や、日本人のヤロー二人組の、バンダナをかぶった男が、周囲の迷惑も顧みず、耳栓をして、ベンチに横になり、占有してしまった。
なんて非常識。
こいつとは、絶対友だちになれない。
ボートに乗ると、やはり海は衝撃的に汚い。
数十分走っても汚い。
天気はよいのだが、水面はちゃぷちゃぷ。
よく揺れて、波をたくさんかぶる。
おまけにボートは頻繁に止まる。
止まると、エンジンチェックで、しばし漂流。
あー、シパダンって、なんでこんなに大変なんだろう?
一方、どんなに揺れようが、漂流し始めようが、非常識なバンダナ男はよく寝ている。
水面がやっとおだやかになったと思ったら、そこはもうシパダンだった。
そして、海はもう汚くなかった。
バンダナ男はむくむくっと起き上がり、先に島に入っていたと見られる、やたらうるさい日本女子ふたりに「ヘーイ!セニョリータ!」と叫んでいる。
こいつ、うざったーい。(当時はまだウザイよりうざったいだった気がする。)
Welcome to Sipadan Island!
シパダンのビーチに降りたった瞬間、胸に去来したこと。
これが最初で最後のシパダンだ。
ゲストとも、スタッフとも、誰とも友だちにならない。
私は、純粋にダイビングだけ楽しもう。
ボルネオダイバーズのカンティーンに入ると、「Help yourself to drinks」と言われ、オレンジジュースっぽいのを入れたら、超味の薄い濃縮ジュース。
おいしくないが、シパダンの味覚の一つだ。
もう、ひといきついたから、さっさと部屋に通してほしいのに、待ちぼうけ。
前日、早朝に家を出てから着替えができていないうえに、ボートでさんざん波をかぶってしおしおだから、ソッコー水着に着替えたい。
しかし、もう1ボートがまだ着いていない。
カンティーン前には、荷物が並んでいるが、どうやらまだ着いていない人びとのものが先に届いたもよう。
私たちの荷物は、あとから来るボートに乗っているようだ。
はたして、きょう中にオリエンテーションできるんだろうか?
またまた1時間ほどたってから、ショップツアーを乗せたもう1ボートがやってきた。
これでやっと全員そろったので、レセプションからのブリーフィング、ダイブマスターのブリーフィング。
暗記するかと思うほど、集中して聞いちゃった。
オリエンテーションダイブは午後4時とのこと。
これでなんとか明日は3ボート行けると安堵。
やっと部屋に案内されると、部屋までけっこう遠くて、またまた、ぶつぶつぶつぶつ。
荷物を開けたら、けっこう浸水していて、さらにぶつぶつ。
もう1パイのほうが、私たちよりも漂流タイムが長くて、遅れた様子だし、積まれた荷物も水没・・・。
オリエンテーション兼サンセットダイブ
待ちに待った16時、ドロップオフでのオリエンテーション。
メンバーは、バラクーダの干物とピーナツの交換を試みていた夫婦、バンダナ男とその連れの弱々しい人(男性)、あとは白人の美男美女カップルと、われわれ2人。
若者ダイブマスターに率いられ、記念すべきドロップオフデビュー。
ダイブステーションからタンクをしょって、ビーチをてけてけ歩いて、Jettyの西側から入る。
白砂の浅瀬は、ミルキーがかっているが、強い西陽が差し込み、もうサンセットモード。
白砂が途切れると、これほど潔いドロップオフがあるかと思うほど、ズドンと落ちていた。
青緑がかった海で、深海の方に目を凝らすと漆黒のイメージ。
