2012/08/11
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(5)やがて来る者へ
ナチ協力者であったヴィシー政権による1942年のユダヤ人大量検挙事件、ヴェロドローム・ディヴェール事件と呼ばれる歴史上の事実を、フランス政府が認め、謝罪をしたのは1995年になってからでした。
一方、イタリアの寒村で起きた「マルツァボット虐殺事件」は、イタリアではよく知られたものだったそうです。第2次世界大戦中、枢軸国として同盟関係にあったはずのイタリアで、ドイツ軍ナチ親衛隊が、村の住民を皆殺しにした事件です。
ヨーロッパ戦線ではイタリアとドイツは同盟国として、共に連合軍と戦いました。しかし、1943年7月、連合軍がイタリアのシチリアに上陸、ムッソリーニは逮捕されます。イタリアと連合軍の休戦協定が結ばれると、ムッソリーニ側と反ムッソリーニ派の内戦が始まりました。
連合軍は、イタリアの南部を占領。ドイツ軍は、北イタリアを占領してムッソリーニを連合国側から奪取し、北イタリアはドイツ軍によって支配されました。
戦場となった北イタリアのあちこちに、パルチザン派(イタリア解放と反ファシズムを願うムッソリーニへの抵抗勢力)が組織され、ドイツ軍と闘います。
モンテ・ソーレ集落の虐殺は、このような戦史を背景としています。
だれがゲリラの一派なのか、民間人なのか、区別がつかないため、として、村中を皆殺しにしてしまう、という事件は、中国で日本軍が行った平頂山事件、ベトナムでアメリカ軍が行ったソンミ村事件など、知られた事件もあります。イタリアではよく知られているというこの「マルツァボット虐殺事件」、私は映画『やがて来る者へ』で、はじめて知りました。以下、ネタバレを含む映画紹介です。
1944年9月29日、イタリア北部のボローニャ市近くのマルツァボット村、モンテ・ソーレ(大陽山)という集落。
山間の、静かなのんびりした村で、戦争とは、ボローニャのような大きな町の出来事であり、山村の不自由はあっても、村の暮らしは、戦争前もあまり変わりのないものでした。
しかし、パルチザンがファシストとの闘いを続けるゲリラ戦が村の近くでも起きるようになり、住民たちの中にもパルチザン志願者が現れます。ドイツ軍から奪った武器などで、武装が始まります。
映画『やがて来る者へ』は、「マルツァボットの虐殺」を、8才の少女の目を通して描いています。少女の造型は、作家の創作だそうですが、虐殺の事実は、史実に基づいて描いた、ということです。
モンテ・ソーレ集落に8才の少女、マルティーナが住んでいます。戦争は遠くの出来事で、マルティーナの心は、まもなく生まれてくる赤ちゃんのことでいっぱいです。妹か弟かまだわからないけれど、大家族でわいわいとにぎやかに暮らす一家にとって、新しい命は、希望の光なのです。ことに、一家の心配の種、マルティーナの心にとって、赤ちゃんが光となることを皆が望んでいました。
マルティーナは、口がきけないのです。生まれつきではなく、マルティーナの腕のなかで、小さな弟が死んでしまった、ということが原因で、心因性の失語症になっていたのです。村の小さな小学校で、マルティーナはいたずら坊主たちにイジメられたりもしますが、貧しくとも助け合っている家族がいるから、決して不幸ではありません。
マルティーナは、小学校の作文に、次のように書いています。(マルティーナの心の声での朗読)
