続きです
赤穂市役所の南西約4kmのところに赤穂城跡が在ります
JR山陽本線あこう駅前から南へ入ったところです
城跡の北東側に歴史博物館があり
駐車場が有りますので利用させていただきました
大石神社から本丸へ向かいます
三の丸丸と二の丸間、二の丸門の東側の堀です
二の丸外堀です
西側の堀の二の丸側には石垣が築かれています
二の丸門跡説明版です
二の丸門跡
赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から
入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命、慶安元年(1648)
より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した
甲州流軍学の海岸平城である。
ここ二の丸門跡は二の丸の入り口として、虎口はやや南よりの西
方白虎に開かれた切妻式櫓門が構られていた。二の丸門虎口の縄張
りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行が、承応2年(16
53)に変更したと言われる。
文久2年(1862)には、この付近で赤穂藩国家老森主税が、
藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。この事件は、文久事件と呼
ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討『高野の復讐<
和歌山県高野町>』の発端となった。
また、二の丸門をはさんだ、東方の東隅櫓台にかけての石垣土塁
は、明治25年(1892)千種川の洪水による被害復旧と流路変
更のため、築石として使用され取り除かれた。
平成10年3月 赤穂市教育委員会
大石頼母助屋敷門です
説明版です
中を覗くと、二之丸庭園です
本丸入口です
西側の堀です
東側の堀です
本丸門の説明版です
国史跡赤穂城本丸門(復元)
本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治10年を
後半の取壊しまでの約230年間存続していました。
現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業
として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて、総事
業費約6,7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。
この平成の復元は、明治じだいの古写真をもとに、古絵図をはじめ
とする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩に
よる枡形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時
の姿によみがえらせています。
平成8年11月 赤穂市教育委員会
本丸門です
本丸門を入ると御殿跡の平面展示があります
庭園です先に天守台があります
本丸庭園の説明版です
天守台登り口です
南側登り口から天守台上部です
南側
東側です
西側には御殿跡を見下ろします
北側の厩口門の白壁が見えます
説明版です
赤穂城本丸
赤穂城は、藩主御殿のある本丸と、その周囲を取り囲む二之丸、
そして外側に曲輪が取り付く三之丸の三つの曲輪によって構成され
ています、二之丸には二之丸庭園をはじめ馬場や米蔵などがあり、
三之丸には城の守りを兼ねて家臣が住んでいました。
藩主の住んでいた本丸には、本丸御殿の南側には大泉池が広がり
御殿の内側から鑑賞することができました。このほか御殿内部の坪
庭や、本丸北西部に「くつろぎ」と呼ばれた池泉もあり、藩主の生
活を潤しました。
なおこれらの泉池のみならず生活のための水は、すべて約7km
上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われました。
赤穂城本丸天守台からの風景
赤穂城の築かれた、寛文元(1661)年は、江戸開府からすで
に60年以上経過しており、このころの城郭は防備の拠点ではなく
経済の拠点としての役割を担っていました。赤穂城に天守が築かれ
ず天守台のみとなっているのも、こうしたことが理由の一つとされ
ています。しかし、浅野長直が築いたこの天守台からは、大変素晴
らしい眺望を得ることができます。
当時の赤穂は製塩業が活発化しはじめたころで、近隣地域から製
塩技術者を移住させて、東浜塩田の開発を本格化差せていました。
広大な西浜塩田の開発は森時代をまたなければなりませんが、眼前
に広がる穏やかな瀬戸内海とともに、東浜塩田が着々と干拓されて
いくさまを、藩主は眺めることが出来たのでしょう。
天守台を下りて来ました、厩口門本丸側です
南側の堀です
北側の堀です
厩口門を二の丸側から見ました
説明版です、発掘調査と絵図面などから5年をかけて復元されました
三の丸へ戻って武家屋敷公園です