透明度はあんまり良くないし、こんな暗い海いやだ。
やっぱりシパダンはこれで最後だ。
どれほど目を凝らしても、太陽の光が吸収されてゆく筋が見えるだけ。
「暗い!こわい!」と、またさっそく不平不満を発してみる。
その様子に、ダイブマスターが「モンスター?」とからかってくる。
この私が、真剣にこわがるわけないじゃん。
まがりなりにもダイブマスターで伊達に200本以上潜ってないよ、と思い上がりつつ潜降。
ほとんど寝てないわりには、耳抜きよし。
プランクトンが多くて透明度は悪いが、水深5メートルでみんなウェイトOKか確認している時点で、もうぶつぶつ文句を言っていたことすら忘れてしまった。
Jetty下には、DWのフォトコン入賞作でとても印象的だった、ツバメウオの幼魚の群れがさっそくいて、あー、シパダンに来たんだ、と実感。
ナポレオンもホワイトチップも通るし、ギンガメの群れもいる。
1ダイブでどっぷり、早20年
オリエンテーションのわずか50分で、もうシパダン精神昂揚。
初日のディナーにして、友だちにはなれないと思っていた関西人夫妻と早くも意気投合。
翌日の記念すべき初ボートでは単体だけれど、いきなりハンマー。
2本目は、軽くマンタ。
シパダンでは、普通のことなんだろうと錯覚に陥ったほど。
他では大騒ぎなアオウミガメはそこここにいるし、カンムリブダイの群れに、ギンバラトルネード。
道中の長さに反して、島での4泊は一瞬だった。
2日目からは、別ボートではあるが、寝坊なショップツアーの人たちともよく話すようになった。
同じボートの、美男美女のヨーロピアンとも仲良くなった。
スェーデン人で、自分たちは結婚してやっていけるか、テストしているところだと言っていた。
2人とも常にバスタオルを巻いているので、なんだ?と思っていたら、荷物に浸水し、着替えが全部びしょびしょになったそうで、水着にバスタオルといういでだちだという、かわいそうさ。
さらに、ログブックをスーツケースに入れていたうえに、万年筆でログづけしていたので、過去の思い出が全部読めなくなってしまったらしい。
あとは同じボートだった、パリのお父さんに、ジュネーブの大学生男子とも仲良し。
早朝もサンセットもナイトもごはんもボートも、みんないつも一緒。
ダイブマスターとも意気投合。
結局、友だちにならなかったのは、バンダナ男だけだ。
サンセットのエントリー前、セニョリータ達と潜るバンダナ男から、「そっちのグループは右行きます?左行きます?」と問われ、「うちら右に行くんで、皆さんは左へどーぞ」なんてやりとりをしたほど。
ところで、バンダナ男のバディ=弱々しい人は、小柄で痩せていて、無制限ダイブに消耗しているふうだった。
時代が時代だったので、弱々しい人はバンダナ男から、「おめえ100本でシパダンに来てんじゃねーよ」と、よくいじめられてた。
バンダナ男はいつも水鉄砲でシュパシュパ弱々しい人を攻撃して、それに弱々しい人がいつも「やめてくれよー、やめてくれよー」という寸劇を、毎回、ダイビングの前に見なくてはならなかった。
弱々しい人はとろくさく、なかなか器材のセッティングができないし、ウェットも着れない。
するとバンダナ男自身はせっかく着たウェットを脱いでまた、早くしろよと水鉄砲に蹴り攻撃。
ひとしきり水鉄砲攻撃が終わると、バンダナ男は、またウェットを着直すのだ。
これはもしや、バンダナ男の弱々しい人への歪んだ愛情?
