不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「アデルRumour has it」

2012-09-15 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/09/15
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>空に月、地に草、唇に歌-踊るために歌を覚える(1)唇に歌、アデル

 夏の間、ことし発表会で踊る曲を覚えるために、歌詞理解に励みました。
 サークルが踊ったのは5曲。ペーパームーン、監獄ロック、ホテルカリフォルニア、ルーモアハズイット、ひょっこりひょうたん島。

 フィナーレの「ひょっこりひょうたん島」は、1964~1968年に放送されたNHKの人形劇の主題歌に合わせてのラインダンス。
 ステップは、右グリッサード、左グリッサード、右ジュテ、左ジュテ、右ジュテ、左ジュテ、右グリッサード、右へパドシャ×3、ロンデジャンプ、左へパドシャ×3、足ルルベ手は1番アン・オー。

 これを2回繰り返せばいいのですが、さて、老体が猫足パドシャで飛んでも、はてさて足並みそろわずバラバラで、老豚が足をひきずられながらいやいや場へ向かうようにしか見えず、、、、ま、いいんです。本人が楽しんで踊れたので。

 フィナーレの前は、2011年にグラミー賞を受賞したアデルのルーモア・ハズ・イットを10人で踊りました。
 以下の歌詞が、通常の歌詞カードとは違うところで改行されているのは、8beatでカウントをとって振り付けを覚えるので、歌詞の意味でなく、8呼間で切っているからです。ウマヘビと書いてあるのは、振り付けの先生が、Rumour has itは日本人の耳には「ウマヘビ」と聞こえるとおっしゃったので、「ウマヘビ」を合い言葉にして覚えたからです。

 サークルメンバーは、「曲のカウントを数えて踊ればいいだけ」というのですが、私はことばの人なので、ただカウントしても覚えられず、リズムにのれません。カウントの出だしのことばを知らないと数えられないのです。「シー」のところ、とか「ブレス」が聞こえたらこの動き、というふうにおぼえました。拙訳:春庭

http://www.youtube.com/watch?v=EoH3mpTv290

8 beatダンダンダンダン
8 ウーッ ウーッ
8 ウーッ ウーッ
8 シー She, she ain't real, She ain't gonna 彼女は本物じゃないわ、彼女は
8 ビー be able to love you like I will, 私みたいにあなたを愛せないの
8 シー She is a stranger, 彼女は他人
8 ユー You and I have history, Or don't you remember? あなたと私には歴史があるでしょ、あなた覚えてないの?
8 ショア Sure, she's got it all, But,  確かに、彼女はすべて持ってるわ。だけどね
8 ベイビィ baby, is that really what you want? ベイビー、それは本当にあなたが望むものなの?
  (少し間)

8 ブレス Bless your soul, you've got you're head in the clouds, You made a あなたの魂を祝福するわ、あなたの頭は上の空

8 フール fool out of you, And, boy, she's bringing you down, She made your あなたは自分をバカにしてるの、そしてね彼女はあなたを落としたのよ。彼女はあなたの

8 ハート heart melt, But you're cold to the core, Now 心を溶かした。だけど、あなたって心底寒いわよ

8 ルーモア rumour has it she ain't got your love anymore,  噂によると彼女はもうこれ以上あなたの愛はいらないみたい
(ウマヘビ)
8  Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh, 噂によると 噂によると ~
8  Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh, 
8  Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh,
8  Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh,

8  ダンダンダンダン

8 シー She is half your age, But I'm 彼女の年齢はあなたの半分。だけど私、

8 ゲス guessing that's the reason that you strayed, I 思うのよ、それこそあなたが道に迷った理由だって。私、
8 ハ-ド heard you've been missing me, You've  聞いたわ。私がいなくて、あなた寂しがっていたって
8 ビン been telling people things that you shouldn't be, Like あなたはみんなに言うべきじゃないことを話した

8 ゥエン when we creep out and she ain't around, 私たちが人目を忍んで 彼女がまわりにいない時みたいに

8 ハブンチュ Haven't you heard the rumours? あなた噂を聞かなかった?

8 ブレスBless your soul, you've got your head in the clouds, You made a あなたの魂を祝福するわ、あなたの頭は上の空

8 フール fool out of me, And, boy, you're bringing me down, You made my  あなたは私をバカにしてるの、あなたは私の

8 ハート heart melt, yet I'm cold to the core, Now 心を溶かした、それでも私、心底寒いわよ

8 ルーモァ rumour has it I'm the one you're leaving her for, だけど噂によるとあなたに彼女を捨てさせたのは私みたい
 (ウマヘビ)
8 Rumour has it, ooh,  Rumour has it, ooh,    噂によると 噂によると 噂によると
8 Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh, 
8 Rumour has it, ooh,  Rumour has it, ooh,
8 Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh,
8 間
8 間

(曲調変化 ゆっくり)
8 オール All of these words whispered in my ear, Tell a この話は全部、私の耳にささやかれたの

8 ストリィ story that I cannot bear to hear, Just 'cause I 聞くに堪えない話でも聞かせて。だって

8 セッド said it, it don't mean I meant it, People say 私そんなつもりじゃないって言ったから。みんなは

8 クレイジィ crazy things, Just 'cause I said it,  狂ってるっていうの。だから私、

8 ドン don't that mean I meant it, Just 'cause you heard it, そんなつもりじゃないって言ったの。あなたがそれを聞いたからって

8 ダンダンダンダン  (ウマヘビ)

8 Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh, 噂によると、噂によると、噂によると~
8 Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh, 
8 Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh,
8 Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh, 
8 Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh, 
8 Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh,
8 Rumour has it, ooh, Rumour has it, ooh, 

8 But rumour has it he's the one I'm leaving you for.だけど噂によると私にあなたを捨てさせたのは彼みたい
  ジャーン

 年若い女性に狂って、自分を捨てた男に対して未練を述べているのかと思いきや、若い女は遊び半分であり、本物の愛ではないことを突きつけ、長年カップルであった自分がいなくて寂しい思いをしているという相手に、最後には、自分にも新しい男ができたことをバシッと告げていく。クールな女の自立!

 アデル、昔のオペラ歌手のような太めとはちがうけど、がっしりした体型から力強い声を張り上げ、そーよ、女はこうでなくちゃ、と思わせます。見習わなくちゃ、あ~、体型はすでにアデルの域を超えています。

 それにしても、日本の演歌の中の女性は、21世紀の今も、自分を捨てた男に未練たっぷりで、いつまでもメソメソしながら、あなたの帰りを待つわ、なんて歌っているので、もうそろそろ、アデルを見習ってバシッと新しい男に走るって宣言するのもいいんじゃないかしら。

 公約もマニフェストも反古にしてわけわからなくなっているヤツラにはバシッと「あんたなんか、見限ってやるわっ」って宣言したいものです。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ヒマワリ映画」

2012-08-16 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/16
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女と災厄(9)ヒマワリ映画

 監督、V・デ・シーカ。主演ソフィア・ローレンの名作『ひまわり』
 広大な大地に広がり、咲き誇るひまわりの映像が圧倒的でした。
 イタリア・ナポリに住んでいるジョヴァンナは、夫を待ち続けていました。ソ連の戦線に送られて以来、夫は戦後も行方不明のまま。
 ジョヴァンナがやっと探し当てた夫は、シベリアの娘と幸せな結婚をしていました。
 戦争によって引き裂かれた夫婦の愛。
 ひまわりの花が美しければ美しいほど、戦争の残酷さが心にせまります。

 1969年イタリア・アメリカ合作。107分。日本公開は、1970年。
キャスト:ソフィア・ローレン マルチェロ・マストロヤンニ リュドミラ・サベリーエワ
スタッフ 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 製作:カルロ・ポンティ/V・デ・シーカ
 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ/トニーノ・グエッラ/ゲオルギ・ムディバニ  撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽: ヘンリー・マンシーニ

 ヘンリー・マンシーニの印象的な主題曲。映画冒頭オープニングタイトルのひまわり畑の映像を背景に。
http://www.youtube.com/watch?v=2O6-LLRdwmQ&feature=fvwrel

 地平線まで広がる広大なひまわり畑のロケ地については諸説があり、スペインのひまわり畑という説や、ウクライナでのロケという説があります。
 ビデオなどの解説では「モスクワのシェレメチェボ国際空港近くのひまわり畑」ということにされています。これは、映画の撮影当時、旧ソ連内での映画撮影は厳しく制限されており、外国人はモスクワから80km以上離れた場所での撮影活動はしてはいけない、という規制があったため、公式発表ではモスクワ近郊での撮影ということにされたのだそうです。

 私は、映画の冒頭のひまわり畑に咲くのがどの種類かを調べたかったのですが、わかりません。ひまわりには百種類以上の種類があるので、どの種類かわかれば、ある程度ロケ地も推測できるのではないかと思うのですが。スペインのひまわりでもモスクワのひまわりでも、この映画が伝える「戦争でひきさかれる愛」という物語の進展がかわるわけではないのですが、、、、

 もう1本、来年公開のヒマワリ映画を紹介します。

 2013年1月公開予定の映画『ひまわり-沖縄は忘れないあの日の空を』
 1959年、本土は4月に行われた「世紀のロイヤルウェディング」に沸き立ち、日本は復興したという喜びに沸いていました。
 1959年6月。沖縄・宮森小学校に米軍ジェット機が炎上墜落しました。学童11名、近隣住民6名が死亡。後に事故の後遺症により、もう1名が死亡。

 私は、4月の「ご成婚」大報道は覚えているのですが、6月の宮森小学校の惨事について、報道があったことすら覚えていません。1959年の沖縄は、遠かったのです。子どもだったとはいえ、この米軍機墜落事故が新聞に載ったのかどうかも知りませんでした。

 今、「沖縄は遠い」と、言っていられる人は、自分がつらいのはいやだが、他者の痛みには平気、と言える人なのでしょう。
 想像してみてください。我が子や孫が通う小学校に、いつ米軍の飛行機が落ちるか不安に思いながら「いってらっしゃい」と送り出す毎日であると。
 事故率が他の飛行機に比べて格段に高いというオスプレイが、自分の家のすぐそばに配備されたとしたら、毎日安閑と暮らせるのかと。

 他人は原発事故に怯えるのも基地の飛行機墜落に怯えるのも、我がことでないから平気、という人もいるでしょう。自分自身の安全が守られさえすれば、それでよい、という人もいることでしょう。私たちは、67年ものあいだ、他者の痛みには目をつぶり、自分たちが経済的に豊かな生活をおくることだけを望んできたのだから。

 「自分が安全で快適な日常をすごすためには、他者が不安になろうと悲しい思いをしようとかまわない」と開き直れたら、もっと楽に生きられるのかも知れないけれど、私は他者を犠牲にして自分は安全圏にい続けようとするには、少々気が小さい人間みたいです。他者を犠牲にせず暮らせる世の中にしたいと思いつつ、自分の小ささを実感する毎日、とでもいいましょうか。

 「基地あるかぎり、沖縄の悲しみは終わらない」というのが、この映画のキャッチコピーです。公開されたら、見にいかねば。

辺野古基地周辺に咲くひまわり

http://blog.goo.ne.jp/01080517/e/6fcd7b0ca362e8e9e1dbf6774b0c5723 より拝借

<おわり>
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「やがて来る者へ」

2012-08-11 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/11
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(5)やがて来る者へ

 ナチ協力者であったヴィシー政権による1942年のユダヤ人大量検挙事件、ヴェロドローム・ディヴェール事件と呼ばれる歴史上の事実を、フランス政府が認め、謝罪をしたのは1995年になってからでした。
 一方、イタリアの寒村で起きた「マルツァボット虐殺事件」は、イタリアではよく知られたものだったそうです。第2次世界大戦中、枢軸国として同盟関係にあったはずのイタリアで、ドイツ軍ナチ親衛隊が、村の住民を皆殺しにした事件です。

 ヨーロッパ戦線ではイタリアとドイツは同盟国として、共に連合軍と戦いました。しかし、1943年7月、連合軍がイタリアのシチリアに上陸、ムッソリーニは逮捕されます。イタリアと連合軍の休戦協定が結ばれると、ムッソリーニ側と反ムッソリーニ派の内戦が始まりました。
 連合軍は、イタリアの南部を占領。ドイツ軍は、北イタリアを占領してムッソリーニを連合国側から奪取し、北イタリアはドイツ軍によって支配されました。
 戦場となった北イタリアのあちこちに、パルチザン派(イタリア解放と反ファシズムを願うムッソリーニへの抵抗勢力)が組織され、ドイツ軍と闘います。
 モンテ・ソーレ集落の虐殺は、このような戦史を背景としています。

 だれがゲリラの一派なのか、民間人なのか、区別がつかないため、として、村中を皆殺しにしてしまう、という事件は、中国で日本軍が行った平頂山事件、ベトナムでアメリカ軍が行ったソンミ村事件など、知られた事件もあります。イタリアではよく知られているというこの「マルツァボット虐殺事件」、私は映画『やがて来る者へ』で、はじめて知りました。以下、ネタバレを含む映画紹介です。

 1944年9月29日、イタリア北部のボローニャ市近くのマルツァボット村、モンテ・ソーレ(大陽山)という集落。
 山間の、静かなのんびりした村で、戦争とは、ボローニャのような大きな町の出来事であり、山村の不自由はあっても、村の暮らしは、戦争前もあまり変わりのないものでした。
 しかし、パルチザンがファシストとの闘いを続けるゲリラ戦が村の近くでも起きるようになり、住民たちの中にもパルチザン志願者が現れます。ドイツ軍から奪った武器などで、武装が始まります。

 映画『やがて来る者へ』は、「マルツァボットの虐殺」を、8才の少女の目を通して描いています。少女の造型は、作家の創作だそうですが、虐殺の事実は、史実に基づいて描いた、ということです。

 モンテ・ソーレ集落に8才の少女、マルティーナが住んでいます。戦争は遠くの出来事で、マルティーナの心は、まもなく生まれてくる赤ちゃんのことでいっぱいです。妹か弟かまだわからないけれど、大家族でわいわいとにぎやかに暮らす一家にとって、新しい命は、希望の光なのです。ことに、一家の心配の種、マルティーナの心にとって、赤ちゃんが光となることを皆が望んでいました。

 マルティーナは、口がきけないのです。生まれつきではなく、マルティーナの腕のなかで、小さな弟が死んでしまった、ということが原因で、心因性の失語症になっていたのです。村の小さな小学校で、マルティーナはいたずら坊主たちにイジメられたりもしますが、貧しくとも助け合っている家族がいるから、決して不幸ではありません。
 マルティーナは、小学校の作文に、次のように書いています。(マルティーナの心の声での朗読)
わたしの家は農家です。小さな家族ですが、じき弟ができます。素敵な馬車に乗る地主さんの土地で働いて、父さんは”作物を納めさせすぎだけれど、地主だから”と言います。時々ドイツ人がものを買いにきます。言葉は通じません。なぜここに来たのでしょうか。なぜ自分の家で、自分の子供達といっしょに過ごさないのでしょうか。ドイツ人は武器でどこかにいる敵を撃ちます。連合軍と戦っているそうです。見たことはありません。あと、反乱軍がいます。彼らを追い払うために戦っているそうです。反乱軍も武器を持ちます。私達と同じ言葉を話し、服装も同じです。隊長はブーボです。皆怖れていても、彼を慕っています。ディーノ伯父さんも彼を思い、助けようと言います。父さんもやはりそう言います。でも土地は放っておけません。それからファシストも、、、、

 声がだせないマルティーナに代わって、先生が朗読します。
ファシストもやってきて、私達の言葉を話します。怒鳴って、反乱軍は山賊だ、殺せ、と言います。それで私は皆、人を殺したいのだと知りました。理由はわかりません」。

 まずしいがのんびりした山村生活を送っていた村の中に、パルティザンに志願する若者が現れ、村は内戦そしてドイツ軍による「反政府派一掃のゲリラ討伐」に巻き込まれてしまいます。
 ドイツ兵がパルチザンを撃ち殺し、パルチザンがドイツ兵の若者を捉えて処刑する。マルティーナは、パルティザンによるドイツ軍捕虜の処刑も、ドイツ軍による村民虐殺もその目で見つづけます。

 ドイツ軍がマルティーナの村を襲い、マルティーナの叔母も母も父も、ドイツ軍によって「パルチザンの協力者」と見なされて一ヶ所に集められ、皆殺しにされます。
 子ども200人以上、女性や老人が半数以上含まれる大人500人以上が、次々に虐殺されました。教会の神父さんも、村のおじいさんもおばあさんも、皆銃弾に倒れました。

 マルティーナは、奇跡的に虐殺の場からのがれ、生まれたばかりの赤ん坊を必死に藪の中に隠します。

 ジョルジョ・ディリッティ監督による、前半の村の生活の描写は、戦争の影も遠く、恋をする若者達、子供たちをいつくしんで育てる親たち、ふつうに生活し生きている人々を描き出しています。なにも知らずにこの映画の冒頭を見たら、「のんきなイタリア農村と少女の成長物語か」と思ってしまうところです。
 監督は、村民の虐殺を描くとともに、村民パルチザンによるドイツ兵の処刑も描いています。どちらも歴史の真実だからです。

 戦後社会の中で、少女マルティーナがどのように成長していったのかは、映画は言及していません。この映画が語られた、ということこそ、マルティーナのその後なのだ、とも思えます。
 「やがて来る者へ」と、村の歴史の真実を語りつぐ、という形で、ラストシーン、木に座っているマルティーナの背中が語っているように思います。

 冒頭の、モンテ・ソーレ山村の暮らしぶり、ソンミ村にも平頂山村にも、それぞれ、つましくとも平和で愛に満ちた家族達が暮らし、今年の作柄について話したり、子どもの失敗を笑い合ったりして、暮らしていたのだろうなあと思います。

 今の学生たち、子ども達、ベトナム戦争で何が起こったかも、15年戦争で日本が何をしたのかも、学校教育ではほとんど知らされていません。
 私は「父が外地で飢え、母が内地で苦労した」という昔話で戦争を知る世代。直接戦争を知る世代ではないけれど、親が体験した事実として戦争は「遠い歴史上の出来事ではなく、親が経験したこと」として、身近なものでした。
 さて、私たちは、やがて来る者へ、何を語りついでいくべきなのか。

 今年も、8月6日9日がすぎ、8月15日がやってきます。
 私たちは、語り継がなければなりません。被害の歴史も、加害の歴史も。

 原爆投下は、人類史上もっとも忌まわしい悲惨な犯罪だったと思います。東京大空襲ほかの都市への無差別爆撃も。非戦闘員である一般市民を殺傷することを前提とした無差別爆撃は「近代戦」のルールにおいて、許されてはならないものでした。しかし、この無差別爆撃をアジアで最初に行ったのは、1938~1941に中国・重慶における日本軍の空爆であったことも忘れてはなりません。被害の歴史も加害の歴史も真実を明らかにすることが、次の悲劇を防ぐのだと考えます。

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「サラの鍵」

2012-08-09 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/09
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(4)サラの鍵

 中東の内戦に傷ついた母親の一生を双子の姉弟がたどる『灼熱の魂』に続き、『サラの鍵』を紹介します。フランスにおけるユダヤ人検挙と収容所おくりの中で翻弄された少女の物語。やはり重く苦しい歴史の事実ですが、真実をどこまでも追求しようとすることによって、女性ジャーナリストの人生も変わっていきます。

 アメリカ人ジャーナリスト、ジュリア。フランス人と結婚し、思春期にさしかかった娘を育てながら、仕事を続けています。夫の祖父母からゆずり受けた古いアパルトマンへの引っ越しを前に、ジャーナリストとして興味を惹かれる出来事を見つけ出しました。

 夫の家族が住み続けてきたアパートの、元の持ち主一家の謎。10才の少女だったサラの一生の謎を解き明かしたいと、ジュリアはサラの足跡を辿ります。

 『サラの鍵』(英語タイトル Sarah's Key フランス語原題: Elle s'appelait Sarah彼女はサラと呼ばれた )。以下、ネタバレを含むあらすじです。

 ジュリアは、結婚後、家族とともにパリに住み、仕事をしながら一人娘を育てています。思春期を迎えた娘や夫との関係に悩み、ジャーナリストとしての仕事に行き詰まりを感じることはあっても、出身地のニューヨークに暮らす妹に電話で愚痴をこぼしつつ、仕事をこなしていました。

