2012/08/12
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(6)記憶の糸を紡ぐ 震災・戦争・女
震災や原発によって、さまざまな経験をなさった方々、その記憶を語り、伝えてほしいと願っています。
今回の「記憶の糸を紡ぐ 震災・戦争・女」は、2012年5月に慶應義塾大学日吉キャンパスで開催された「富山妙子作品展&講演会」のタイトルです。主催者は、慶應義塾大学教養研究センター日吉行事企画委員会。富山妙子の絵の展示は8日から15日までの8日間。講演会は12日でした。
私は、この展覧会に行くことはできず、残念な思いをしましたが、7月7日に下北沢のラプラスで行われた富山妙子の公開インタビュークを聞きに行くことができました。
7月7日のインタビューは、VAWW RAC(ヴァウラック=「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター)の企画、「富山妙子の思想を検証し継承する」というシリーズの第5回、「戦争責任とアート」について。
私は、このシリーズの3回と4回は友人A子さんと、5回目は一人で参加しました。5回目がひとりになったのは、講演時間が急遽変更になったためです。午後から夜に変わったというお知らせをハガキで受け取り、土曜日の夜では、現在は母一人子一人の生活になっているA子さんは無理かな、と思って会場へ行ってみたのですが、土曜夜は、やはり参加できない時間帯だったみたい。
富山妙子公開インタビュー第4回「はじけ鳳仙花 わが朝鮮・わが韓国-金芝河、そして光州-倒れた者への祈祷-」は、2012年5月26日(土)に行われました。このときの時間帯は、午後でした。
第4回の内容を知りたい方は、以下のサイトに要約が出ています。
http://kihachin.net/klog/archives/2012/05/tomiyama4.html (喜八ログ)
私がある考え方や主張をする人々に対して「信用できる」と考えるその方法のひとつは、「現在の日本社会において、そういう発言をすることが、生きにくさに繋がってしまい、仕事とか生活に不自由が及ぶのではないか」と心配されるようなことを、その心配を押して活動しているのかどうか。という判断基準によります。
どう見ても自分の得になることをしている人が、何を言っても、「自分の利益のために、どうぞ、おやりなさい」と、言っていられる。「原発は絶対安全」と言った人たちと、「原発に絶対安全はない」と、言った人のどちらを信用したかというと、「絶対安全はない」と主張することによって、職場や社会で不利益を被り、それでも主張していた人々です。政府や東電の御用学者となって「絶対安全」と言った人々は、そのことによって大学での地位を保全したり、研究費取得など直接にお金になったり、利益を得ていました。
私の単純な「信用するかしないか」判断には危険もありますが、「自分の利益にならないことでも、真実だと信じて主張する勇気」を持つ人を、これまで信用してきました。先の15年戦争中、「戦争に反対」と言った人には、日本社会で生活する上で明かな不利益があり、時には牢獄での拷問死が待っていました。それでも「戦争反対」と言い続けた人がいました。水俣病を「チッソの水銀が原因」と主張することによって不利益をこうむった学者や医者、こういう人たちを私は信用できると判断してきたのです。
VAWW RACの活動には、毀誉褒貶があり、ときにはウヨの攻撃を直接に受けて、活動者は、身に危険を感じながらも活動してきました。
私は、それがどのような主張であれ、言説を暴力によって封じ込めようとする人たちに与しません。
言説とは、ときに無力です。でも、決して屈することなく、真実を追求していく人を信じます。
「富山妙子の思想を検証し継承する」というシリーズの第5回、「戦争責任とアート」の主旨について、VAWW RACは次のように解説しています。
アジア太平洋戦争後、日本は国家としては自らの戦争責任を問うことをせず、戦争犯罪を裁くこともなかった。各分野で人々は戦争責任にどう向き合ったのか。ことにアートの世界では画家たちはどのように戦争責任と向き合ったのだろうか。画家達が戦争中、国家に協力したことは他のすべての日本人と同じである。しかし、戦後何年も、彼らの作品は人目に触れることはなかった。たとえば、東京国立近代美術館に保管され、戦後長い間公開されることはなかったアジア太平洋戦争記録画は、百数十点にのぼる。「硝煙の道」(猪熊源一郎)、「山下・パーシバル両中将会見図」(宮本三郎)、「シンガポール最後の日」、「アッツ島玉砕」、「血戦ガタルカナル」(藤田嗣治)等の戦争画は長く人の目に触れることはなかった。