弱々しい人が、いつもしいたげられているのを見て、関西人のご主人は、時に優しく声をかけてあげるくせに、「弱々しい人は、こっちのグループに入りたいみたいやけど、それはあかん」と。
バンダナ男の女子のお友だち、セニョリータたちとは、後年、シパダンでばったり再会してからは意気投合。
みんなキャラ濃かった。
でも、こんな辺境まで来る人びとは、本当にダイビングが好きな人たちばかりで、クセはあってもいい人が多かった。バンダナ男を除いては。
Win95が普及する直前の時代だったので、まだメアド交換なんてのはない。
関西の夫婦、ダイブマスターや、ジュネーブの学生・・・みんな帰った後、文通してた。
リゾートには天気が悪いとつながらない電話があるだけ。
テレビもなかった。(アストロが入ったのはだいぶあと)。
夜はダイブマスターの弾き語りに、シパダンソング。
すべてが素朴だった。
朝は、独特な鳥のさえずりで目が覚める。
ぴぽぱぴぽぱぴぽー。
1日中、はだしの生活。
ビーチやJettyで焼けば、サンドフライで強烈なかゆみ。
共同シャワーは時にラッシュとなり、並ばなければならなかったり、ナイト後はソーラーがきいていなくて水シャワーを浴びるはめになったり。
共同トイレは、夜になるとタンクバルブのパッキンがバカになって、巨大なバケツから水を手桶でくまないといけなかったり。
夜はゲッコがトケケケケ。
ゲッコはいいのだが、2棟続きのシャレーは、梁の部分はふさがれておらず、夜中にはネズミが走りまわる。
ネズミにつきもののダニもいる。
ネズミに頭をかじられた人、カバンをかじられた人。
ときに部屋にはネズミのおみやげが…。
ネズミ禍多かったな。
いま思うと、かなりきつい環境だけれど、そんなことも、道中の大変さも、どうでもよくなってしまう海がそこにはあった。
たぶん、シパダンが素朴さを保っていた最後の頃だったように思う。
タイムマシンがあるなら、あの頃のシパダンには、もういちど戻ってみたい。
水中も、陸上も、超密度の濃い、島での4泊5日だった。
帰りもワンボックスとバスだったが、ワンボックスには、別のグループで潜っていた日本人大学生男子と、私と友だちの3人だけだった。
3人とも興奮冷めやらぬといった感じで、センポルナからタワウの車の中ではしゃべりっぱなし。
バスはあんまり走れないようで、なかなか来ないからと、わざわざタワウのボルネオダイバーズオフィスに連れて行かれ、いま思えば、甘いテタレと、お菓子でのおもてなしがあった。
コタキナバル、クアラルンプールと乗り継いで、クアラルンプールから成田ゆきでは、他人に席を代わってもらってまでも、3人でしゃべり続けで帰る意気込みだったが、さすがに夜ばい便だし、日々の無制限ダイブの疲れで意識はなくなっていた。
昼前に、水質がよいわけのない共同シャワーでシャワーを浴びたのが最後で、真昼だから大汗かき、シパダンからセンポルナへのボートでは日焼けの上塗りに、またまた潮までかぶり、飛行機3回乗り継いでという、ちょっと臭う感じで帰国。
でも会社に直行した。
あとのふたりには、満足に挨拶をするゆとりもなく、「じゃ!」と言って去った。
しかも荷物がなかなか出て来なかったので、成田から東京駅南口までタクって大枚はたいた上に、結局遅刻した銭失い。
私と入れ替わりに年休をとる人がいたのと、翌週からギリシャとイタリアへ仕事で行くことになっていたので、どうしても、その日は、這ってでも出社しなくてはならなかったのだ。
もう頭の中はシパダンでいっぱいで、うわのそら。
次をいつにするかに思いを巡らせているだけで、使い物にならない人だったことは言うまでもない。
20年たっても、ことこまかに覚えている最初のシパダンの記憶。
その後、猿岩石日記の影響で、ログのすみっこに、珍道中を書き止めたりするようになったりしたが、初回については、ログブックと、ニコノスVの20ミリでとった水中写真と、陸上のスナップ写真が1ロールある程度だ。
20年前は、カメラはフィルムカメラだから、今みたいになんでも手当り次第に写真に撮ったりできなかった。
というわけで、最初で最後になるはずのシパダンだったのに、20年も持続してしまった。
誰とも社交しないはずのシパダンだったのに、シパダンでできた友だちは多い。
20年前のきょうをもって、私にとって、シパダンはなくてはならない場所となったのだった。