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ぽかぽか春庭「サラの鍵」

2012-08-09 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/09
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(4)サラの鍵

 中東の内戦に傷ついた母親の一生を双子の姉弟がたどる『灼熱の魂』に続き、『サラの鍵』を紹介します。フランスにおけるユダヤ人検挙と収容所おくりの中で翻弄された少女の物語。やはり重く苦しい歴史の事実ですが、真実をどこまでも追求しようとすることによって、女性ジャーナリストの人生も変わっていきます。

 アメリカ人ジャーナリスト、ジュリア。フランス人と結婚し、思春期にさしかかった娘を育てながら、仕事を続けています。夫の祖父母からゆずり受けた古いアパルトマンへの引っ越しを前に、ジャーナリストとして興味を惹かれる出来事を見つけ出しました。

 夫の家族が住み続けてきたアパートの、元の持ち主一家の謎。10才の少女だったサラの一生の謎を解き明かしたいと、ジュリアはサラの足跡を辿ります。

 『サラの鍵』(英語タイトル Sarah's Key フランス語原題: Elle s'appelait Sarah彼女はサラと呼ばれた )。以下、ネタバレを含むあらすじです。

 ジュリアは、結婚後、家族とともにパリに住み、仕事をしながら一人娘を育てています。思春期を迎えた娘や夫との関係に悩み、ジャーナリストとしての仕事に行き詰まりを感じることはあっても、出身地のニューヨークに暮らす妹に電話で愚痴をこぼしつつ、仕事をこなしていました。

 夫の祖父母からゆずり受けたアパートに移り住むことになり、第二次世界大戦の前、そのアパートに住んでいたスタルジンスキー一家に興味を持ちます。一家の中で当時10才だったサラだけは、フランス・ヴィシー政権によるヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件で検挙されたユダヤ人犠牲者の名簿に死去の記録がなかったからです。サラは、収容所から脱走していたのでした。

 ナチに協力したヴィシー政権は、1942年7月16~17日にパリ市内に住むユダヤ人を一斉検挙しました。
 その朝、10才のサラは幼い弟ミッシェルを戸棚に隠し、鍵をかけます。「必ず助けに来るからそのときまで待っていて」と言い残して、サラは両親とともに屋内競輪場(ヴェルデイヴ)へ押し込められ、さらに親とも引き離されて収容所に入れられます。

 サラは弟を助けたい一心で収容所を脱出しますが、病気になり倒れてしまいます。農家の老夫婦デュフォール夫妻にかくまわれ看病される間も、サラの心は、幼い弟を救い出すことだけを望み、パリへ戻ろうとします。
 サラがパリの元のアパートにようようたどり着いたのは、弟を閉じ込めてから一ヶ月がたったあとでした。アパートにはすでに新しい住人(ジュリアの夫の祖父母一家)に売り渡されていました。弟が待っているはずの戸棚の中には、、、、。

 収容所脱出後のサラの足取りがなかなかつかめないでいたジュリアは、45才になって妊娠したことを夫に告げ、遅い第2子の出産を認めてもらおうと思いました。が、夫は、この妊娠を喜ばず、出産にも育児にももう自分には協力する意志がない、と言うのでした。育児を続ける年齢をすぎてしまった、と。
 
 第2子を諦めようとしたジュリアが病院の手術台に向かったとき、サラを助けた農家の跡継ぎから、サラの手掛かりについての電話が入ります。ジュリアは病院を飛び出して、サラの跡を追い続けます。

 サラはアメリカに渡り、ユダヤ人であったことを隠して結婚、息子を育てたのでした。ジュリアが訪ね当てたサラの夫は、サラの交通事故死のあと再婚し、息子はアメリカからイタリアに行ってシェフとして成功していました。

 サラの結婚相手だった老人は、病に伏せっていました。臨終間近くなり、息子に母親サラの死の真相を打ち明けます。しかし、息子は母親がユダヤ人であったことも母の死の真実も受け入れがたく、ジュリアにも心を開こうとはしませんでした。
 
