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ぽかぽか春庭「さんふん、よんふん、ごふん」

2018-06-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180603

ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>言葉は生々流転(2)さんふん、よんふん、ごふん

 ウェブ友ほうせんさんは、美しいペン字をお書きになる。ほうせんさんのもとに届く硬筆月刊誌に、面白い記事があったと紹介しておられました。(2018年3月)
 ペン字の会報に書かれていた文章。
 「最近の若者は、にふん、さんふん、よんふん、ごふん、と発音している。これは正しいのか」と。

 「時刻や時間を表す“分”なのですが、私は、いっぷん(1分)にふん(2分)さんぷん(3分)よんぷん(4分)と発音しますが、若い人たちは1分2分は同じですが、3分4分は「さんふん」「よんふん」と發音する人がいます。

 地元大阪の訛りかもと思ったのですが、テレビの全国版ニュースでも記者が何分(なんぷん)を「なんふん」といっていたのには驚きました。
 これが正しいのかどうかわかりませんが・・
・」


 直接おたずねがあったわけではないのですが、日本語教師春庭、おせっかいですから、コメントに日本語の発音変化について書きました。

 「分の発音。基本は、日本語は「ん」のあとに「は行」がくると、は行は「ぱぴぷぺぽ」に代わります。でも、若者はこの法則にあてはめず、「ん」のあとも「は行」のまま。
本復 ほん+ふく→ほんぷく
感服 かん+ふく→かんぷく
三分 さん+ふん→さんぷん

 平安時代頃までは「ん」のあとに「あいうえお」がくると、音が変わりました。
天(てん)+皇(おう)は、「てんおう」とならず、Ten+ ou→tennou「てんのう」になりました。
 観音(かんのん)は、kan+ on→ kannonになりますから、「かんおん」ではなく、「かんのん」です。
 反応なども同じ。これらの発音のことを「連声れんじょう」といいます。

 ところが、江戸期以後になると、田園はden+enなので、「でんねん」となるべきところが、「でんえん」となっています。
 きっと(江戸時代の)若い世代が「でんえん」と言い出したのでしょうね。そのころの古学者たちは、「でんえん」なんぞと、まちがった発音の語がはやるようになった、と憤慨したことでしょう。

 日本語の発音は、時代によってどんどん変わっていきます。「さんふん、よんふん」の発音変化に気づいたところは、ほうせんさんのおっしょさん(お師匠さんから変化)は、発音に敏感な方なのですね。文字を美しく描くには、音にも敏感な方なのだと感服いたしました。

