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ぽかぽか春庭「桜の園 vs ヴィーシニョーヴィ・サート(Вишнёвый сад) 」

2018-06-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180610
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>ことばは生々流転(5)桜の園 vs ヴィーシニョーヴィ・サート(Вишнёвый сад)

 「桜の樹の下には屍体したいが埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ

 梶井基次郎の『桜の樹の下には』は、この冒頭だけがさまざまに引用されてきました、

 「灼熱しゃくねつした生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲うたずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ

 桜の満開を見れば、人はその爛漫と咲き誇る美に生殖の幻覚を感じ、その美しさが腐乱死体の養分を得てこその美の昇華であることに不安をかきたてられずにはいられない。

 翻訳との差において、さまざまな語について誤解をしてきたことが数多くあります。
 言語学者鈴木孝夫は「hair on his lip」を直訳して「かれの唇に生えているひげ」と訳してしまうと、日本語の語感とはずれが生じることを『ことばと文化』で述べました。lipは、日本語と英語ではさし占める範囲が異なるのです。「リップスティック=口紅」これはOK.でも、lip hairは、「唇に生えている毛」ではなく、口ひげ。lipの範囲は、鼻の下まで含み、口のまわりに生えている毛は、全部lip hairです。

 チェホフの戯曲『Вишнёвый сад ヴィーシニョーヴィ・サート』は、最初に日本語に翻訳された時から『桜の園』と訳されてきました。私たちのイメージする範囲は、爛漫と咲き誇る桜、風の中にいっせいに散る桜。
 しかし、Вишнёвый садの英語直訳は、cherry orchard。日本語訳なら「さくらんぼ果樹園」「さくらんぼ畑」とすべきところでした。「りんご畑」ときけば、たわわに実るりんごがイメージされるように、「さくらんぼ畑」と訳せば、赤く小さな粒が枝にゆれる光景がイメージされます。

 『桜の園』と、『さくらんぼ果樹園』では、はかなさについてのイメージがまったく異なってきます。

 貧しい農夫から成りあがったロパーヒンは、買い取った『さくらんぼ果樹園』を別荘用地として売り出し、別荘建設に取り掛かろうとします。ロパーヒン留守中に桜の樹を伐採するよう命じます。
 女地主ラネーフスカヤにとって、土地から生み出される豊かさの象徴でもあったさくらんぼの木は、つぎつぎに切り倒されていきます。

 桜と聞くと、まず第一に私たちの頭にイメージされる桜の花。 桜の花びらは「生殖の幻覚」の輝きを見せるけれど、「Вишнёвый」は、丸く甘い果実。ラネーフスカヤが失ったのは、花びらではなく、農奴に収穫させて収益をえる果実、さくらんぼ。

 『Вишнёвый сад』の訳語を考えていて、以上のことを思いついたとき、春庭は「うん、いいことに気づいた」と思ったのです。ロシア語わからないのに、よくぞ気づいたと。
 しかし、不肖春庭が思いつく程度のことは、ロシア語知っている人はとっくに気づいていたことでした。

 劇団民芸創始者の演出家、俳優の宇野重吉は、『チェーホフの「桜の園」について」という本を書いています。その冒頭に、スタニスラフスキーの著書に書かれたことを引用しつつ『Вишнёвый сад』が『桜の園』という訳になったことについて述べています。

 宇野のいわんとするところでは、「ロシア語の「Вишнёвыйヴィーシニョーヴィ」は、チェホフが「桜の園」書いた時代にアクセントが変わり、ヴィーシニョーヴィが示す意味も変化しました。チェーホフは「収益をもたらす桜んぼ畑」が「(散りゆく)桜咲く場所」へと変わっていく、まさにその時代を描き出したのです」

 「チェホフは、ヴィーシニョーヴィ・サートというロシア語の意味するところの変化を意識しつつ、この演劇の題名は「収益をもたらす桜んぼ畑を失う貴族」でなく「(消え去る運命の)桜んぼの木の花が咲く場所」として、没落貴族の消えていくロシアを描き出しました


 「Вишнёвый」のアクセント変化と意味変化を取り入れて訳せば、『さくらんぼ畑』ではなく「桜の園」がふさわしい訳語、と宇野は書き残しました。


 ヴィーシニョーヴィ・サートを「桜の園」と訳したら誤訳じゃないか!と、いきり立った春庭、浅薄な思考を桜の枝でバシッとたたかれました。
 だいたい、探してみれば『さくらんぼ畑』というタイトルのチェホフ戯曲訳本も出ていました。以下の本の訳者は、Вишнёвый садは、サクランボ畑という訳語こそ本当の訳と思ってタイトルにしたのでしょうが、私は、宇野重吉のほうが深く戯曲をとらえていると思います。 


 「へたの考え、休むに似たり」とは、私の父が子供たちのあさはかな思考を馬鹿にするときの口癖でした。でもね。私は思います。へたでもいい、自分の頭で考えることが大切。脳への刺激が認知症予防には大事だからね。

 うん、よく考えた。ごほうびに「佐藤錦」ひとパック。
 
<おわり>
コメント (2)
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