 サラの一生を振り返ることができたとき、ジュリアは新たな決意をします。一度はあきらめた新しい命のゆくすえについて。家族との関係について。

 サラたちが閉じ込められた水もトイレもない競輪場の名をとってヴェロドローム・ディヴェール事件と呼ばれるこの出来事は、事件の後、53年間も「ないこと」にされてきました。競輪場は取り壊され、跡地には市の建物が建っています。いまわしい収容所があったことは、パリの街から消されたのでした。しかし、人々の記憶や収容者の死亡の記録は残されていました。

 1995年にシラク大統領が正式に国家の関与を認め、謝罪したことでようやく「フランスでもユダヤ人大量検挙とアウシュビッツなどの収容所送りが行われた」ということが正式に歴史の明るみにだされたのです。
 ナチによるユダヤ人虐殺は、ドイツ人だけでなく、フランス人も関与していたことに、世界は大きな衝撃を受けました。

収容されたユダヤ人の身分証明書写真を集めたパネルに見入るジュリア。400万人という単なる数字ではなく、ひとりひとりの顔写真を並べることにより、この人々がすべて罪無くして、ユダヤ人であるというそれだけで殺されなければならなかったことの悲劇が伝わります。


 そして、いっそう「何があったのか、歴史の真実を明るみに出し、真実を知ろうとすることこそ、つぎの悲劇を防ぐ方法」という歴史への認識が確認された事件でもありました。
 ジュリアがひとりの少女、サラの一生を追い続けたのも、この「真実を知ること」への情熱に動かされてのことでした。真実はつらく重いものです。実の息子の存在さえ、サラが負った深い心の傷は癒すことのできないものでした。しかし、サラの真実は、ひとつの命へとつながっていきます。

 真実を知り、それを語り継ごうとする意志によって、サラの生きた証しは、もう一人のサラに受け継がれていくのです。サラの名を受け継いだ女の子へと。
 フランス語の原題『彼女はサラと呼ばれた』というタイトルの意味が、ラストシーンによって最後にわかるしかけになっていたと、今頃気づきました。その名が受け継がれることで、ジュリアもサラの息子も、「真実を知ることの重みと価値」を受け取ったのです。

 「真実を明らかにすること」を喜ばない人たちもいます。フランスでも50年以上、自国政府がユダヤ人虐殺に関わったことに蓋をし続けました。

 ひるがえって、この国では。
 自国政府や旧軍が、女性を性奴隷として扱った、ということについて、その事実について検証しようと歴史研究を続けている人へさえ、「国辱」「自虐史観」「歴史ねつ造」などの言葉を浴びせかける人たちがいます。その歴史検証に反対したいなら、反証となる事実を集め、検証すればいいだけです。しかし、彼らは、自分たちに気にくわないことを述べる人を、罵倒し踏みにじることしか行わない。ときには、自分たちの意見と異なるものの命を奪うことすらする。

 私は、ただ、真実を知りたいのです。真実を知ることこそ、先の大戦で命を落としたアジア全土2千万人の死者に応える道だと信じているので。
 ひとりのサラの真実も、70年前の戦争のためにアジアで亡くなった2000万人の一人一人の真実も、ひとしい重さで私の胸にあります。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「灼熱の魂」

2012-08-08 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(3)灼熱の魂

 死んだはずの父親が、主人公にずっと付き添っている、という『父と暮らせば』と同様の設定をした創作が、フランス語戯曲にもあります。ワジディ・ムアワッド作『沿岸(Littoral)頼むから静かに死んでくれ』
 戯曲は、れんが書房新社 から出ています。(2010/06)
 この作品は、「約束の血」第1部として1997年に発表され、日本では静岡芸術劇場にて、ワジディ・ムアワッド作・演出のフランス語劇として2010年6月に上演されました。翻訳の字幕は出たのでしょうが、フランス語での上演ですから、私のアンテナにはまったく入ってこなかった演劇でしたが、『灼熱の魂』の第一部ということなら、戯曲を読んでみようと思います。

 ムアワッドは、1968年ベイルート(レバノン)生まれ。1975年、ムワマッドが7歳のときレバノン内戦が始まりました。レバノンには、キリスト教徒とイスラム教とがほぼ同数暮らしていましたが、独立を主導したキリスト教徒(マロン派)が政治的に優位であったため、周辺のイスラム教圏の国とさまざまな軋轢があり、ことにイスラエルとパレスチナの争いに大きな影響を受け、内戦へと進んでしまいました。

