岩下地区は、韮崎市役所の東約1kmのところ
JR中央本線にらさき駅の南側、韮崎小学校の東側のガードを潜り
塩川を渡ります、渡って直ぐを北へ入り道なりに北へ進むと
参道入口の鳥居が見えて来ます、参道を進むと境内に入ります
神社北側の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道入口です
鳥居の説明版です
県指定文化財
勝手神社の石鳥居
1、所在地 韮崎市韮崎町岩下 勝手神社境内
1、指定年月日 昭和34年2月9日
説明
勝手神社は、社記によれば、祭神は正哉吾勝勝速日天穂耳尊
・愛鬘命・武甕雷命の三柱で、村上天皇の御代、応和元年(9
61)に大和国吉野山から勧請した古社である。この石鳥居は
形式は明神鳥居で石質は安山岩。高さ1,72m、柱間々幅1
,20mの、まれに見る小形の鳥居である。右柱に「二位」、
左柱に「仲書記 本願」、貫には、五行にわたり、「時天禄元
庚午十月 奉破損 文政二 己卯四月」と刻してある。破損
とは、当時の用語で、修理の意味である。
しかし、文化11年(1814)に成立した「甲斐国志」に
は、「石華表、高さ六尺、柱囲四尺許、命禄元庚子十月日 二
位 仲書記本願 ト刻セリ」とある。命禄は私年号で、その元
年は、武田信虎治世の天文9年(1540)に当たり、天禄元
年を降ること570年である。この石鳥居が天禄元年庚午のも
のであるか、又は命禄元年庚子のものであるか、その決め手と
なるべき修理以前の古い貫の所在が、昭和48年11月、韮崎
市誌の文化財部門執筆委員植松又次氏により発見された、氏は
精密な拓影を検討した結果、当初命禄元庚子と刻したものが、
後年、天禄元庚午と改刪されたものであると、明快に断定を下
した。したがって、従来天禄元年と一般に是認されてきたこの
石鳥居の造建年次は、ここにおいて命禄元年、すなわち天文9
年と修正するものである。その結果、室町末期の形式を持つ鳥
居として見ることになるが、太い柱に幅狭い島木、笠木を載せ
た具合、その厚さの比率、更に全体的な真反り等、捨て難い趣
がある。
峡北地方は、本県の中世以前の石鳥居の遺構が、最も濃密に
分布している地域であるが、この鳥居は、それらの代表作とみ
られる。
山梨県教育委員会
韮崎市教育委員会
勝手神社です
狛犬です
手水舎です
神社由緒碑です
かけまくも畏き勝手明神は全国に三社、当社はその一社である。
高く聳ゆる御神木、天禄元年二位仲書記本願と刻む時代を経た石
鳥居、文明10年幸満霊魂の石塔等を保存し、神社、伝説、腰巻社
家が一体となり今日に及ぶ。天文3年腰巻長門守盛家が神主の頃に
は、天禄の鳥居正面、小山の上に本殿があった。慶長・明和と村に
大火があり、社家・本殿・古記を失った。防火の為に、現在の位置
に本殿を再建し。又、安永4年に新鳥居を建てた。塩川の水害は徳
川時代に激しく、鎮座の小山は自らを暴流にけずらせて氏子の家々
を守り、遂に平地となった。
岩下は信州への要路、塩川・釜無川渓谷文化の入り口の由緒深い
里で信玄公は韮崎合戦の時、境内を本陣として勝、深く尊信せられ
し由。時移りて文政2年には、倒木による天録の鳥居の破損を修理
した。随身門・庁の屋などは、明治中期まで残っていて荒廃の姿は
悲しまれた。
この度誰いうとなく、神域整備の声が起り、力を合わせて安らけ
くその功を終えた。これこそ先祖代々の敬神の志を継ぐ大考にて、
八百万の神々もみそなわし、朝日の豊栄登りに行末長く守らせ給う
所である。
昭和44年秋 篆額 山梨県知事 田辺國男
撰文 文学博士 伊木壽一
文学博士 小池藤五郎
今川峰瑞 謹書
社殿正面の境内に目的のケヤキです
天然記念物標柱です
市指定文化財 天然記念物
勝手神社のケヤキ
昭和46年7月1日指定
所有者 韮崎町岩下勝手神社
平成8年1月31日再建
北側から
北東側から、目通り幹囲6,0mの巨木です
拝殿です
拝殿右手のケヤキの大木です
境内社です