 夫の祖父母からゆずり受けたアパートに移り住むことになり、第二次世界大戦の前、そのアパートに住んでいたスタルジンスキー一家に興味を持ちます。一家の中で当時10才だったサラだけは、フランス・ヴィシー政権によるヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件で検挙されたユダヤ人犠牲者の名簿に死去の記録がなかったからです。サラは、収容所から脱走していたのでした。

 ナチに協力したヴィシー政権は、1942年7月16~17日にパリ市内に住むユダヤ人を一斉検挙しました。
 その朝、10才のサラは幼い弟ミッシェルを戸棚に隠し、鍵をかけます。「必ず助けに来るからそのときまで待っていて」と言い残して、サラは両親とともに屋内競輪場(ヴェルデイヴ)へ押し込められ、さらに親とも引き離されて収容所に入れられます。

 サラは弟を助けたい一心で収容所を脱出しますが、病気になり倒れてしまいます。農家の老夫婦デュフォール夫妻にかくまわれ看病される間も、サラの心は、幼い弟を救い出すことだけを望み、パリへ戻ろうとします。
 サラがパリの元のアパートにようようたどり着いたのは、弟を閉じ込めてから一ヶ月がたったあとでした。アパートにはすでに新しい住人(ジュリアの夫の祖父母一家)に売り渡されていました。弟が待っているはずの戸棚の中には、、、、。

 収容所脱出後のサラの足取りがなかなかつかめないでいたジュリアは、45才になって妊娠したことを夫に告げ、遅い第2子の出産を認めてもらおうと思いました。が、夫は、この妊娠を喜ばず、出産にも育児にももう自分には協力する意志がない、と言うのでした。育児を続ける年齢をすぎてしまった、と。
 
 第2子を諦めようとしたジュリアが病院の手術台に向かったとき、サラを助けた農家の跡継ぎから、サラの手掛かりについての電話が入ります。ジュリアは病院を飛び出して、サラの跡を追い続けます。

 サラはアメリカに渡り、ユダヤ人であったことを隠して結婚、息子を育てたのでした。ジュリアが訪ね当てたサラの夫は、サラの交通事故死のあと再婚し、息子はアメリカからイタリアに行ってシェフとして成功していました。

 サラの結婚相手だった老人は、病に伏せっていました。臨終間近くなり、息子に母親サラの死の真相を打ち明けます。しかし、息子は母親がユダヤ人であったことも母の死の真実も受け入れがたく、ジュリアにも心を開こうとはしませんでした。
 
 サラの一生を振り返ることができたとき、ジュリアは新たな決意をします。一度はあきらめた新しい命のゆくすえについて。家族との関係について。

 サラたちが閉じ込められた水もトイレもない競輪場の名をとってヴェロドローム・ディヴェール事件と呼ばれるこの出来事は、事件の後、53年間も「ないこと」にされてきました。競輪場は取り壊され、跡地には市の建物が建っています。いまわしい収容所があったことは、パリの街から消されたのでした。しかし、人々の記憶や収容者の死亡の記録は残されていました。

 1995年にシラク大統領が正式に国家の関与を認め、謝罪したことでようやく「フランスでもユダヤ人大量検挙とアウシュビッツなどの収容所送りが行われた」ということが正式に歴史の明るみにだされたのです。
 ナチによるユダヤ人虐殺は、ドイツ人だけでなく、フランス人も関与していたことに、世界は大きな衝撃を受けました。

収容されたユダヤ人の身分証明書写真を集めたパネルに見入るジュリア。400万人という単なる数字ではなく、ひとりひとりの顔写真を並べることにより、この人々がすべて罪無くして、ユダヤ人であるというそれだけで殺されなければならなかったことの悲劇が伝わります。


 そして、いっそう「何があったのか、歴史の真実を明るみに出し、真実を知ろうとすることこそ、つぎの悲劇を防ぐ方法」という歴史への認識が確認された事件でもありました。
 ジュリアがひとりの少女、サラの一生を追い続けたのも、この「真実を知ること」への情熱に動かされてのことでした。真実はつらく重いものです。実の息子の存在さえ、サラが負った深い心の傷は癒すことのできないものでした。しかし、サラの真実は、ひとつの命へとつながっていきます。

 真実を知り、それを語り継ごうとする意志によって、サラの生きた証しは、もう一人のサラに受け継がれていくのです。サラの名を受け継いだ女の子へと。
 フランス語の原題『彼女はサラと呼ばれた』というタイトルの意味が、ラストシーンによって最後にわかるしかけになっていたと、今頃気づきました。その名が受け継がれることで、ジュリアもサラの息子も、「真実を知ることの重みと価値」を受け取ったのです。

 「真実を明らかにすること」を喜ばない人たちもいます。フランスでも50年以上、自国政府がユダヤ人虐殺に関わったことに蓋をし続けました。

 ひるがえって、この国では。
 自国政府や旧軍が、女性を性奴隷として扱った、ということについて、その事実について検証しようと歴史研究を続けている人へさえ、「国辱」「自虐史観」「歴史ねつ造」などの言葉を浴びせかける人たちがいます。その歴史検証に反対したいなら、反証となる事実を集め、検証すればいいだけです。しかし、彼らは、自分たちに気にくわないことを述べる人を、罵倒し踏みにじることしか行わない。ときには、自分たちの意見と異なるものの命を奪うことすらする。

 私は、ただ、真実を知りたいのです。真実を知ることこそ、先の大戦で命を落としたアジア全土2千万人の死者に応える道だと信じているので。
 ひとりのサラの真実も、70年前の戦争のためにアジアで亡くなった2000万人の一人一人の真実も、ひとしい重さで私の胸にあります。

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「灼熱の魂」

2012-08-08 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(3)灼熱の魂

 死んだはずの父親が、主人公にずっと付き添っている、という『父と暮らせば』と同様の設定をした創作が、フランス語戯曲にもあります。ワジディ・ムアワッド作『沿岸(Littoral)頼むから静かに死んでくれ』
 戯曲は、れんが書房新社 から出ています。(2010/06)
 この作品は、「約束の血」第1部として1997年に発表され、日本では静岡芸術劇場にて、ワジディ・ムアワッド作・演出のフランス語劇として2010年6月に上演されました。翻訳の字幕は出たのでしょうが、フランス語での上演ですから、私のアンテナにはまったく入ってこなかった演劇でしたが、『灼熱の魂』の第一部ということなら、戯曲を読んでみようと思います。

 ムアワッドは、1968年ベイルート(レバノン)生まれ。1975年、ムワマッドが7歳のときレバノン内戦が始まりました。レバノンには、キリスト教徒とイスラム教とがほぼ同数暮らしていましたが、独立を主導したキリスト教徒(マロン派)が政治的に優位であったため、周辺のイスラム教圏の国とさまざまな軋轢があり、ことにイスラエルとパレスチナの争いに大きな影響を受け、内戦へと進んでしまいました。

 ムアマッドは、8歳のときに家族とともに、内戦が続く故国を離れフランスへ亡命します。1983年にカナダ・モントリオールに永住し、カナダ国立演劇学校を91年に卒業しました。
 自らの劇団持って戯曲を発表、2002年にはフランス芸術文化勲章シュヴァリエを受勲するなど、戯曲執筆や演出など、多彩な演劇活動を続けています。

 ムアワッドが「約束の血」第2部として書いたのが、『焼け焦げるたましい 原題:Incendies(火事)』です。(2003年初演)
 四部作は、「約束の血」第3部『Forêt(森)』2006、「約束の血」第4部完結編『Ciels空』

 カナダ映画『灼熱の魂』は、『Incendies(火事)焼け焦げるたましい』を原作としています。

 フランス語圏ケベック州に住む双子の姉ジャンヌと弟シモンが、母ナワル・マルワンの遺言に従って、これまで知らされることのなかった実の父と兄をさがす物語。以下、ネタバレを含む紹介です。

 主人公である母は、映画の冒頭、プールで倒れ亡くなります。母は、通常の母らしい親とはどこか違っており、とくに弟は、違和感を抱き続けて成長してきました。
 母親は遺言として、双子に「父親と兄をさがすこと」を義務づけていましたが、弟は反発します。いままで一度だって、母は兄のことなど話したことはなく、父は死亡していると言われていたからです。

 ジャンヌとシモン姉弟に2通の手紙が残されます。母ナワルは、自らの葬儀について、遺言します。
 「葬儀について。棺には入れず祈りもなし、裸で埋葬してほしい。世の中に背を向け、うつぶせの状態で。
 墓石と墓碑銘について。墓石はなし。私の名はどこにも刻まないこと。約束を守れぬ者に墓碑銘はない。
 ジャンヌへ。その封筒はあなたの父親宛です。彼を見つけ、封筒を渡して。
シモンへ。その封筒はあなたの兄宛です。彼を見つけ、封筒を渡して。
 2つの封筒が相手に渡されたら、あなたたちへの手紙を開封してよい。沈黙が破られ、約束が守られる。その時初めて私の墓に墓石が置かれ、名前が刻まれる。


 つまり、ジャンヌとシモンが実の父と兄を捜し出して、ナワルからの手紙を渡さないことには、墓に名を刻むこともできない、遺言となる子ども達への手紙を読むこともできない、という内容でした。

 姉ジャンヌは一足先に母の故郷の中東を訪ね、母が過ごした過酷な内戦の歴史を知っていきます。人と人が限りなく憎しみあい、宗教の違い民族の違いによって血で血を洗い、憎悪を増幅させていく中で、ナワルがどのようにしてこの憎しみの連鎖の中から脱出し、双子の子をカナダで成人させるまでの人生をたどってきたのか。ジャンヌは数々の人々の証言をもとに母の一生を知っていきます。

 パスポートなどの遺品から、母が生まれた村を探し当てたジャンヌ。
 ジャンヌが最初に訪れたのは、母の生まれ育った辺境の村でした。通訳を通して会話する村の女たちは、最初はジャンヌに好意的だったのに、ナワルの名を耳にしたとたん、態度を変え、村の名誉を穢した女の娘を村に入れるわけにはいかない、と言います。

 ナワルは異教徒と恋に落ち、秘密裏に赤ん坊を産み落としたという過去を持っていました。その赤ん坊こそが、ジャンヌとシモンが母から手渡すよう手紙を託された兄でした。生みおとした息子を育てることを禁じられたナワルは、息子の踵に三つの星印を刻印してもらいます。いつか生きて会えるかも知れぬときの目印として。

 ナワルは、「嫁には出せぬ体」になったゆえ、大学で学んで自立することを許されます。大学での生活のなかで、ナワルは民族と民族、宗教と宗教が対立する中東の問題点を知っていきます。

 産み落としてすぐに引き裂かれた息子ニハドが、孤児院で暮らしていることを知ったナワルは、ようよう孤児院のあった場所を探しあてます。しかし、孤児院は襲撃され、子ども達は皆殺しにされたあとでした。
 また、ナワルの乗ったバスの乗客も無差別に、女も子どもも殺されました。ナワルは、孤児院やバスを襲撃した一派に対して報復を誓い、テロリストとなります。

 有力政治家暗殺を実行したナワルは、15年もの間、牢獄につながれます。
 牢獄では、15年間、拷問が続きました。すべての女囚から最も恐れられた拷問は、看守による過酷な暴力とレイプでした。ナワルは、拷問の間、歌い続けることによって自らの心を守り、15年を堪え忍びました。

 ジャンヌが政治犯の記録からたどり着いた場所は、テロリストなどの政治犯を収容する監獄でした。母ナワルは、かって中東で「歌う女」という呼び名で知られていました。15年間、牢獄につながれ、度重なる非道な拷問にも屈することなく、拷問の間中歌い続けることにより、「地獄を生き延びた女闘士」が、ナワルでした。

 母の過去を辿ることを拒否していた弟シモンも、ジャンヌのもとにやってきます。しかし、実の父と兄にはたどりつかないままカナダに戻ることになりました。
 カナダケベック州の地元で、ようやく双子が父と兄についての真実を知るときが来ます。
 母が亡くなったプールでの出来事。恐ろしく悲しい、しかし人生のひとつの真実が明らかになります。プールサイドで知った真実のために母の魂は焼き尽くされ、ナワルは心身耗弱して亡くなったのでした。

 ナワルがプールサイドで知った真実は、ギリシャ悲劇オイディプス王を思い出させるものでした。作者のムアワッドは、演出家として「オイディプス王」や「トロイアの女」を上演していますから、その作品に「オイディプス王」の悲劇を潜ませたことが、考えられます。

 もちろん、ナワルはイオカステーそのままではありません。イオカステーは自らの意志で運命を選んだのではありません。一方、ナワルは、ただ運命に従って生きたのではなく、自らの意志で異教徒との恋の結果を産み落とし、自らの意志でテロリストとなったのです。

 レイプの結果の双子を産んだあと、ナワルはレイプの相手である看守によって牢を脱出する機会を与えられます。
 カナダに渡ったのち、ナワルは地味な生活を選び、女手ひとつで、ふたりの子を育て上げました。母としての意志によってです。

 最後に、ナワルは手紙の中にこう書いたことが明らかになります。「ジャンヌとシモンの父となった男を、許す。彼を許し、愛し続ける」と。 
 ナワルからジャンヌとシモンへの手紙。
どこから物語を始める?あなたたちの誕生?―それは恐ろしい物語。あなたたちの父親の誕生?―それはかけがえのない愛の物語。あなたたちの物語は約束から始まった。怒りの連鎖を断つために。あなたたちのおかげで約束は守られ、連鎖は断たれた。やっとあなたたちを腕に抱きしめ、子守歌を歌い、慰めてあげられる。共にいることが何よりも大切……。心から 愛してる」。

 母ナワルの手紙で「自分たちの誕生によって、憎悪の連鎖を断ち切り、憎しみの増幅ではなく、愛と慰めが存在出来たのだ」と知らされた双子は、この真実の物語をどう受け止めたのでしょうか。ナワル自身でさえ、真実を知ったあと、心神耗弱して死に至ったほどの衝撃は、双子にとっていかほどのものだったのでしょうか。
 母を埋葬するシーンの双子は、おだやかに母を見送っているように思えたのですが、私が子の立場なら、受け入れることがむずかしい事実だったと思います。

 生み、育てる性=女性の強靱な美しさは、何ものによっても損なわれない。テロの嵐の中でも、残酷な真実の中でも。
 ナワルは、真実の残酷さに心折れて亡くなりましたが、強い人生を生き抜いた女性だったと思います。双子は、母の一生を心に思い、受けた命を「憎しみの連鎖を断つ」ものとして、生き続けてほしいと思うのだけれど、双子のその後は、語られていません。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「父と暮らせば」

2012-08-07 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(2)父と暮らせば

 本日、8月7日、午後1時からBSNHKプレミアムで映画『父と暮らせば』の放映があります。ぜひ、ごらんください。私も再度視聴します。

 『父と暮らせば』は、井上ひさしの舞台劇を、ほぼそのままの台詞での脚本で、映画化されています。
 舞台版では、登場人物は父(福吉竹造)と娘(福吉美津江)のふたりだけ。娘に思いを寄せる青年(木下正)は、台詞で語られるだけで、舞台に登場はしません。
2008こまつ座

 映画版では、娘(宮沢りえ)が働いている図書館のシーンがあり、図書館に資料を探しに来る青年(浅野忠信)が登場します。また、青年が原爆資料を運ぶリヤカーの移動の道筋として、焼け野原の広島の光景が再現され、原爆ドームや丸木夫妻が描いた原爆図が画面に登場します。
宮沢りえと浅野忠信
 
 広島・長崎の原爆投下は、人類がこれまでに被った最大の災厄です。地震も津波も大きな災厄ではありますが、人が人の上に人為的に成し遂げるという意味では、最大の災厄だったと言えます。1945年8月6日と9日、一瞬のうちに、20万人以上が無残な死を遂げ、原爆症での病死も入れると、広島長崎の死者は、40万人に及びます。
 その後70年近くたつ今でも、まだ、原爆症に苦しむ人がおり、被爆者に発がんリスクが高くなるという統計上の事実があります。

 アメリカでは、いまだに「戦争早期終結のために、原爆投下はやむを得なかった。この措置によって、日本本土決戦はなくなり、多くのアメリカ兵の命がムダにならずにすんだ」という、アメリカが最初に公式見解として流布した言説を信じている人も多い。

 しかし、数多くの証言や公文書情報公開によってオープンになったことから、「アメリカは、日本がポツダム宣言受諾準備をしていることを知っていた。B29の偵察により、日本にはすでに本土決戦の戦闘能力がないことも知っていた。アメリカ政府は、日本がソ連に和平工作を打診することを恐れ、トルーマン大統領は、戦後のヘゲモニー掌握のために原爆を落とした」ということが明らかになっています。
 アメリカが戦後世界の覇者となるために、広島長崎の40万人の罪のない女性や子ども、年寄りが地獄の苦しみを味わって死んでいったのです。

 そして、広島長崎で生き残った者にとっても、生き残ったこと自体が苦しみとなって、残された者の心をむしばみました。
 『父と暮らせば』は、父親と親友を原爆で失った娘美津江の長い苦しみと、その心を救い、娘を幸福に導きたいと願う父の切なる思いが交錯する物語です。以下、ネタバレを含む紹介です。未見の方、午後1時からの放映を見てからお読みください。
 
 戦後3年経つ広島で、図書館に勤めて一人暮らしを続けている美津江。
 美津江は最近「ときどき家に戻ってくるようになった父」との会話にも、何の不自然さも感じていません。戦争前、早くに亡くなった母に代わって美津江を育ててくれた父だから、今でも会話できて当然のように、仕事先の図書館のことも、昔の親友のことも話し合います。
 
 美津江の親友は、赴任先の学校の勤労動員で他市の工場勤めに配属されていました。しかし、8月6日、たまたま学校の用事のため広島に戻っていて被爆し、亡くなりました。親友の母は、「なぜ、うちの娘が死んで、あんたが生き残ったのか」と、美津江に言います。

 美津江の心の奥底には、生き残ったことへの罪悪感が澱のように沈んでいます。死んだ人のことを思えば、自分は幸福など求めてはいけないのだ、と常に言い聞かせて生きてきたのです。父と話すうち、親友の死以上に、つらい記憶で、これまでその記憶にフタをしてきたことも見つめるようになります。

 父竹造は、「幸福になることに後ろめたさなんぞ感じてはいけない。娘が幸福になることこそ、父への親孝行。わしは、娘の恋の応援団長だ」と、娘を励まし続けます。
 
 美津江が思いを寄せる木下正は、原爆の資料を集め続け、原爆の記憶を風化させまいと研究を続けている青年です。美津江もまた、親友と続けてきた「昔話を語り継ぐ」活動の先に、「原爆を語り継ぐことの大切さ」を、青年とのやりとりで、また父との会話で自分の使命として気づかされていきます。

 この作品での「父との会話」とは、美津江の心の中のふたつの内面による対話だと思います。美津江は、木下正に惹かれる思いと、多数の死者の間に生き残った自分は幸福など求めてはいけない存在だ、と自分に言い聞かせようとする罪悪感の板挟みになっています。自分の思いがふたつに分裂して、幸福を否定する自分と、幸福に向かう自分を祝福する父の会話になったのだと思われます。

 ラストに美津江が木下のために、かやくご飯を作るシーンがあります。美津江が人参を刻む包丁のリズムが、記憶を蘇らす刻印でもあるかのようにトントンと空に昇っていきます。そこは原爆ドームからのぞく青空があります。
 美津江は、晴れ晴れとした顔になり、「おとったん、ありがとありました」と、父への感謝を語ります。
 
 自分が経験し、見て来たことを次世代に伝えること。なんら付け加えたり改変したりせずに、ありのままを伝えること」この使命を自覚することで、美津江の思いは昇華していきます。

 多くの災害で、生き残った者が死んでしまった人に対して罪悪感を感じてしまうことは、社会心理学の研究でも明らかにされています。美津江が親友に対して感じたように、なぜ、あの人が死んで、自分の方が生き残ったのかと、思いは沈潜してしまいます。
 3年間、美津江が思いを封じ込めてきたのと同じように、災厄の記憶を封じ込めてしまった人もいるのではないかと思います。でも、美津江が到達したように、思いは封じ込めることでは決して消えてしまわない。語り継ぎ、真実を伝えることで、記憶は昇華するのです。