 ムアマッドは、8歳のときに家族とともに、内戦が続く故国を離れフランスへ亡命します。1983年にカナダ・モントリオールに永住し、カナダ国立演劇学校を91年に卒業しました。
 自らの劇団持って戯曲を発表、2002年にはフランス芸術文化勲章シュヴァリエを受勲するなど、戯曲執筆や演出など、多彩な演劇活動を続けています。

 ムアワッドが「約束の血」第2部として書いたのが、『焼け焦げるたましい 原題:Incendies(火事)』です。(2003年初演)
 四部作は、「約束の血」第3部『Forêt(森)』2006、「約束の血」第4部完結編『Ciels空』

 カナダ映画『灼熱の魂』は、『Incendies(火事)焼け焦げるたましい』を原作としています。

 フランス語圏ケベック州に住む双子の姉ジャンヌと弟シモンが、母ナワル・マルワンの遺言に従って、これまで知らされることのなかった実の父と兄をさがす物語。以下、ネタバレを含む紹介です。

 主人公である母は、映画の冒頭、プールで倒れ亡くなります。母は、通常の母らしい親とはどこか違っており、とくに弟は、違和感を抱き続けて成長してきました。
 母親は遺言として、双子に「父親と兄をさがすこと」を義務づけていましたが、弟は反発します。いままで一度だって、母は兄のことなど話したことはなく、父は死亡していると言われていたからです。

 ジャンヌとシモン姉弟に2通の手紙が残されます。母ナワルは、自らの葬儀について、遺言します。
 「葬儀について。棺には入れず祈りもなし、裸で埋葬してほしい。世の中に背を向け、うつぶせの状態で。
 墓石と墓碑銘について。墓石はなし。私の名はどこにも刻まないこと。約束を守れぬ者に墓碑銘はない。
 ジャンヌへ。その封筒はあなたの父親宛です。彼を見つけ、封筒を渡して。
シモンへ。その封筒はあなたの兄宛です。彼を見つけ、封筒を渡して。
 2つの封筒が相手に渡されたら、あなたたちへの手紙を開封してよい。沈黙が破られ、約束が守られる。その時初めて私の墓に墓石が置かれ、名前が刻まれる。


 つまり、ジャンヌとシモンが実の父と兄を捜し出して、ナワルからの手紙を渡さないことには、墓に名を刻むこともできない、遺言となる子ども達への手紙を読むこともできない、という内容でした。

 姉ジャンヌは一足先に母の故郷の中東を訪ね、母が過ごした過酷な内戦の歴史を知っていきます。人と人が限りなく憎しみあい、宗教の違い民族の違いによって血で血を洗い、憎悪を増幅させていく中で、ナワルがどのようにしてこの憎しみの連鎖の中から脱出し、双子の子をカナダで成人させるまでの人生をたどってきたのか。ジャンヌは数々の人々の証言をもとに母の一生を知っていきます。

 パスポートなどの遺品から、母が生まれた村を探し当てたジャンヌ。
 ジャンヌが最初に訪れたのは、母の生まれ育った辺境の村でした。通訳を通して会話する村の女たちは、最初はジャンヌに好意的だったのに、ナワルの名を耳にしたとたん、態度を変え、村の名誉を穢した女の娘を村に入れるわけにはいかない、と言います。

 ナワルは異教徒と恋に落ち、秘密裏に赤ん坊を産み落としたという過去を持っていました。その赤ん坊こそが、ジャンヌとシモンが母から手渡すよう手紙を託された兄でした。生みおとした息子を育てることを禁じられたナワルは、息子の踵に三つの星印を刻印してもらいます。いつか生きて会えるかも知れぬときの目印として。

 ナワルは、「嫁には出せぬ体」になったゆえ、大学で学んで自立することを許されます。大学での生活のなかで、ナワルは民族と民族、宗教と宗教が対立する中東の問題点を知っていきます。