 感服は「かん+ふく→かんぷく」です。
 若い人たちが「かんふく」と発音するようになるのは、いつごろでしょうか。

~~~~~~~~~

 以上のコメント、ほうせんさんのおっしょさんにも納得していただけたとのこと。日本語の発音変化、文法変化、さまざまな変化が、少しずつ日本語を変えていっています。もし、ことばが変わらずにいるものならば、私たちは、縄文時代のことばを使っているはずですし、少なくとも、日本語を文字で書き表すことができるようになった奈良平安時代からは不変のはず。しかし、昔も今も、日本語はどんどん変化していきます。言葉は生きているから。

 若者が使う「乱れた日本語」を憂える人々、あなたが「田園」を「でんねん」と発音しているなら、現在進行中の「乱れた日本語」について憤る資格があります。古来の発音を死守していらっしゃるけなげな方。
 
 「~できる」を表す可能形、江戸時代までの五段動詞可能形を使っていますか。
 行くことができる 江戸時代:いかれる 現代語:行ける
 読むことができる 江戸時代:よまれる 現代語:読める
 死ぬことができる 江戸時代:しなれる 現代語:死ねる

 (用例)河竹黙阿弥「文弥殺し」
十兵衛「馬鹿なことを言ったものだ。たとえ死にたいと言っても命があれば死なれるものじゃあねぇ」
 現代語では、「たとえ死にたいと言っても、命があれば死ねるものじゃあねぇ」になります。

 可能形は受身形と混同しやすいゆえ、現代語の新しい可能形が成立しました。一段動詞の場合も同じです。
 食べることができる 現代70年代まで:食べられる 現代若者語:食べれる
 見ることができる  現代70年代まで;見られる  現代若者語:見れる

 自分が生まれる前の日本語変化は、だれも自然に受け入れています。しかし、生まれて以後、日本語を身につけたあとの変化は受け入れがたいのが人の常です。
 無理に若者日本語を口にすることはないですが、「乱れた日本語」と感じた時、それは「変化途上の日本語である」と思ってください。変化は止められないのです。

 漢字の読み方も、時代によって変化しました。
 洗浄は、旧字では洗滌と書き、「せんでき」と読みました。しかし滌の字をジョウと読み誤る人が多かったため、センジョウが通常の読み方になり、漢字も洗浄に代わりました。洗滌「せんでき」のほうが元の読み方、せんじょうは慣用読みと辞書にはありますが、おそらく「胃をせんできした」という人は、戦前に医学教育を受けた人以外では少ないでしょう。

 稟議(りんぎ)も、慣用読みです。元は「ひんぎ」でした。会議の前に、稟議書をひんぎしょと呼ぶ人、おそらくいないにちがいない。
 現代人にとって、自分が生まれる前にすでに慣用読みが定着していた洗滌も稟議も、すなおに受け入れています。

 貼付は「ちょうふ」でした。テンプと読まれるようになり、現代語では添付が採用されています。

 であれば、将来、「著す」を「チョす」と読んだり、一足飛びを「ひとあしとび」という読みかたが定着したとして、そうお怒りにならないよう。
 ちなみに、春庭、一段落(いちだんらく)を「ひとだんらく」ということあります。依存心は、確実に「いぞんしん」と発音しております。正しくは「いそんしん」です。

 先日、NHKのアナウンサーが「カンツイしました」と発言。おそらく「完遂かんすい」の読み誤りと思いましたが、ま、しかたないでしょうと、首を傾げるにとどめました。
 今のところ「かんつい」は「かんすい」の誤読、と辞書には出ていますが、50%以上が「かんつい」派になれば、辞書も「完遂かんつい、元は「かんすい」という読み方であった」と、載ることになるでしょう。

ということで、「乱れた日本語」に心乱されていらっしゃる心正しき方々、みこころのやすからんことを。 

<つづく>  
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ぽかぽか春庭「言葉は生々流転、そうなんですかぁ」

2018-06-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180602
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>言葉は生々流転(1)そうなんですかぁ

 ジャズダンスの先生が、レッスンを始める前に、怒り表情で(若者用語では、プンプン激オコ。もうすたれている言い方かも)、「e-Naちゃん、日本語の先生だから聞きたいんだけれど」と近づいてくる。おっと要注意。若く見えるけれど、ミワ先生も古希。この世代が言葉について物申すときは、若い世代の物言いが気に入らない時がほとんどです。

 「あいずちを打つときね、若いアナウンサーなんかが、そうなんですかぁ、とか、そうなんですぅって言っているの、あれ、日本語としてどうなの」とのおたずね。やっぱりね。
 「それにね、おいしいもの食べてもヤバイって言うの、どうにかなんないの、あんな言い方」

 日本語教師は、おっとり答える。
 「はい、どうにもなりません。日本語を話す人口の50%が使うと、三省堂辞書に載ります。80%が使うと広辞苑にのります。ヤバイを誉め言葉に使う、というのは、すでに三省堂に書かれています」
 「ええ~、そうなの?」
 2009年には、ヤバイの意味説明が、三省堂国語辞典 第六版では、「危険、悪いこと」のほかに、「すばらしい。むちゅうになりそうで あぶない」と出ています。もう10年前ですから、定着しています。

 e-Naちゃんから先生に逆質問
 「先生、超絶技巧のすばらしい踊りを見たとき、すご~い!って、いうことありますか」
 「いうこともあるわね」
 「すごいっていうのは、平安時代までは<すごし>ということばで、ぞっとするほどおそろしいという意味でした。それが、ぞっとしてふるえがくるほどすばらしいという意味が付け加わって、紫式部も源氏物語で使っています。たぶん、さいしょは、すごしを誉め言葉につかうことに非難ごうごうだったんだとおもいますけれど、千年たってみれば、すご~い、は、ごく普通に誉め言葉として使います。つまり、自分が生まれる前の変化は受け入れられる、自分が生きてしゃべっている間の変化は受け入れられない、というだけのことです」

 先生は「そうなんですかぁ」という相槌ことばが気に入らないので、テレビ局に投書したのだけれど、受け入れられなかったので、憤懣を私にぶつけてきたのでした。
 先生は相手に同意するときの相槌としては、「左様でございますか」を使いたいらしい。

 私は、相手に同意を示したつもりで「なるほど」を多用するタレントに違和感を感じたことあるけれど、それはひとつひとつに「なるほど」を連発するボキャブラリーの貧困(ボキャ貧)にたいして感じたことであって、「左様でございますか」だって、こればかり使われたら違和感を感じるでしょう。
 
 さまざまな言葉の意味変化、文法的な使い方の変化(例:見れる、食べれる、というら抜き言葉)も、自分が言葉を話し出す以前の変化であるなら、当然のこととして受け入れます。

 受け入れられない言葉が出てきたということは、年をとった、ということです。
 自分が気に入らないことばは、若者に迎合して使うことはない。拒絶して「自分の前では、おいしいものを食べて、ヤバイとか言うな」と、釘を刺しておきましょう。

 でも、さまざまなことばの変化、あと百年たてば辞書に載っています。あと百年日本語が話されているとしてですが、今の状況では、百年後の日本語の未来おぼつかない。若者言葉が日本語を滅ぼすのではありません。
 子供を育てる親が、「英語をペラペラ話せるほうがきちんとした日本語を話すよりも、よい職場に就職できて、よりよい生活ができる」と感じたら、その時点で日本語はおわり。
 ま、日本語滅びる前に日本語教師生活もとっくに終わっているだろうから、私の生活には影響ないかもしれないけれど、1300年の言語文化が伝わらなくなるのは惜しい。
 
<つづく> 
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