戦後画家として出発した富山妙子は、朝鮮人強制連行、朝鮮人「慰安婦」、金芝河、「満州ハルビン」、ジャパゆきさんと呼ばれたアジアの労働者などをテーマに作品をつくってきた。そしてその背後には、日本の、朝鮮、中国における植民地支配や戦争、そして戦後も続く日本によるアジアの搾取をテーマにしてきた。今回は、富山妙子がアーティストの戦争責任について語る。[プロジェクトリーダー:中原道子]
公開インタビュー前半は、日本美術・画壇史について、富山妙子の解説が中心でした。明治時代の日本美術界が、いかに政府側の意向にそって発達してきたか。画壇がいかに政府に協力し、「戦時中は戦意発揚のため」の戦争協力画を描いてきたか、という画壇史の流れを、自身の画家生活史に重ね合わせながら語りました。
前半の最後には、「質問がありますか、ただし、私の履歴についてもっと詳しく知りたい、という質問であるなら、私の自伝『アジアを抱く―画家人生 記憶と夢』、後ろの机で売っていますから、それを読んでからにしてください」と付け加えるユーモアを忘れていない。
実を言うと、前半の「明治以来の日本画壇史、戦争協力史」の部分で、私が新しく知ったことはひとつもありませんでした。
近代美術館で公開されるようになった藤田嗣治らの大きなキャンバスの「戦争画」は、何枚も見て来ました。公開されてきた戦争画のうち、私が見たのは、率直に言って、「戦意発揚」に益するどころか、「反戦」意識の涵養に役立つのではないか、と思えるモチーフのものが多かったです。
これは、美術館側が意識的に「反戦的」に見えるような、戦争の悲劇を描いているように見える絵を選んで公開しているのかもしれません。
戦後、日本美術を接収したアメリカから「長期貸与」されているという形の数百枚もの戦争画のうちには、確かに「戦意発揚」に役立つ絵も含まれているにちがいありません。たとえば、横山大観は、第二次世界大戦中、軍のためのプロパガンダ絵画をたくさん描いて、戦争を賛美しました。それでも、私は横山大観の絵や思想のすべてを否定しようとは思いません。ただ、大観の描く富士や龍をあまり好きになれない、と感じるのは、「戦争協力者」であるからゆえではなく、単に私がこの富士や龍が好きじゃない、というだけのこと。
また、藤田嗣治の絵の中に、戦争賛美と見えるものが含まれていたとしても、藤田の絵が全部きらいになることはありません。
91歳の画家が2時間ものあいだ、声振り絞って語り続ける、「画家の責任」。私には判断できない大きな問題もあります。ただ、私の個人的な好みで言うなら、芸大教授、国が主導する展覧会の審査員、文化勲章受章、死後も勲位を受ける、という名誉名望に包まれた横山大観よりも、展覧会や講演会を開催する場所さえ制限されたために、「スライド上映による作品公開」を行ってきて、貧しい生活に甘んじて何の名望も求めることなく画業を続けてきた富山妙子の方を「信用できる」と感じてしまう。これは個人の感じ方だから、仕方ない。
15年戦争=1930~1945年アジア太平洋戦争のあと、日本は連合国側によって裁かれたけれど、日本国側政府が自らを検証して戦争責任を問うことをせず、戦争犯罪を裁くことはしてきませんでした。我々はただ、「戦後復興」を願い、経済優先の社会を築き上げてきました。父が母が、ひっしに働き、子を育てるのにせいいっぱいだった戦後生活史を否定する気はありません。みんな、せいいっぱいだった。でも、今、ふたたび差別や貧困が人々の暮らしを脅かし、不安にさせているとき、「とにかく食べられさえすれば、ほかのことを考えている余裕はない」という生き方を繰り返そうとは思わないのです。これは、飢えたことのない私の傲慢な感じ方かも知れないのですが。
今の世に「戦争責任」だの「慰安婦問題」だのと口にするだけで、さまざまな不利益が降りかかってきます。それでもなお、91歳にして「画家の戦争責任」を問い続け、炭鉱強制労働者、従軍慰安婦、韓国光州事件などの真実を追い求めている富山妙子。私は彼女を信じ、彼女のように真実を追いたいと願っています。