 映画ラストシーンでは、美津江の上へカメラがパンして昇っていくと、原爆ドームの屋根になります。内部からドームの屋根を見上げる映像です。

 以下の画像は原爆ドームを内部から見たというストリートビューからのものです。
 Googleは2011年8月に広島市の協力のもと、通常では立ち入りできない建物内部を360度撮影し、公開しました。
 原子爆弾投下から66年経った内部のストリートビュー公開によって、「日本のみならず世界中の人々が少しでも広島について興味を持ち、原爆ドームさらには平和について考えるきっかけになることを祈っています」というのが、Google社のコメント。去年の夏のことなのに、広島市とGoogle社がそんなコラボレーションをしていたなんて、私は知りませんでした。


 心の中に閉じ込めたままの思いがあるなら、どうぞ、心からそれを無理にでも引き出し、語り伝えてください。どのようなつらい記憶であっても、真実の心の叫びとして、さまざまな災厄の記憶を語り伝えてくださることで、亡くなった人も、ともに私たちとここにいることができます。



<つづく>

文蛇の足跡:
 宮沢りえ、ママと離れない限り、いつかは離婚すると思ったけれど、離婚協議は進んでいるのかしら。離れて暮らす夫よりも、女優業を優先させることを選んだりえちゃん、女優としてますます美しく大きく強く羽ばたいてください。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春庭の映画論「越境者の声」2011年3月

2010-09-21 09:58:00 | 映画演劇舞踊
2011/03/09
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年3月>越境者の声(1)善き人のためのソナタ

 3月7日は朝から東京にも雪が降り続きました。雪の中、歯科と内科のハシゴ受診。咳の薬と抗生物質を処方されました。ちょっと咳が続くというだけでも、個人的にはとてもつらいのですが、様々な厄災のなかに身をおいている人も大勢いる世界で、風邪ごときでめげていてはならぬと心に鞭うちつつ、現実にはぐうたらとすごしております。
 地震や戦乱や政変の嵐の中に身を置く人々に思い寄せつつ何もできず、、、、寝転んでビデオなど見る日々。

 『善き人のためのソナタ』という映画、3月1日(火) 午前0:45~3:04(28日深夜)に放映されていたのをビデオをとっておいて見ました。2006年米アカデミー外国語映画賞受賞作。とてもいい映画でした。
 オーデンが『1939年9月1日』の中に、「私も、それらと同じく エロスと灰で出来ているのだが、同じ否定と絶望に 取り巻かれているのだが、肯定の炎を見せてやれるかもしれない」と、詩に書いた、その 「an affirming flame肯定の焔」がこの映画の中にも赤々と燃えているのを見ることができました。

 ベルリンの壁が崩される前の東ドイツDDR(Deutsche Demokratische Republikドイツ民主共和国)。名前とは裏腹に少しも民主的な国家ではなかったことは、他の社会主義国家と同じ。「民主主義人民共和国」というのが将軍様の独裁国であったりするのは、現在でも続いています。

 1984年。DDR国中に秘密警察と密告者が送り込まれ、国家に刃向かおうとする人々を監視していた時代の話です。この映画の中で燃える焔となったのは、一曲のピアノ奏鳴曲「善き人のためのソナタ」
 以下、ネタバレのあらすじ&感想なので、未見の方はご注意を。
 
 『善き人のためのソナタ』の主要登場人物は6人。閉鎖社会の典型的なタイプの人とも言えます。
 一人は主人公ヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)。国家保安省シュタージに忠実にこつこつと下積みの仕事を続け、国家の安寧のために働いてきました。自分の仕事の正しさに疑いを持つこともなく、横暴な上司のもとでも、命令に従ってきました。

 もうひとりの主人公は劇作家ドライマン(セバスチャン・コッホ)。少しでも西側の思想に共感するような作風であれば、即座に粛正され、作品の発表ができなくなるという東ドイツ社会で、巧妙な作風によって粛正を免れてきましたが、国家保安省は次のターゲットをドライマンに決めます。さまざまな罠が仕掛けられ、シュタージはドライマンが西側思想に通じている作家である証拠をつかもうとします。

 そのシュタージ側のふたりが、この映画の敵役です。ヴィースラー大尉の上司にあたるのがグルビッツ部長。国家に忠実な役人のようでいて、実は自分自身の出世や保身にしか興味がないのはいずこの国でも変わりない。そのまた上司は、ブルーノ・ハムプフ大臣。こういう大物は、国家体制が変わっても上手く泳ぎ切って、どっこい生き延びってことが、映画のラストにでてきます。

 シュタージのターゲットにされ、運命を曲げられた人が演出家のイェルスカ。あらゆる職業につくことを禁じられ、生ける屍のようになっている。
 ヒロインのクリスタ=マリア・ジーラントは、ドライマンの恋人。女優であり続け、舞台で演じることが彼女にとっての生きること。しかし、イェルスカの次のターゲットであるドライマンの家に盗聴器がしかけられたあと、細心の注意をはらって、国家の罠に嵌るまいとしているドライマンに対し、弱みの多いクリスタは、彼女の肉体を手に入れようとして権力をふりかざす大臣によって非情な運命に陥ります。クリスタは、女優生命のため、また自己の身体的依存のために、大臣や国家の権力に屈服してしまう弱い人間です。でもその弱さを持つからこそ人が人であるのかもしれず、信念を曲げないドライマンに対して、クリスタは弱い側に立ち負けてしまう人間性の代表なのかもしれません。

 盗聴担当のヴィースラー大尉は、命じられたことに忠実に毎日ドライマンの家の音に耳を傾け、報告書を書いていきます。しかし、聞き続けるうち、彼の心の中に変化が起きてきます。クリスタとドライマンがふたりで、あるいは仲間と語り合う音楽や文学、これがほんとうに国家の安全を破壊するものだというのだろうか。ドライマンは国家体制への反逆者の疑いをかけられて当然の人物なのか。

 ヴィースラーの変化を決定的にしたのが、イェルスカがドライマンの誕生日プレゼントとして贈ったピアノ曲でした。楽譜をプレゼントされたドライマンは恋人クリスタに演奏して聞かせます。当然、その曲の調べはヴィースラーの耳にも届きます。美しいピアノソナタの調べ。この調べを国家は禁止し、西側の悪しき堕落として断罪しようとしている。ヴィースラーの盗聴報告書はしだいに変化していきます。
 ついに、国家体制がドライマンに襲いかかる決定的な日。ヴィースラーは、体制維持側ではなく、良心の側に立って行動することを選びます。 

 東西ドイツの合併後、ドライマンの著作『善き人のためのソナタ』が本屋の店頭に並びます。その本の扉には、献辞が書かれています。ヴィースラーが書き続けた盗聴報告書の署名である記号に感謝のことばが捧げられていたのです。
 ラストシーン。東西ドイツ合併後も大物然として生き延びる大臣に対し、ヴィースラーら、下っ端役人はしがない生活を続けています。『善き人のためのソナタ』という本が発売になったことを知ったヴィースラーは本を購入し、店員から「贈り物用の本ですか」と尋ねられ、「いや、私のための本だ」と答えます。

 ヴィースラーは、一曲のソナタに心うたれ、自分の良心に従って行動しました。ヴィースラーもまたひとりの「エロスと灰で出来ている」しがない人間です。その彼も「同じ否定と絶望に取り巻かれているのだが、肯定の炎を見せてやれるかもしれない」というオーデンの詩を生きました。オーデンの詩は1939年のドイツリンツ近郊生まれの男が行った悪業について書き残しましたが、この国家的な悪行とは、1989年まで続いた東側の国家にもありました。スターリンのソ連にもチャウシェスクのルーマニアにも。
 ヴィースラーは、ソナタを聞いて後、自分の信念にしたがって肯定の焔を燃やしました。

 今、世界のどこかで燃やされている肯定の焔。燃え続ける炎もあるでしょうし、国家の巨大な圧力の前に消えかかる炎もあるでしょう。しかし、ソナタを聞いたヴィースラーのように、心に焔を掲げ続ける人が必ずいる、ということが人の社会にとっての大きな希望です。

 壁が崩れる前、東から西への越境は命がけでした。多くの人が壁から外へ越境することに失敗して命を落とし、また、越境しなかった者にとっても、壁の崩壊後の人生は決してたやすいものとはなりませんでした。ヴィースラーは壁から西側に出ることなく、おそらくしがない勤務を死ぬまでこつこつと続けるのでしょう。
 しかし、彼の魂の越境、一曲のソナタを聞くことによって、自分の信じるものの側へ越境したヴィースラーは、「私のための本だ」という誇りに満ちた表情を残します。
 彼は魂の越境者として、自分を認めることができたのです。

<つづく>
00:08 コメント(2) ページのトップへ
2011年03月11日


ぽかぽか春庭「冬の小鳥」
2011/03/11
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年3月>越境者の声(2)冬の小鳥

 『冬の小鳥』『トロッコ』の2本立てを飯田橋のギンレイホールで見ました。

 『冬の小鳥』映画の冒頭、9歳のジニは父親に新しい服や靴、大きなケーキを買ってもらい、父親の背中に顔を寄せて幸福な思いをしています。大好きな父といっしょにすごす時間が、永遠に続くような気がしながら。しかし、父の顔は巧妙に画面には現れません。顔のない「父」の背中に、観客は不安を感じます。

 父はジニをカトリック系孤児院に放り込み、二度と戻っては来ませんでした。ジニは必ず父が迎えに来ると信じ、孤児院のシスターや仲間の孤児達にも心を開きません。
 ただ、同じ年頃と思われたスッキと共に死にかけた小鳥を守ろうとするそのときだけ、ジニは心を取り戻したかのように見えました。

 ルコント監督作品『冬の小鳥』は、イ・チャンドンが制作を担当し、2006年にフランスと韓国で結ばれた<映画共同製作協定>の第1号作品として完成しました。2009年カンヌ国際映画祭に特別招待され、2009年東京国際映画祭では「アジアの風部門最優秀アジア映画賞」を、2010年ソウル国際女性映画祭では「第1回アジア女性映画祭ネットワーク賞」を受賞しています。

 脚本は監督自身によってフランス語で書かれました。ルコント監督は少女時代、韓国のカトリック系養護施設に入り、その後、フランスのプロテスタント系の牧師一家に引き取られた経験を持ちます。脚本は「ほとんどが創作」だそうですが、自身が韓国カトリック系児童施設からフランスへ養女として渡ったという経験を、「9歳のときの気持ちのままに表した」と、インタビューで述べています。フランスで教育を受け、韓国語はすっかり忘れてしまったルコント監督ですが、イ・チャンドンのプロデュースを得て、韓国語の映画として見事な演出を行っています。韓国からフランスへ越境していった監督の声が9歳の視点となって生き生きと再現されています。
 以下、ネタバレを含みます。未見の人はご注意を。

2011/04/02
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(3)遙かなる絆

 3月に「越境者の声」シリーズ「善き人のためのソナタ」「冬の小鳥」をUPしました。震災により掲載を中断していたシリーズの続きです。『遙かなる絆』『トロッコ』『トイレット』を紹介します。

 2009年に5月に放映され、そのときちょうど中国赴任中であったために見ることができなかった連続ドラマ『遙かなる絆』。
 3月20日12時から6時まで、6話一挙放映というのをやっていたから、続けて見ていました。何もする元気がでないとき、没頭できるドラマ、現実逃避とわかっていても、ありがたいひとときでした。
 6時間も続くドラマを一気に見続けることなど,他の時期だったら出来なかったかも知れないので、「地震酔い」のめまいで片付け事もできないからと、いいわけにしてドラマを見ることができたので、めまいもよい時間を与えてくれたと思うことにします。

 2009年ちょうど中国の長春市に赴任していたとき、「今日本では、長春ロケが画面に多く出てくるドラマが放映されている」と聞きました。同僚の一人は、中国人の知り合いから海賊版のDVDを手に入れて見ていて、貸してくれると言われたのですが、私はどうも海賊版というところに引っかかってしまい、仕事の忙しさにもかまけて貸して貰うこともせずに終わりました。2009年12月に再放送があったのですが、12月30日31日という忙しいときで見逃してしまい、最終回だけ見ることができました。2011年3月、ようやく6話全部を見たのです。

 吉林大学とか長春長距離バスターミナルとか、知っている場所もロケされていて、なつかしく思いながら見ました。戦災孤児帰国事業が始まる前の1970年に自力帰国を果たした城戸幹さんの半生を描いたドラマ。幹さんの娘、城戸久枝さんが執筆したノンフィクション『あの戦争を遠く離れて』が原作です。原作は第39回大宅壮一ノンフィクション賞および第30回講談社ノンフィクション賞を受賞しています。

 城戸幹さんは、満州で軍人の息子として生まれ、敗戦後の混乱の中、家族とはぐれ中国人養母に養育されました。農村の中国人に労働力としてのみ扱われた残留孤児も多かった中、養母は実の母のように愛情を持って幹さんを育て、高校まで出してくれました。しかし日本人孤児であることから、大学に合格することができず、文化大革命のさなか、自力で実の両親を捜し出し、日中国交回復以前に独力帰国を果たした方です。実の両親が故郷でご存命中に帰国できたことは幸運でしたが、国交回復後に帰国した残留孤児にはさまざまな援助が与えられたのに、幹さんは独力で日本での人生再スタートをせねばならず、帰国後の苦労も並大抵のことではありませんでした。

 娘の久枝さんは、中国に留学し、お父さんの友人たちや養母の親戚に取材して、幹さんの激動の半生をノンフィクションにまとめました。1976年生まれの城戸久枝さんは徳島大学に在学中、長春市にある吉林大学に国費留学しています。1996年前後のことかと思います。

 私が最初に中国に単身赴任をしたのが1994年。開放改革のうねりが押し寄せ、中国が大きく変貌していく最初の頃でした。ちょうど同じころの中国を体験したのだろうと身近に感じます。 
 中国の残留孤児を主人公とした小説に、山崎豊子のベストセラー小説『大地の子』があります。NHKのドラマになったとき、私は1994年に行われた長春ロケに参加し、エキストラ出演をした思い出があります。

<つづく>
09:48 コメント(1) ページのトップへ
2011年04月03日


ぽかぽか春庭「国境を越える絆」
2011/04/03
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(4)国境を越える絆

 最初の1994年中国赴任の思い出、長春市残留孤児の孫玉蘭さんとの出会いがありました。彼女の訪日のためにささやかながら尽力したことなども思い出します。
 孫さんは私を市内のレストランに招き、「厚生省(当時)の残留孤児訪日肉親捜しの名簿に載せて貰っているが、いまだに訪日の予定が聞かされていない。日本に帰国したら厚生省に連絡して、いつ訪日できるのか調べて欲しい」という切実な訴えを寄せました。
 彼女は残留孤児の中でも養父母に恵まれ、大学教育まで受けさせてもらったと言っていました。長春市内でも恵まれた生活をしている階層の方でしたが、「現在の生活に不自由はないけれど、私は日本人なので、子や孫の教育のことを考えると、これからは日本で生活したいと思う」とおっしゃっていました。

 私は、帰国後、厚生省の担当部署に電話をしました。孫さんは次回の訪日調査団のメンバーに入っていることがわかりました。中国の教え子(孫さんの知り合い)に電話をして、訪日できることを連絡しました。
 「玉蘭」は、中国人女性によくある名前なので、同姓同名の人もいるかもしれませんが、たぶん、この人。
http://www.kikokusha-center.or.jp/kikokusha/mihanmei/kiturin/09202.htm

 孫さんは1994(平成6)年11月の残留孤児肉親捜し訪日団の一員として来日しました。
 来日時には、日本の父母への思いを綴った漢詩を記者会見で披露し、大きく新聞にも取り上げられました。私はその漢詩が載った新聞記事を切り抜き、大切にとっておいたのですが、整理整頓が苦手なために、その切り抜きがどこかに行ってしまいました。朝日新聞天声人語(白井健策)が1994年11月22日のコラムで孫玉蘭さんについて書いていることは検索できたのですが、肝心の記事はまだ見つけられません。

 このとき孫さんは肉親と面会できませんでしたが、こののち孤児対策方針の変更があり、肉親が名乗り出なかった人も日本に帰国できるようになったので、日本に帰ったのではないかと思います。厚労省に問い合わせをすれば、帰国後の日本名なども判明できるのかもしれません。日本での第二の人生がよい日々であったことを祈ってやみません。

 2008年12月に長春ロケが行われた『遙かなる絆』は、私が中国で3度目の赴任中の2009年に日本で放映されましたから、ロケを見ることもドラマを見ることもなかったのですが、2011年3月の再放送は、心の絆が何より欲しかった3月に見ることができました。親子の絆をテーマにして、中国と日本の国境を越えて心をつなぎ合わせたドラマでした。城戸久枝と城戸幹の父娘の絆。そして孫玉福(城戸幹中国名)と養母付淑琴との母息子の絆。

 国境を自力で越え、日本人としてのアイデンティティを求めて苦闘した幹さんも、父の育った大地に立つために日本から中国へ留学した久枝さんも、国境を越えることは国境をつなぐことなのだと感じさせてくれました。
 城戸久枝を演じた鈴木杏も、深い愛情をたたえた岳秀清(養母役)も、とてもよかった。

 東北関東大震災で、各国の人々が国境を越えて援助を申し出てくれました。特に原発事故放射能漏れは、一国の事故が国境も何も関係なく、全地球の災難となるのですから事態は深刻です。国境を越えた防災の協力が重要なことがよくわかりました。
 人と人の絆は、地球の線の上に引かれた国境とは関係なく、心をつないでいると信じています。

<つづく>
07:36 コメント(3) ページのトップへ
2011年04月05日


ぽかぽか春庭「トロッコ」
2011/04/05
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(5)トロッコ

 日本映画学校と並ぶ映画専門学校であった日活芸術学院は、2011年4月が最後の入学式。この入学生が卒業した後は、専門学校としての歴史を閉じることが決定しています。今後は、2011年4月に映像芸術学科が新設された城西国際大学に吸収合併の形になり、日活の名を冠した映画学校は消えます。 
 一方、日本映画学校は、2011年4月に「日本映画大学」として、新たな出発を果たします。

 佐藤忠男は、初代学長としてのインタビューで次のように語っています。
 「これまでに私は2万数千本の映画を見たと思うが、日本とアメリカとヨーロッパだけでなく、世界を知りたいという願いが増大して、機会をとらえては日本で公開されていないアジアやアフリカの映画も見ようと努力した。いま世界は映像文化で互いを理解し合う方向に向かっている。そこで映画は世界を結びつける文化として大きな役割をはたさなければならない。しかし現状ではそれはハリウッド映画の世界制覇で終わりかねない。将来の映像文化は、小国や途上国の映画の美点からも学んで、世界の多様な文化のそれぞれの良さが生かされるようなかたちで世界を結びつけるものでなければならないのではないか。批評家としての私は、私のこの理想に向かってまだいくらかでも貢献できるだろうか。それが私の仕事だ」

 つづけて、日本映画学校の出身者にふれ、「昨年(2010)の日本映画では、「悪人」「十三人の刺客」「踊る大捜査線3」「トロッコ」などがこの学校の卒業生の監督作品である」と、佐藤忠男は言挙げする。
 川口浩史は、日本映画学校5期卒業生。『トロッコ』が初の監督作品です。

 『冬の小鳥』は見ようと思って見に行ったのですが、『トロッコ』は、『冬の小鳥』の2本立ての映画上映なので、ついでに見たのです。ついでではありましたが、私にはとてもよい収穫となった映画です。気になる演出もありますけれど、子役に対しては「ドキュメンタリーを撮るようにとった」と述べるなど、ごく自然な演出で初監督作品として、成功しているように思います。

 芥川龍之介の短編小説『トロッコ』は、私も川口監督と同じく、教科書の中に載っている作品として中学生のころ読みました。
 青空文庫のテキスト
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43016_16836.html

 映画のシナリオは川口浩史と黄世鳴の共同脚本になっています。芥川のトロッコは原作というより「原案」程度になっています。
 「薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している」という、原作で少年が感じた見知らぬ土地へ入り込み、帰り道への不安を抱える心情は、映画『トロッコ』の重要なモチーフではありますが、台湾を舞台にした映画は、様々な要素を付け加えています。
 以下、ネタバレ含む。未見の方はご注意を。