では、次へ行きましょう
JR中央本線にらさき駅の南側、韮崎小学校の東側のガードを潜り
塩川を渡ります、渡って直ぐを北へ入り道なりに北へ進むと
参道入口の鳥居が見えて来ます、参道を進むと境内に入ります
神社北側の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道入口です
鳥居の説明版です
県指定文化財
勝手神社の石鳥居
1、所在地 韮崎市韮崎町岩下 勝手神社境内
1、指定年月日 昭和34年2月9日
説明
勝手神社は、社記によれば、祭神は正哉吾勝勝速日天穂耳尊
・愛鬘命・武甕雷命の三柱で、村上天皇の御代、応和元年(9
61)に大和国吉野山から勧請した古社である。この石鳥居は
形式は明神鳥居で石質は安山岩。高さ1,72m、柱間々幅1
,20mの、まれに見る小形の鳥居である。右柱に「二位」、
左柱に「仲書記 本願」、貫には、五行にわたり、「時天禄元
庚午十月 奉破損 文政二 己卯四月」と刻してある。破損
とは、当時の用語で、修理の意味である。
しかし、文化11年(1814)に成立した「甲斐国志」に
は、「石華表、高さ六尺、柱囲四尺許、命禄元庚子十月日 二
位 仲書記本願 ト刻セリ」とある。命禄は私年号で、その元
年は、武田信虎治世の天文9年(1540)に当たり、天禄元
年を降ること570年である。この石鳥居が天禄元年庚午のも
のであるか、又は命禄元年庚子のものであるか、その決め手と
なるべき修理以前の古い貫の所在が、昭和48年11月、韮崎
市誌の文化財部門執筆委員植松又次氏により発見された、氏は
精密な拓影を検討した結果、当初命禄元庚子と刻したものが、
後年、天禄元庚午と改刪されたものであると、明快に断定を下
した。したがって、従来天禄元年と一般に是認されてきたこの
石鳥居の造建年次は、ここにおいて命禄元年、すなわち天文9
年と修正するものである。その結果、室町末期の形式を持つ鳥
居として見ることになるが、太い柱に幅狭い島木、笠木を載せ
た具合、その厚さの比率、更に全体的な真反り等、捨て難い趣
がある。
峡北地方は、本県の中世以前の石鳥居の遺構が、最も濃密に
分布している地域であるが、この鳥居は、それらの代表作とみ
られる。
山梨県教育委員会
韮崎市教育委員会
勝手神社です
狛犬です
手水舎です
神社由緒碑です
かけまくも畏き勝手明神は全国に三社、当社はその一社である。
高く聳ゆる御神木、天禄元年二位仲書記本願と刻む時代を経た石
鳥居、文明10年幸満霊魂の石塔等を保存し、神社、伝説、腰巻社
家が一体となり今日に及ぶ。天文3年腰巻長門守盛家が神主の頃に
は、天禄の鳥居正面、小山の上に本殿があった。慶長・明和と村に
大火があり、社家・本殿・古記を失った。防火の為に、現在の位置
に本殿を再建し。又、安永4年に新鳥居を建てた。塩川の水害は徳
川時代に激しく、鎮座の小山は自らを暴流にけずらせて氏子の家々
を守り、遂に平地となった。
岩下は信州への要路、塩川・釜無川渓谷文化の入り口の由緒深い
里で信玄公は韮崎合戦の時、境内を本陣として勝、深く尊信せられ
し由。時移りて文政2年には、倒木による天録の鳥居の破損を修理
した。随身門・庁の屋などは、明治中期まで残っていて荒廃の姿は
悲しまれた。
この度誰いうとなく、神域整備の声が起り、力を合わせて安らけ
くその功を終えた。これこそ先祖代々の敬神の志を継ぐ大考にて、
八百万の神々もみそなわし、朝日の豊栄登りに行末長く守らせ給う
所である。
昭和44年秋 篆額 山梨県知事 田辺國男
撰文 文学博士 伊木壽一
文学博士 小池藤五郎
今川峰瑞 謹書
社殿正面の境内に目的のケヤキです
天然記念物標柱です
市指定文化財 天然記念物
勝手神社のケヤキ
昭和46年7月1日指定
所有者 韮崎町岩下勝手神社
平成8年1月31日再建
北側から
北東側から、目通り幹囲6,0mの巨木です
拝殿です
拝殿右手のケヤキの大木です
境内社です
では、次へ行きましょう