「わたしの家は農家です。小さな家族ですが、じき弟ができます。素敵な馬車に乗る地主さんの土地で働いて、父さんは”作物を納めさせすぎだけれど、地主だから”と言います。時々ドイツ人がものを買いにきます。言葉は通じません。なぜここに来たのでしょうか。なぜ自分の家で、自分の子供達といっしょに過ごさないのでしょうか。ドイツ人は武器でどこかにいる敵を撃ちます。連合軍と戦っているそうです。見たことはありません。あと、反乱軍がいます。彼らを追い払うために戦っているそうです。反乱軍も武器を持ちます。私達と同じ言葉を話し、服装も同じです。隊長はブーボです。皆怖れていても、彼を慕っています。ディーノ伯父さんも彼を思い、助けようと言います。父さんもやはりそう言います。でも土地は放っておけません。それからファシストも、、、、」
声がだせないマルティーナに代わって、先生が朗読します。
「ファシストもやってきて、私達の言葉を話します。怒鳴って、反乱軍は山賊だ、殺せ、と言います。それで私は皆、人を殺したいのだと知りました。理由はわかりません」。
まずしいがのんびりした山村生活を送っていた村の中に、パルティザンに志願する若者が現れ、村は内戦そしてドイツ軍による「反政府派一掃のゲリラ討伐」に巻き込まれてしまいます。
ドイツ兵がパルチザンを撃ち殺し、パルチザンがドイツ兵の若者を捉えて処刑する。マルティーナは、パルティザンによるドイツ軍捕虜の処刑も、ドイツ軍による村民虐殺もその目で見つづけます。
ドイツ軍がマルティーナの村を襲い、マルティーナの叔母も母も父も、ドイツ軍によって「パルチザンの協力者」と見なされて一ヶ所に集められ、皆殺しにされます。
子ども200人以上、女性や老人が半数以上含まれる大人500人以上が、次々に虐殺されました。教会の神父さんも、村のおじいさんもおばあさんも、皆銃弾に倒れました。
マルティーナは、奇跡的に虐殺の場からのがれ、生まれたばかりの赤ん坊を必死に藪の中に隠します。
ジョルジョ・ディリッティ監督による、前半の村の生活の描写は、戦争の影も遠く、恋をする若者達、子供たちをいつくしんで育てる親たち、ふつうに生活し生きている人々を描き出しています。なにも知らずにこの映画の冒頭を見たら、「のんきなイタリア農村と少女の成長物語か」と思ってしまうところです。
監督は、村民の虐殺を描くとともに、村民パルチザンによるドイツ兵の処刑も描いています。どちらも歴史の真実だからです。
戦後社会の中で、少女マルティーナがどのように成長していったのかは、映画は言及していません。この映画が語られた、ということこそ、マルティーナのその後なのだ、とも思えます。
「やがて来る者へ」と、村の歴史の真実を語りつぐ、という形で、ラストシーン、木に座っているマルティーナの背中が語っているように思います。
冒頭の、モンテ・ソーレ山村の暮らしぶり、ソンミ村にも平頂山村にも、それぞれ、つましくとも平和で愛に満ちた家族達が暮らし、今年の作柄について話したり、子どもの失敗を笑い合ったりして、暮らしていたのだろうなあと思います。
今の学生たち、子ども達、ベトナム戦争で何が起こったかも、15年戦争で日本が何をしたのかも、学校教育ではほとんど知らされていません。
私は「父が外地で飢え、母が内地で苦労した」という昔話で戦争を知る世代。直接戦争を知る世代ではないけれど、親が体験した事実として戦争は「遠い歴史上の出来事ではなく、親が経験したこと」として、身近なものでした。
さて、私たちは、やがて来る者へ、何を語りついでいくべきなのか。
今年も、8月6日9日がすぎ、8月15日がやってきます。
私たちは、語り継がなければなりません。被害の歴史も、加害の歴史も。
原爆投下は、人類史上もっとも忌まわしい悲惨な犯罪だったと思います。東京大空襲ほかの都市への無差別爆撃も。非戦闘員である一般市民を殺傷することを前提とした無差別爆撃は「近代戦」のルールにおいて、許されてはならないものでした。しかし、この無差別爆撃をアジアで最初に行ったのは、1938~1941に中国・重慶における日本軍の空爆であったことも忘れてはなりません。被害の歴史も加害の歴史も真実を明らかにすることが、次の悲劇を防ぐのだと考えます。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(5)やがて来る者へ
