2012/08/09
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(4)サラの鍵
中東の内戦に傷ついた母親の一生を双子の姉弟がたどる『灼熱の魂』に続き、『サラの鍵』を紹介します。フランスにおけるユダヤ人検挙と収容所おくりの中で翻弄された少女の物語。やはり重く苦しい歴史の事実ですが、真実をどこまでも追求しようとすることによって、女性ジャーナリストの人生も変わっていきます。
アメリカ人ジャーナリスト、ジュリア。フランス人と結婚し、思春期にさしかかった娘を育てながら、仕事を続けています。夫の祖父母からゆずり受けた古いアパルトマンへの引っ越しを前に、ジャーナリストとして興味を惹かれる出来事を見つけ出しました。
夫の家族が住み続けてきたアパートの、元の持ち主一家の謎。10才の少女だったサラの一生の謎を解き明かしたいと、ジュリアはサラの足跡を辿ります。
『サラの鍵』(英語タイトル Sarah's Key フランス語原題: Elle s'appelait Sarah彼女はサラと呼ばれた )。以下、ネタバレを含むあらすじです。
ジュリアは、結婚後、家族とともにパリに住み、仕事をしながら一人娘を育てています。思春期を迎えた娘や夫との関係に悩み、ジャーナリストとしての仕事に行き詰まりを感じることはあっても、出身地のニューヨークに暮らす妹に電話で愚痴をこぼしつつ、仕事をこなしていました。
夫の祖父母からゆずり受けたアパートに移り住むことになり、第二次世界大戦の前、そのアパートに住んでいたスタルジンスキー一家に興味を持ちます。一家の中で当時10才だったサラだけは、フランス・ヴィシー政権によるヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件で検挙されたユダヤ人犠牲者の名簿に死去の記録がなかったからです。サラは、収容所から脱走していたのでした。
ナチに協力したヴィシー政権は、1942年7月16~17日にパリ市内に住むユダヤ人を一斉検挙しました。
その朝、10才のサラは幼い弟ミッシェルを戸棚に隠し、鍵をかけます。「必ず助けに来るからそのときまで待っていて」と言い残して、サラは両親とともに屋内競輪場(ヴェルデイヴ)へ押し込められ、さらに親とも引き離されて収容所に入れられます。
サラは弟を助けたい一心で収容所を脱出しますが、病気になり倒れてしまいます。農家の老夫婦デュフォール夫妻にかくまわれ看病される間も、サラの心は、幼い弟を救い出すことだけを望み、パリへ戻ろうとします。
サラがパリの元のアパートにようようたどり着いたのは、弟を閉じ込めてから一ヶ月がたったあとでした。アパートにはすでに新しい住人(ジュリアの夫の祖父母一家)に売り渡されていました。弟が待っているはずの戸棚の中には、、、、。
収容所脱出後のサラの足取りがなかなかつかめないでいたジュリアは、45才になって妊娠したことを夫に告げ、遅い第2子の出産を認めてもらおうと思いました。が、夫は、この妊娠を喜ばず、出産にも育児にももう自分には協力する意志がない、と言うのでした。育児を続ける年齢をすぎてしまった、と。
第2子を諦めようとしたジュリアが病院の手術台に向かったとき、サラを助けた農家の跡継ぎから、サラの手掛かりについての電話が入ります。ジュリアは病院を飛び出して、サラの跡を追い続けます。
サラはアメリカに渡り、ユダヤ人であったことを隠して結婚、息子を育てたのでした。ジュリアが訪ね当てたサラの夫は、サラの交通事故死のあと再婚し、息子はアメリカからイタリアに行ってシェフとして成功していました。
サラの結婚相手だった老人は、病に伏せっていました。臨終間近くなり、息子に母親サラの死の真相を打ち明けます。しかし、息子は母親がユダヤ人であったことも母の死の真実も受け入れがたく、ジュリアにも心を開こうとはしませんでした。
サラの一生を振り返ることができたとき、ジュリアは新たな決意をします。一度はあきらめた新しい命のゆくすえについて。家族との関係について。
サラたちが閉じ込められた水もトイレもない競輪場の名をとってヴェロドローム・ディヴェール事件と呼ばれるこの出来事は、事件の後、53年間も「ないこと」にされてきました。競輪場は取り壊され、跡地には市の建物が建っています。いまわしい収容所があったことは、パリの街から消されたのでした。しかし、人々の記憶や収容者の死亡の記録は残されていました。
1995年にシラク大統領が正式に国家の関与を認め、謝罪したことでようやく「フランスでもユダヤ人大量検挙とアウシュビッツなどの収容所送りが行われた」ということが正式に歴史の明るみにだされたのです。