 産み落としてすぐに引き裂かれた息子ニハドが、孤児院で暮らしていることを知ったナワルは、ようよう孤児院のあった場所を探しあてます。しかし、孤児院は襲撃され、子ども達は皆殺しにされたあとでした。
 また、ナワルの乗ったバスの乗客も無差別に、女も子どもも殺されました。ナワルは、孤児院やバスを襲撃した一派に対して報復を誓い、テロリストとなります。

 有力政治家暗殺を実行したナワルは、15年もの間、牢獄につながれます。
 牢獄では、15年間、拷問が続きました。すべての女囚から最も恐れられた拷問は、看守による過酷な暴力とレイプでした。ナワルは、拷問の間、歌い続けることによって自らの心を守り、15年を堪え忍びました。

 ジャンヌが政治犯の記録からたどり着いた場所は、テロリストなどの政治犯を収容する監獄でした。母ナワルは、かって中東で「歌う女」という呼び名で知られていました。15年間、牢獄につながれ、度重なる非道な拷問にも屈することなく、拷問の間中歌い続けることにより、「地獄を生き延びた女闘士」が、ナワルでした。

 母の過去を辿ることを拒否していた弟シモンも、ジャンヌのもとにやってきます。しかし、実の父と兄にはたどりつかないままカナダに戻ることになりました。
 カナダケベック州の地元で、ようやく双子が父と兄についての真実を知るときが来ます。
 母が亡くなったプールでの出来事。恐ろしく悲しい、しかし人生のひとつの真実が明らかになります。プールサイドで知った真実のために母の魂は焼き尽くされ、ナワルは心身耗弱して亡くなったのでした。

 ナワルがプールサイドで知った真実は、ギリシャ悲劇オイディプス王を思い出させるものでした。作者のムアワッドは、演出家として「オイディプス王」や「トロイアの女」を上演していますから、その作品に「オイディプス王」の悲劇を潜ませたことが、考えられます。

 もちろん、ナワルはイオカステーそのままではありません。イオカステーは自らの意志で運命を選んだのではありません。一方、ナワルは、ただ運命に従って生きたのではなく、自らの意志で異教徒との恋の結果を産み落とし、自らの意志でテロリストとなったのです。

 レイプの結果の双子を産んだあと、ナワルはレイプの相手である看守によって牢を脱出する機会を与えられます。
 カナダに渡ったのち、ナワルは地味な生活を選び、女手ひとつで、ふたりの子を育て上げました。母としての意志によってです。

 最後に、ナワルは手紙の中にこう書いたことが明らかになります。「ジャンヌとシモンの父となった男を、許す。彼を許し、愛し続ける」と。 
 ナワルからジャンヌとシモンへの手紙。
どこから物語を始める?あなたたちの誕生?―それは恐ろしい物語。あなたたちの父親の誕生?―それはかけがえのない愛の物語。あなたたちの物語は約束から始まった。怒りの連鎖を断つために。あなたたちのおかげで約束は守られ、連鎖は断たれた。やっとあなたたちを腕に抱きしめ、子守歌を歌い、慰めてあげられる。共にいることが何よりも大切……。心から 愛してる」。

 母ナワルの手紙で「自分たちの誕生によって、憎悪の連鎖を断ち切り、憎しみの増幅ではなく、愛と慰めが存在出来たのだ」と知らされた双子は、この真実の物語をどう受け止めたのでしょうか。ナワル自身でさえ、真実を知ったあと、心神耗弱して死に至ったほどの衝撃は、双子にとっていかほどのものだったのでしょうか。
 母を埋葬するシーンの双子は、おだやかに母を見送っているように思えたのですが、私が子の立場なら、受け入れることがむずかしい事実だったと思います。

 生み、育てる性=女性の強靱な美しさは、何ものによっても損なわれない。テロの嵐の中でも、残酷な真実の中でも。
 ナワルは、真実の残酷さに心折れて亡くなりましたが、強い人生を生き抜いた女性だったと思います。双子は、母の一生を心に思い、受けた命を「憎しみの連鎖を断つ」ものとして、生き続けてほしいと思うのだけれど、双子のその後は、語られていません。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「父と暮らせば」