ナチ協力者であったヴィシー政権による1942年のユダヤ人大量検挙事件、ヴェロドローム・ディヴェール事件と呼ばれる歴史上の事実を、フランス政府が認め、謝罪をしたのは1995年になってからでした。
一方、イタリアの寒村で起きた「マルツァボット虐殺事件」は、イタリアではよく知られたものだったそうです。第2次世界大戦中、枢軸国として同盟関係にあったはずのイタリアで、ドイツ軍ナチ親衛隊が、村の住民を皆殺しにした事件です。
ヨーロッパ戦線ではイタリアとドイツは同盟国として、共に連合軍と戦いました。しかし、1943年7月、連合軍がイタリアのシチリアに上陸、ムッソリーニは逮捕されます。イタリアと連合軍の休戦協定が結ばれると、ムッソリーニ側と反ムッソリーニ派の内戦が始まりました。
連合軍は、イタリアの南部を占領。ドイツ軍は、北イタリアを占領してムッソリーニを連合国側から奪取し、北イタリアはドイツ軍によって支配されました。
戦場となった北イタリアのあちこちに、パルチザン派(イタリア解放と反ファシズムを願うムッソリーニへの抵抗勢力)が組織され、ドイツ軍と闘います。
モンテ・ソーレ集落の虐殺は、このような戦史を背景としています。
だれがゲリラの一派なのか、民間人なのか、区別がつかないため、として、村中を皆殺しにしてしまう、という事件は、中国で日本軍が行った平頂山事件、ベトナムでアメリカ軍が行ったソンミ村事件など、知られた事件もあります。イタリアではよく知られているというこの「マルツァボット虐殺事件」、私は映画『やがて来る者へ』で、はじめて知りました。以下、ネタバレを含む映画紹介です。
1944年9月29日、イタリア北部のボローニャ市近くのマルツァボット村、モンテ・ソーレ(大陽山)という集落。
山間の、静かなのんびりした村で、戦争とは、ボローニャのような大きな町の出来事であり、山村の不自由はあっても、村の暮らしは、戦争前もあまり変わりのないものでした。
しかし、パルチザンがファシストとの闘いを続けるゲリラ戦が村の近くでも起きるようになり、住民たちの中にもパルチザン志願者が現れます。ドイツ軍から奪った武器などで、武装が始まります。
映画『やがて来る者へ』は、「マルツァボットの虐殺」を、8才の少女の目を通して描いています。少女の造型は、作家の創作だそうですが、虐殺の事実は、史実に基づいて描いた、ということです。
モンテ・ソーレ集落に8才の少女、マルティーナが住んでいます。戦争は遠くの出来事で、マルティーナの心は、まもなく生まれてくる赤ちゃんのことでいっぱいです。妹か弟かまだわからないけれど、大家族でわいわいとにぎやかに暮らす一家にとって、新しい命は、希望の光なのです。ことに、一家の心配の種、マルティーナの心にとって、赤ちゃんが光となることを皆が望んでいました。
マルティーナは、口がきけないのです。生まれつきではなく、マルティーナの腕のなかで、小さな弟が死んでしまった、ということが原因で、心因性の失語症になっていたのです。村の小さな小学校で、マルティーナはいたずら坊主たちにイジメられたりもしますが、貧しくとも助け合っている家族がいるから、決して不幸ではありません。
マルティーナは、小学校の作文に、次のように書いています。(マルティーナの心の声での朗読)