ナチによるユダヤ人虐殺は、ドイツ人だけでなく、フランス人も関与していたことに、世界は大きな衝撃を受けました。
収容されたユダヤ人の身分証明書写真を集めたパネルに見入るジュリア。400万人という単なる数字ではなく、ひとりひとりの顔写真を並べることにより、この人々がすべて罪無くして、ユダヤ人であるというそれだけで殺されなければならなかったことの悲劇が伝わります。

そして、いっそう「何があったのか、歴史の真実を明るみに出し、真実を知ろうとすることこそ、つぎの悲劇を防ぐ方法」という歴史への認識が確認された事件でもありました。
ジュリアがひとりの少女、サラの一生を追い続けたのも、この「真実を知ること」への情熱に動かされてのことでした。真実はつらく重いものです。実の息子の存在さえ、サラが負った深い心の傷は癒すことのできないものでした。しかし、サラの真実は、ひとつの命へとつながっていきます。
真実を知り、それを語り継ごうとする意志によって、サラの生きた証しは、もう一人のサラに受け継がれていくのです。サラの名を受け継いだ女の子へと。
フランス語の原題『彼女はサラと呼ばれた』というタイトルの意味が、ラストシーンによって最後にわかるしかけになっていたと、今頃気づきました。その名が受け継がれることで、ジュリアもサラの息子も、「真実を知ることの重みと価値」を受け取ったのです。
「真実を明らかにすること」を喜ばない人たちもいます。フランスでも50年以上、自国政府がユダヤ人虐殺に関わったことに蓋をし続けました。
ひるがえって、この国では。
自国政府や旧軍が、女性を性奴隷として扱った、ということについて、その事実について検証しようと歴史研究を続けている人へさえ、「国辱」「自虐史観」「歴史ねつ造」などの言葉を浴びせかける人たちがいます。その歴史検証に反対したいなら、反証となる事実を集め、検証すればいいだけです。しかし、彼らは、自分たちに気にくわないことを述べる人を、罵倒し踏みにじることしか行わない。ときには、自分たちの意見と異なるものの命を奪うことすらする。
私は、ただ、真実を知りたいのです。真実を知ることこそ、先の大戦で命を落としたアジア全土2千万人の死者に応える道だと信じているので。
ひとりのサラの真実も、70年前の戦争のためにアジアで亡くなった2000万人の一人一人の真実も、ひとしい重さで私の胸にあります。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(4)サラの鍵
中東の内戦に傷ついた母親の一生を双子の姉弟がたどる『灼熱の魂』に続き、『サラの鍵』を紹介します。フランスにおけるユダヤ人検挙と収容所おくりの中で翻弄された少女の物語。やはり重く苦しい歴史の事実ですが、真実をどこまでも追求しようとすることによって、女性ジャーナリストの人生も変わっていきます。
アメリカ人ジャーナリスト、ジュリア。フランス人と結婚し、思春期にさしかかった娘を育てながら、仕事を続けています。夫の祖父母からゆずり受けた古いアパルトマンへの引っ越しを前に、ジャーナリストとして興味を惹かれる出来事を見つけ出しました。
夫の家族が住み続けてきたアパートの、元の持ち主一家の謎。10才の少女だったサラの一生の謎を解き明かしたいと、ジュリアはサラの足跡を辿ります。
『サラの鍵』(英語タイトル Sarah's Key フランス語原題: Elle s'appelait Sarah彼女はサラと呼ばれた )。以下、ネタバレを含むあらすじです。
ジュリアは、結婚後、家族とともにパリに住み、仕事をしながら一人娘を育てています。思春期を迎えた娘や夫との関係に悩み、ジャーナリストとしての仕事に行き詰まりを感じることはあっても、出身地のニューヨークに暮らす妹に電話で愚痴をこぼしつつ、仕事をこなしていました。
夫の祖父母からゆずり受けたアパートに移り住むことになり、第二次世界大戦の前、そのアパートに住んでいたスタルジンスキー一家に興味を持ちます。一家の中で当時10才だったサラだけは、フランス・ヴィシー政権によるヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件で検挙されたユダヤ人犠牲者の名簿に死去の記録がなかったからです。サラは、収容所から脱走していたのでした。
ナチに協力したヴィシー政権は、1942年7月16~17日にパリ市内に住むユダヤ人を一斉検挙しました。
その朝、10才のサラは幼い弟ミッシェルを戸棚に隠し、鍵をかけます。「必ず助けに来るからそのときまで待っていて」と言い残して、サラは両親とともに屋内競輪場(ヴェルデイヴ)へ押し込められ、さらに親とも引き離されて収容所に入れられます。