 私はこの映画『トロッコ』も「越境者の物語」のひとつとして見ました。
 第一の越境者は、台湾出身の呉孟真。父親に反発し、父が嫌う国へと留学してそのまま留学先で就職、結婚。一度も故郷に帰ろうとしなかった。映画に登場するのは、妻が抱える骨壺としてです。

 第二の越境者は呉孟真の妻矢野夕美子(尾野真千子)。夫の早世ののち、フリーライターという不安定な仕事を続け、息子二人を抱えて生きていくことに不安を抱えています。夫を故郷のお墓に納めるために、国境を越え、初めて夫の父親の家を訪問します。

 旅行ライターをしている夕美子は、取材のためにはさまざまな国を訪問してきました。それは母語によって母国の出版社での仕事をしてお金を得るための訪問であって、これまで夕美子は、何度国境線を越えて旅行しても、母国から「越境」してきたことはなかったのです。しかし、夫の故郷へ向かったとき、息子の矢野敦(夕美子の長男:原田賢人)、矢野凱(夕美子の次男:大前喬一)と共に、はじめて、夫呉孟真が越境者として日本にやってきた気持ちを味わうことになります。

<つづく>
08:31 コメント(1) ページのトップへ
2011年04月06日


ぽかぽか春庭「トロッコは越境者を乗せて走る」
2011/04/06
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(6)トロッコは越境者を乗せて走る

 第3の越境者は、夕美子の夫呉孟真の父親・呉仁榮(洪流)です。敦と凱にとってはやさしいおじいちゃん。昔覚えた日本語で、はじめて出会った孫息子といっしょうけんめい通じ合おうとします。

 呉仁榮は、台湾が日本統治下に置かれていたころ成長し、日本語を習いました。日本人として徴兵され、3年間従軍しました。しかし、台湾が独立すると日本籍を失い、3年間の従軍に対して、何らの保障もされませんでした。呉仁榮は日本政府に対し、「見捨てられた元日本人」として、訴訟を起こしましたが、その訴えは何度行っても却下されるのみです。

 呉仁榮は、日本人として生きようとしたのに、それを国家によって否定された越境者なのです。故郷にとどまり中国語を話す生活を何十年も続けていても、かって日本の木材会社の仕事でトロッコを押してすごした日々と、日本人兵士として従軍したときの記憶を決して捨ててしまえない、逆の意味での越境者なのです。

 多くの人は、この映画を「家族のものがたり」と受け取りました。それは間違いがないと思います。私は、それに「越境者のものがたり」という視点を付け加えたいと思います。
 母と子、父と子、村落共同体、さまざまな絆が切れようとしても決して切れずに再生していく物語であるとともに、越境することによって自己を再認識していく人々の物語なのです。母に捨てられるかも知れないという不安を抱えた敦も、トロッコに乗って思いも寄らない遠くまで来たのち、弟を気遣いながら母の胸に戻ってきたとき、母と子の関係の再生だけでなく、生きていくことの不安や矛盾についての物語を得たのだろうと思います。

 芥川龍之介が描き出したように、私たちの心の中には、幼いころ感じた生というものの中の不安定さや矛盾がいつも潜んでいます。雑駁とした日常生活のなかでは取り紛れている、この「私はどこへ行こうとしているのか」「もとの、心地よい母の胸の中にはもう、戻れないのかも知れない」という不安感が、漠然と横たわっている中、毎日の飯を食い、通勤電車に揺られ、都市生活者のあらゆる矛盾をねじ伏せながら人生を歩んでいきます。
 芥川の『トロッコ』は、好奇心に駆られてトロッコをどこまでも押していきたいと思う高揚感とそ、の高揚が消え失せた後の漠然とした不安を書き残しました。

 川口浩史の映画『トロッコ』は、夕美子の「夫亡き後の子育ての不安感や、敦の母に捨てられるのかも知れないという不安は表現されていたと思います。しかし、原作の中にある「生の不安」すなわち自分が今ここに在ることの不安を描き出してはいなかった。生きていくことの中に潜む矛盾や不安の感情は、台湾奥地の村を取り囲む圧倒的な緑の生命感によって隠されてしまったと思います。
 撮影監督は李屏賓リー・ピンビン。村の緑、トロッコの疾走などをすばらしい映像として撮影し、そのすばらしい映像のために、「生の不安」より「生命賛歌」が前面に出ています。
 原作のテーマを忠実に再現することを目標とするなら、『トロッコ』は原文で読む方がよい。川口の『トロッコ』は芥川の作品をもとにしてはいるけれど、さらに別の作品として表現されていたと思います。テーマを自分に引きつけて言ってしまえば、「越境者の不安と自己確認」とでも言うような感覚。

 音楽担当は、バイオリニスト川井郁子。この『トロッコ』の音楽により、大阪アジア映画祭音楽賞受賞を受賞しました。
http://www.oaff.jp/program/ocf/ocf_best/index.html

 「境界を越えて、新たな絆をむすぶ」これは私の人生のテーマのひとつです。

<つづく>
00:26 コメント(6) ページのトップへ
2011年04月08日


ぽかぽか春庭「トイレット」
2011/04/08
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(6)トイレット

 4月7日夜11時半に、団地9階のわが家また大きく揺れました。宮城県では震度6、津波警報も出ました。揺れが長い時間続き、こわかったです。
 地震で多くの大学の入学式が中止になったほか、停電の影響が長引き、さまざまなイベントが中止になっています。私たちのジャズダンスサークルが出演する予定だった地元のイベントも中止になり、5月の発表会はなし。

 荻上直子監督が、第61回芸術選奨文部科学大臣新人賞(映画部門平成22年度)を受賞しました。(3月11日の地震直前に文科省から発表されましたが、3月17日に予定されていた授賞式は震災の影響で中止になりました)。
 映画部門は、昨年の西川美和監督(映画部門平成21年度)に続く、女性監督の受賞となりました。女性監督も珍しくはなくなった昨今ではありますが、『冬の小鳥』のルコント監督など、有望な女性表現者がつづく時代をたのもしく思っています。

 かっては、女性が社会で活躍するために、自分自身を「名誉男性」にしてしまわなければならない時代もありました。今、女性が女性としての感性や身体性を縦横に発揮して表現をなしえる時代であることを嬉しく思います。

 「トイレット」は、2月に、ギンレイで見ました。私が見て来たあと感想を言おうとすると、息子は「あ、言わないで、僕も見るつもりだから」と言って、一人で映画館へ行きました。夫も見て来て「こういう話、どこが面白いのかわからない」と娘に語ったそうで、娘は「父には映画がわからないんだから、ハリウッドの中身無し超大作映画でも見てればいいんじゃない?」と笑っていたのですが、「映画は家でテレビ放映を見ながら、みんなでワイワイしゃべりながら見たい」という娘だけが、見ていないことになり「なんだ、こんなんじゃテレビで放映してもつまらないよ。母も弟も見ちゃったんじゃ、私だけワイワイしていても面白くない」と、むくれています。

 一人では出かけたがらない息子が、わざわざ映画館へ出かけたのは、この映画の「みんな、ホントウの自分でおやんなさい」というキャッチコピーにひかれたのじゃないかと、私は思っています。
 家族の成長と異文化のせめぎあいがテーマ、ということですが、私にはやはり「越境者の声」の物語なのです。以下ネタバレ含む。未見の方、ご注意を。

 「トイレット」の舞台はカナダです。カナダ人と結婚した母(第一の越境者)が亡くなったあと、残された3兄弟は、母が亡くなる直前に日本から呼び寄せていた祖母との関係に悩みます。第二の越境者祖母(もたいまさこ)はまったく英語が話せない。日本人荻上直子が監督した日本映画ですが、全編英語の映画です。第二の越境者バーチャンの声はトイレを出たあとの「ため息」だけです。

 3兄弟。長男モーリーは引きこもり生活を何年も続けています。次男レイは企業の実験室勤務。ロボットプラモオタクですが、アパートが火事で焼けてしまい、オタク趣味に没頭できる一人暮らしから一転、母が亡くなったあと、祖母、兄、妹と同居することになりました。妹は生意気な高校生。将来どう生きていくのか、まだ自分でも自分がわかっていません。

 日本語しか話せないバーチャンの心をなごませようと、兄弟はテイクアウトの寿司を買って夕食にだしたりしますが、バーチャンは毎朝トイレから出てくるとため息をつき、カナダの生活になじめないようす。

 引篭りの長男モリーが母の形見のミシンを見つけたことから、3兄弟の生活が変わっていきます。モリーは母のミシンで自分が着たい服を作ろうとします。服の生地を買うために4年ぶりに家のドアから外に出ます。英語ができず家から出ようとしなかったバーチャンも、モリーの服のために買い物に出て行きます。モリーが縫い上げたのは、鮮やかなプリント柄のスカートでした。スカートを履き、「ほんとうの自分」に出会えたモリーは、4年前、引きこもりの原因となった出来事に再チャレンジすることを決意します。ピアノのコンクールに出ること。モリーは音楽学校の教師達から将来を嘱望されていたピアニストの卵でした。

 リサは高校で詩の創作クラスに気になる男子生徒を見つけましたが、なかなか上手い具合には進展しません。リサはバーチャンがひとりで見ていたテレビの「エアギター」にひかれます。エアギターは音は出しません。しかし、音が無くてもギターの音が聞こえてくるような自己表現のひとつではあります。
 派手な音をならすように詩を朗読するハンサムな男子生徒が、プラモデルを見つめる兄レイを侮辱するのを聞き、音は出さずに静かにプラモデルに熱中するレイを弁護します。
 リサはエアギターの選手権に出ようと決意します。

<つづく>
00:08 コメント(1) ページのトップへ
2011年04月09日


ぽかぽか春庭「エアギターの音」
2011/04/09
ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(7)エアギターの音

 (『トイレット』ネタバレ続き)
 家族に冷淡な態度をとっていたレイは、バーチャンがほんとうにママの母親なのか疑問を持っていました。長い間、ママとバーチャンは音信不通で、バーチャンをアメリカに呼び寄せたのは、ママの死の直前だったからです。レイはアパートの火事によって手に入った保険金で「遺伝子調査」を行うことにします。しかし、バーチャンが本当に血縁関係を持った親族かどうかを調べるはずの調査は、レイだけが知らされていなかった家族の秘密をあばく結果になりました。

 家族と遺伝的なつながりを持っていなかったのは、バーチャンではなく、幼いとき養子に迎え入れられたレイ自身だったのです。
 でも、家族とは、遺伝子がつながっている人のことだけでしょうか。家族の絆とは血縁関係という問題ではなく、いっしょに暮らし互いを気遣い合う心のつながりを持つ人々のことなのだとレイにもわかってきます。
 レイは、何より大事なロボットプラモデルの購入をあきらめて、バーチャンが気持ちよくトレイを使えるよう、日本製の「ウォシュレット」を購入することにします。

 『トイレット』を見て「つまらない」という感想を持った夫のほか、この作品の不足面はいろいろあげることができるのでしょう。しかし、私は『かもめ食堂』も『めがね』も荻上直子、好きです。芸術選奨文部科学大臣新人賞、おめでとうございます。
 良かった点はいろいろあります。英語を話さなくても表情で感情を伝えるもたいまさこの演技が自然で、カナダの美しい風景に溶け込んでいたこと。サチ・パーカーが妙な服を着ていつもバス停に座っているホームレスっぽい女性を演じていて、独特の存在感を示していたこと。モーリーが自宅のピアノで弾いたり、コンクールシーンで弾くピアノ曲がとてもよかったこと。

 モーリーが弾くピアノ曲。フランツ・リスト「ため息・演奏会用練習曲・第3曲変ニ長調」、リスト『波の上を歩くパウラの聖フランソワ』(ふたつの伝説第2番)、ベートーベン「ヴァルトシュタイン(ピアノソナタ第21番ハ長調)」が演奏されました。

 様々な名演奏がある中、あえて古い録音。1940年 にレコーディングされたホロビッツの演奏でリスト「伝説二番・波の上を歩くパウラの聖フランソワ」
http://www.youtube.com/watch?v=U6Jffo2JdQI&feature=related
 フジコ・ヘミング演奏でリスト「ため息」
http://www.youtube.com/watch?v=ix5tV2N8d5Y
 Alice Sara Ottの演奏でワルトシュタイン第一楽章
http://www.youtube.com/watch?v=7xk8Iju821w
 「トイレット」の音楽担当は、バイオリン奏者の川井郁子。
予告編
http://www.youtube.com/watch?v=zqGaVvt8ev8&feature=related

 リサが見つけた自己表現「エアギターの演奏」。エアギターは音を耳には伝えないけれど、音を見せることはできる。心の耳には音が届く。ばーちゃんは英語を話せず、耳に英語の音を伝えることはなかったけれど、ばーちゃんが孫達を愛しているというメッセージをちゃんと伝えました。
 モーリーは5年前、ピアノの演奏コンクールを前に心を閉ざしてしまいましたが、「ほんとうの自分」をためらいなく出すことでピアノの音を取り戻しました。
 家族と血のつながりがないことを知ってしまったレイは、家族との絆とは何なのか、心の糸を見つけました。

 心の中の境界線は、目に見えずひかれているのだけれど、私たちは越境者となって境の向こうへ行くことができるし、エア・ブリッジを渡ることができる。

 トイレタイムは、食事や睡眠と並んで日常生活を構成する重要なひとときです。震災の避難所でも、トイレが不自由で体調を崩してしまう例もあったと聞きます。日常生活を滞りなく穏やかに運ぶために、大切なひととき。トイレ、親しい人とのなごやかな食事。穏やかな眠り。
 その大切な日常生活は淡々と運ぶようでいてあっけなく破壊されてしまうこと、いろいろなことを知った2011年3月でした。

 トイレットペーパーが店頭から消えて、買い占めに走る人もいた、などと、あとになってみれば、何をそんなにあわてて紙など買わなければならないかと思うのですが、買い占めに走った人々にしてみると日常生活を防衛するために仕方なかったと言うでしょう。
 トイレに入ってほっとする日常生活が、明日も穏やかに続いていくことを祈る毎日です。

<おわり>


 この『冬の小鳥』は「キム・セロンという子役を得たことが成功の要」とは、闘う映画批評家牧野光永氏の評です。もうひとりの子役スッキを演じたパク・ドヨンもよかった。スッキは環境に自分を適応させる術にたけ、アメリカ人の養子に選ばれるためにカタコトの英語を話そうと努力します。また11歳までなら養子のもらい手が多いが、12歳を過ぎた子はもらい手が減ってしまうということを知って年齢を1歳少なく申告しています。初潮が来たことも自分一人の秘密にしています。初潮を迎えてしまうと養子の希望者が減るからです。

 養子にだされる子を、残される子が送り出すシーンが4度繰り返されます。最初は見た目もかわいらしく、いかにも「養女向き」な女の子が孤児院を出て行くシーン。次は、年齢も養女に選ばれる年頃を過ぎてしまい、足が不自由なイェシン。イェシンは自分が「養女とは名ばかりの労働力・女中がわり」としか扱われない将来を知りつつ、施設を出て行きます。歌によって送り出されることもなく、ひとり、不自由な足をひきずって出て行くのです。
 スッキは自分の狙い通り、金持ちそうなアメリカ人夫婦に引き取られます。出て行く子の背に韓国語による「蛍の光」と「故郷の春」の歌が投げかけられます。4度目のお別れシーンは、ジニがフランスに送られるとき。

 「故郷の春향의봄Ko-hyang-eui Pom」は、作詞:李元寿、作曲:洪蘭坡。朝鮮や韓国の人にとっては、代表的な故郷を思う歌です。

 私は、この歌を中国にある「北朝鮮レストラン平壌館」で、女性服務員によるショウタイムで聞いたことがありました。北朝鮮でも韓国でも故郷を賛美するときはよく歌われています。
 冬ざれの寒々とした光景のなかで、別れの歌として、残されてしまった孤児たちが歌う歌声には特別な響きがあります。それは、故郷を賛美する歌でありながら、故郷から引き離され、遠い異国に養女として引き取られる子を送り出す歌として歌われているからです。越境させられていく幼な子から故郷を引きはがす歌なのです。

 「故郷の春,256;향의봄」
http://www.youtube.com/watch?v=tTrBV671TcU

1.わたしの住んでいた故郷は、花咲く山の谷。
桃の花、杏の花、小さなツツジ。色とりどりの花の宮殿のあった村。
その中で遊んだころが、なつかしい。
2.花の村、鳥の村、私の昔の故郷。
青い野原の南から風が吹けば、小川のほとりにしだれ柳が舞を舞う村。
その中で遊んだころが、なつかしい。(大田雅一訳)

 この歌の扱い方ひとつをとっても、ルコント監督の「韓国語とフランス語の間の私」を感じました。この映画は、「生まれた国と文化から引き離され、新しい文化の中に放り込まれた人の感性」「母語を忘れてしまい、新しく獲得した言語でシナリオを書いた」ことの感覚が、冬の荒涼とした光景のなかで「故郷の美しい春」を歌うシーンになっていると思います。

 ルコント監督は、インタビューの中で「韓国文化から別れてフランス文化に入ったとき、葛藤(かっとう)や苦痛を感じました。(韓国の孤児院では)カトリックのシスターたちによく面倒をみてもらったので、プロテスタントの家庭に入ったのも一種の別離でしたから苦痛で悲しかったですよ」と述べています。ふたつの文化の相反する環境の中で育った監督が、9歳の子供の孤独や絶望、再生とかすかな希望に前進する姿を繊細な映像によって描き出しています。

 ジニは死んでしまった小鳥埋めた場所を掘り返し、自分自身を埋めてしまおうとします。ちょうど自分が入れるくらいに穴を広げ、横たわって自分の上に冷たい冬の土をかけていきます。最後に顔に土をかけ、自分の葬儀を完成したあと、ジニは息苦しくなり思わず顔の上の土を振り払います。ジニの再生です。このときのジニの表情を引き出せた監督は子役になんと言ったのでしょう。聞いてみたい。

 以下は、インタビューで語られたルコント監督のことばです。
 『冬の小鳥』は、私が過ごしたカトリック系の児童養護施設での体験に着想しています。自伝的な要素を消し去ることは困難でしたが、同時にただ記憶の再現にとどめる気も全くありませんでした。捨てられ、養子にもらわれていくという途方もない状況に面した少女の感情を、現代にも通用する形で表現したいと思ったのです。二つの人生が交差したあの日々。諦めることを学ぶ必要もなかったそれまでの人生と、限りなく切望することを知る人生。その二つの結び目をしっかりほどいて見せることは、映画でしかできないと思ったのです。

 私はどのように施設に行ったのか覚えていませんが、ジニのように家族が私を迎えに来るのを期待して、心うつろに待っていた記憶はあります。あの時抱いていた一縷の希望は、生涯忘れることができません。この映画は 捨てられた子供が感じる怒りと反抗、子供は受動的な存在ではなく、喪失感や傷を感じられる存在なのだということを描いています。

 「養子」の話ではなく、万人が理解できる「感情」についての映画です。ジニはたった一人世界に取り残されてしまいますが、そこから新しい人生を生きていくことを学びます。これは愛する父親を失ったからこそ学びえたことです。今の私の人生があるのも、両親が私を捨てたおかげです。同時に「どうして親が子を捨てられるのだろうか」という問いかけも数え切れぬほどしてきました。ありがたみと捨てられた痛み。実の両親を思い浮かべると、コインの裏表のような感情が複雑に交差します。実父にこの映画を観てほしいとは思いますが、捜してまで会うつもりはありません。今まで父が私を訪ねてこなかったのは、父には別の人生があるということですから。」

 ルコント監督は韓国語を忘れてしまい、フランス語でこの『冬の小鳥』のシナリオを完成しました。しかし、映像という「共通言語」で映画を完成したことで「家族から捨てられたというトラウマからようやく抜け出せた」とも感じたといいます。
 「故郷の春」の歌声は、今ルコント監督の耳にどのような響きで届いているのでしょうか。

 私にとって、『冬の小鳥』は、母語を失った女性が、忘れてしまった言語によって故郷の世界と和解し、自分を捨てた家族のトラウマから再生する心の表現としての映画でした。
 私の現在のテーマ「越境者の言語表現」にとって、自らの意志でなく越境せざるを得なかった人のひとつの魂の軌跡の表現として、とてもすばらしい感動を残してくれました。