2012-08-07 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(2)父と暮らせば

 本日、8月7日、午後1時からBSNHKプレミアムで映画『父と暮らせば』の放映があります。ぜひ、ごらんください。私も再度視聴します。

 『父と暮らせば』は、井上ひさしの舞台劇を、ほぼそのままの台詞での脚本で、映画化されています。
 舞台版では、登場人物は父(福吉竹造)と娘(福吉美津江)のふたりだけ。娘に思いを寄せる青年(木下正)は、台詞で語られるだけで、舞台に登場はしません。
2008こまつ座

 映画版では、娘(宮沢りえ)が働いている図書館のシーンがあり、図書館に資料を探しに来る青年(浅野忠信)が登場します。また、青年が原爆資料を運ぶリヤカーの移動の道筋として、焼け野原の広島の光景が再現され、原爆ドームや丸木夫妻が描いた原爆図が画面に登場します。
宮沢りえと浅野忠信
 
 広島・長崎の原爆投下は、人類がこれまでに被った最大の災厄です。地震も津波も大きな災厄ではありますが、人が人の上に人為的に成し遂げるという意味では、最大の災厄だったと言えます。1945年8月6日と9日、一瞬のうちに、20万人以上が無残な死を遂げ、原爆症での病死も入れると、広島長崎の死者は、40万人に及びます。
 その後70年近くたつ今でも、まだ、原爆症に苦しむ人がおり、被爆者に発がんリスクが高くなるという統計上の事実があります。

 アメリカでは、いまだに「戦争早期終結のために、原爆投下はやむを得なかった。この措置によって、日本本土決戦はなくなり、多くのアメリカ兵の命がムダにならずにすんだ」という、アメリカが最初に公式見解として流布した言説を信じている人も多い。

 しかし、数多くの証言や公文書情報公開によってオープンになったことから、「アメリカは、日本がポツダム宣言受諾準備をしていることを知っていた。B29の偵察により、日本にはすでに本土決戦の戦闘能力がないことも知っていた。アメリカ政府は、日本がソ連に和平工作を打診することを恐れ、トルーマン大統領は、戦後のヘゲモニー掌握のために原爆を落とした」ということが明らかになっています。
 アメリカが戦後世界の覇者となるために、広島長崎の40万人の罪のない女性や子ども、年寄りが地獄の苦しみを味わって死んでいったのです。

 そして、広島長崎で生き残った者にとっても、生き残ったこと自体が苦しみとなって、残された者の心をむしばみました。
 『父と暮らせば』は、父親と親友を原爆で失った娘美津江の長い苦しみと、その心を救い、娘を幸福に導きたいと願う父の切なる思いが交錯する物語です。以下、ネタバレを含む紹介です。未見の方、午後1時からの放映を見てからお読みください。
 
 戦後3年経つ広島で、図書館に勤めて一人暮らしを続けている美津江。
 美津江は最近「ときどき家に戻ってくるようになった父」との会話にも、何の不自然さも感じていません。戦争前、早くに亡くなった母に代わって美津江を育ててくれた父だから、今でも会話できて当然のように、仕事先の図書館のことも、昔の親友のことも話し合います。
 
 美津江の親友は、赴任先の学校の勤労動員で他市の工場勤めに配属されていました。しかし、8月6日、たまたま学校の用事のため広島に戻っていて被爆し、亡くなりました。親友の母は、「なぜ、うちの娘が死んで、あんたが生き残ったのか」と、美津江に言います。

 美津江の心の奥底には、生き残ったことへの罪悪感が澱のように沈んでいます。死んだ人のことを思えば、自分は幸福など求めてはいけないのだ、と常に言い聞かせて生きてきたのです。父と話すうち、親友の死以上に、つらい記憶で、これまでその記憶にフタをしてきたことも見つめるようになります。

 父竹造は、「幸福になることに後ろめたさなんぞ感じてはいけない。娘が幸福になることこそ、父への親孝行。わしは、娘の恋の応援団長だ」と、娘を励まし続けます。
 
 美津江が思いを寄せる木下正は、原爆の資料を集め続け、原爆の記憶を風化させまいと研究を続けている青年です。美津江もまた、親友と続けてきた「昔話を語り継ぐ」活動の先に、「原爆を語り継ぐことの大切さ」を、青年とのやりとりで、また父との会話で自分の使命として気づかされていきます。