サラは弟を助けたい一心で収容所を脱出しますが、病気になり倒れてしまいます。農家の老夫婦デュフォール夫妻にかくまわれ看病される間も、サラの心は、幼い弟を救い出すことだけを望み、パリへ戻ろうとします。
サラがパリの元のアパートにようようたどり着いたのは、弟を閉じ込めてから一ヶ月がたったあとでした。アパートにはすでに新しい住人(ジュリアの夫の祖父母一家)に売り渡されていました。弟が待っているはずの戸棚の中には、、、、。
収容所脱出後のサラの足取りがなかなかつかめないでいたジュリアは、45才になって妊娠したことを夫に告げ、遅い第2子の出産を認めてもらおうと思いました。が、夫は、この妊娠を喜ばず、出産にも育児にももう自分には協力する意志がない、と言うのでした。育児を続ける年齢をすぎてしまった、と。
第2子を諦めようとしたジュリアが病院の手術台に向かったとき、サラを助けた農家の跡継ぎから、サラの手掛かりについての電話が入ります。ジュリアは病院を飛び出して、サラの跡を追い続けます。
サラはアメリカに渡り、ユダヤ人であったことを隠して結婚、息子を育てたのでした。ジュリアが訪ね当てたサラの夫は、サラの交通事故死のあと再婚し、息子はアメリカからイタリアに行ってシェフとして成功していました。
サラの結婚相手だった老人は、病に伏せっていました。臨終間近くなり、息子に母親サラの死の真相を打ち明けます。しかし、息子は母親がユダヤ人であったことも母の死の真実も受け入れがたく、ジュリアにも心を開こうとはしませんでした。
サラの一生を振り返ることができたとき、ジュリアは新たな決意をします。一度はあきらめた新しい命のゆくすえについて。家族との関係について。
サラたちが閉じ込められた水もトイレもない競輪場の名をとってヴェロドローム・ディヴェール事件と呼ばれるこの出来事は、事件の後、53年間も「ないこと」にされてきました。競輪場は取り壊され、跡地には市の建物が建っています。いまわしい収容所があったことは、パリの街から消されたのでした。しかし、人々の記憶や収容者の死亡の記録は残されていました。
1995年にシラク大統領が正式に国家の関与を認め、謝罪したことでようやく「フランスでもユダヤ人大量検挙とアウシュビッツなどの収容所送りが行われた」ということが正式に歴史の明るみにだされたのです。
ナチによるユダヤ人虐殺は、ドイツ人だけでなく、フランス人も関与していたことに、世界は大きな衝撃を受けました。
収容されたユダヤ人の身分証明書写真を集めたパネルに見入るジュリア。400万人という単なる数字ではなく、ひとりひとりの顔写真を並べることにより、この人々がすべて罪無くして、ユダヤ人であるというそれだけで殺されなければならなかったことの悲劇が伝わります。

そして、いっそう「何があったのか、歴史の真実を明るみに出し、真実を知ろうとすることこそ、つぎの悲劇を防ぐ方法」という歴史への認識が確認された事件でもありました。
ジュリアがひとりの少女、サラの一生を追い続けたのも、この「真実を知ること」への情熱に動かされてのことでした。真実はつらく重いものです。実の息子の存在さえ、サラが負った深い心の傷は癒すことのできないものでした。しかし、サラの真実は、ひとつの命へとつながっていきます。
真実を知り、それを語り継ごうとする意志によって、サラの生きた証しは、もう一人のサラに受け継がれていくのです。サラの名を受け継いだ女の子へと。
フランス語の原題『彼女はサラと呼ばれた』というタイトルの意味が、ラストシーンによって最後にわかるしかけになっていたと、今頃気づきました。その名が受け継がれることで、ジュリアもサラの息子も、「真実を知ることの重みと価値」を受け取ったのです。
「真実を明らかにすること」を喜ばない人たちもいます。フランスでも50年以上、自国政府がユダヤ人虐殺に関わったことに蓋をし続けました。
ひるがえって、この国では。
自国政府や旧軍が、女性を性奴隷として扱った、ということについて、その事実について検証しようと歴史研究を続けている人へさえ、「国辱」「自虐史観」「歴史ねつ造」などの言葉を浴びせかける人たちがいます。その歴史検証に反対したいなら、反証となる事実を集め、検証すればいいだけです。しかし、彼らは、自分たちに気にくわないことを述べる人を、罵倒し踏みにじることしか行わない。ときには、自分たちの意見と異なるものの命を奪うことすらする。
私は、ただ、真実を知りたいのです。真実を知ることこそ、先の大戦で命を落としたアジア全土2千万人の死者に応える道だと信じているので。
ひとりのサラの真実も、70年前の戦争のためにアジアで亡くなった2000万人の一人一人の真実も、ひとしい重さで私の胸にあります。
<つづく>