私は私のごく狭い見聞のなかでのたうちながら、さまざまなことを学び続けるしか方法がないけれど、学び続けて行きます。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(6)記憶の糸を紡ぐ 震災・戦争・女
震災や原発によって、さまざまな経験をなさった方々、その記憶を語り、伝えてほしいと願っています。
今回の「記憶の糸を紡ぐ 震災・戦争・女」は、2012年5月に慶應義塾大学日吉キャンパスで開催された「富山妙子作品展&講演会」のタイトルです。主催者は、慶應義塾大学教養研究センター日吉行事企画委員会。富山妙子の絵の展示は8日から15日までの8日間。講演会は12日でした。
私は、この展覧会に行くことはできず、残念な思いをしましたが、7月7日に下北沢のラプラスで行われた富山妙子の公開インタビュークを聞きに行くことができました。
7月7日のインタビューは、VAWW RAC(ヴァウラック=「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター)の企画、「富山妙子の思想を検証し継承する」というシリーズの第5回、「戦争責任とアート」について。
私は、このシリーズの3回と4回は友人A子さんと、5回目は一人で参加しました。5回目がひとりになったのは、講演時間が急遽変更になったためです。午後から夜に変わったというお知らせをハガキで受け取り、土曜日の夜では、現在は母一人子一人の生活になっているA子さんは無理かな、と思って会場へ行ってみたのですが、土曜夜は、やはり参加できない時間帯だったみたい。
富山妙子公開インタビュー第4回「はじけ鳳仙花 わが朝鮮・わが韓国-金芝河、そして光州-倒れた者への祈祷-」は、2012年5月26日(土)に行われました。このときの時間帯は、午後でした。
第4回の内容を知りたい方は、以下のサイトに要約が出ています。
http://kihachin.net/klog/archives/2012/05/tomiyama4.html (喜八ログ)
私がある考え方や主張をする人々に対して「信用できる」と考えるその方法のひとつは、「現在の日本社会において、そういう発言をすることが、生きにくさに繋がってしまい、仕事とか生活に不自由が及ぶのではないか」と心配されるようなことを、その心配を押して活動しているのかどうか。という判断基準によります。
どう見ても自分の得になることをしている人が、何を言っても、「自分の利益のために、どうぞ、おやりなさい」と、言っていられる。「原発は絶対安全」と言った人たちと、「原発に絶対安全はない」と、言った人のどちらを信用したかというと、「絶対安全はない」と主張することによって、職場や社会で不利益を被り、それでも主張していた人々です。政府や東電の御用学者となって「絶対安全」と言った人々は、そのことによって大学での地位を保全したり、研究費取得など直接にお金になったり、利益を得ていました。
私の単純な「信用するかしないか」判断には危険もありますが、「自分の利益にならないことでも、真実だと信じて主張する勇気」を持つ人を、これまで信用してきました。先の15年戦争中、「戦争に反対」と言った人には、日本社会で生活する上で明かな不利益があり、時には牢獄での拷問死が待っていました。それでも「戦争反対」と言い続けた人がいました。水俣病を「チッソの水銀が原因」と主張することによって不利益をこうむった学者や医者、こういう人たちを私は信用できると判断してきたのです。
VAWW RACの活動には、毀誉褒貶があり、ときにはウヨの攻撃を直接に受けて、活動者は、身に危険を感じながらも活動してきました。
私は、それがどのような主張であれ、言説を暴力によって封じ込めようとする人たちに与しません。
言説とは、ときに無力です。でも、決して屈することなく、真実を追求していく人を信じます。
「富山妙子の思想を検証し継承する」というシリーズの第5回、「戦争責任とアート」の主旨について、VAWW RACは次のように解説しています。
アジア太平洋戦争後、日本は国家としては自らの戦争責任を問うことをせず、戦争犯罪を裁くこともなかった。各分野で人々は戦争責任にどう向き合ったのか。ことにアートの世界では画家たちはどのように戦争責任と向き合ったのだろうか。画家達が戦争中、国家に協力したことは他のすべての日本人と同じである。しかし、戦後何年も、彼らの作品は人目に触れることはなかった。たとえば、東京国立近代美術館に保管され、戦後長い間公開されることはなかったアジア太平洋戦争記録画は、百数十点にのぼる。「硝煙の道」(猪熊源一郎)、「山下・パーシバル両中将会見図」(宮本三郎)、「シンガポール最後の日」、「アッツ島玉砕」、「血戦ガタルカナル」(藤田嗣治)等の戦争画は長く人の目に触れることはなかった。