<つづく>


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イサドラダンカンダンス2011年8月

2010-04-17 14:10:00 | 映画演劇舞踊
2011/08/06
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(1)イサドラ・ダンカン

 夫は、「ウォーキングを続けてやるようになって、体重が減った。結婚以来今が一番体重が軽い」と、自慢しています。仕事先へ出かけるとき、飯田橋の事務所から、赤坂とか早稲田とか、30分~60分で往復できるところには、電車やタクシーに乗らず、歩くことにしたのだそうです。息子や娘にまで「10kgだか20kgだか減った」と自慢して、自分が履くようになった「見た目はビジネスシューズのようなウォーキングシューズ」を、娘と息子に買ってくれました。

 私は単純にウォーキングするのは苦手なので、4月から、花散歩、アート散歩、建物めぐりなど、公園や美術館博物館を歩いていますが、いっこうに体重が減りません。この半年間、甘い物やビールはずいぶん控えて、節制したつもりなのに、体重は3kg程度しか減りませんでした。たぶん、美術館巡りのあとは、食べ歩きがセットになっているせいでしょう。

 さらなる健康管理&減量をめざして、仕事が忙しくてお休みしていたダンス練習を、ようやく夏休みになったので再開しました。
 毎週金曜日の夜と水曜日の昼は、文化センターでジャズダンス練習。9月の発表会では、コパカバーナとペーパームーン、インザムードを踊ります。
 さらに、2回だけ、同僚が練習しているモダンダンス教室で、ビジター参加して練習しました。

 同僚のAさんは、穏やかな感じのお人柄で、留学生からも「やさしい先生」と、慕われている人です。私と同じ曜日に出講して同じクラスを担当してきましたが、お互いに趣味については話をかわしたことがありませんでした。話をするときはいつも担当クラスの授業方法や学生についてのことでした。
 彼女の趣味がダンス、ということをしばらく前に聞いてはいたのですが、プライベートなことは、自分から話し出さない限り、こちらから突っ込みをいれることはしない、というのが職場のルールだと思っていました。

 Aさんが、私とダンスの話をしたことないのもわかります。私の体型を目の前にしていれば、「まさか、この人がダンスを練習しているとは」と、誰でも思うでしょう。私なら『ヘア・スプレー』おばさん版が制作されたら、主役がとれます、、、、って、、主役のともだち役くらいなら。(『ヘア・スプレー』は、超ビック体型の女の子が、ダンスを通じて成長し、あれよあれよの活躍をする物語)
 パパイヤ鈴木は、最近30kgも痩せてしまって、ダンサーとしての魅力半減です。私が「女パパイヤスズキ」と名乗ることもできなくなってしまったではないかっっ。

 中学校国語教師を退職して演劇学舞踊学を学んでいたころ、舞踊評論家の市川雅に師事し、舞踊学会にも所属していました。市川先生の落合の家で開かれていた研究会に出入りして、市川先生が「あ、これは見にいく時間ないからあげる」と、招待券をくれるので、あらゆるジャンルの舞踊を見に行っていました。
 芸能人類学・演劇人類学の学者になりたいとか、舞踊評論家になりたいとか、夢みたいなこと思っていたのです。

 しかしながら、1979年から1980年にプリミティブダンス研究と称してケニアに滞在したものの、アフリカンダンスの練習も民族舞踊研究もどちらも中途半端なまま帰国して、ずるずるとできちゃった結婚してしまったので、舞踊研究はそれきりになってしまいました。(市川雅は1997年に死去。享年60歳)。

 3月の震災で本が落ちて部屋に山になったとき、「これは、いらない本は整理しろというお告げに違いない」と、日本語、日本語言語文化に関わらない本は捨てる、と大整理をしました。市川雅の『行為と肉体』も、イサドラ・ダンカン『わが生涯』も捨ててしまって、身体文化に関わる本とは縁が切れた気がしました。

 私にとってイサドラ・ダンカンは、伝説のダンサーであり、モダンダンスの創始者のひとりと言える人です。けれど、彼女の死とともにそのダンスの主流は途絶えたと思っていました。(市川先生はそうおっしゃっていた)。
 『裸足のイサドラ』(1968)を私が見たのは、1970年代の初めでした。(イサドラ・ダンカンを演じたヴァネッサ・レッドグローブは、カンヌ国際映画祭女優賞を受賞。監督はK・ライス(英))。
 映画原作となった二冊の本のうち、イサドラの回想録『わが生涯』は、読んだけれど、シーエル・ストークスSewell Stokesの『イサドラ/愛しき友の肖像』は未読。

 イサドラは多くのダンサーに影響を残し、現代のダンサーで彼女のダンススピリッツを受け継いでいない者は少ない。しかし、彼女のダンスメソッドをそのままに実践しているダンサーが今の日本にもいるとは、思ってもみませんでした。

<つづく>
03:06 コメント(2) ページのトップへ


2011/08/16
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(10)フォーキンとイサドラ

「ギリシャの彫像=自然な身体」ではありません。「裸足」というのも、「自然」ではない。ギリシャ人は歩くときも踊るときもサンダルを履いていたのであって、「裸足」というのはギリシャ人にとっては「自然な在り方」ではなかったし、ギリシャ彫像風のポーズというのも「自然な身体」のありかたではない。
 「自然な身体=ギリシャ彫像」というイサドラの主張とは、イサドラが「堅苦しい衣装と靴を脱ぎ捨てるための方策」として選び取ったものです。

 イサドラがセンセーションを巻き起こしたのも、その「芸術的ダンス」が20年もたたないうちに観客に飽きられてしまったのも、理由はひとつ。彼女の「シンプルなステップ」の魅力は、彼女の身体に支えられて輝いていたからです。
 イサドラ・ダンスの本質は、は、19世紀、女性が狭い世界に押し込められていた時代に、自分の素の足をもって大地に立ち、「男性社会のシステム」の中に、「自然な感情のままの女性」を表出したことにありました。

 イサドラ・ダンカンのダンスを賛美した男性たちは、大いなる自然としての女性の存在、ことに母なる肉体としてのイサドラを賛美し、手に入れがたいゆえいっそう魅惑を放つ肉体としての女性美を欲望したのです。その男性の欲望に支えられた身体として、イサドラが存在するうち、そのダンスは輝き、欲望の対象からはずれたあとは、ダンスの輝きも失われました。

 イサドラのテクニックをクラシックバレエに取り入れたというミハイル・フォーキンは、以下のようにイサドラダンスを表しています。
 「ダンカンは、あらゆるプリミティブで、平易で、自然な動きーシンプルなステップ、走り、両足での回転、片足でのジャンプーが、あらゆる複雑なバレエのテクニックより、はるかにいいことを証明した。なぜなら、それらのテクニックのために、優雅さや表現性や美が犠牲にされているからだ。」ミハイル・フォーキン『回想』1961 海野弘『モダンダンスの歴史』p44

 フォーキンは、バレエ振り付け師、バレエ教師です。ディアギレフのバレエ・リュスのダンスを改革したあと、ディアギレフと決別し、1920年からはアメリカで活動し、現代のアメリカンパフォーミングアーツの創始者のひとりとなりました。
(「プリミティブ」という語の解釈が、ロシア生まれのフォーキンと私では異なっているのかも知れないけれど)、プリミティブ=原始的な、原始の、太古の、古風な、素朴な、と、フォーキンが感じたイサドラのダンスと、クラシックテクニックを、フォーキンは融合しました。フォーキン・バレエの流れは、現代のクラシックバレエにも蕩々と流れています。

 NHKBS舞台中継の録画で、フォーキン振り付けのバレエ『火の鳥』を見ました。2008年のサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場バレエ団の公演。(改作振り付けはリエパほか)
 ディアギレフのバレエ団、バレエリュスの活動は、天才ニジンスキーやフォーキンらの活躍に支えられていました。従来のバレエテクニックに、イサドラダンカンはじめ、多くの新しい振り付けや舞台美術を取り入れて総合芸術となったロシアバレエは、現代でも最先端のダンスとして多くの観客を魅了しています。2008年版の『火の鳥』も見応えがありました。

<つづく>
08:31 コメント(0) ページのトップへ
2011年08月17日


ぽかぽか春庭「教育舞踊」
2011/08/17
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(11)教育舞踊

 イサドラの身体性の魅力が薄れたあとのイサドラ・ダンスは、ロシアのダンススクールを継承したイルマ・ダンカンらの努力をもってしても、ダンス芸術の主流ではなくなっていきました。ダンス学校で、女子教育のひとつとしては重要な地位を占めてきたものの、舞台芸術の主流ではなくなったことは、否定できません。

 一方、クラシックバレエは、フォーキンのあとも、革新的な振り付けでバレエを一新するような振り付け師が続出し、モダンダンスの系統にも新しい感覚の舞踊芸術が広がっていきました。マーサ・グラハムMartha Graham、アルヴィン・エイリイA;vom Aileyら、さらにマース・カニングハムらのコンテンポラリーダンスなど、ダンスは進化発展を続けています。
 私は中学生のころ、テレビでポールテーラーのダンスを見て、ダンスが「おゆうぎ」ではなく、芸術であることを知りました。

 youtubeでダンカンダンスのレパートリー公演。さまざまな団体が「イサドラの振り付け」をもとに踊っているのを見て、私が感じたのは、「女性の身体訓練の一方法として、体育教育に最適ではあるけれど、舞台芸術としての魅力を持つには、希有のダンサーの身体が必要」というものでした。イサドラのダンスが、イサドラ自身が舞台に立ったとき以上の衝撃や芸術的感興を与えることはないだろう、というのが正直な感想でした。
メアリー佐野の公演を生で見たことがないので、メアリー先生の踊りに対しては、まだ何も言えません。あくまでもyoutubeで見たなかでの感想です。

 舞踊芸術とは何か、と問いはじめたら、ダンサーの数、振り付け師の数、批評家の数、興行師の数、観客の数だけ答えが存在し、ひとそれぞれに踊りを楽しめばいいのだ、ということに尽きてしまいます。

 私は、モダンダンスのレッスンから出発し、短い期間でしたがクラシックバレエも習い、現在は1984年以来ジャズダンスの練習を続けています。ずっと、みわこ先生の指導を受けてきて、いまだ下手の横好きです。みわこ先生は、フラメントやアイリッシュダンスなど世界各地の民族舞踊も、日本の盆踊りも取り入れてきて、私も、いろいろな踊りを練習しました。自分が踊るのも、見るのも好きです。

 タップダンスもアイリッシュダンスも、ワルツやタンゴやメレンゲも、地唄舞も仕舞も、田植え踊りもよさこいソーランも、とにかく踊りを見るのが好き。
 さまざまな踊りを見てきて思うことに、クラシックバレエテクニックを否定したイサドラダンカンメソッドは、舞台芸術という点から見れば、クラシックバレエの幅広い表現力に勝ることはできなかった、という結論です

 体育教育では、クラシックバレエテクニックより、イサドラダンカン・メソッドのほうが、はるかに適切な教育舞踊だと思います。自然な身体を、自然にのびのびと発達させるためにふさわしい身体訓練であり、教育舞踊として、イサドラの「自然な身体」による「自然な動き」の開発は、すぐれたものだったと言えます。

でも、それをそのまま舞台にのせたとき、イサドラの身体を持たないダンサーはイサドラのようには輝かず、19世紀女性への締め付けが解けた時代の観客の目には、イサドラが踊ったときのような、自由で解放感あふれる感興はわき起こらない。

 「1894年、イサドラ・ダンカンは、サンフランシスコ市の住所録で、ダンス教師となっている。1905年に彼女が書いた「イサドラ・ダンカンの経歴」によれば、十一歳の時から、身体文化とダンスの新しいシステムを教えている、とある。この新しいシステムというのは、デルサルト理論であったらしい。」 (*フランソワ・デルサルト1811~1871。身体訓練法の開発者)海野弘『モダンダンスの歴史』p20

 デルサルトは、女性の身体訓練法の開発者のひとり。アメリカにおいて健康維持ムーブメントが起きたとき、健全な身体を作りあげる体操のひとつとして、デルサルトの方法はアメリカで認知され、短い期間ではあったけれど、女性たちにブームを巻き起こしました。イサドラもその影響を受けていた可能性があります。
 イサドラがダンス学校の設立にこだわったのも、ダンサーの養成以上に「女性の身体教育」という面を重視したからです。身体教育のためにすぐれた方法であることをもってして、イサドラダンカン・ダンスメソッドは、大きな成果を世界に与えたと言ってよいのではないでしょうか。
 日本でも、女子教育が始まった最初期から、身体訓練の方法として舞踊は重要な項目でした。

<つづく>
07:38 コメント(3) ページのトップへ
2011年08月19日


ぽかぽか春庭「高校大学ダンス・コンクールin Kobe」
2011/08/19
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(12)高校大学ダンス・コンクールin Kobe

 一般の人にとって、舞踊教育は、幼稚園保育園の「おゆうぎ会」で練習をさせられたイメージ。そして、運動会で男子は組み体操を練習するのに対して、女子は全員でダンスを披露するという思い出が残る程度でしょうか。
 現在は、男女いっしょによさこいソーランを踊ったり、嵐の曲で踊ったりするのが流行り。学校教育におけるダンスはそんなところだろうと思います。

 私の在学した中学校は、女子舞踊教育が盛んでした。群馬県全体がそうだったのかもしれません。(40~50年も前のことなので、今もそうかは知りません)。中学校の女子体育授業のうち、創作舞踊を中心とするダンス教育がかなりの時間を割いて実施されていたように思います。高校時代も同じ。体育授業、週に3コマのうち、毎週1コマは「外たいいく」と呼ばれてグラウンドで陸上、テニスコートでテニス。1コマは「中たいいく」と呼ばれていて体育館でバスケットやバレーボール。そして、1コマは体育館でダンス、でした。

 私は、集団競技が苦手なので、球技はきらい、グラウンド体育は冬は寒くて夏は暑いのできらい。ダンス授業が一番楽しかった。ダンスの先生は、民族舞踊集団を主宰していたカオル先生でした。私はカオル先生が大好きで、八木節の踊りも創作ダンスもいっしょうけんめい練習しました。

 これらの教育ダンスの身体訓練は、今思うと、イサドラ・ダンカンのダンスメソッドとマーサグラハムのモダンダンスメソッドなどが混じっていたように思います。
 日本の女子教育には、その最初期から身体訓練の伝統がありました。教育舞踊の基礎にさまざまなメソッドがあるとして、その源流のひとつにイサドラダンカン・ダンスメソッドがある。留学していた人々が持ち帰った身体訓練法が日本で独特の発達をとげてきた経緯は、日本洋舞史、教育舞踊史にまとめられていると思いますが、割愛。

 今年も、8月7日~10日の日程で、全日本高校・大学ダンスフェスティバルが神戸で開催されました。全国の「ダンス高校生」「舞踊専攻大学生」「ダンスサークル学生」にとっては、最大の大会です。NHK、今年はBSチャンネルが2つになってしまって、この大会の放映があるかどうか、心配でしたが、2011年8月21日午後4時から、教育テレビで放送されます。
 第22回大会のようすは、昨年テレビで見ることができました。youtubeにもUPされています。全国で3800人もの高校生大学生が大会に参加したそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=NPM33PU8O_U&feature=related

 中学生の舞踊でも、さまざまにある大会の優勝グループともなれば、たいへんレベルが高い。教育の一環としてのダンスとはいえ、その表現力の高さに驚きます。
 たとえば、
http://www.kk-video.co.jp/concours/chuko-dance2010/junior_1.html

 高校生大学生たちの踊りにかける情熱はすばらしく、別名「ダンス甲子園」の通り、野球やサッカーなどに汗を流す若者と同じように、ダンスに燃える若い人の姿を見るのは感動的です。

 さて、もし、私が市川雅のもとで舞踊学研究を続けていたとしたら、どんな研究をめざしていたでしょうか。民族舞踊研究から舞踊人類学、演劇人類学、比較舞踊学の方向へ進みたいと思ってケニアへでかけてダンスレッスンをして過ごしたのですが、、、、、挫折。

 たとえば、以下のような研究論文を読むと、ああ、こういうことをやりたかったのだなあと思います。
http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/95728/1/18804349_60_17.pdf

 筆者の秋葉尋子さんは、川上貞奴を万博で踊らせたプロデューサー役の女性ダンサー、ロイ・フラーについての研究も発表しています。
 明治時代の川上貞奴が、西欧社会での公演でブームを巻き起こしたことはよく知られてきたことですが、浮世絵などの絵画が印象派などへ与えた影響は広く研究されているのに比べ、西欧に紹介された日本舞踊がモダンダンスへ与えた影響についての研究は、一般社会での認知は得ていません。海野弘『モダンダンスの歴史』の中にも日本舞踊とモダンダンスの関係に言及されていますが、これからの舞踊学研究で、舞踊と社会文化の関係の究明が進んでいくだろうと思います。

<つづく>
12:31 コメント(1) ページのトップへ
2011年08月20日


ぽかぽか春庭「ダンス・スピリチュアル」
2011/08/20
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(12)ダンス・スピリチュアル

 旋回と跳躍は、神に近づき、神とまぐわい交信するためのテクニックです。トルコの旋回舞踊も、シベリアのシャーマン舞踊も、アメノウズメのエロチックダンスも、神との交信の形のひとつ。エロスとタナトスの神髄を含むのがダンス芸術です。
 舞台芸術としてのイサドラダンカン・ダンスはどうか。「健全で自然で、無理のない動き」の連続するイサドラダンカンメソッドでは、イサドラの身体ぬきで、ダンスが内包するエロスとタナトスの魅力を、多彩な表現として放つことがむずかしいと感じました。

 youtubeの中のイサドラダンサーは、みな、「とても優雅で、健全で、美しく、汚れなき身体」を誇っているのです。ミッションスクールの女子高校文化祭で、校長先生が「これなら父兄の前に出して恥ずかしくない」と太鼓判を押し得る踊りなのです。
 しかし、舞台芸術としての踊りに観客が求めるのは、「優雅で、健全で、美しく、汚れなき身体」だけではありません。女子高校の校長先生が「こんなものを文化祭の出し物にしたら、我が校の恥。教育方針が疑われてしまう」と、嘆く踊りもまた踊りの本質なのです。

 イサドラの時代、イサドラの踊りは、女子校校長先生の嘆きを招く「反社会的」なものだったかもしれません。しかし、現代の舞台でギリシャ風チュニックを着て足首をさらして素足で踊っても、衝撃はありません。
 20世紀初頭の観客がイサドラに熱狂したのも、彼女が次々と恋愛相手を変え、ふたりの「婚外子」を生んだという「女子高校の校長先生なら激怒」する私生活を持ち、美のテルシコプラとして男性にとってあこがれの人であったから。
 踊りに「優雅で、健全で、美しく、汚れなき身体」以外の要素を求めるなら、イサドラダンカンの踊りは、21世紀には「お稽古事」として以上の存在理由を持ちにくい。

 「私、スピリチュアルかんけーは苦手だ」というのは、精神、魂の問題を安易な癒しや救いに結びつけようとする宗教モドキに関してです。
 ダンカンダンスが21世紀に存在感を増すとしたら、その深い精神的な魅力によってでしょう。Aさんが最初に彼女が練習しているダンスについて述べた「スピリチュアル」な面が、ダンカンダンスの真髄と思えます。

 ダンカンダンスは「精神的な深さ」を表現する方向へ向かうのだろうと思いますが、もちろん、タップダンスだろうとブレイクダンスだろうと、名人の踊る姿には、どのダンサーでも精神的な深さが感じられるものです。NHKの「空海と密教美術」のなかで、ダンサー森山開次が曼荼羅をテーマに振り付けた踊りを見ました。動きにはインド舞踊を取り入れていますが、森山独自の振り付けで密教曼荼羅の精神をよく表現していたと感じました。

 私がこれまでに見て来た踊りのなかでも、地唄舞の武原はんの踊りやバレエのマイヤ・プリセツカヤに感じた「深い精神性」を、メアリー先生の踊りにも感じることができるのではないかと、その公演を見る前から期待しています。
武原はんの地唄舞「ゆき」
http://www.youtube.com/watch?v=Xhv2KhxFfog
プリセツカヤの『瀕死の白鳥』
http://www.youtube.com/watch?v=fWYYQN-6tJg