 この作品での「父との会話」とは、美津江の心の中のふたつの内面による対話だと思います。美津江は、木下正に惹かれる思いと、多数の死者の間に生き残った自分は幸福など求めてはいけない存在だ、と自分に言い聞かせようとする罪悪感の板挟みになっています。自分の思いがふたつに分裂して、幸福を否定する自分と、幸福に向かう自分を祝福する父の会話になったのだと思われます。

 ラストに美津江が木下のために、かやくご飯を作るシーンがあります。美津江が人参を刻む包丁のリズムが、記憶を蘇らす刻印でもあるかのようにトントンと空に昇っていきます。そこは原爆ドームからのぞく青空があります。
 美津江は、晴れ晴れとした顔になり、「おとったん、ありがとありました」と、父への感謝を語ります。
 
 自分が経験し、見て来たことを次世代に伝えること。なんら付け加えたり改変したりせずに、ありのままを伝えること」この使命を自覚することで、美津江の思いは昇華していきます。

 多くの災害で、生き残った者が死んでしまった人に対して罪悪感を感じてしまうことは、社会心理学の研究でも明らかにされています。美津江が親友に対して感じたように、なぜ、あの人が死んで、自分の方が生き残ったのかと、思いは沈潜してしまいます。
 3年間、美津江が思いを封じ込めてきたのと同じように、災厄の記憶を封じ込めてしまった人もいるのではないかと思います。でも、美津江が到達したように、思いは封じ込めることでは決して消えてしまわない。語り継ぎ、真実を伝えることで、記憶は昇華するのです。

 映画ラストシーンでは、美津江の上へカメラがパンして昇っていくと、原爆ドームの屋根になります。内部からドームの屋根を見上げる映像です。

 以下の画像は原爆ドームを内部から見たというストリートビューからのものです。
 Googleは2011年8月に広島市の協力のもと、通常では立ち入りできない建物内部を360度撮影し、公開しました。
 原子爆弾投下から66年経った内部のストリートビュー公開によって、「日本のみならず世界中の人々が少しでも広島について興味を持ち、原爆ドームさらには平和について考えるきっかけになることを祈っています」というのが、Google社のコメント。去年の夏のことなのに、広島市とGoogle社がそんなコラボレーションをしていたなんて、私は知りませんでした。


 心の中に閉じ込めたままの思いがあるなら、どうぞ、心からそれを無理にでも引き出し、語り伝えてください。どのようなつらい記憶であっても、真実の心の叫びとして、さまざまな災厄の記憶を語り伝えてくださることで、亡くなった人も、ともに私たちとここにいることができます。



<つづく>

文蛇の足跡:
 宮沢りえ、ママと離れない限り、いつかは離婚すると思ったけれど、離婚協議は進んでいるのかしら。離れて暮らす夫よりも、女優業を優先させることを選んだりえちゃん、女優としてますます美しく大きく強く羽ばたいてください。
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ぽかぽか春庭「女はたたかい続ける」

2012-08-05 12:00:00 | エッセイ、コラム
2012/08/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(1)女はたたかい続ける

 第30回目のオリンピックがロンドンで開催されています。
 わが家、開会式は録画で見たのですが、ほとんどの競技をライブで見ています。ライブじゃなければダメなんです。私がロンドン方向へ送る念によって、勝敗が決まってしまうので、、、、、。

 北島が個人種目でメダルに届かなかったのも、彼はせいいっぱい闘ったのに、私の送る念が、4時起きの眠気のために弱かったから、、、、、、北島はよくやった!
 アーチェリー古川選手とバドミントンのフジカキ。準決勝はライブで見たから勝てたけれど、決勝は録画にしたので、銀でした。銀でもうれしいけどね。藤井瑞希選手と垣岩令佳選手、上位ランキングダブルス失格というラッキーも手伝ってのことだったけれど、よくがんばりました。ごめんね、決勝ライブで念をおくれなくて。眠かったので。