戦後画家として出発した富山妙子は、朝鮮人強制連行、朝鮮人「慰安婦」、金芝河、「満州ハルビン」、ジャパゆきさんと呼ばれたアジアの労働者などをテーマに作品をつくってきた。そしてその背後には、日本の、朝鮮、中国における植民地支配や戦争、そして戦後も続く日本によるアジアの搾取をテーマにしてきた。今回は、富山妙子がアーティストの戦争責任について語る。[プロジェクトリーダー:中原道子]
公開インタビュー前半は、日本美術・画壇史について、富山妙子の解説が中心でした。明治時代の日本美術界が、いかに政府側の意向にそって発達してきたか。画壇がいかに政府に協力し、「戦時中は戦意発揚のため」の戦争協力画を描いてきたか、という画壇史の流れを、自身の画家生活史に重ね合わせながら語りました。
前半の最後には、「質問がありますか、ただし、私の履歴についてもっと詳しく知りたい、という質問であるなら、私の自伝『アジアを抱く―画家人生 記憶と夢』、後ろの机で売っていますから、それを読んでからにしてください」と付け加えるユーモアを忘れていない。
実を言うと、前半の「明治以来の日本画壇史、戦争協力史」の部分で、私が新しく知ったことはひとつもありませんでした。
近代美術館で公開されるようになった藤田嗣治らの大きなキャンバスの「戦争画」は、何枚も見て来ました。公開されてきた戦争画のうち、私が見たのは、率直に言って、「戦意発揚」に益するどころか、「反戦」意識の涵養に役立つのではないか、と思えるモチーフのものが多かったです。
これは、美術館側が意識的に「反戦的」に見えるような、戦争の悲劇を描いているように見える絵を選んで公開しているのかもしれません。
戦後、日本美術を接収したアメリカから「長期貸与」されているという形の数百枚もの戦争画のうちには、確かに「戦意発揚」に役立つ絵も含まれているにちがいありません。たとえば、横山大観は、第二次世界大戦中、軍のためのプロパガンダ絵画をたくさん描いて、戦争を賛美しました。それでも、私は横山大観の絵や思想のすべてを否定しようとは思いません。ただ、大観の描く富士や龍をあまり好きになれない、と感じるのは、「戦争協力者」であるからゆえではなく、単に私がこの富士や龍が好きじゃない、というだけのこと。
また、藤田嗣治の絵の中に、戦争賛美と見えるものが含まれていたとしても、藤田の絵が全部きらいになることはありません。
91歳の画家が2時間ものあいだ、声振り絞って語り続ける、「画家の責任」。私には判断できない大きな問題もあります。ただ、私の個人的な好みで言うなら、芸大教授、国が主導する展覧会の審査員、文化勲章受章、死後も勲位を受ける、という名誉名望に包まれた横山大観よりも、展覧会や講演会を開催する場所さえ制限されたために、「スライド上映による作品公開」を行ってきて、貧しい生活に甘んじて何の名望も求めることなく画業を続けてきた富山妙子の方を「信用できる」と感じてしまう。これは個人の感じ方だから、仕方ない。
15年戦争=1930~1945年アジア太平洋戦争のあと、日本は連合国側によって裁かれたけれど、日本国側政府が自らを検証して戦争責任を問うことをせず、戦争犯罪を裁くことはしてきませんでした。我々はただ、「戦後復興」を願い、経済優先の社会を築き上げてきました。父が母が、ひっしに働き、子を育てるのにせいいっぱいだった戦後生活史を否定する気はありません。みんな、せいいっぱいだった。でも、今、ふたたび差別や貧困が人々の暮らしを脅かし、不安にさせているとき、「とにかく食べられさえすれば、ほかのことを考えている余裕はない」という生き方を繰り返そうとは思わないのです。これは、飢えたことのない私の傲慢な感じ方かも知れないのですが。
今の世に「戦争責任」だの「慰安婦問題」だのと口にするだけで、さまざまな不利益が降りかかってきます。それでもなお、91歳にして「画家の戦争責任」を問い続け、炭鉱強制労働者、従軍慰安婦、韓国光州事件などの真実を追い求めている富山妙子。私は彼女を信じ、彼女のように真実を追いたいと願っています。
私は私のごく狭い見聞のなかでのたうちながら、さまざまなことを学び続けるしか方法がないけれど、学び続けて行きます。
<つづく>