 メアリー先生がおっしゃる「大地のエナジーが足から伝わって身体に伸び、空中へ放たれていくように」は、とても私の裸足では表現できません。3時間ぶっ続けのレッスンを受けて、足の裏が痛くなったし。足の裏も鍛えねば。
 で、私はこれからも機会があれば、メアリー先生が日本で集中レッスンをするときにレッスンを受けたいと思っています。

 ジャズダンスもダンカンダンスも、さまざまな表現を取り入れて、自分の身体をコントロールしていけたらいいなあと、老後の健康管理に期待しています。肩こりに少しでも効くといいのですが、、、、、「っていうより、その体重、減らせ」というツッコミは、この際うけつけません。

 9月11日のダンス発表まで1ヶ月を切りました。まだ振り付けが覚えられない曲、美空ひばりの歌う『ペーパームーン』に振り付けたダンス。ペーパームーンとは、昔の映画や舞台の背景に吊しておく紙製の月のこと。オニール親子が主演した映画『ペーパームーン』は、詐欺師と彼の元恋人の娘が、互いに信じ合い本物の親子より深い絆を築いていくというストーリー。
 「紙で作った月だけど、信じればそれが本物になる」というような意味合いの言葉としてタイトルになっていました。

 私の踊りはひどい物だけれど、自分のイメージの中で「私は希有な肉体を持ったダンサーよ」と信じて踊れば、それが本物になる、、、、、、、ならないか。

<おわり>

2011年08月07日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパン」
2011/08/07
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(2)イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパン

 珍しくAさんとダンスレッスンの話をしていて、彼女が「私のダンスは、スピリチュアルなものです」というのを聞いて、「あ、私、スピリチュアルかんけーは、苦手」と、まず思いました。スピリチュアルと聞くと、たとえば、Xジャパンのトシがハマった新興宗教モドキ自己開発セミナーなどが思い浮かんでしまいます。心の浄化とか癒しとか、スピリチュアルと聞いただけでなんだかアヤシゲだと思ってしまうのは、私の偏見ですけれど。

 しかし、さらに話を聞くと、その「スピリチュアル」は、イサドラ・ダンカンだというのです。イサドラダンカン・メソッドのダンスレッスンと聞いて、にわかに興味がわき起こりました。

 7月30日と8月1日、Aさんの紹介を得て、イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパン(IDHSJ)というスタジオで、ダンカン・メソッドによるレッスンを受けることができました。IDHSJワークショップレッスンは、午後の部は2時~5時、夜の部は6:30~9:30の3時間。
 いつもやっているジャズダンスレッスンは、1回が90分で、30分はストレッチ&ヨガ。30分はジャズステップ基礎、30分が作品振り付け練習です。3時間もレッスンを続けられるかしら、と心配しながら秋葉原駅前のスタジオにつきました。

 レッスン時間が長いのは、いつもはサンフランシスコに住んでいる先生が、春休みや夏休みなどに来日し、集中レッスンを実施しているためです。
 スタジオ入り口で、Aさんといっしょになりました。

 IDHSJを主宰しているメアリー佐野先生は、日米混血のたいへん美しい方です。ダンサーですからスタイルがいいのはもちろんですが、お人柄もふんわりとやさしい感じです。
 メアリー佐野プロフィール
http://www.duncandance.org/idhsj/html/mary_sano.html

 メアリー佐野とイサドラダンカンを紹介したアメリカTV番組の録画がyoutubeで見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=pvxO9CdAGRs&feature=player_embedded#at=326

 基礎練習をたっぷりと。イサドラダンカン・メソッドは、「自然な身体」による動きをめざすため、ダンカンテクニック自体は、クラシックバレエのワガノワメソッドとか、ジャズメソッドに比べて、決してむずかしいものではありません。しかし、すでに「自然な身体」ではなく、硬直した体になっている老体が、しなやかにふんわりとダンカンメソッドをこなすには、難しい。基礎練習で歩いたり走ったりしただけで、疲れてしまいました。

 しかし、メアリー先生は指導者の鑑みたいな教え方で、ダンカンメソッド初心者の私がぎこちなく動いても、決して落ち込ませずに「はじめてこのメソッドをやる人にとっては、歩くだけでもむずかしいと思うけれど、よくリズムにあわせて歩けています」と、よい所を見つけ出して誉めてくれます。

 最後に作品振り付け練習をしました。同じ振り付けの踊りがイサドラダンカンダンサーズの古いフィルムの中にありました。
http://www.youtube.com/watch?v=ktk-LVoSQHA&feature=related

 イサドラダンカン・ダンサーズやイサドラダンカン・レパートリーダンスカンパニーなど、イサドラダンカンの踊りを継承しているグループもたくさんあったこと、私はAさんからダンスの話を聞くまでまったく気づいていませんでした。
 今でも踊りが好きといっても、舞踊史や舞踊理論を学ぶことからはすっかり離れてしまい、下手の横好きのまま、毎週ジャズダンスのレッスンを練習するだけで精一杯になっていました。

<つづく>
01:05 コメント(1) ページのトップへ
2011年08月08日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカン・ワークショップ・アサインメント」
2011/08/08
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(3)イサドラ・ダンカン・ワークショップ・アサインメント

 IDHSJワークショップの最後は、「前回だされていた宿題、ワークショップアサインメント」の発表が行われました。
 宿題は「イサドラ・ダンカンの踊りについて、同時代または後世の人々が、どのように批評しているか、あるいは影響について語っているか、ダンカンの研究家以外の人がイサドラのことをどう言っていたか発表して、みなで知識をシェアする」というものです。

 メアリー佐野先生は、ダンカンの伝記について『踊るヴィーナス―イサドラ・ダンカンの生涯』(フレドリカ・ブレア著、鈴木万理子訳)の監修者となっていて、イサドラ自身がダンスについて語ったことばは、折りにふれてレッスンの合間に生徒達に語ってきたそうです。

 Aさんは、スタニスラフスキーとメイエルホリドのイサドラ評を発表しました。スタニスラフスキーは、イサドラのダンスを高く評価し、自分の演劇論スタニスラフスキーメソッドにイサドラの身体表現を取り入れたことを、本に書いています。メイエルホリドは、イサドラに好意的ではなかったけれど、自分の演劇メソッドにはやはりイサドラダンス・メソッドをとりいれているようだ、という発表でした。

 今回は、「他者の評価」が中心の短い発表でしたから、私の好きなスキャンダラスな面での言及はありませんでしたが、演劇史を思い起こしながら聞いていた私には、とても面白かった。なぜなら、イサドラは最初のロシア訪問で、妻子あるスタニスラフスキーを恋人としたがり、最後のロシア訪問では、詩人のエセーニンと恋仲になり、18歳年下のエセーニンと正式に結婚したという私生活があったからです。

 エセーニンにとってイサドラは3人目の妻。2人目の妻である女優のジナイーダ・ライフZinaida Raikhは、エセーニンと離婚後、メイエルホリドと再婚しています。つまり、メイエルホリドにとって、イサドラは「妻の敵」のような人。だから、妻の手前、イサドラに好意的な批評はできなかったのかもしれないと、そんな感想を持ちました。

 それにしても、エセーニン、自殺。ジナイーダ、自殺。メイエルホリド、反体制分子とされ、スターリンによって処刑される。イサドラ、車の車輪にスカーフが巻き込まれて首の骨が折れて死去、と並べると、この四角関係の不幸な結末は、どんなドラマよりすごい。

 もうひとりの発表は、ココ・シャネルの伝記の中で、ココは「お針子」の身分から這い出すために女優かダンサーになろうとしたことがあり、イサドラにダンスを習おうと思っていたけれど、結局そうはせず、デザイナーとして身を立てる決意を固めたことが紹介されました。発表では、「ココがイサドラに賛同できなかったのは、似たもの同士だったからではないか」と、評されていました。

 女性をコルセットの締め付けから解放する20世紀の新しい衣服デザインをしたココ・シャネルと、ダンサーの足をトゥシューズの締め付けから解放して新しいダンスを作り上げたイサドラ。そしてどちらも恋多き女。いわば「男をこやしにして」のし上がっていくタイプの女性だったところが共通しています。

 私もココについては、数種類の伝記や映画を見たことがあるのですが、イサドラにダンスを習おうと思ったことがあったとは知りませんでした。面白い発表を聞けました。

 3人目の発表は、イサドラのダンス姿をスケッチしたイラスト画集の紹介。イサドラはたくさんの画家にインスピレーションを与えました。そのダンス姿は、絵画に残され、写真も数多く残されています。

 同時代のロシアバレエ団バレエ・リュスに所属していたニジンスキーの踊る姿は、映画に残されています。20世紀初頭の映画技術ですから画面は暗く荒いですが、youtubeで検索すると、短い秒数ですが、生きて動くニジンスキーを確認できて感激します。しかし、イサドラはあれほど多くの画家が描いているにもかかわらず、映画が残されていないのです。たった5秒間分だけ、イサドラが動いているムービーが、これはニュース映画のひとこまでもあるのでしょうか、youtubeで見ることができます。5秒間でも貴重なので、UPしておきます。
 http://www.youtube.com/watch?v=mKtQWU2ifOs

<つづく>
06:45 コメント(3) ページのトップへ
2011年08月09日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカン・メソッド」
2011/08/09
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(4)イサドラ・ダンカン・メソッド

 8月1日のレッスンでは、メアリー先生が監修したイルマ・ダンカンの著作『イサドラ・ダンカンの舞踊テクニック』を紹介していただきました。
 イルマ・ダンカンは、イサドラの教え子の中でも「イサドラブルズ」と呼ばれた6人の弟子のひとりです。イサドラは、未婚のまま生んだふたりの子ども、息子(演劇美術家ゴードン・クレイグの子)と、娘(シンガーミシン創業者の二代目パリス・シンガーの子)を、事故で一度に失いました。その後、ダンス学校の生徒であったイルマやアンナが、イサドラの養女に迎え入れられました。

 イルマとアンナは。イサドラの作ったダンススクールを継承し、作品を伝えました。私がレッスンを受けたメアリー佐野先生は、イルマの弟子のミニヨン・ガーランドに師事しました。ガーランドはイサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティを創始し、メアリー先生は、その日本版を設立しました。1983年にイサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパンを立ち上げ、サンフランシスコと日本を行き来しながら弟子の養成と公演にあたってきて、日本でも公演を続けてきたのですが、私はその公演があったことをまったく知りませんでした。

 1999年のメアリー佐野ダンス公演の批評
http://www.duncandance.org/idhsj/html/reviews.html

 今回、私がIDHSJワークショップに参加してみようと思ったのは、イサドラダンカンメソッドを知りたいという好奇心とともに、「なぜ、私はこれまでダンカンの踊りの継承について気づかなかったのか」という疑問がわいたからです。

 今は舞踊学研究から離れてしまったとはいえ、ダンスは私の「生き方」のひとつ。バレエ公演でもモダンダンスやコンテンポラリーダンスでも、舞踏でも、およそダンス公演の記事があれば、見逃さないようにしてきたつもりでした。公演を見に行くことは難しくても、公演のテレビ放映があれば録画したし、ダンス雑誌などに載った写真を見ることもありました。しかし、「イサドラ・ダンカン」の名に気づいたことがなかったのです。

 1979年には市川雅の研究会から離れてしまい、1983年にメアリー佐野がイサドラダンカン・ヘリテッジソサエティ・ジャパンを立ち上げた頃には、結婚と出産子育てで、ダンスから遠ざかっていた時期だった、ということもあります。
 そしてもうひとつの理由。IDHSJの活動は、マスコミではあまり報道されなかった。NHKの「映像の世紀」の中で、イサドラ・ダンカンが紹介されたとき、ダンカンのダンス再現として登場し踊ったのはメアリー佐野だった、ということですが、私は新聞でも雑誌でもメアリー佐野の名前を見たことがありませんでした。

 イサドラ・ダンカンのダンスは「20世紀芸術の歴史」としては重要ですが、「現代のダンス」としてマスコミから注目されることが少なかった、というのが、最大の理由だろうと思います。
 
 メアリー佐野の活動拠点がサンフランシスコ(イサドラの出生地)だった、ということも理由のひとつでしょう。日本のアートシーンは、海外からの招聘アーティストの紹介か、相互扶助的批評による互いの持ち上げ報道が多い。(私の偏見かもしれませんが)
 アートシーン報道することが、報道者の得にならないことは、報道されないのです。資本の原理でいえば、報道も消費のひとつ。つまり、メアリー佐野を報道することは、だれの得にもならなかったということでしょう。
 IDHSJの公演も、一部の人に目を向けられたことはあったかも知れないけれど、ダンスシーン全体に影響を与えるようなものではなかった、ということ。

<つづく>
07:43 コメント(0) ページのトップへ
2011年08月10日


ぽかぽか春庭「イサドラダンカン・ダンスの継承」
2011/08/10
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(5)イサドラ・ダンカン・ダンスの継承

 実際のイサドラ・ダンカン・ダンスは、どうなのか。
 7月30日にIDHSJワークショップに参加したあと、7月31日には参加できませんでした。午後、ジャズダンス発表会のための「文化センター利用者の会」の会議に出席しなければならなかったからです。
 それで、31日午前中と夜は、youtubeでイサドラダンカン・ダンスを見てすごしました。イサドラダンカン・ダンサーズとイサドラダンカン・レパートリーダンスカンパニーのダンスフィルムがyoutubeにUPされています。ダンカンダンサーズの映像は、古いフィルムからのUPなので、ノイズも多く、きれいな映像ではありませんが、イサドラの振り付けがどういうものだったか、わかります。

 イサドラダンカン・ダンスカンパニー、スタジオ公演のようす
http://www.youtube.com/watch?v=B--BW0T9tsA&feature=related

 8月1日のワークショップで、メアリー先生に「イサドラの振り付けが用いられているダンスを見た」という話をすると、「それは、ニューヨークの団体でしょう。イサドラの弟子のうち、イルマとアンナの系統と、他のイサドラブルズ系統があって、ニューヨーク一派は、私たちの系統とは違います」ということでした。

 ニューヨークのThe Isadora Duncan Dance Companyイサドラダンカン・ダンスカンパニーは、どうやらメアリー先生にとっては好ましくないグループのようでした。メアリー先生の話によると、ニューヨーク派は、イサドラの振り付けを「より見栄えがするように、身体の使い方を激しくしたり、改変が多い。私たちの流派は、イサドラが考えたように、身体をより自然に使うことをめざしている」ということでした。
 宗教でも芸術でも、茶の湯でも踊りでも、流派・分派は互いに「自分が正当な後継者」というのが常ですから、メアリー先生も当然「自分たちが正統」とおっしゃる。

 私にとっては、どちらが正統ということは問題ではありません。私の疑問は、どの流派にせよ、イサドラの創始したダンスは、現在のパフォーミングアーツ・シーンにとって、ダンス芸術の傍流でしかなくなっているのはなぜか、ということ。

 イサドラが否定したはずのクラシック・バレエは、いまだにダンス芸術の大きな勢力です。7月31日、私は溜まっていた録画番組のいくつかを見ましたが、そのひとつは7月23日に公演が行われたばかりの、アメリカン・バレエシアターの『ドン・キホーテ』でした。華やかなスターダンサー、超絶的なバレエテクニック。セルバンテスのドンキホーテは狂言回しの脇役にすぎませんが、ドンキホーテとサンチョパンの二人連れがストーリーを運びます。いろいろなバレエ団によって何度も見ているドンキホーテですが、見ていて楽しいです。

 一方、イサドラが作りあげた「自然な身体の動きと、ギリシャ風チュニックの衣装、裸足」というダンスは、ダンス芸術に影響を残したとはいえ、「現代を代表するダンス」ではなくなっている、という事実を、どう受け止めるのか。
 
<つづく>
00:27 コメント(1) ページのトップへ
2011年08月12日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカン・レパートリー」
2011/08/12
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(6)イサドラ・ダンカン・レパートリー

 イサドラダンカン・ダンスカンパニー、イサドラダンカン・ダンサーズ、イサドラダンカン・レパートリーダンスカンパニー、youtubeで見ることができます。この3つのグループのダンスを見比べて、古いフィルムと、新しいビデオとの違いはあるにせよ、イサドラのメソッドはかなり正確に継承されているのではないか、という印象を受けました。

 従来、イサドラのダンスが途絶えた、とされていたのは、イサドラの踊った姿のムービーフィルムが残されていないこと、イサドラは自伝は残したけれど、まとまったダンス理論書とコレオグラフィー・ノート(ダンス振り付け譜)を残していないことによります。イサドラのダンスは「思いつきのダンス」とまで酷評されたことがあるくらいで、即興性が強く、イサドラ自身、同じ振り付けでは二度と踊れない、とさえ言われてきました。
 まとまった振り付けの記録は、彼女自身の手では残されなかったのです。

 イサドラダンスを受け継いだのは、ロシアのダンス学校を継承したイルマ・ダンカンらイサドラの養女や弟子たちでした。身体に染みこませていたイサドラの振り付けを継承し、断片的に手紙などに書かれていたイサドラのダンスについてのことばをまとめていきました。イサドラのダンス理論は、さまざまに書かれているイサドラの伝記や研究書にも引用されているし、書簡集もまとめられているので、読むことができます。

 それらを総合して、イルマたちは、かなり正確にイサドラが彼女たちに教えたダンスを再現できていたと思われます。なぜなら、イサドラの振り付けは、決して複雑なものではないからです。私は7月30日にイサドラが振り付けたという「グルックのミュゼット」と8月1日に「シューベルトの第9交響曲第2楽章」に振り付けたダンスを練習しました。

 ダンス歴30年といっても、いつまでたってもターンもリープも下手っぴいなままですが、そんな私でも、一度踊ったあと、振り付けをかなり覚えて、他のダンサーの動きにそれなりについていくことができたのです。もちろん正確に踊れたわけではないし、先生から見たら、イサドラスピリッツを理解していない、ドタバタの動きだろうと思います。それでも、バレエやジャズの動きをマネしようとすると、一回のレッスンではとてもマネのマまではいかないのに、ダンカンダンスは、マネのマくらいは理解できたのです。

 幼い頃からイサドラのダンススクールに入り、養女として迎えられたほどのイルマやアンナなら、正確に身体に振り付けをしみこませていただろうと思います。それを振り付け譜に残すこともできたでしょう。イサドラの「公演での即興的な踊り」は残されていないとしても、ダンススクールで教え込まれた定型の踊りは継承されてきた、と言えると思います。

 イルマのイサドラダンカンダンス理論書『イサドラ・ダンカンの舞踊テクニック』について、監修者のメアリー佐野は、世阿弥の『花伝書』にも匹敵する秘伝書である、と前書きで述べています。エクササイズやポーズのやり方について、イルマがことばで書き残している小冊子です。(A6版36ページ2500円。IDHSJの発行で、非市販本)
 レッスン1のウォーキングからレッスン12体操まで、イサドラダンカン・メソッドのエクササイズの説明があります。

<つづく>
04:11 コメント(1) ページのトップへ
2011年08月13日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカンの身体」
2011/08/13
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(7)イサドラ・ダンカンの身体

 8月1日のワークショップでは、ポルカや「グラナダの彫像」と呼ばれているポーズ・エクササイズを練習しました。
 ポルカについてのイルマ・ダンカンの解説は以下のとおり。

 「エクササイズ1 ポルカとは、4/4拍子に合わせてスキップ1回とランニングステップ3回をするものです。4拍目のスキップから始めて,続く3拍に合わせてランニングステップを踏みます。まず右膝を上げてスキップするところからスタートし、次の1拍目に合わせ右足をすばやく下ろし、続いて左足で一歩踏み出します。続いて右足で1歩踏んでから左足でスキップし、膝を腰骨のほうへ引き上げます。室内を周りながらこれを続けます」

 言葉で書き残せば、正確な方法がわかりますが、実際にやってみれば、ポルカステップの基本ですから、ダンスを続けている者にとって、難しい動きではありません。メアリー先生が「秘伝書」というのは、イサドラダンカン・ダンスにとって、理論的に正確に記録が残されたエクササイズの本は、イルマが書き残したこの書が唯一のものと言ってよいからでしょう。