案内板です、城の重要な門の警備のために重臣の屋敷がはいちされていました、板田式右衛門の屋敷跡だそうです
中を覗くと芝で屋敷跡が平面展示になっています
歴史博物館が見えて来ました
清水門跡です
駐車場に戻り、次へ行きましょう
赤穂市役所の南西約4kmのところに赤穂城跡が在ります
JR山陽本線あこう駅前から南へ入ったところです
城跡の北東側に歴史博物館があり
駐車場が有りますので利用させていただきました
大石神社から本丸へ向かいます
三の丸丸と二の丸間、二の丸門の東側の堀です
二の丸外堀です
西側の堀の二の丸側には石垣が築かれています
二の丸門跡説明版です
二の丸門跡
赤穂城は、正保2年(1645)に浅野長直が常陸国笠間藩から
入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命、慶安元年(1648)
より13年に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成した
甲州流軍学の海岸平城である。
ここ二の丸門跡は二の丸の入り口として、虎口はやや南よりの西
方白虎に開かれた切妻式櫓門が構られていた。二の丸門虎口の縄張
りの一部は、浅野長直に仕えた軍学者山鹿素行が、承応2年(16
53)に変更したと言われる。
文久2年(1862)には、この付近で赤穂藩国家老森主税が、
藩改革を唱える藩士たちに暗殺された。この事件は、文久事件と呼
ばれ、明治4年(1871)の日本最後の集団仇討『高野の復讐<
和歌山県高野町>』の発端となった。
また、二の丸門をはさんだ、東方の東隅櫓台にかけての石垣土塁
は、明治25年(1892)千種川の洪水による被害復旧と流路変
更のため、築石として使用され取り除かれた。
平成10年3月 赤穂市教育委員会
大石頼母助屋敷門です
説明版です
中を覗くと、二之丸庭園です
本丸入口です
西側の堀です
東側の堀です
本丸門の説明版です
国史跡赤穂城本丸門(復元)
本丸門は築城時(17世紀中頃)の建造と推定され、明治10年を
後半の取壊しまでの約230年間存続していました。
現在の本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業
として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて、総事
業費約6,7億円をかけて平成8年3月に完成したものです。
この平成の復元は、明治じだいの古写真をもとに、古絵図をはじめ
とする文献類、発掘調査の成果を総合的に検討して赤穂産の花崗岩に
よる枡形石垣、国産材を使用して昔どおりの伝統工法によって、往時
の姿によみがえらせています。
平成8年11月 赤穂市教育委員会
本丸門です
本丸門を入ると御殿跡の平面展示があります
庭園です先に天守台があります
本丸庭園の説明版です
天守台登り口です
南側登り口から天守台上部です
南側
東側です
西側には御殿跡を見下ろします
北側の厩口門の白壁が見えます
説明版です
赤穂城本丸
赤穂城は、藩主御殿のある本丸と、その周囲を取り囲む二之丸、
そして外側に曲輪が取り付く三之丸の三つの曲輪によって構成され
ています、二之丸には二之丸庭園をはじめ馬場や米蔵などがあり、
三之丸には城の守りを兼ねて家臣が住んでいました。
藩主の住んでいた本丸には、本丸御殿の南側には大泉池が広がり
御殿の内側から鑑賞することができました。このほか御殿内部の坪
庭や、本丸北西部に「くつろぎ」と呼ばれた池泉もあり、藩主の生
活を潤しました。
なおこれらの泉池のみならず生活のための水は、すべて約7km
上流から取水された旧赤穂上水道によって賄われました。
赤穂城本丸天守台からの風景
赤穂城の築かれた、寛文元(1661)年は、江戸開府からすで
に60年以上経過しており、このころの城郭は防備の拠点ではなく
経済の拠点としての役割を担っていました。赤穂城に天守が築かれ
ず天守台のみとなっているのも、こうしたことが理由の一つとされ
ています。しかし、浅野長直が築いたこの天守台からは、大変素晴
らしい眺望を得ることができます。
当時の赤穂は製塩業が活発化しはじめたころで、近隣地域から製
塩技術者を移住させて、東浜塩田の開発を本格化差せていました。
広大な西浜塩田の開発は森時代をまたなければなりませんが、眼前
に広がる穏やかな瀬戸内海とともに、東浜塩田が着々と干拓されて
いくさまを、藩主は眺めることが出来たのでしょう。
天守台を下りて来ました、厩口門本丸側です
南側の堀です
北側の堀です
厩口門を二の丸側から見ました
説明版です、発掘調査と絵図面などから5年をかけて復元されました
三の丸へ戻って武家屋敷公園です
案内板です、城の重要な門の警備のために重臣の屋敷がはいちされていました、板田式右衛門の屋敷跡だそうです
中を覗くと芝で屋敷跡が平面展示になっています
歴史博物館が見えて来ました
清水門跡です
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