 娘と息子は中学高校で水泳部の選手だったので、競泳種目は予選からすべてライブ応援。朝の4時頃、「母、北島200の予選だよ」とか「入江の決勝が始まるよ」と、起こしてくれるので、いっしょに応援しています。(水泳選手だったと言っても、その実力のほどは、区大会では優勝したけれど、辰巳プールの都大会では予選落ち、といったところでしたから、オリンピック選手のすごさを、肌身で感じられるようです)

 女性競泳も、鈴木選手や寺川選手の活躍に胸躍りました。8月5日未明、競泳最後の日には、男子メドレーリレー銀メダルと共に、女子メドレーリレーも3位銅メダルとなり、大喜びで応援を終えることができました。

 人が挑戦する姿の美しさを味わい、努力を続けてその道の第一人者となるまでの軌跡の力強さに励まされながら、観戦をつづけています。

 より強くより高くより速く、人より勝っている身体能力を見せる場として、古代オリンピアを真似た競技会が開かれたのが、1896年ギリシャのアテネ大会。
 オリンピックは、当初から近代国家発揚の場ともなりました。現在でも、「日本は、金メダル争いで、他国に負けている」など、「国と国との代理戦争」のように勝利を争うことを前面に出したい人々も多い。

 オリンピック競技開催の上で、1回目とそれ以降に参加種目などは違いはあるものの、多くは踏襲されています。しかし、第1回目が、現在とまったく異なる点がひとつあります。第1回目の出場選手には、女性がひとりもいません。近代オリンピックの提唱者クーベルタン男爵が、スポーツは男性のもの、という主張を曲げなかったからです。

 第2回目のパリ大会では、ゴルフとテニスに12人の女性選手が参加。1066人の参加者中の12人ですから、1%ほどの女性参加率。以後、第3回セントルイス大会でアーチェリー、第4回ロンドン大会ではアーチェリー、フィギアスケート、テニス、第5回ストックホルム大会では、水泳、飛び込み、テニスと、男性側から見て「女性が優美に参加できる種目」が「女らしさを損なわない種目」として認められるようになりました。

 第30回ロンドン大会がオリンピック史上画期的となったのは、女性参加のない競技がひとつもないこと。これまで女子種目がなかったボクシングにも女子が加わったことで、すべての種目での女性出場が可能になりました。また、イスラム教徒の女性が頭を覆うヒジャブの着用が認められたため、イスラム圏の国からの女性選手が柔道などにも参加できることになり、史上初めて、全団体に女性選手が出場する大会となりました。

 逆に、シンクロナイズドスイミングと新体操で、男子出場がないのは残念。男子シンクロは、映画『ウォーターボーイズ』を見ても、とてもかっこよかったし、男子新体操は、国際大会があるのですから、オリンピック種目に加えて欲しいです。

 筋肉の力の違いなどから、男女が混合で闘うのは、球技の混合ダブルスなどに限られるでしょう。でも、オリンピックで、男女がほぼ平等にスポーツができるようになったことは、現代において「女性がやって出来ないことはない」ことの証明のように思えます。(男性がやってできないことは、出産と母乳の授乳ですけれど)
 いろいろな種目での女性選手の活躍に、心躍らせながら応援を続けています。

 個人の活躍はうれしく、その活躍が「国威発揚の場」となることには抵抗を感じるほうなのですが、参加国の中、ふるさとの名を負うことのできない選手もいたことを知ると、「国の名を背負っての参加」に対しても、複雑な思いがします。

 コソボ出身のマイリンダ・ケルメンディ選手(21才)のニックネームは「コソボのヤワラちゃん」、とっても美人さんです。2009年世界ジュニア52kg級で優勝し、シニアになってからの世界ランキング7位の有力選手です。しかし、彼女はふるさとコソボの名のもとでの出場がゆるされませんでした。

 ユーゴスラビアが、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6ヶ国に分裂独立した際、コソボは2008年に独立宣言をしました。しかし、独立が認められず、セルビアに所属する自治州とされました。現在に至っても、国連もオリンピック委員会もコソボ独立を承認しておらず、彼女は、コソボ代表としてはオリンピックに出場できません。