 さて、いよいよ、現在のダンスシーンにとって、なぜ、イサドラダンスは舞踊芸術の主流ではなくなったのか、という問題に私なりに考えていくことにしましょう。
 IDHSJワークショップの基礎的なレッスンのあと、アサインメントの発表を聞いて、とても有意義でした。私も、ダンス本を何冊か読み直して、「同時代、また後世の人がイサドラについて語っていること」をピックアップしてみました。

 まず、最初の恋人であり、イサドラの最初の子デアドリーの父親であるゴードン・クレイグ(舞台美術家)が、イサドラと別れたあとに語っていることば。
 「衣紋掛けに、ぼろのように見える布切れが掛かっている。それをイサドラが身にまとう。すると布は一変する。普通は衣装が俳優を変えるものであるが、イサドラの場合は彼女がそれを着ることで衣装を変える。衣装を奇跡の美に変え、一足ごとに、一身振りごとに身にまとった衣装に語らせる。彼女が踊るのを見れば、それで十分に彼女の思想が純粋な空間に飛翔するのを感じとることができる。」(クルツィア・フェラーリ『美の女神イサドラ・ダンカン』p136)
(この翻訳、「衣紋掛け」という訳語は、現代の若者には意味が通じない「老人語」なのですが、イサドラの時代感は出ています)

 クレイグは、舞台美術を革新した天才です。そのクレイグから見て、イサドラの身体は驚異の存在だったことがわかります。ぼろのように見える布切れが一変する、ということばの中に、イサドラの存在感がわかる。もし、他の人が同じ衣装を着て、同じ振り付けで踊ったとしても、それはあいかわらずのぼろ布にすぎないだろうし、単純なステップは、たいくつな動きにしか見えないだろう。イサドラの身体性がすべてを輝かせるのです。

<つづく>
04:02 コメント(0) ページのトップへ
2011年08月14日


ぽかぽか春庭「裸足のイサドラ」
2011/08/14
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(8)裸足のイサドラ
 
 1914年以後、ニューヨーク・メトロポリタン劇場公演での最初期のニューヨークタイムズ評
 「プログラムの最後にダンカン女史は<ラ・マルセイエーズ>を踊り、絶賛を博した。観客は立ち上がり、何分間も拍手を続けた。熱演するダンカン女史のポーズはパリの凱旋門を飾る古典様式を思わせる端正な彫像の姿に想を得ていた。かたやもともと肌が露わであったが、凱旋門にあるリュード作のみごとな女性像を表現する場面ではチュニックの裾が大きく開き、賛美せよと言わんばかりに足が腰のあたりまで観衆の目に露わになった。高貴な芸術のこのあまりに鮮烈な表現に観衆は電撃的な感動を受け、それが熱狂的な拍手と歓声となって轟いたのだった。」

 生まれ育ったアメリカ西海岸で、若いイサドラはダンス教師として人生を出発しました。父親が家庭から去ってしまったあと、母親と兄弟がピアノ教師ダンス教師をしてかつかつ食べていた一家で、イサドラも11歳からダンス教師をして家族を支えてきたのです。
 思い切って一家そろってヨーロッパに渡ったのち大成功を収め、凱旋公演としてのメトロポリタン劇場公演。ニューヨークタイムズは、「電撃的な感動」がイサドラダンスに寄せられたと伝えました。

 観客の熱狂はどこにあったか。「端正な彫像のような古典的姿」「肌が露わ」「チュニックの裾が大きく開き、賛美せよと言わんばかりに、足が腰のあたりまで観衆の目に露わになった」
 優雅な動き、しなやかなギリシャ風の衣装。そして観客は、露わになった足に熱狂した、、、、

 踊り好きのルイ太陽王が保護したように、バレエはヨーロッパ宮廷の楽しみの大きな部分を占めていました。それが、フランス革命を経て、西欧ではバレエは「品のよくない、不道徳な踊り」と見なされ、バレエの主流はフランスかぶれのロシアに移動していました。ことにビクトリア女王の時代、イギリスでは「短い衣装にタイツ姿」で踊るのは不道徳きわまりない、という見方がなされ、クラシックバレエの魅力のひとつであった短いチュチュなどは顰蹙を買うものになっていました。

 そんな風潮の窮屈な19世紀末に登場したのが、イサドラのダンスでした。足を見せることに対して、イサドラは「これはギリシャの古典的スタイルであり、決して不道徳なものではない。芸術なのだ」と、自らの身体で主張しました。
 ルネサンス以来、ギリシャの古典を持ち出されれば、芸術として扱わねばならない西欧社会で、芸術としての女性の足や露わな身体を見るのに、「ギリシャ彫像風、そして裸足」のイサドラが一大センセーションを巻き起こしたのも理解できます。

 この時代の裸足とは、現代のスアシ、ナマアシとはまったく意味が異なります。現代、ラッシュの電車の中に、下半身はビキニパンツ一枚、上半身はノーブラ、シースルーキャミソール一枚で乗り込んだとしても、「ビクトリア朝社会での裸足」ほどの衝撃は巻き起こさないでしょう。
 現代でも、ベッドに横たわるとき以外に靴を脱ぐ習慣がない地域では、人前で靴を脱ぐのは、人前でブラジャーをはずして乳首を露わにするのと同じような感覚で受け止められています。日本のように「夏になれば下駄に素足」が当然だった社会とは、裸足の意味合いが異なるのです。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イサドラダンカンダンス歳末三美神

2010-04-10 08:43:00 | 映画演劇舞踊
2011/12/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(10)三美神

 クリスマスイブの秋葉原駅前は「イブを二人であま~く過ごすだと?ケッ!」てなエネルギーに溢れた人々が、目当ての製品が買える店の前に列を作って並んでいるし、AKB48劇場の前にも大勢の人がいました。世の若者たちの中には、12月病とか言って、12月の声を聞いてもイブを過ごす相手がいないと、いたく落ち込むタイプもいるのだそうですけれど、行列のオノコたちオタクたちは、そんな世間の風潮などクリスマス寒波に凍結してしまって熱気むんむんでした。

 私も元気に駅前のダンススタジオへ。夏休みに初めて参加したイサドラダンカン・ダンスワークショップにいき、冬休みのレッスンを受けました。
 指導のメアリー先生は、アメリカと日本を往復しながら、ロスと東京のスタジオで教え、4月には東京での公演も企画しているという忙しい身体。

 私は、毎週金曜日のジャズダンスレッスンが、23日は祝日のため練習会場が使用できずお休みになってしまったので、秋葉原のスタジオでちょうどよくレッスンが受けられて、身体をほぐすことができました。連続180分の練習、練習生は「ちょっと風邪気味なんですけど」などと言いながらも、たまにしか先生のレッスンが受けられないので、熱心に参加していました。

 今回も、ストレッチや基本ステップからはじめて、イサドラダンカンが振り付けた作品を踊ってみるところまで進みました。「三美神スリーグレイシス」というタイトルの3人組で踊るダンス。う~ん、私が加わっても、ローマ神話の女神、愛(amor)、慎み(castitas)、美(pulchritude)のどれなのやら、どれにも当てはまらない気分で踊ったので、ちょいと消化不良でした。

 ルーベンス、ラファエロ、クラナッハ、さまざまな画家がそれぞれの三美神を描いています。三人を象徴することばも、「エウプロシュネ(歓喜・祝祭)、タレイア(花のさかり・喜び)、アグライア(光輝)」というギリシャ神話由来の組み合わせからはじまって「愛(愛欲)、慎み(純潔)、美」などいくつかあります。喜びと平和そして豊穣を表しているのだそうです。でも私が3人組で踊るなら、「嫉妬、愚痴、貪欲」あたりが似合いそうです。

 さて、「三美神」を踊って帰って、娘が用意した「イブコース」を食べながらのフィギュアスケートテレビ観戦のお楽しみ。コースは、ロブスタークリームスープ、グリーンサラダ、蟹とマカロニのグラタン、ハニーアップルチキン、苺のショートケーキ。どれも生協の半調理済み製品をもとに、ちょっと手を加える簡単調理のごちそうですけれど、とても美味しかった。たとえば、ショートケーキは、土台になるココアスポンジは既製品で、生クリームの泡立ては息子の係。娘がスポンジを3枚に切って間にクリームと苺をたっぷり挟み、苺とクリームで飾り付け。どこのパティシエのケーキよりおいしいと誉めながら、私は食べるだけ。

 フィギュアスケート、すばらしい試合でした。こちらにはちゃんと「三美神」がそろっていて、スケート靴不調から復活を賭けた村上佳奈子、母の死を乗り越えて輝こうとする浅田真央、今シーズン好調な鈴木明子の三選手が美と技を競いました。
 男子フリー。ショートで見せたすばらしさには及ばなかったものの、高橋が優勝。三代目プリンスの小塚崇もがんばったし、17歳の「新・王子様キャラ」の羽生結弦がフリーでは一位となりました。

 今回の全日本フィギュア選手権、ジュニアクラスの選手もたくさん見ることが出来て、新しい世代の王子様、美少女がたくさんいて、日本のフィギュア界、これからも楽しみだなあと思いました。「この子がかわいい」「この子は伸びていきそうだ」など、わいわい話しながら若い選手の活躍を見ました。

 「センターをめざします」なんて言わされている美少女たち、みんなかわいい。毒舌が売り物の有吉が「美と技を競うフィギュアスケートで、伊藤みどりはオリンピック銀メダル、どれだけ技がすごかったのか」と論評して笑わせていましたが、ほんと、これからのフィギュア界、技だけで上位に出られないのかと心配になるくらい、美少女ぞろいです。 ニュープリンスの中、顔立ちと足の長さからいくと、立教ボーイの中村健人選手が目立ちました。フランス人とのハーフだかクォーターだそうです。

 みな、一歩一歩成長して上を目指してほしいです。がんばれ氷盤上の三美神たち。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の映画日記2011年9月

2010-03-26 06:18:00 | 映画演劇舞踊
2011年09月25日


ぽかぽか春庭「キッズオールライト」
2011/09/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のお楽しみ日記(1)キッズオールライト

 夏休みのあいだ、ビデオでとっておいた映画や舞台中継の録画を見たり、映画館出かけたり、映画三昧というほどではないのですが、この3年間に比べればかなりの本数を見ました。
 劇場中継の再録。「墨東綺譚」「にごり江」「放浪記」など。劇場チケットは高いので、テレビ録画で見るしかないけれど、舞台はやはり生で見たいと思います。

 映画の録画は、BSでやっている「山田洋次監督が選んだ日本の名作百選」が中心です。名作を百作選ぶとして、選出基準は人により様々でしょうが、これまでに見逃していた映画もたくさん放映され、これまで何度も見た映画をもう一度みるのも、名作であるという評判を知っていても見たことがなかった作品も、新鮮な気持ちで見ることができました。

 私は機械操作が苦手で、ビデオの録画予約も娘息子にいちいち頼むので、頼むのを忘れてしまったり、タブロクできないビデオなので「こっちのドラマを録画するから、この映画は録画できない」と、テレビチャンネル権を主張する娘に却下されてしまったり、見逃した映画も何本か。ジュディ・ガーランドの「オズの魔法使い」とか、アンソニー・クインの「その男ゾルバ」など、何度か見ているのだけれど、もう一度見たいと思っていたのに、録画できなかったのもたくさんあります。

 録画して見ることができたのは、「雨月物語」「乳母車」「狂った果実」「めし」「煙突の見える場所」「名もなく貧しく美しく」「若者たち」「にごりえ」「浮雲」「ウホッホ探険隊」「午後の遺言状」「男と女」「サウンドオブミュージック」「若草の燃える頃」など。

 飯田橋ギンレイホールは、夫の事務所の「福利厚生用」の映画カードがあるので、毎月4本は見にいきます。この夏の上映作品、ソフィア・コッポラ2010「SOMEWHERE」、イギリス マイケル・アプテッド2006「アメイジング・グレイス」、ファティ・アキン2009 「ソウル・キッチン」、マーク・ロマネク2010「わたしを離さないで」、ハル・アシュビー1971「ハロルドとモード 少年は虹を渡る」、ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン2010 「トゥルー・グリット」、大森一樹 2010 「津軽百年食堂」、大森立嗣2010「まほろ駅前多田便利軒」、リサ・チョロデンコ「キッズ・オールライト」、周防正行2010「ダンシングチャップリン」などを見ました。

 「津軽百年食堂」、ご当地観光映画としても、もうちょっと何とかならんかったのか。景色はきれいですし、オリエンタルラジオの中田敦彦・藤森慎吾もけっこうがんばっていたのですけれど。蕎麦屋も写真館も「オヤジの跡を継いで地元産業復興にかける若者像」という「ラストのクレジットにずらりと居並ぶ、議員さんだの地元有力者たちには大受け」のストーリーが、あまりにも出来合いっぽい。

 「キッズオールライト」ママがふたりと息子と娘の家庭というので期待して見たのだけれど、ママふたりは完全に夫役割(女医)と妻役割(仕事を始めたがっている専業主婦)を分担していて、従来の家庭争議と何ら変わりなくて、これじゃ家庭というのは男女であっても女女であっても、役割分担を持つ家庭である以上同じような問題を抱えてしまうもんなんだなあという感想しか持てない。夫役割の女医さんは、自分の稼ぎで一家を支えていることに誇りを持ち、家庭内を支配したがるし、妻役割は専業主婦であることに飽きたらず、自己表現&浮気をしたがる。ジュリアン・ムーアの浮気シーンも色っぽくなくて、「仕事をして自立したいのを夫(役割)に押さえ込められている不満」の発散にしか見えないので、さて、これじゃ、浮気を反省してモトサヤに収まるのだろうと思っているとそうなるし。

 「キッズオールライト」、「ママふたり」の家庭を「ごくフツウ」に受け止めて素直に育った子どもふたり。成長過程での葛藤はまったくなかったように描かれているのだけれど、本当にアメリカ西海岸では、「ママふたり家庭」がごく普通に受け止められているのかしら。日本だとたちまちイジメに遭いそうだ。ちょっとでも「フツー」と変わっているとイジメの対象になっちまう。フクシマから転校してきた子に、「ホウシャノー」というあだ名をつけていじめるという国ですから。

 18歳までにひたすら勉強に打ち込んできて一流大学に入学する娘ジョニ(ミア・ワシコウスカ)。アメリカ西海岸に暮らしていながら高校卒業までステディボーイフレンドなしにすごしたというのは、ママふたりという家庭の「せい」か「おかげ」か。ママふたりとも、息子が親友と「もうヤッタのかどうか」を気にしているくせに、娘が「まだ」なのをまったく気にしていないのは、どうなん?

 「女・女」のカップルが築いた家庭でも、専業主婦の自己確立志向と子どもの自立志望が重なると、同じような問題が起こる。アイデンティティ確立期に「生物学上の父親探し」したくなる子どもの気持ちは当然のこと。そこからひと悶着が起こる。セックスフレンドと楽しくその日を暮らしていればよかった精子ドナー父が、子どもと過ごしたくなってしまい、女医ママは彼が家庭に入り込むことに拒否反応を起こす。逆に主婦ママは彼と意気投合してしまう。
 アメリカ映画は、「パートナーがどちらも自立し、かつ支え合う」という家庭を描いても受けないのかと思う。あるいは、「女・女」の家庭生活をフツウに描くには、フツウの家庭で起きる問題という体裁をとるのが一番受け入れられやすいスタイルだったのか。フェミニストたちの受けはどうだったのだろうか。

 映画の中で、女医ママ&主婦ママがベッドで「男&男カップルポルノ」を見ていることが息子にばれてしまったときのいいわけ「女女カップルのポルノを演じているのはストレートのAV女優のことが多くてウソッポいから興奮できない」
 じゃ、この映画を見て本当のレズビアンカップルは「ウォーレン・ベイティと結婚しているアネット・ベニングやバート・フレインドリッチと結婚しているジュリアン・ムーアがレズビアン演じてもうそっぽい」と感じたかどうか。ストレートの私からみると日常生活での演技はとてもよかったと思うのだけれど、ベッドシーンはうそっぽかった。

<つづく>

07:33 コメント(4) ページのトップへ
2011年09月27日


ぽかぽか春庭「キッド・子役のあれこれ」
2011/09/27
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のお楽しみ日記(2)キッド・子役のあれこれ

 「キッズオールライト」の息子15歳を演じたジョシュ・ハッチャーソンは、4歳から映画出演をしている、いわゆる「子役あがり」。「キッズオールライト」出演時には18歳だけれど、順調に「大人の俳優」へ移行していくように思います。リバーフェニックス早死に以後、子役の成長管理は徹底するようになっている。

 「わたしを離さないで」、ロケはきれいだったし、これはこれでとてもよい映画だったと思うけれど、原作を読んでから映画を見ると物足りなさが残る。子ども時代の分が大幅にカットされているせい。そりゃ、子役よりはキャリー・マリガンやキーラ・ナイトレイが大半を占めないと映画が売れないだろうから仕方ないけれど、映画を見てから原作を読んだほうが不満が残らずすんだかと思います。

 その点、「トゥルー・グリット」は映画出演時14歳のヘイリー・スタインフェルドや、「サムフェア」に出演時12歳のエル・ファニング、がんばっていた。
 エル・ファニング、6歳のとき英語版「となりのトトロ・ディズニー板」のメイの声を吹き替えたの、かわいい。サツキ役の姉のダコタ・ファニングといっしょに吹き替えをしているメイキングyoutube。
http://www.youtube.com/watch?v=FcMwpNidCYM

 スピルバークも「子役への演出」が気にいったという『泥の河』の子役、朝原靖貴(信雄)桜井稔(喜一)柴田真生子 (銀子)の3人は、成長してから役者にならなかったようだけれど、この映画が成功した第一の要因は子役がよかったことでしょう。
 今年見て来たドラマ、子役におんぶにだっこの内容が多かった。どの子も役者続ける気があるなら大事に育ててほしい。

 「ダンシングチャップリン」併映の「キッド」「犬の生活」も見ました。「キッド」、子役、達者やなあ、という思うのは前に感じたのと同じ。キッド役のジャッキー・クーガン、出演時7歳。8歳のときは週給2万ドル。(当時と物価価値が違うけれど、現在の日本円への単純変換でも年収1億円くらいか)しかし母親とその再婚相手に収入の全てを浪費されてしまい、大人になったときには何も残されていなかったことで、親を提訴。それ以後、アメリカでは子役の収入を成長後の子どものために管理するクーガン法という法律ができた。

 『キッド』、前に見たときと異なる感想もありました。前は「夢の天使」ドタバタシーンは無駄なんじゃないかと思いましたが、今回、これは「夢のような天国、天使のような極楽」が、実は殴り合いあり天使の羽もぼろぼろになるような、天国は天国じゃないことの風刺として必要なのだろうと思いました。
 これがあるから、キッドとともに迎え入れられる豪邸のドアも、実は天国のような地獄かも知れず、単なるハッピーエンドではなくなる。ハッピーエンドを好むアメリカ人観客のためには「金持ちの実母と出会えて良かったね」というラストシーンで終わり、そうでない観客には、天使の羽もボロボロになるかもしれないという地獄へと反転する可能性を持たせるためには、必要なシーンだったのだと遅まきながら感じた次第。

 天使たちのドタバタ、チャップリンに未来を予測する予知能力があったとすれば、誘惑してくる天使リタ・グレイが、やがて彼を地獄に落とすことを暗示するシーンでした。
 実生活のチャップリンは「美少女趣味」で、10代美少女との恋愛&結婚を4度繰り返した。「キッド、夢の天使」シーンで彼を誘惑する天使役のリタ・グレイとも、結婚と泥沼離婚裁判という地獄を経験しています。

 リタ・グレイが出版した暴露本の中に、裁判所に提出した公式文書として「彼はフェ○○オを強要した」という記録があり、当時このラテン語の意味が知られていなかったアメリカ社会で、ラテン語辞書が品切れになる騒ぎだったとか。おかげで、元はラテン語で英語経由のこの語、日本語外来語として片仮名で書いてもみな意味がわかるようになったというわけ。えっ、意味がわからない、ですって。ラテン語の語源は「吸う」という意味の動詞 fellareですよ。お勉強なさい!
 と、思わぬ所でラテン語の復習もできて、お得な春庭映画談義。