「わたしの家は農家です。小さな家族ですが、じき弟ができます。素敵な馬車に乗る地主さんの土地で働いて、父さんは”作物を納めさせすぎだけれど、地主だから”と言います。時々ドイツ人がものを買いにきます。言葉は通じません。なぜここに来たのでしょうか。なぜ自分の家で、自分の子供達といっしょに過ごさないのでしょうか。ドイツ人は武器でどこかにいる敵を撃ちます。連合軍と戦っているそうです。見たことはありません。あと、反乱軍がいます。彼らを追い払うために戦っているそうです。反乱軍も武器を持ちます。私達と同じ言葉を話し、服装も同じです。隊長はブーボです。皆怖れていても、彼を慕っています。ディーノ伯父さんも彼を思い、助けようと言います。父さんもやはりそう言います。でも土地は放っておけません。それからファシストも、、、、」
声がだせないマルティーナに代わって、先生が朗読します。
「ファシストもやってきて、私達の言葉を話します。怒鳴って、反乱軍は山賊だ、殺せ、と言います。それで私は皆、人を殺したいのだと知りました。理由はわかりません」。
まずしいがのんびりした山村生活を送っていた村の中に、パルティザンに志願する若者が現れ、村は内戦そしてドイツ軍による「反政府派一掃のゲリラ討伐」に巻き込まれてしまいます。
ドイツ兵がパルチザンを撃ち殺し、パルチザンがドイツ兵の若者を捉えて処刑する。マルティーナは、パルティザンによるドイツ軍捕虜の処刑も、ドイツ軍による村民虐殺もその目で見つづけます。
ドイツ軍がマルティーナの村を襲い、マルティーナの叔母も母も父も、ドイツ軍によって「パルチザンの協力者」と見なされて一ヶ所に集められ、皆殺しにされます。
子ども200人以上、女性や老人が半数以上含まれる大人500人以上が、次々に虐殺されました。教会の神父さんも、村のおじいさんもおばあさんも、皆銃弾に倒れました。
マルティーナは、奇跡的に虐殺の場からのがれ、生まれたばかりの赤ん坊を必死に藪の中に隠します。
ジョルジョ・ディリッティ監督による、前半の村の生活の描写は、戦争の影も遠く、恋をする若者達、子供たちをいつくしんで育てる親たち、ふつうに生活し生きている人々を描き出しています。なにも知らずにこの映画の冒頭を見たら、「のんきなイタリア農村と少女の成長物語か」と思ってしまうところです。
監督は、村民の虐殺を描くとともに、村民パルチザンによるドイツ兵の処刑も描いています。どちらも歴史の真実だからです。
戦後社会の中で、少女マルティーナがどのように成長していったのかは、映画は言及していません。この映画が語られた、ということこそ、マルティーナのその後なのだ、とも思えます。
「やがて来る者へ」と、村の歴史の真実を語りつぐ、という形で、ラストシーン、木に座っているマルティーナの背中が語っているように思います。
冒頭の、モンテ・ソーレ山村の暮らしぶり、ソンミ村にも平頂山村にも、それぞれ、つましくとも平和で愛に満ちた家族達が暮らし、今年の作柄について話したり、子どもの失敗を笑い合ったりして、暮らしていたのだろうなあと思います。
今の学生たち、子ども達、ベトナム戦争で何が起こったかも、15年戦争で日本が何をしたのかも、学校教育ではほとんど知らされていません。
私は「父が外地で飢え、母が内地で苦労した」という昔話で戦争を知る世代。直接戦争を知る世代ではないけれど、親が体験した事実として戦争は「遠い歴史上の出来事ではなく、親が経験したこと」として、身近なものでした。
さて、私たちは、やがて来る者へ、何を語りついでいくべきなのか。
今年も、8月6日9日がすぎ、8月15日がやってきます。
私たちは、語り継がなければなりません。被害の歴史も、加害の歴史も。
原爆投下は、人類史上もっとも忌まわしい悲惨な犯罪だったと思います。東京大空襲ほかの都市への無差別爆撃も。非戦闘員である一般市民を殺傷することを前提とした無差別爆撃は「近代戦」のルールにおいて、許されてはならないものでした。しかし、この無差別爆撃をアジアで最初に行ったのは、1938~1941に中国・重慶における日本軍の空爆であったことも忘れてはなりません。被害の歴史も加害の歴史も真実を明らかにすることが、次の悲劇を防ぐのだと考えます。
<つづく>