 コソボからの出場ができないため、他の国から「我が国の選手として出場してくれれば、優遇する」という国籍変更を打診されたけれど、彼女は、いつかコソボが認められる日を待ち、自身の持つ二重国籍のうち、アルバニアの選手として女子柔道に出場しました。今回は、残念ながら2回戦の試合で、モーリシャスの選手に一本負けしましたが、まだ若いコソボのやわらちゃん、これからもがんばってほしいです。

マイリンダ・ケルメンディ選手

 平和の祭典と言われるオリンピックでさえ、地上の争いの影響がそのまま出てしまうことをあらためて考えさせられた、ケルメンディ選手の国籍問題でした。
 人類は、いつまで争いあうことをやめないのか。武力で争うことのない世界の象徴としてのオリンピックだったはずだけれど。

 人類が二足歩行して大地に立って以来、様々な災厄と争いが、鋭い牙も爪も持たず頭に角もない、このか弱き哺乳類を襲ってきました。か弱き哺乳類は、牙も爪もないゆえ、二足歩行で空いた手に石くれやら棒やらを握りしめ、集団生活することによって生き延びてきました。
 二足歩行をするようになって以来、子宮からするりと産み落とす機能が身体から失われ、生む性は出産前後の身の安全が保てなくなり、集団に守ってもらうことなしには子育てもできなくなりました。

 出産の業がない男たちは、手に持った石くれや棒をつなぎ合わせて棍棒や槍や弓矢に変えて、己の力を見せつけることが、他者への威嚇にもなり、内の集団内でより多くの異性をひきつける魅力ともなりました。
 一方、女は、よりか弱く、男を頼る風情を見せるほうがずっと生きやすいことを幼いころから学習して成長します。
 男はより強く、他者に勝る一点を持つことがよりよい生き方に通じ、女は美しくあることかつ「守ってもらえる情態」を備えることが、より生き延びやすい生き方なのでした。

 さまざまな災厄が女性の身にふりかかった中、女性はそのしなやかな思考と知恵で災厄をかいくぐってきました。
 時代が変わり、今、女性は自らを守ることのできる社会を作り上げることもできるように思えます。これまでの、長い苦難の道のりを振り返り、過去の災厄の中に、女性がどのようにおかれてきたのかを知ることは、きっとこれからの女性のためにも意味のあることと思います。

 今回のシリーズ、4本の映画、『父と暮らせば』『灼熱の魂』『サラの鍵』『やがて来たる者へ』の紹介です。
 8月7日、BS・NHKから『父と暮らせば』が放映されます。ぜひごらんください。

<つづく>
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ぽかぽか春庭2012年7月目次

2012-08-01 23:59:59 | エッセイ、コラム
2012年7月目次


07/03 ぽかぽか春庭ブックスタンド>2012年3月~6月のブックスタンド(1)上半期ベストセラー
07/04 2012年3月~6月のブックスタンド(2)栞子さん

07/06 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(1)シェークスピアのじゃじゃ馬
07/07 明治の語彙(2)山本夏彦の『文語文』礼賛論
07/08 明治の語彙(3)山本夏彦の『完本文語文』
07/10 明治の語彙(4)文語文「南蛮鴃舌(なんばんげきぜつ)」
07/11 明治の語彙(5)文語文衰退どころか日本語消滅
07/13 明治の語彙(6)露伴の語彙、文(あや)のことば

07/14 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>平成ギャル語(1)未来日本語訳
07/15 平成ギャル語(2)ギャル語訳『春はあけぼの』
07/17 平成ギャル語(3)平成ギャル語会話

07/18 ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>十二単日記201207老いの小文(1)らくらく
07/20 老いの小文(2)老人の肖像
07/21 老いの小文(3)老いの美学・日本語の美
07/22 老いの小文(4)老いの繰り言

07/24 ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>2012年前期(1)学期末風鈴
07/25 2012年前期(2)パラオ語になった日本語
07/27 2012年前期(3)アボリジニアートの絵文字
07/28 2012年前期(4)日本語の大きさクイズ
07/29 2012年前期(5)私の奥様・日本語の親戚
07/31 2012年前期(6)ザル頭の夏休み
コメント (2)
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