<つづく>
07:26 コメント(4) ページのトップへ
2011年09月28日


ぽかぽか春庭「ダンシングチャップリン」
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のお楽しみ日記(3)ダンシングチャップリン

 9月22日は、ミサイルママといっしょに周防正行「ダンシングチャップリン」を見ました。
 96年の「Shall we ダンス?」で草刈民代と結ばれてから早15年。監督が、妻を生かす企画として選んだのが、フランスのローラン・プティがチャップリンを題材にして振り付けた「ダンシング・チャップリン(バレエ原題:「Charlot Danse avec Nous(チャップリンと踊ろう)」。

 1991年の初演から主役のチャップリンを踊ってきたのは、ルイジ・ボニーノ。彼が60歳になり、肉体的に衰えないうちに映像に残したいと考え、監督が自分自身の「バレエ入門」というコンセプトで撮影したのだという。
 第一幕はリハーサル風景。ダンサーたちの舞台裏60日間の記録。入念な準備運動やリフトへのダメ出し、演技への討論など。第二幕は、プティの「ダンシング・チャップリン」全20演目のうち13演目を監督が映画のために再構成・演出・撮影したもの。

 監督はローラン・プチに「警官たちのダンスは公園で撮りたい」と提案したのだけれど、老振り付け師は「全部スタジオで撮らなければダメ」と拒否。「舞台中継のように撮るのだけは避けたい」という監督もお手上げ状態。
 どのようにプチを説得したのかは第一幕で語られていなかったけれど、結果、公園でとった警官達のダンスが一番いきいきした踊りに感じられました。プチはパソコンでラッシュを見て涙をぬぐっていましたから、OKが出たと言うことでしょう。

 すでに舞台ではバレリーナを引退し、女優業に専念することになった草刈民代ですが、『ダンシング・チャップリン』では、『街の灯』の盲目の花売り娘、『キッド』のキッド役など、7役をバレーダンサーとして演じました。
 草刈はこの映画が「私のラストダンス」というのだけれど、マーゴ・フォンテーンは58歳で引退するまで踊り続けたし、森下洋子も現在63歳で現役ダンサー。それを思えば、あと10年はいける気がするのだけれど。バレエダンサーは激しい肉体消耗の仕事だから、46歳でバレリーナ引退というのも仕方ないのでしょう。
 私とミサイルママは「80歳まで踊り続けようね」と誓い合っているのだけれど。

 監督は、さすがにバレエシーンでは草刈を美しく撮っている。そして、リハーサル部分では、たくましく強くかしこい妻の姿も映し出していて、「うふふ、監督、妻にベタ惚れですなぁ」という感じでした。
 「黄金狂時代」のバーで踊る女、「キッド」の男の子役、「街の灯り」の花売り娘役、どれも魅力的な草刈民代でした。

 チャップリン役のルイージ・ボニーノはこの役を初演以来170回以上演じていると第一幕リハーサル風景の中で草刈が紹介している通り、達者な動き。「チャップリンの物まねは避けたい」というボニーノですが、チャップリンの「微笑みと一粒の涙」を身体と表情で表現していたと思います。

 後期授業がはじまって、映画を見る時間も無くなってきましたが、10月は『軽蔑』11月は『ブラックスワン』を見る予定です。

<つづく>

2011/09/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のお楽しみ日記(4)映画「小学1年生」

 岩波ホールで「おじいさんと草原の小学校(原題:The First Grader小学1年生)」、を見ました。
 この映画は、ギネスブックにも掲載されて世界中で話題になった80代で小学校に入学したケニア片田舎のおじいさん、キマニ・ンガンガ・マルゲKimani Ng'ang'a Marugeの実話をもとにしています。
 2005年9月に、マルゲは国連ミレニアム・サミットで初等教育無料化の重要性を訴えるためにニューヨークで演説しました。

 84歳の小学生キマニ・マルゲの姿を伝えるニュース番組。
http://www.youtube.com/watch?v=z1RcBZSS9oI&feature=related

 夫が「実際のケニアとは違う気がしたけど」と、見て来た感想を述べていたのですが、パンフレットを買って確かめたところ、ロケ地は南アフリカでした。映画が撮影された頃、主人公マルゲが通っていた小学校のあるエルドレッド近辺は、部族の対立が大きくなり、映画ロケ地としては適切ではなかったからだろうと思います。実在のマルゲも、部族対立の選挙暴動により資産を失ってしまったそうです。

 映画は実話とはだいぶ話が違っていて、よりドラマチックに仕立てられている分、ケニアの現実から見ると不自然な部分もありました。でも、実話とは別のドラマと思えばよし。いい映画でした。

 実際には、ケニアでマルゲおじいさんがあれだけ英語が話せたのなら、マウマウ団(ケニア独立運動の一団)であったことへの補償について全く知らずに80歳まですごすことは難しいだろうと思います。戦地から帰って田舎で孤独に暮らす日本のおじいさんが、軍人年金受領について全く知らずに生きて行くことが難しいのと同じことです。ケニアの人たち、隣近所や一族での助け合い精神が旺盛なので、いくらマルゲが孤独に暮らす独り者だったとしても、マウマウ団の戦士に補償金が出ていたことを、彼に知らせないってことはないからです。
 まあ、そこは英国映画であってケニア映画でないのでしかたありません。

 実在のマルゲは孫30人がいたのですが、映画では白人に妻を虐殺されたのち、生涯孤独な生活をおくったように描かれていたし、マルゲの担任の先生はとっても美人。パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズで占い師ティア・ダルマを演じたナオミ・ハリス。

 映画の公式サイト
http://84-guinness.com/

 映画では、マルゲおじいさんはちゃんと通じる英語を話し、英語圏観客用にスワヒリ語部分に英語の字幕をつけるところは最小限におさえてありました。(欧米の客は字幕を読む映画に慣れていなくて、外国語映画のほとんどは吹き替え板になる)。

 見ていてわかったことのひとつ。私はスワヒリ語をすっかり忘れていて、理解できるのは挨拶程度であり、映画のスワヒリ語会話の部分、字幕を見ないとまったく理解できませんでした。日頃、「私は英語は下手ですが、スワヒリ語ができます」と留学生に言っていて、「私の英語は、スワヒリ語なまりのブロークンイングリッシュ」と言い訳していたのに、スワヒリ語もまったくダメなことがわかって、これからブロークンイングリッシュの言い訳をどうしようか。

<おわり>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劇団昴公演『坩堝』

2010-03-20 07:39:00 | 映画演劇舞踊
2011/10/26
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>秋のおでかけレポート(4)観劇『坩堝』

 10月09日、大阪から友人のアコさんが上京し、いっしょに劇団昴のお芝居を観ました。
 前回アコさんといっしょにおでかけしたのは、3月10日のことです。アコさんは、翌日の震災のさなか、たいへんな状況下に帰阪したのでした。またこうしていっしょに演劇鑑賞ができてうれしいです。

 池袋駅から池袋グリーンシアターまでの視覚障害外出ヘルパー、相務めるために、まずは、下見にグリーンシアターまで歩きました。よし、このルートで案内しよう、と納得して待ち合わせの「池ふくろう」の前へ。

 アコさんは茨城の実家に一泊してからの上京で、水戸市に住んでいるというお友達のエミさんが外出ヘルパーとして付き添っていました。エミさんは高校生の息子さんのお母さんとは思えないとてもかわいらしい人で、安達祐実そっくり。「安達祐実に似ているって、人から言われるでしょう」と尋ねると、安達祐実が子役でデビューしたころからずっと言われっぱなしだと言っていました。

 アコさんの道案内をエミさんが担当し、私はアコさんの友人のワカコさんの案内をしました。腕につかまってもらったり、肩に手を置いてもらって案内する方法も、アコさんに教わりながら覚えたのです。しかし、途中、横断歩道の段差があるところでうっかり「段差があります」と声をかけるのを忘れてしまい、ワカコさんがちょっとよろけてしまうことがありました。わずか1.5cmほどの段差だったので、私には差が感じられずに通りすぎてしまったのです。どうも私は盲導犬より能力が低い。

 劇団昴の公演は、アーサー・ミラーの『坩堝るつぼ』。映画化されたときは原題の「クルーシブル」で、ミラーが自ら脚本を担当しています。アメリカのニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)で起きた魔女裁判を題材にして、1950年代米国のマッカーシズム「赤狩り」を思い起こさせるようにして、ミラーの激しい台詞が舞台を飛び交います。

 さまざまな文化と思想がるつぼの中のように渦巻くアメリカ。
 坩堝の中のものは解け合って溶融・合成を行う。金属だって解け合って合金ができるはず。果たして「人種のるつぼ」と呼ばれたアメリカは、解け合ったことがあるのか。
 現在は、「混ぜても決して溶け合うことはない」という意味から、多民族が暮らす地域を、「サラダボウル(salad bowl)」と呼ぶそうです。並立共存の状態を強調しているのだというのですが、ほんとうに併存共存できているのか。

 セイラム魔女裁判とは、1692年、セイラム村の200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑され、1名が拷問中に圧死、5名が獄死。無実の人々が次々と告発され、裁判にかけられた事件です。
 現在では「集団心理の暴走」の例として広く知られています。ミラーの『るつぼ』はセイラムの魔女裁判を素材にしていますが、彼は、人間社会に起こりうる悲劇のひとつの姿としてこの魔女裁判を取り上げました。背景には、「現代の魔女狩り」として著名人が「赤狩り」によって次々に弾劾された1950年代のアメリカ社会があります。

 裁判劇の進展を見ていると、人が人の罪を告発していくことのこわさが身に染みます。罪無き人もいったん罪人として追い詰められたとき、どれほど弱い立場になるのか。私など冤罪に巻き込まれたりしたとき、我が身の保身しか考えないような人間になるのではないかと恐ろしく思います。
 
 終演後、アフターショウトークがあり、主役のジョン・プロクターや牧師役の俳優の、作品にかける思いなどを聞きました。また、次回作の前宣伝のための「リーディング・ショウ」もありました。昴の次回作音楽担当の坂本弘道のチェロ演奏をバックに、若手俳優が乙一の『暗いところで待ち合わせ』を朗読しました。

 舞台に登場したチェロがボロボロなので、え~、人前で演奏するのに、こんなぼろいチェロ持ってこなくても、と思いました。と、見る間に、チェロは弓で弾く弦楽器としてだけでなくギターのように演奏したり、打楽器になったり。弓ではなくグラインダーで擦ったり、凄まじい演奏方法で、びっくり。チェロの坩堝って感じでした。
 こんな感じ。
http://www.youtube.com/watch?v=DNEaKn-vb14&feature=related

 アコさんは赤羽のホテルに一泊するというので、ホテルのカンバンが見えるところまで案内し、あとはエミさんに任せました。

<つづく>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2011年ドラマ演劇映画

2010-02-10 05:58:00 | 映画演劇舞踊
2011/12/22
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(8)ドラマ

 年末の訃報、功成り名遂げた年長の方の死は悲しくはあっても、それなりに納得する。市川森一さんは。日本放送作家協会理事長を勤め、2003年には紫綬褒章も受章し、脚本家として功成った一生であったと納得しての見送りができます。しかし、同世代の人が亡くなると、やはり衝撃は大きく、これからまだまだ撮りたい作品があったろうに、と思うのです。12月20日森田芳光監督、61歳での死。

 今年はNHKBSで山田洋次監督が選んだ「日本の名画100選」という番組が始まり、日本映画の傑作を放映しています。今年は家族編50本。その中の1本として、森田芳光の『家族ゲーム』がありました。初公開のときは、娘が生まれた年で、映画を見る余裕はなかったのですが、テレビで何度か放映されるたびに見て来ました。松田優作と伊丹十三の演技合戦は面白かったけれど、脚本としては『の・ようなもの』のほうが秀逸と感じました。今回も、放映時に録画しておいて見ました。

 森田作品としては、そのほかに『キッチン』『阿修羅のごとく』が好きな作品でしたけれど、これは原作が好きってことだったのかもしれません。『間宮兄弟 (2006年)』や『武士の家計簿 (2010年)』は、まだ見ていないので、そのうち見たいと思います。遺作となった『僕達急行 A列車で行こう』は、久しぶりのオリジナル脚本だし、瑛太とマツケン、好きですから見たいです。監督、「これが遺作ならいいかな」と思えたかどうか、期待しています。

 今年後半、印象に残った連続ドラマ。
・「それでも、生きてゆく」瑛太、満島ひかり。大竹しのぶや風吹ジュンらの演技合戦がすごかった。風間俊介もよかったけれど、まだまだ伸びきれていない印象。悲しいストーリーだったけど、脚本もロケの景色もよかったです。 おみくじのように手紙を枝に結びつけるラストシーン、ほんとうにせつなく、泣けました。

・「11人もいる!」神木隆之介ほか。いつもながらのクドカン快進撃でした。毎週、笑えました。
・「家政婦のミタ」松嶋菜々子主演。「承知しました」の決めぜりふが保育園児にまで流行ったという今年一番の視聴率ドラマでしたが、私には今のところ「まあまあ」の感じ。
・「南極物語」「キムタク一人ヒーロー」ドラマなのはわかっていたけれど、予想外に犬たちの演技がよかったので見ていられた。リーダー犬リキ役のピム、ほんとうに演技上手で、昭和基地を見つめながら息絶えるシーンなど、家族で泣きました。タローとジローが迎えに来た隊員を見て、うなり声を上げて牙をむいた、という「史実」も、やわらげられていたけれど、ちゃんと写されていました。

・「江・姫たちの戦国」上野樹里主演。息子が戦国史を専攻しているので、いろいろ詳しい解説を聞くのが楽しみでした。史実とはここが違う、と息子が説明するところも、ドラマと割り切って、江が家康の伊賀越えに同行するなども楽しめたので、将軍夫妻がふたりして馬の遠乗りをするラストシーンも、まあ、これでいいんじゃないの、と思えました。

・「坂の上の雲」まだ、最終回を見ていないのですが、司馬遼太郎が「映像化した場合、脚色によっては、戦争賛美と誤解される作品になるかもしれない。それが心配だから、映像化してほしくない」と言っていたのを押し切ってドラマ化したとあって、「戦意高揚」的な映像になるか注目していたのですが、これまでのところ、司馬原作を裏切るような方向には行っていないと思います。数万の歩兵が満州の荒野に「使い捨て」にされた、ということもきちんと示していたと思うし、「日本の近代」がどれほど「ばくち」であったのか、よく伝わったと思います。

 娘は「映画もドラマも家族でわいわいしゃべりながら見るのが好き」というので、娘が見ないドラマや映画は、録画しておいて、一人で見ることになります。
・「テンペスト」仲間由紀恵の一本調子台詞まわしも気にならないくらい沖縄の風景は美しかった。

<つづく>

10:44 コメント(1) ページのトップへ
2011年12月23日


ぽかぽか春庭「映画・ドラマ演劇メモ2011後半」
2011/12/23
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(8)映画・ドラマ演劇メモ2011後半

 BSほか2011年後期にテレビで放映された映画のうち、『狂った果実』中平康監督1956年、『泥の河』小栗康平監督1981年、『人情紙風船』山中貞雄監督1937年、『楢山節考』木下惠介監督1958年、『切腹』小林正樹1962年、などが印象深かったです。

 『泥の河』何度かみてきたけれど、今回は加賀まりこの美しさが心に残りました。その美しい表情ひとつで、戦争をはさんで泥にまみれていながら「悲しみの聖母」とも思えるような存在の女性像をしっかり描き出している、これは女優の力なのか、それを引き出す監督の力なのか、
 『狂った果実』若い頃の石原裕次郎が好きではなかったので、見たこと無かったのですが、今回の放映で初めて見ました。クレジットの主演は裕次郎ですが、実質主演は16歳の津川雅彦。演技もまだ未熟ですけれど、「未熟さの光」にあふれていて、とてもよかった。『楢山節考』の田中絹代も、『切腹』の仲代達矢も、ほんとうにすごい演技で、圧倒されました。

 映画館に行ったのは飯田橋ギンレイホールのみ。2011年後半にギンレイで見た中では、『英国王のスピーチ』『キッズ・オールライト』『軽蔑』『ブラック・スワン』『未来を生きる君たちへHaevnen』がよかった。

 「英国王のスピーチ」では吃音がストーリーの要。吃音(どもり)にもさまざまなタイプがあるそうですが、イギリス女王エリザベス二世の父ジョージ6世(ヨーク公アルバート王子)の吃音は、幼時、左利きとO脚を父王によって厳しく矯正されたことが起因してどもるようになったと言われています。
 ジョージ6世のために、エリザベス王妃は、セラピスト兼演劇人であったライオネル・ローグを吃音矯正のため雇います。映画では、治療をめぐる王とローグの身分を超えた交流が描写されます。国王として国家の重大事、宣戦布告を国民に告げ、「国民を奮い立たせる演説」をしなければらならなかったときをクライマックスとして、ストーリーは終わります。
 その後の第二次大戦、大戦後の激務によって、ジョージ6世は1952年に56歳で崩御。その翌年にローグも73歳で死去。ロイヤルファミリーの人間模様も面白かったですけれど、「言葉の力」が直接のテーマになっていた映画でした。

 『ブラックスワン』をダンス仲間と見たあとお茶したとき、「子どもの頃バレエを習っていたというナタリーポートマンが、1年のバレエレッスンを受け、バレエシーンをポートマン自身の踊りで撮影した」とう宣伝文句をみな信じていたので、へぇ、自分がダンス下手なのはかまわないけれど、見る目はちゃんと持っていようよ、と思いました。1年でブラックスワンを吹き替え無しで踊れるようになったのなら大天才だから、ポートマンは女優なんぞやめて、バレエダンサーとして大成すべき、ということ。ABTダンサーのサラ・レーンがダンスシーンの吹き替えをやっているということが映画の宣伝としてはシークレット扱いになったのはどうしてか、と、疑問に思うけれど、映画の宣伝にはいろんな事情があるのでしょう。

 「エディット・ピアフ」で、マリオン・コティヤールは本物のピアフの歌にあわせて口パクしているけれど、それでよしとして誰も文句言わない。けれど、古くはオードリーヘプバーンの『マイフェアレディ』の歌をマーニ・ニクソン(『サウンド・オブ・ミュージック』の修道院長役で知られる)が吹き替えたときなど、マーニの名はいっさいクレジットされなかったというのも有名な話ですから、ブラックスワンもサラ・レーンの名が外に出されなかったのも、まあハリウッド的戦略。

 『未来を生きる君たちへHaevnen』。Haevnenは、スエーデン語デンマーク語で復讐という意味。スエーデン語とデンマーク語は、方言差のちがい程度しかありません。しかし、「我が方、尊し」は双方とも同じ。スエーデン人アントン がデンマークで、ロッシという名をロッシュと発音してしまい、よそ者と判断され受け入れてもらえない、というシーンがありました。暴力連鎖の行方を描いて秀逸でした。確かに、世界は理不尽な暴力に満ちています。ガンジー流の非暴力主義では解決しきれない問題が根深くあることも、きちんと描いた上で、暴力の連鎖が何も解決しないことを伝えていました。許しあうことをどのように受け入れていくのか、私たちにも突きつけられます。

 最後に舞台で興味深かったもの。
 12月11日日曜日、府中市の外語大アゴラホールで、シンポジウム「子規と漱石の近代」があり、正岡子規を主人公にした劇『六尺の天地』が上演されました。出演者の半分が留学生で、日本語の台詞として不十分な発音の留学生もそれなりにがんばっていました。主演の子規は発音も演技もとても上手で大熱演でした。ラストシーン、痛みにのたうちながら死の床にある子規の脳裏にあったであろう幻想として、ユニホーム姿の子規がホームランを打ち、「一直線じゃ」と、最後の台詞を言いました。近代のはじまりを一直線に生きて行った子規や漱石の軌跡を思うとき、今、「日本の近代のはじまりと終焉」について思い巡らしているところなので、『坂の上の雲』に描かれた子規よりも心に残る姿でした。

 私は活字人間ですけれど、映像でしか表現なしえなかったと思われるシーンに出会うと、もっともっといろんな映像を見たくなります。これからもドラマや映画を見る時間にかまけて、半年で13冊しか単行本を読まなかったという年もあろうかと思いますが、まあそれもまたよし。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする